『……なんです?その顔は。私はただ名乗っただけに過ぎませんよ、ホシノさん。今ではこうして我々ゲマトリアが全員……いえ、一人を除いてでしたね。このように、“権化”を構築したのですよ……クックック』
不気味な言葉をくゆらせるような口調だった。
“ゲマトリア所属の探求の権化、黒服”
──確かに、こいつはそう名乗った。
それは、目の前に居る黒服と同じくゲマトリアに所属している……レグルス・コルニアスが名乗るときの語り口に酷似していた。
『……随分と、仲が良いんだね』
『ええ、何せ我々はそれぞれの崇高に向けて高め合う仲ですからね。それは必然とも言えるでしょう』
黒服は満足げに頷く。その様子からは嘘をついているようには見えないことから、本心からそう信じているのだろうか。相変わらず黒服の言動からは、意味不明なことと不気味なことしか感じられない。
だが、いまそれ以上に不気味である存在は、黒服なんかよりもレグルス・コルニアスだ。
──分からない。何も、“見えてこない”。
黒服のように明らかな狂気を纏っていれば、理解もしやすかっただろう。だがレグルスは、少なくとも表面上はそういった狂気を感じることが出来なかった。だからこそ、“見えてこない”。見えないものほど、人は不安になって恐怖してしまう。
『……それで、レグルスとの関係についてでしたね』
黒服はデスクの上で指をトントンとリズムよく鳴らしながら、ホシノの問いにゆったりと答えた。
『といっても、そこまで複雑なものではありませんよ。先程言ったように、それぞれの崇高に向けて高め合う仲であり、気軽に一緒にお茶を飲んだり、何てことない会話で盛り上がったり……』
──その黒服の発言を聞いたレグルスがここにいれば、『あのさあ!!』と盛大に怒鳴り、即座に黒服を部屋から追い出していたことだろう。何故なら、別にレグルスは崇高なんて物は抱いていないし、何度も気軽にお茶しようとするなら部屋から追い出すことだってあるし、なんて事ない会話によってここ最近被害を被ってきたのはレグルスだから。
もっとも、その事をホシノは知るよしも無いが。
『──そして、ホシノさんと同じく研究対象でもあります』
『……は?』
そんな中、ほんの少し無邪気な声音で、黒服は突如として爆弾を落とした。
『何をそんなに驚かれてるのです? 私がどういう大人なのかは、二年前から既に知っているでしょうに』
ホシノの喉がひくりと震える。意味が分からない。理解が出来ない。何故、何故、なぜ──?
『──っ!訳が分からない!レグルス・コルニアスはお前と同じゲマトリアなんでしょ!?何で研究対象なんかになる!?』
ホシノは思わず叫んでいた。
警戒すべき敵だと思っていたレグルス・コルニアスと、同じ境遇に置かれているという事実に、さらに“見えなくなってしまう”。
『……なるほど、ホシノさんは実際に彼の力を目の当たりにしていないのですね。それなら、今は分からないのも無理はありません』
黒服は立ち上がると、窓際に歩いていく。鈍く光る外の明かりが、彼の影を歪に伸ばしていく。
『ですが、すぐに分かるようになりますよ、ホシノさん。貴女と同じ……いえ、そんな次元ではないほどのとんでもない神秘を纏っていることが』
レグルスは、同じ仲間からも“研究対象”とされる存在──それは、ホシノにとってはまだ知らない種類の孤独だった。
少なくともホシノは、契約を交わすことを条件に研究される立場だった。だが、レグルスは違う。契約こそは別件でしていたが、研究に対する契約に関しては了承もないまま、既に研究の対象となっていた。
『この気持ちはホシノさんにも共有したいほどです。何故彼はあんなにも異常な神秘を纏いながらも、キヴォトスを支配しようと思わないのか。数多の生徒によって被害に遭いながらも、その圧倒的な神秘で蹂躙しようとしないのか。そもそもあの神秘の仕組みは何なのか。隅々まで研究して分解して分析して理解して解釈して解明して追求して証明して──ああ、やりたいことが多すぎて脳がパンクしてしまいます!震えてしまいますッ!』
右手で頭を押さえつけ、左手を大きく広げながら高笑いする。
『──』
