「……ミ、ミカさん?い、いまなんと……?」
扉を勢いよく開けて入ってきた少女を目にした瞬間、ナギサの安心したような表情は一変し、驚愕とともに顔を青ざめさせ、恐る恐る確認するように言葉を発した。
この羽の大きな少女……生徒の名はミカというらしい。ナギサと親しい仲に見えるが、もしそうなら、なぜナギサがこれほど青ざめているのか理解できない。
「あれ、聞こえなかった?もう、仕方ないなあナギちゃんは!そんなナギちゃんのために、もう一度言ってあげるよ!……なんでここに、ゲヘナの人が居るのかな?」
ナギサの問いに笑顔を返したかと思うと、そのまま僕にも微笑みを向けてきた。だが、それは仮面にすぎないものであり、初対面の僕へ向けられた憎悪が、その裏に潜んでいることを瞬時に悟ってしまった。
……いや、どうしてそうなる?
そもそも君は何者なんだ。ナギサが口にした『ミカ』という名前以外、僕にはまだ何ひとつ分かっていないのだが。
「ミカさん!彼は──」
「ああ、別に君がわざわざ言わなくても良い。どうやらこの子は、僕に対してただならぬ感情を抱いているみたいだからね。それが好意であれ、敵意であれ、あるいはもっと曖昧なものだったとしても……その感情に応えるのは、僕の信条であり、筋というものだ。さっきも言ったと思うけど、僕たち人間というのは本来、対等であるべき存在だからさ。どんな感情であっても、誰かの一方的な想いを軽んじたり踏みにじったりするのは、僕のやり方には合わないんだよね」
言葉で焦るナギサを制し、腰かけていた椅子から静かに立ち上がる。視線を上げると、笑顔を消してこちらを睨むミカがいた。
そして、こうして名乗るのは少し久しぶりだなと内心で思いながら、胸元に手を添え、いつものように名乗った。
「──僕は、ゲマトリア所属の強欲の権化、レグルス・コルニアス。今はこうして、そこの彼女……桐藤ナギサに招待された、ただの客人さ」
「あはは!随分と丁寧に喋れるんだね!それは意外だったかなあ……でも、ただの客人でもゲヘナの人間がここに招かれるのはやっぱり見過ごせないなあ……それに、噂で聞いた『ゲマトリア』……うん!やっぱり、名前からしてロクでもなさそうだよね☆そういう部活でもあるのかな?」
「ミカさん!?」
「──────???」
彼女の言葉が耳に届いた瞬間、理解が追いつかず、脳内は宇宙空間へと投げ出され、思考は完全に停止した。
それもそうだろう。初対面で『随分と丁寧に喋れるんだね!』とナチュラルに煽る。ゲマトリア所属なのに、勝手にゲヘナの人間扱いする。さらに、ゲマトリアという名前を聞いただけで『ロクでもない』と断言する……だが、それだけは納得できる。ゲヘナの部活ではないが、ロクでもない集団であるのは間違いないのだから。
しかし、ここまで丁寧に名乗ったというのに、目の前の彼女は僕の言葉を勝手に自己解釈し、意図的に曲解して笑っている。そして、その笑みはどこか馬鹿にしているようにも見える。
──なんだろう、喧嘩でも売っているのかな?
「君は、いくつか勘違いしているみたいだけど……まあ、それも仕方がないかもしれないよね。僕たちは、こうして初対面という状況にある以上、言葉の端々や仕草から本意を汲み取るのは難しいものだ。伝えたいことがそのまま伝わらない……それは人間同士が向き合う時によくある話であって、君だけが特別におかしいというわけじゃない。だから、僕はその誤解を責めるつもりはないし、むしろ理解しようとする姿勢があるなら、それだけで十分に価値があると僕は思って──」
「うわ、セイ……私の友だちみたいに話が長いタイプじゃんね。最近のゲヘナってこういう人も居るの?頭ごなしの脳筋だと思ってたから、これは意外かも!でも、ゲヘナということには変わりないしなあ……ねえ、なんでここに居るの?」
「ミカさんっ!!?」
「………………なるほどなるほど」
ほんの少ししか会話していないのに、ここまで話が通じないタイプの生徒は、不良生徒を除けば久しぶりかもしれない。
どういうわけか、彼女はいまだに自分をゲヘナの人物と勘違いしているらしいし、頭ごなしの脳筋だと思っていたと口にした。
──これは、どう考えても喧嘩を売られている。
「君は未だに僕のことをゲヘナの人間だと勘違いしているみたいだけど……まあ、君がそう思い込んでしまうのも無理はない。さっきも似たような事を言ったけど、見た目だけで人を判断するのは、誰しもやってしまう癖みたいなものかもしれないからね。だけどさ、そもそもゲマトリアというのはゲヘナの部活でも派閥でも何でもなく、完全に別の組織なんだよね……それに、君が本当に僕を見た目で決めつけているのであれば、むしろこの服装はゲヘナというよりも、トリニティ寄りだと思わないかな?少なくとも『頭ごなしの脳筋』なんて言葉とは、僕ほど縁遠い存在もそうはいないはずなんだけど」
そもそも、頭ごなしの脳筋でこの世界を生き抜けるなら苦労なんてしない。
台詞の一つ一つも、頭をフル回転させてレグルス構文として出力しているわけだから、疲労も溜まってしまうのだ。だから最近は、ティータイムを欠かさず行うことが必須になったというわけになる……これだけ言ったのだから、きっとこの子もある程度は理解してく──
「さっきからよく喋るじゃんね、長いから一言でまとめてくれないかな?眠くなってきちゃうからさ」
「──」
なるほど。そこまでして僕と喧嘩したいということが分かった。
ここではナギサにも迷惑をかけてしまうだろう。だから、このまま外に連れ出して──
「ミ、カ、さんっ!!」
……と、勢いでこのまま表に出ろと言いかけた瞬間、ナギサがソーサーの上にティーカップを叩きつけた。ガチャンと鳴り響く音に、僕とミカは同時にそちらを見やる。
「ナ、ナギちゃん?どうしてそんなに怒って──」
「どうしてそんなに怒って?じゃありません!客人に対してその言動や態度は何ですか!?ティーパーティーとして恥ずかしく、はしたない行為であると思わないのですか!?」
ミカに対して怒りを露わにするナギサ。
両手で机を叩き、身を乗り出すその姿の迫力に圧倒されそうだった。
「──っ!でも、私聞いたもん!最近ゲヘナで生徒たちを蹂躙している野蛮な男が居るって!その男は白髪で、白い服を着ていて、青いイヤリング着けてどこか胡散臭そうな顔面をしているって……どう考えてもこの男のことじゃん!」
ミカは一瞬、迫力に押されて後ずさる。それでも負けじと、僕に指を突きつけながら、結構ひどいことを言ってきた。
「聞いた……?ミカさん、もしかしてそれを口にしていたのはパテル分派の生徒たちですか?」
「?そうだけど、それがどうかした?そんなことよりも早くこの男をここから追い出してよナギちゃん!もしかしたら何か怪しいことをしてきて、大好きな紅茶に毒を盛られるかもしれないよ!?」
「──ああ、そういうことですか……」
ミカが言ったパテル分派の生徒から聞いたという事実に、ナギサは思わず頭を抑えてため息をつく。
パテル分派……その単語も非常に気になるが、今はそれよりも、またこの子僕を馬鹿にしてきたよな。誰が、何を紅茶に盛るって?