暴走する黒服を目の当たりして言葉を失うホシノをよそに、黒服は背を向けたまま今まで見たことないほどの高笑いをしていた。
『……』
そんな様子を見ながらも、ホシノは考える。
──一体どうやって、こいつはレグルス・コルニアスをゲマトリアに迎え入れたのだろう。
脅迫か?それとも契約か?そんな疑念が頭をよぎったが、ホシノはその考えを掻き消すように首を横に振った。
……今はそれよりも、はっきりさせなければならないことがある。
『……教えて、黒服。レグルス・コルニアスは何を目的に動いているかを』
声には意志を込められていた。
冷静を装いながらも、その実、心の中では怒りと焦りが渦巻いていた。
たとえ彼がユメ先輩の命を救ってくれた存在であったとしても──ゲマトリアであるのなら、疑念を拭い去ることはできない。
アビドスにとっての脅威になる可能性があるのなら……いっそこの手で──
『……おやおや、彼も可哀想ですね。貴女達に直接危害を加えたわけでもないのに、こうも警戒されてしまうとは』
振り返った黒服が、薄ら笑いを浮かべてそう言った。
『……』
ホシノは言い返さなかった。怒りが喉までせり上がっていたが、黒服の態度が逆に油を注ぐようだった。
『それに──』
黒服の口調が、ふいに変わる。今までの高揚が嘘のように消え、どこか落ち着きを取り戻していた。
『──窮地に陥っていた梔子ユメさんを助けたのは、他ならぬレグルスだということはホシノさんも聞かされているでしょうに』
『────っっ!!?』
心臓が一拍跳ねた。
なんで──?なんでこいつがそのことを知っている?
そんなはずはない。あれは、ユメ先輩が私だけに打ち明けてくれた話のはず。黒服には関係ない出来事のはずだった──まさかストーカー……!?……いや、今はそんなことどうでもいい。
ホシノは必死に冷静さを保とうとした。
──分かっている、分かっているんだよ。その事はユメ先輩の口から聞いたことがあるから。でも、それでもゲマトリアはどこまでも自分勝手な集団で、目的のためなら手段を選ばずに私たちを利用し続ける悪い大人であって……だから、だからこそ──!
『だからこそ“見えてこない”!私たちは常に悪い大人たちに騙され続けてきた!それはゲマトリアも例外なんかじゃない!』
こみ上げる感情が、抑えられなかった。
『万が一のことがあって、大切な後輩たちや尊敬する先輩が傷付いたら私はもう耐えられない!良いから教えてよ、レグルス・コルニアスは何を目的として動いているかをっ!!』
声が震えていた。息も荒く、肩が上下するほどに激しく感情を吐き出していた。
黒服はそんなホシノの姿を見て、静かに目を細める。
『……ふむ、ここまで感情的になるホシノさんは大変珍しい。やはり、彼をゲマトリアに引き入れて正解でしたね』
まるで観察者のような目つきで、黒服はホシノを眺めながら考える。
──我々と同様に、キヴォトスの外からやってきたであろう存在。
その彼は、ゲマトリアにおいてもこの世界においても、どんな変数をもたらしてくれるのだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、黒服の思考はまた暴走しそうになった。こういった些細な内容でもレグルスを研究し、知り尽くす──それは黒服にとって、何よりも甘美な探求だ。
『おっと……』
そんな事を興奮しながら考えていたが、ホシノの鋭い視線が黒服を現実に引き戻す。
黒服は一つ咳払いをして、問いを思い出したように繰り返す。
『レグルスが何を目的として動いているか、でしたね?』
『……………………』
返答はない。だが、その目が語っていた。
今すぐ答えろ、と。
黒服はようやく、遊びを終わらせるように口を開いた。
『彼の目的は──』
◆
「『私も詳しくは知らないので、そんなに知りたいのであればホシノさん自身が聞くべきなのでは?』って言われたんだ~……そう言われただけで、その時は何だか一気に力が抜けちゃってさ。それはそうかって間抜けにも思ったんだよね。まあ、その後はまた契約の話になったんだけどねえ……もちろんその時は断ったけどさ」