「──ミカさん、落ち着いて聞いてください。貴女は噂でレグルスさんをゲヘナの人物であると言っていましたが、それは誤りです。ティーパーティーの代表として、噂話に花を咲かせるなとは言いませんが、限度というものはあります。噂話の真偽ぐらいは見極めてください、良いですね?」
「……!でも、ナギちゃ──」
「良、い、で、す、ねっ!?」
「っ……!」
ナギサの迫力にたじろぐミカ。
だが、次の瞬間には僕を睨みつける。まるで僕のせいで怒られたと抗議しているかのように。
「あのさあ、どうしてそこで僕を睨んでくるのかな?さっきから君の言い分を聞いていたけど、失礼を通り越してただの暴言のオンパレードだよね。僕はこうして最初から対話をしようと丁寧に振る舞っていたつもりなんだけど、君はそのたびに横から遮って、噂だけを頼りに僕を追い出そうと必死になっていた。話を聞く限り、君はティーパーティーの代表を務めているんだろう?だったら、まずは言葉を選び、相手を見極めるくらいの冷静さを持つべきだと思うんだよね。だけど、今の君を見ている限り、とてもじゃないけどその肩書きにふさわしい人物だとは僕には到底思えないよ。まずは噂話じゃなく、目の前にいる『僕』という存在をきちんと見て話す努力ぐらいはしてほしいものだね……まあ、部外者である僕が言うことでは無いかもしれないけどさ」
「……ほんっとうに、セイアちゃんみたいでムカつく……!」
「──セイア?」
「ミカさん、私とお茶をしに来たのですよね?どうぞ、貴女の分の紅茶を淹れておきました……ですので、少し落ち着いてください。何度も言いますが、客人の前ではしたない行為は控えてください……これは、ティーパーティーとしてだけではなく、貴女の友人の一人としてのお願いです」
「……ふんだっ!」
「微塵も落ち着いていないし、君が言うはしたない行為をしていると思うんだけど、大丈夫なのかな?」
「……」
その指摘を受け、ナギサは誤魔化すように穏やかに紅茶を口にする。
対してミカは、遠慮なくナギサの隣の椅子に腰を下ろし、目の前の紅茶をぐいっとあおる。
こうして並べてみると、二人は実に対照的だ。
「……まずは謝罪を。こうして客人として招いたにも関わらず、不快な思いをさせてしまいすみませんでした」
そう言って丁寧に頭を下げるナギサ。
この子、今日一日、頭を下げて謝罪してばかりだな……いや、謝罪するにしても、そもそもこれはナギサがするべきことではない。隣で不貞腐れているミカこそ、謝罪するべきだろう。本人がこの場にいるのだから。
だが、素直に応じてくれるかどうかは……正直、微妙なところだ。
「いや、君が謝る必要なんて微塵もないよ。その謝罪は……そこで頬を膨らませて不貞腐れている彼女が口にするべきものだと僕は思うんだ」
それでも、このまま謝罪ゼロというのはさすがにまずいだろうと思い、僕はミカに謝罪を促すことにした。
客観的に見れば、僕の非は一切ない。理不尽な悪口をこれだけ言われたのだから、謝罪を要求するくらい当然だろう。
レグルス風に言えば、これこそ僕の当然の権利だ。
「……それでも、怪しいことに変わりはないじゃん。ナギちゃんは変なところで警戒心が無さすぎるじゃんね。この男が普通に嘘ついている可能性も捨てきれないよ?ゲヘナのスパイかもしれないし、エデン条約をめちゃくちゃにするためにここに来た可能性もあるし……そもそも、ゲマトリアっていう名前からして怪しいじゃん」
「──君みたいな捻くれ者に謝罪を期待した僕が浅はかだったよ。だからこそ、逆に強要した僕が謝罪するべきだね。すまなかった。本当に、心から謝罪するよ」
「ひねっ……!?ナギちゃん、やっぱりこの男追い出そうよ!怪しすぎるし、失礼すぎるし、ムカつくし!」
「ミカさんっ!?追い出そうとする目的が変わってませんか!?……いえ、そんなことよりも!貴女が一言でも謝罪しないからこうなっているのですよ、理解していますか!?」
ミカは僕に腹を立てたのか、ナギサの肩をガシッと掴み、揺らしながら指を突きつけて怒りを露わにする。ナギサが正論をぶつけても、ミカはまったく聞く耳を持たず、肩を揺らす手を止めない。
普通にナギサが可哀想である。
「怪しすぎる、失礼すぎる、ムカつく……ずいぶんな言い草だなあ。でも僕は、人としてごく当たり前のことを君に求めただけなんだよね。疑心暗鬼になるのは君の自由だけど、そのうえで勘違いしたなら謝罪する。さらに悪口まで口にしたなら、なおさら一言でも謝罪するべきだ。別に僕は心の底から誠意を込めろなんて言わない……ただ、言葉にするだけならタダだと思うんだ。別に減るものでもないからね」
「……私に捻くれ者と言ったくせに、謝罪なんかするわけないじゃん。あはは、少しは頭を使って考えたらどうかな?」
「ミカさん!?」
──ここまで話が通じないのは、本当に久々かもしれない。
なんだか胃が痛くなってきた気がするな……だが、それを表に出すわけにはいかない。強欲ムーブに、こうした弱みは関係ないのだ。
「へえ……随分と強がるじゃないか。でもさ、頭を使って考えろなんて言う割には、言葉ひとつ惜しんで自分の評価を下げてるあたり、実に愚かな行為だと思うんだよね。その頑なさ、まるで私は捻くれ者ですって自白しているようなものだ……君は、自分で自分の愚かさを証明して楽しいのかな?」
「レグルスさん!?……っ!」
──しかし、いま最も胃を痛めているのはナギサである。
レグルスがミカに『疑心暗鬼になるのは君の自由だけど』と言ったとき、エデン条約を目前に疑心暗鬼になっていたナギサは、その単語に胸を突かれるような衝撃を受け、胃が痛むのを感じていた。
そして、ミカとレグルスのやり取りで、その痛みはさらに増した。この場で、最も不憫なのは間違いなくナギサであった。
「部外者の立場から口を挟むのは本来なら控えるべきだと思っていたけど、ここはあえて失礼を承知で聞かせてもらうよ……そもそもとして、君はどうしてそんなにもあからさまにゲヘナへの憎悪を隠そうとしないのかな?言葉の端々どころか表情まで、全てにおいて嫌いですって主張しているようにしか見えないんだよね」
「それは──」
「それは、私からご説明します」
と、ここでナギサは何かを口に放り込み、紅茶を飲みながら落ち着いた様子でそう言った。いったい何を口に放り込んだのか。その真相を知るのは、ナギサ本人だけだ。
「私たちティーパーティーの代表……生徒会長というものは、代々複数人で担っているものなのです。これは昔のことになるのですが……トリニティ総合学園が生まれる前、各分派の代表たちが紛争を解決する為にティーパーティーを開いた事からこの歴史は始まりました」
「ちょっとナギちゃん!先生はともかく、こんな部外者にわざわざ説明する必要なんてないよ!」
「ミカさんは少し黙っていてください。ロールケーキをぶち込まれたいんですか?」
「……」
「では、話を続けますね」
──すごい手腕だ。
僕は内心、ナギサのことを尊敬した。
僕ですら黙らせることができなかった相手を、彼女は見事に黙らせてしまったのだ。
──ロールケーキをぶち込むと脅せばいいのだろうか。
「そこで、パテル、フィリウス、サンクトゥス……それらの三つの学園の代表を筆頭にティーパーティーを開き、和解への流れが生み出されたのです……その後から、トリニティの生徒会はティーパーティーという通称で呼ばれるようになり、各派閥の代表たちが順番にホストを務める事になったのです」
先ほどナギサが口にした『パテル』に加えて、『フィリウス』と『サンクトゥス』なる名前まで出てきた……今の学園には、そんな派閥が存在するのか?少なくとも、キヴォトスに来る前には、そんな派閥がある学園を一度も聞いたことがなかった。
「……ナギサ。君はそこの彼女に対して、僕の噂について、パテル分派の生徒たちから聞いたのかと質問していたね。ということは……」
「話が早くて助かります……はい、各派閥にはそれぞれ代表が居まして、パテル分派は聖園ミカさん、フィリウス分派は私、桐藤ナギサが、サンクトゥス分派は……今は、入院中でこの場に居ませんが、百合園セイアさんが代表を務めています。入院中ということもあり、現在はサンクトゥス分派の代表も私が務めているのですが……」
なるほど、ミカが言っていたセイアというのは、代表の一人だったのか。そしてナギサは、そのセイアという人物に代わって、もう一つの派閥の代表も兼任していると……。
過労で倒れないか心配になってきた。本当に大丈夫なのだろうか。
「ここで、その派閥についてのお話になるのですが……パテル分派というのは、他の派閥と比べても、多くの生徒がゲヘナ生徒を嫌っている派閥でもあるのです。全員がそういうわけではないのですが……」