「僕はその話を聞いて、真っ先に黒服が怠惰の魔女因子でも取り込んでいないかもの凄く問いただしたくなったけどね」
「へ?」
「何でもないよ、こっちの話さ」
だだっ広い実験室に、男女二人の声が反響する。
ホシノは両手首を拘束具で縛られ、床に座り込んだままレグルスを見上げていた。レグルスは数歩離れた位置に立ち、視線を下ろして彼女を見つめ返している。
「……」
ホシノの回想が終わり、ほんの一瞬の静寂がその場を支配する。だが次の瞬間、ホシノは小さく息を吸い、続けるように口を開いた。
「正直な事を言うと、貴方の事は一切信用していなかった。ユメせ……梔子ユメ、先輩を助けてくれたのは事実かもしれなかったけど、ゲマトリアの事だから、その助けたという事実を対価に何かを求めてくるんじゃないかって、ずっと疑い続けてきた」
キヴォトス最高峰の神秘を持つとまで言われる少女が、今は拘束され身動きも取れぬまま、弱々しく胸の内を吐き出す。
「でもさ、あの時砂漠から帰った後、先輩は度々言っていたんだよね。『また会いたいよ~』『ちゃんとお礼したいよー!』って……それを聞くたびに、私はずっと複雑な気持ちだったよ。何か裏があるかもしれないから、会うのは止めろと声を大にして言いたかったけど、それを言っている時の先輩の表情を見た時、さすがにそこまで言うのは……って、思わず躊躇しちゃってさ……結局言うことは無かったけどね」
本当に命の危機だったらしく、満身創痍のユメを背負ってアビドスまで帰ったあの日の事が、今も脳裏から離れない。
「……さっきも話したけど、貴方が黒服の研究対象になっているなんて思わなくてさ。だって、同じゲマトリアで仲間なんだよね?そのはずなのに、私と同じように研究対象になっているなんて。その点だけでも、私たちってどこか似てるかもしれないね……って、そんなわけないか」
そう呟くと、ホシノはレグルスから視線を逸らした。
「……悪い大人って、決めつけてごめんなさい。それと、先輩を助けてくれてありがとう。ゲマトリアにも、こんな人が居るだなんて思わなかった。本当に疑い続けるような真似して、ごめんなさい」
俯き、わずかな声で謝罪する。その後ろめたさからか、ホシノはレグルスの顔をまともに見ることが出来なかった。
「……」
「……もう私のことは放っておいて良いよ~。契約もしているんだし、ここで大人しくしてお──」
「──あのさあ、君はさっきから自分が何を言っているか分かってる?」
「……へ?」
レグルスは、ようやく長い話が終わったとでも言いたげに深く長いため息を吐き出す。そして呆けたような表情を浮かべるホシノに視線を合わせ、口を開いた。
「まず君はなんで『ありがとう』とお礼した後に『こんな人がいるなんて思わなかった』とか言っちゃうわけ?それって結局、会ったこともないのに最初から僕のこと悪者だって決めつけてたって自白してるのと同じだよね?違う?僕はね、別に誤解されるのは構わないよ?勝手に誤解して勝手に納得して勝手に嫌いになる人間なんて世の中にいくらでもいるし、そんなのいちいち相手してたらキリがない。でもさ、まるで例外でも見つけたような顔で、さも意外な発見みたいに扱われると、正直言って不愉快でしかないんだよね。あと、僕が梔子ユメを助けたっていうのは、たまたまそこにいたからで、別に助けたつもりも善人ぶったつもりもないよ。その近くに居た忌々しい鉄屑を粉砕していたら、いつの間にかそこに居た程度としか思わなかったからね。それを君は勝手に色眼鏡で見て、勝手に訂正して、勝手に感謝している。そんな一方的な感情を僕に押し付けるだなんて、これって僕という個人の権利の侵害だと思うんだよねえ!」
「──あ、えっと……」
唐突に炸裂する、容赦ないレグルス構文。
それにホシノはたじろぎ、口ごもってしまう。
「僕の権利の侵害をしている暇があるんだったら、君はこんなところで頭を垂れているんじゃなく、後輩たちを想って先輩として導いてあげるのが筋だと思わない?君は後輩たちのことを大切だと思っているのか、そうじゃないのか、はっきりしなよ」
「──っ!!」
私の気持ちを何も知らないくせに──!
レグルスの正論めいた言葉が、ホシノの内側で潜んでいた怒りを刺激する。やっぱり、ゲマトリアはゲマトリア。悪い大人に違いない、と。
──ホシノはまだ子供で、精神的にも未熟だ。
言葉の意味を理解しながらも、怒りは膨れ上がっていく。それでも、わずかに冷静さを取り戻し、小さく呟いた。
「……どちらにしても、もう無理だよ。あいつと契約して、研究とやらのために私は身体をこうして差し出した。その対価として、アビドスの借金を半分以上肩代わりしてくれるんだってさ……だから、これで良いんだ。私一人で、少しでも借金を返すのが楽になってくれるのなら、それで──」
「あのさあ、君の契約事情なんてどうでも良いから、後輩たちを大切に思っているのか、そうじゃないのかを聞きたいんだけど」
「どっ……!?」
ホシノが吐き出しかけていた言葉を、レグルスは真っ二つに切り捨てる。『はい』か『いいえ』で答えろと迫るその態度に、ついにホシノの堪忍袋の緒が切れた。
「──大切に思っているよっ!当たり前でしょ!?」
ホシノは拘束された手首をわずかに震わせながら、感情を爆発させる。
「他にももっと良い高校があるのにも関わらず、アビドスを選んで入学してくれた後輩たちを大切に思わないわけがない!先輩が私にしてくれたことを、今度は私が後輩たちにしてあげたいと、ずっとずっと思っているよ!こっちの気も知らないで、勝手なことばかり言わないでっ!!」
目頭に涙をにじませながら、まるで殺意すら込めたような眼光でレグルスを睨みつける。
レグルスはそんな彼女を正面から受け止めるが──一切たじろがない。むしろ涼しい表情を保ったまま、その瞳の奥を覗き込んでいた。
「……」
「はぁ、はぁ……何とか言ったらどうなのさ!?」
息を荒げるホシノの問いかけに、レグルスは少しだけ視線を伏せ──短く告げた。
「──充分だ」
「……は?」
「充分だと言ったんだよ、小鳥遊ホシノ」
ホシノが困惑する中、レグルスは口元に微かな笑みを浮かべた。その笑みには皮肉も悪意もなく、ただ、何かの確信を得た静かな満足だけがあった。
「これで僕は、ようやく心置きなく目的を達成できるってわけだ。無駄にドブへ捨てるような真似をする必要もなくなったし、ここ数年、心の隅に引っかかっていたわだかまりも綺麗さっぱり無くすことができる。奴らにとっては動機を失う代わりに、多大な利益が転がり込む。そこに異論は無いはずだ。もしそれでもなお、その利益を利用してアビドスに近付こうとするなら、その時は──今度こそ跡形もなく消し去ることになるかもしれないけど……まあ、そこまで愚かだとは思いたくないよね。何せ、僕が寛大で慈悲深い人間だからこそ、こうして許してあげているんだからさ」
「何を言って──」
意味をつかみかねたホシノが問い返そうとしたその時、レグルスはポケットからスマホを取り出し、画面を数度タップし始める。
「……」
次の瞬間、実験室に着信音が響き渡った。
カイザーの基地で一度耳にしたことのある、あの音だ。
「……電話?」
「別にいま気にする必要はない。どうせ後で分かるようになるんだからさ」
「だから何を言って──」
ホシノの追及を遮るように、着信音が途切れる。
──通話が繋がったのだろう。それが確認できた瞬間、レグルスが口を開いた。
「ああ、僕だよ。ついさっき話していた件だけどさ、確かめ終えたから実行してくれて構わないよ」
『……?』
「あのさあ、君は何度言ったら理解してくれるわけ?その理解する能力の低さ、君のその頭に詰まっているのは鉄屑か何かなのかなあ?……そうそう、それで良いんだよ。ようやく君も完全に理解を示し、納得してくれたようで何よりだ。こうやって互いに支え合い、尊重し合う。人というのはそうやって成長していくものだからね、これからも励んでいくと良い」
ホシノは聞き耳を立てるが、今回はスピーカーにしていないらしく、相手の声はほとんど聞こえない。誰と話しているのかも分からない。
「なに?そのまま譲渡すると彼女たちが怪しんでしまうんじゃないかって?だったら必要な分だけを君たちの手元に引き落としてしまえば良いじゃないか。それで余ったものは押し付けておけば良い。後はそれを誰がどう使おうが僕にとっては心底どうでも良いことだからね。何故ならそれは誰もが持つ当然の権利だからさ……一言ぐらい何か伝えた方が良いんじゃないかだって?そんなもの、『欲深い君らにくれてやるよ』とだけ言っておくといい。何たって彼女たちと比べて僕は無欲──」