──ああ、そういうことだったのか。
ナギサに招かれた道中、僕のことを睨み付けたり、嫌悪感を露にしている生徒を何度も目にして、ずっと疑問だった。
もちろん、全員がパテル分派というわけではないだろう。
でも、何もしていない僕に対して、まるで敵を見つけたかのように扱うのはなぜか……その答えがようやく分かった。
大方、僕の噂を流したのは、その生徒たちの中の誰かに違いない。
「なるほどなるほど。つまり君の話を軽く整理した上で結論を出すと、パテル分派に所属する生徒たちが、僕という個人を好き勝手に解釈して、都合よく曲げて身勝手に噂を広めた……そういうことになるわけだけど、それを踏まえた上で、そこで不貞腐れてる聖園ミカに質問がある」
「……なに?」
ロールケーキをぶち込まれそうになった影響か、わずかに怯えを滲ませながらも、ミカは目線だけでこちらを鋭く射抜いてくる。
だが、そんな視線に怯むつもりも、慰めるつもりもない。僕はそのまま、構わず言葉を投げかけた。
「──君は、過去にゲヘナに何か被害を被ってそこまで嫌っているのか。それとも、ただゲヘナだからと意味も無くなんとなく嫌っているのか。どっちなんだい?」
「──それは……」
どういうわけか、ミカは言葉を一瞬ためらった。
しかし次の瞬間には、顔に嫌悪を浮かべながら、自分の思いをはっきりと口にした。
「──だってゲヘナは野蛮だし、頭おかしい連中が多いって聞くし、それを象徴するかのような角が生えている連中だし……どう考えてもロクでもない連中なことに間違いないよ。絶対に何かしてくるに決まってるじゃんね。それこそ夜出歩いていたら背中でも刺してくるに決まってるよ」
「そこまで思っていたのですかミカさん!?」
ミカの思いを耳にしたナギサは、目を見開き、驚愕の色を隠せなかった。まさか、そこまで考えているとは思いもよらなかったのだろう。
「──その言い分だと、特にゲヘナに何かされたわけでもないと聞こえるんだけど」
「……!?」
僕の指摘に慌て、ミカは両手で口を押さえた。
しかし、もはやそれだけで隠しきれるはずもなく、今この瞬間ゲヘナに対する根拠なき嫌悪が露わになってしまった。
「あのさあ、別に特定の誰かを嫌ったり苦手に思うこと自体は、僕も否定するつもりはないよ。人にはどうしても相性の良し悪しってあるし、好き嫌いが生まれるのは自然なことだからね。でもさ、一個人が何もしていないのに、ただの先入観や誰かの噂だけで嫌うなんて、それはもう理不尽以外の何物でもないだろう?もし実際に被害があったとか、理由がはっきりしているならまだ理解もできる。でも根拠もなく疑いから入って、最後には勝手に嫌悪するなんて理不尽だと思わない?……これ、ついさっきも言った気がするね」
「……」
「図星なのかな?黙ったままだとこちらとしても困るんだけどね」
「……」
「──なるほどなるほど、君は自分の失言に気付いてしまったんだね。だから、反論することが出来ずに、ただ僕を睨みつけながら口を塞いでいる……そんなところかな?」
「──」
普段はゲヘナの生徒から被害を受けることもなく、悪口を言われているわけでもない。それなのに、彼女は勝手にゲヘナを嫌い、その上で僕も嫌っている。意図せぬ一方的な敵意を知ったことで、僕の心にも小さな苛立ちが積もった。
──だからこそ、こんなよく分からない台詞を口にしてしまったのかもしれない。
「ド正論レグルスですまなかったね」
「あああああああっっ!セイアちゃんに言われているみたいでほんっとにムカつくんだけどっ!?」
耳を覆って絶叫するミカ。そんな姿を見てナギサは、何も見ていない、知らないとでも言うように紅茶を静かに飲み始めた。
しかし、穏やかに見えるその振る舞いとは裏腹に、内心は決して落ち着いていないのだろう。口の端から紅茶がこぼれていることすら、彼女は気付いていないようだった。
「──そもそも!ゲヘナで歩き回っているからそんな噂が出たんでしょ!?やっぱり私の思っている通り、『違法聖職者』か何かなんじゃないの!?ゲマトリアって聞くからに怪しそうだし、胡散臭そうだし、ヤバいに決まってるじゃん!」
「あのさあ!君はいい加減に……ちょっと待ちなよ。君、今なんて言った?」
「──ミカさん、今、なんて言いました?」