延々と続く電話越しの会話。ホシノは置き去りにされ、ただレグルスの橫顔を見つめるしかなかった。
「──ああ、僕の名前は言わないようにね。僕はこれでも気遣いが出来る方だから、欲深い人間と違って無理やり感謝を要求するような醜い真似なんてしたくないからさ……うん、それじゃあ改めてよろしく頼むよ」
その言葉を最後に、通話が切れた。
レグルスはスマホをポケットにしまい、何事もなかったかのように言い放つ。
「──僕の用件はこれで済んだ。だから、僕はもう帰らせてもらうよ」
「……は!?」
唐突すぎる宣言に、ホシノは目を見開き、ただ呆然とするしかなかった。
「時間というのは、僕にとって何よりも大切な私財だ。誰かのために使っていいなんて思ったこともないし、実際そうする義理もない。でもまあ、今回はその私財を割いてわざわざ君のところまで足を運んであげたんだ。それに対して君は、まさかとは思うけど小言の一つでも言うつもりなのかな?だとしたら、かなり礼儀を知らないということになると思うんだけど」
「んな……!?」
拘束された自分の前にいきなり現れて、こちらから疑ってごめんと謝罪したのにも関わらずダメ出しをされ、挙句の果てには電話で誰かと謎のやり取りを始め──そして今度は『帰る』と言い出す。
その一連の流れが、ホシノにはまったく理解できなかった。
「貴方は私と一緒だと思った!あいつに勝手に興味を抱かれ、契約を持ちかけては人の神経を逆撫でて、日々しつこく研究させろと迫られて……!でも、貴方のその身勝手さ、やっぱりゲマトリアなんだと思ったよ。私にとって、『悪い大人』そのものだよ……!」
「勝手に『悪い大人』と決めつけるなんて、ひどい言い分だなあ。そもそも僕は君の話を聞いたところで、『ああ、同じだ』なんて一度も思わなかったよ。そもそも他人を自分と同列に置く時点で、かなり視野が狭いってことに気づいた方がいい。思い込みっていうのはさ、便利そうでいて気づけば足をすくう罠みたいなものだ。いずれ自分の身を滅ぼすから、今のうちにやめておくのが賢明だと思うけどね」
「──っ……っ!!」
反論したい。してやりたかった。
しかし、この男の口からまた延々と持論が垂れ流される未来が目に浮かび、ホシノはぐっと言葉を飲み込む。代わりに、拘束されたまま睨みつけることで精一杯だった。
「もう行っても良いかな?さっき言った通り、時間というのは僕にとってとても大切な私財だからさ、無駄にするわけにはいかないんだよね」
涼しい顔のまま、レグルスは見下ろす。
「……もう、どこにでも行っちゃいなよ」
先程までの強気な態度は影を潜め、ホシノは少し拗ねたように俯いた。
「……」
その様子を黙って眺めるレグルス。重苦しい空気が実験室を満たす中、彼がふいに口を開いた。
「今の僕は、目的が達成されて非常に気分が良い。それなのに君はそうやって何故か勝手に落ち込んでいる。それは、人が気分が良い時に水を差すような真似をしているのと同義であって、僕の幸福を享受する権利の侵害だ」
「……なに言ってるのさ」
ホシノは呆れる。
心の中で、『この男、どれだけ権利を主張すれば気が済むんだろう』とぼやくしかなかった。
「──ここから北東の方向に歩き続けたところに良い場所がある。もしも時間があるのなら、君の仲間と共にそこに足を運んでみると良い」
「え?」
「それじゃあね──ホシノ」
短くそう告げると、レグルスは背を向けて実験室の裏口へ向かう。
「ちょっ、ちょっとま──」
「ああ、そういえば君が一番聞きたかった事に対して答えていなかったね。僕としたことが、すっかり忘れてしまっていたよ」
人の言葉を遮ぎりながらも歩みを止めることなく、レグルスは振り返らずに言葉を続ける。
「僕の目的は──」
それを口にしたあと、裏口の扉に手をかけそのまま開け──るのではなく、壁ごと盛大に扉を破壊して外へと立ち去った。
「──」
──静寂。
一人の大人が去ったことで、その場にはたった一人の少女だけが取り残された。
「……『平穏』?」
ゲマトリアの人間が、それだけを望むというのか。意味が分からない。そもそも彼の言う平穏とは──
「……?」
思考を巡らせていると、不意に手首が軽くなる感覚。
ゆっくりと腕を動かしてみると──
「──!?いつの間に……!?」
両手を縛っていた拘束具が、粉々に砕けていた。
腕が自由になった喜びよりも、レグルスが一体いつ破壊したのか、そのタイミングがまったく分からなかったことに、ホシノはただ動揺するしかなかった。
「──れ?……開い……」
「ホシ……!?ホシノちゃ……!?」
その瞬間、複数の足音が床を叩き、聞き慣れた──いや、耳に届くだけで胸の奥が温かくなる声が、実験室の奥にまで反響してきた。
「──!」
ホシノは、反射的に入り口の方へ視線を向ける。
「ホシ゛ノ゛ち゛ゃああああああんっっ!!!」
泣き腫らした目も構わず、涙で顔をぐしゃぐしゃにしたユメが、両腕を目いっぱい前に伸ばし、一直線に駆け寄ってきた。
「……!ユメせんぱ──ぐえぇっ!?」
声を上げる間もなく、その腕がホシノの体を捕らえ、女性とは思えぬ勢いで押し倒した。
「ホシノちゃん……ホシノちゃん!無事で、無事でよがっだよぉ……!」
その声はしゃくり上げで途切れ途切れなのに、確かに耳の奥に沁み込んでくる。
「──ユメ、せんぱ……」
全身を包み込むような強い抱擁に少し息苦しさを覚えながらも、その温もりが胸を解きほぐし、ホシノの目尻からも安堵の涙が滲み出た。
「ちょっ!?ホシノ先輩、大丈夫!?」
「ズルいですユメさん!私が先にホシノ先輩を抱き締めたかったのに!」
「ん、ホシノ先輩、生きてる?」
「ホシノ先輩!無事で良かったです……!」
ユメの背後から、対策委員会の面々が次々と飛び込んでくる。その顔には無事で良かったという喜びと、張り詰めていた緊張が解けた安堵が滲んでいた。
「──みんな……!」
どうしようもない自分を、ここまで心配してくれる仲間たち。しかもその体には所々擦り傷や打撲の跡があり、この場所まで来るのに相当な困難があったことを物語っていた。きっと、道中でひと悶着あったに違いない。
「"──ホシノ、無事で良かった"」
静かに、しかし確かな声が響く。
「……先生」
最後に姿を見せたのは、彼女たちを導いてくれた先生だった。ホシノにとって、唯一信頼できる大人。出会った時から親身になって支えてくれたその人は、今も本気で安堵している表情を浮かべていた。
「ホジノぢゃああああああんっっ!!もう二度と危険な真似はしないでねっ!アビドスから居なくならないでねっ!ホジノぢゃああああああんっっ!!」
「……心配かけて、本当にごめんなさい、ユメ先輩」
胸元でぐりぐりと額を押し付けながら泣き続けるユメに、ホシノは小さく息をつき、今まで自分がしてしまったことへの謝罪を口にした。本当に、心配させてしまった──その事実が胸に重くのしかかる。
「"……そういえば"」
その時、先生が周囲を見回し、少し首を傾げながら言った。
「"私たちが来たときから入り口の扉が無かったんだけど……それに、後ろの壁も一部無くなってるように見えるね。ホシノ、何か知ってるかい?もしかして私たちよりも先に、誰かここに来ていたとか"」
「……あ、それは──」
「もう!そんなことはどうでもいいじゃん先生!」
セリカが先生の言葉を遮ぎり、ホシノに向かって元気よく叫ぶ。
「……ホシノ先輩、おかえりっ!」
「ああっ!セリカちゃんずるいです、先に言うなんて──ホシノ先輩、私からもおかえりなさい、です!」
「ホシノ先輩、おかえりなさい!!」
「……ん、おかえり、ホシノ先輩」
「ゔわあああああんっ!お゛がえりホシノちゃあああああんっ!!」
「ちょ、ちょっと!ユメ先輩はいい加減に泣き止んでくださいよ!何歳だと思ってるんですか!?あと、抱きつく力が強いです……!」
「"あはは……うん。おかえり、ホシノ"」
先生も柔らかく笑い、温かい空気がその場を満たしていく。
大切な後輩たち、泣きじゃくる先輩、そしてそれを見守る先生。みんながホシノを、再びアビドスの対策委員会の一員として迎え入れてくれているのが、痛いほど分かる。
「……うへ~、本当に良い人たちと出会ったな~……ただいま、みんな」
今この瞬間、ホシノは孤独な少女ではなく、仲間と共に歩むアビドスのホシノとしての居場所を取り戻した。これも、皆と先生の力があってこそ手に入れられた未来だ。
「……ぐすっ、それじゃあホシノちゃん。皆で一緒に帰ろ? 私、久々にホシノちゃんといっぱいお話したい!」
ようやく泣き止んだユメが、ホシノの右手を両手で包み込み、笑顔を向ける。
やっと泣き止んでくれた……と、ホシノは内心で思った。
……確かに自分も、ユメ先輩と話したいことが山ほどある。
「──はい。私も久々にたくさん話がしたいです。皆で一緒にアビドスに帰って──」
『──ここから北東の方向に歩き続けたところに良い場所がある。もしも時間があるのなら、君の仲間と共にそこに足を運んでみると良い』
皆と一緒にアビドスに帰ろうとした刹那、ふとホシノの脳裏にその言葉がよぎった。
「……」
「?ホシノちゃん、どうかした?」
ユメの問いかけに、ホシノは小さく瞬きをする。
──ああ、どうしてこんな時にあの男の言葉がよぎるのだろう。
嘘の可能性もあるだろう。
あの男は間違いなく悪い大人だ。悪い大人は、いつだって平気で嘘をつく。だから、確証はない。ないけれど──
「──ねえ、みんな」
視線をみんなの方に向け、はっきりと言葉を紡ぐ。
「ちょっとお時間、貰っても良い?」
──私がこの目で確かめてやる。嘘か、それとも嘘じゃないかを。
◆
「わあ~っ!すごいよホシノちゃん、こんなところ知ってたの~!?」
「すごい、綺麗……!」
「アビドスの砂漠に、こんなところがあったんですね☆」
「ん、絶景」
「綺麗ですね……!」
「"……これは、驚いたな"」
幽閉されていた実験室から北東の方向へひたすら歩き続けて一時間ほど。
無機質な砂ばかりが延々と広がる光景に、ホシノは途中で「やっぱり騙されたかも……」と苛立ち、今にもショットガンを持ってゲマトリアへ突撃しようかという気持ちになっていた。
だが、視界に飛び込んできたのは──砂漠とは思えぬ幻想的な光景だった。
「──まさか、こんなところに『オアシス』があるなんて!」
ユメが大興奮で駆け出す。それにつられて、先生とホシノを除くみんなが一斉に水辺へ向かった。
「──えっ、何ここ知らない……」
後ろからその様子を眺めていたホシノは、ただ呆然と立ち尽くす。
そもそも、アビドスにあったオアシスは、数十年前の大砂嵐で全て枯れたはずだ。なのに、目の前の光景は歴史そのものを否定するかのように、豊かに水を湛えている。
「今まで気付かなかった……?いや、こんなに目立つのならいずれ見つかるはず。でも、何で……?」
そして何より──あの男、レグルス・コルニアスがこの場所を知っていたことが引っかかる。どうやってここを知り、なぜ曖昧な言い方で自分に教えたのか。思考は堂々巡りを繰り返すばかりだった。
「"すごいねここ、まるで秘境に来たみたいだ。しかも、私たち以外誰も訪れた形跡がな……いや、砂をよく見ると足跡があるね。最近、誰かがここに来たみたいだね。一体誰が……"」
「──!」
先生のその言葉に、ホシノの胸がざわめく。やはり、あの男は私にわざわざこの場所を教えたのだと、確信してしまう。
「……何で?」
こんな場所、わざわざ教える必要などなかったはずだ。独り占めだってできただろう。だからこそ分からない。やっぱり彼のことは理解できない。
「すごく綺麗な水……私、飲んでみても良いかな!?」
「飲んで大丈夫なんでしょうか?その、衛生面とか……」
「大丈夫だいじょーぶ!こんなに綺麗な水なんだから、飲まなきゃ損だよ!──それじゃあ、いただきまーす!」
「あ、ちょ……!?」
ホシノが考え込んでいる間に、ユメは後輩の制止を軽くかわし、水を両手で掬い上げて勢いよく口に運んだ。
「うーん!やっぱり想像通りおい、し……い──」
──飲み込んだ瞬間、ユメの体が石のように固まる。
「……ユメ先輩?お腹でも痛くなった?」
シロコが首をかしげる間もなく、ユメの体は小刻みに震えだした。様子が尋常ではなく、シロコは『とりあえずお腹をさすって……』などと考え始めたが──
「──っっ!!!」
──突然、ユメが水面へ顔を突っ込んだ。
「ユメ先輩!?急にどうしたんですか!?」
盛大な水飛沫があがり、少女たちの髪や制服が濡れていく。あまりの突発的な行動に皆が困惑する中、慌てて引き上げられたユメは──
「ユメ先輩、大丈夫!?そんなことしたら危な──」
「──グスっ……」
「へ?」
鼻をすする音が聞こえた。水で濡れているのは当然だが、様子がおかしい。セリカがハンカチを取り出し、顔を拭こうとした瞬間──
「──うわああああああああああんっっ!!!」
ユメは、大人げなく声をあげて泣き出してしまった。
「ええっ!?なんで!?」
「ユメ先輩!?」
「……ど、どうしよう」
「ユメ先輩、落ち着いてくだ──」
「"──!?ユメ、どうしたの!?"」
「ひぐっ、うぇ、うええええええええんっっ!!!」
まるで堰を切ったように流れ続けるその涙は、セリカが必死にハンカチで拭っても止まらない。透明な滴は頬を伝い、ぽたぽたと砂漠の砂を濡らし、小さな湿った跡を無数に作っていく。
「何で……何で──?」
ホシノはその光景をただ見つめるしかなかった。本当なら真っ先に駆け寄って抱きしめ、涙を拭ってやりたい──でも、胸の奥を締め付ける妙な感覚が、体をその場に縫い付けて動けなくさせていた。
「──!こんな時に電話?」
そんな中、アヤネのスマホから場違いな着信音が、緊張に満ちた空気を割った。アヤネは慌ててスマホを取り出し、通話ボタンを押す。
「一体誰から……はい、アビドス高等学校の奥空アヤネです……はい、はい……は、い──えっ!?どういうことですか!?──『欲深い君らにくれてやるよ』って……いったい誰がそんなことを!?ちゃんと説明してくださ──ああ!?一方的に切られた……!?」
短い通話だったが、アヤネの表情はあっという間に驚愕に染まり、言葉を失ったまま動きを止めた。
「"アヤネ!?どうしたの、何かあった……!?"」
「………………匿名で、私たちが抱えている借金の全額を負担して、その余った差額を私たちアビドスにくれてやると言った人が居て……口座を確認したら、本当に振り込まれて、いて──」
「"なるほど、匿名でアビドスの借金を負担してくれて──って、ええ!?どういうことっ!?"」
「わ、わ、分かりませんっ!!聞いてもプライバシーだからと言って教えてくれなくて──」
「ちょっと!?今とんでもないことが聞こえた気がするんだけど!?」
「うわああああああああんっっ!!!」
その場は完全に混乱の渦に呑み込まれた。
オアシスの水面は静かに輝いているのに、その周囲は騒然としていた。誰もが冷静さを失い、声が重なり合い、収拾がつかない。
「──ま、待って、待って──!?」
ホシノは耳を塞ぎたくなるような喧噪の中、心臓の奥が不穏に熱くなるのを感じていた。
嘘だ、嘘だ、嘘だ──
脳裏に、あの声が蘇る。
『なに?そのまま譲渡すると彼女たちが怪しんでしまうんじゃないかって?だったら必要な分だけを君たちの手元に引き落としてしまえば良いじゃないか。それで余ったものは押し付けておけば良い──』
視界が滲み、地平線が揺れる。
『……一言ぐらい何か伝えた方が良いんじゃないかだって?そんなもの、『欲深い君らにくれてやるよ』とだけ言っておくといい。何たって彼女たちと比べて僕は無欲──』
いや、そんなはずはない。そんなはず……ない……!
『──ここから北東の方向に歩き続けたところに良い場所がある。もしも時間があるのなら、君の仲間と共にそこに足を運んでみると良い』
だって、彼はゲマトリアに所属していて、ゲマトリアは悪い大人の集まりで、だからレグルス・コルニアスは間違いなく悪い大人のはずで、私たちをとことん邪魔してくる存在で、自分勝手で変なことばかり要求してくるはずで、相手の都合なんて一切考えずに自分の思い通りに物事を進めようとするはずで、他人の感情なんて利用するための道具としか見ないはずで、約束も平気で破るはずで、最後には必ず私たちを裏切って、それから、それから、それ……か、ら──
『それじゃあね──ホシノ』
「────ぁ」
頭の中で、何かが焼けるような音がした気がした。
「ん、カオスすぎる……!」
ホシノから少し離れた場所で、シロコが右往左往している。この事実を今、伝えるべきか。いや、言えばさらに混乱するだけかもしれない。
「──もう、良い、か」
ホシノは息を吸い、静かに吐く。未来の自分に任せよう。そう決めた。
「……あのね、みんな──」
振り絞るように声を出し、ホシノは真実を告げた。
──驚き、戸惑い、感動、感謝。様々な感情がその場を支配し、ユメはさらに声を上げて泣き、ホシノはその間、ずっと頭の中が熱で焼けるのを感じることしか出来なかった。