ミカの言葉に思わず耳を疑う僕と、口元をハンカチで拭いながら同じく心中で驚きを隠せないナギサ。二人はほぼ同時に、問いかけるようにミカに目線を向けた。
「え?なに急に……胡散臭そうだし、ヤバいに決まって──」
「その前です!」
「……『違法聖職者』?」
「それですっ!」
「ひゃっ!?」
両手でミカの肩をがっしりと掴み、血の気を帯びた顔を一気に近づけるナギサ。その放たれる気迫に、思わず場の空気が引き締まった。
「ミ、ミカさん……もしかして、レグルスさんのことを『違法聖職者』と呼び、その噂を広めたのは……!」
「?何を言ってるのナギちゃ……あー、そういえば、パテル分派の子にそんなことを言った覚えがあるかも。聖職者みたいだけど、話を聞いた限りじゃロクでもなさそうで、『違法聖職者』みたいだね☆……って」
「──」
「──」
ナギサと僕の目と目が合った瞬間好きだと気付くはずもなく、気付いた事は『違法聖職者』という噂を広めた真犯人は聖園ミカであるという事実だけであった。
「──ミカっ!!貴女という人は本当に何で余計な事しかしないんですか!?私、笑ってしまったんですよ!?どうしてくれるんですか、その小さな口にロールケーキをぶち込んで分からせましょうか!?」
「ちょ、ちょっとナギちゃん、急にどうしたの!?何か今のナギちゃんすごく怖いよ!?」
いきなり豹変したナギサに恐怖したのか、目をくの字にして涙を浮かべ、身体を大きく揺さぶられるミカ。あまりの勢いと気迫に、抵抗することもままならない様子だった。
「……代表となると、同じく代表である生徒の躾までしないといけないとは、なんとも難儀なものだよね」
そんな言葉を吐きつつ、椅子から立ち上がる。もみくちゃになって争うナギサとミカを目の前に、僕はゆっくりと口を開いた。
「途中で色々あったけど、そこそこ有意義な時間だったよ。エデン条約は大変だろうけど、君ならきっと上手くやれると信じているし、密かに応援しているよ……ああ、それと僕が買ったロールケーキの中で一切れだけ包まれているやつがあるから、それだけは持っていくけど、残りは二人……いや、三人で分けて食べてくれてもいい。糖分はきちんと補給した方が良いだろうからね。それじゃ、今度こそ僕はこれで失礼するよ」
「すみません、お招きしたにも関わらずこうした形で終えてしまって……!ロールケーキ、ありがとうございます。ありがたくいただきますね──さあ、ミカさん。早くその小さな口を大きく開けてください!」
「ちょっとナギちゃん落ち着いてよ!──ねえ、貴方がこの状況をどうにかしてよ!……ちょっと、なに無視してるの!?ちょっ──」
背後で何か言われた気がしたが、気にしないふりをして扉を閉め、声を完全に遮断した。
◆
「ある意味とんでもない子たちだったな……」
「──あ、あの……」
「うん?」
あの二人に別の意味で感心していると、隣から遠慮がちに声を掛けてくる生徒がいるのに気付いた。
「──ああ、ずっとここで見張っていてくれたのかな?実に勤勉だね、良いことだ」
「あ、はい。ありがとうございます……その、失礼かもしれませんが、ナギサ様とミカ様は、中で何をしていらっしゃるのですか?」
「友人同士、会話が育んで少々度が過ぎるぐらい盛り上がってるだけだから、君が気にする必要はない。もちろん、僕も気にする必要は微塵も無いけどね」
「そ、そうなんですか……?」
「そうだとも」
あれ以上あの場に居ても仕方がなかっただろう。とりあえず、僕がゲヘナの人物だという誤解が解けたのは良しとしよう。じゃないと僕の胃が持たない……それにしても、この子は別に僕を睨んでいるわけじゃなかったな……もしかして。
「……勤勉な君に一つ聞きたいんだけどさ、君はパテル、フィリウス、サンクトゥス、どの派閥に所属しているのかな?」
「──?えっと、パテル分派ですが……」
「──なるほど」
パテル分派であるにも関わらず、彼女はゲヘナを毛嫌いしているわけではないのか。つまり、全員が一方的に嫌っているわけではない……その点は、彼女の言葉どおり間違いないようだ。
「君、両手を仰向けた状態でこちらに差し出しなよ」
「へ?なぜそんなことを……?」
「なに、別に君をとって食おうなんて思っていないよ。ただ、僕が求めているのはほんの些細なものだ。君は余計なことを考えずに、ただこちらにその両手を差し出すだけでいい」
「は、はい……?」
僕の言葉に少し困惑しつつも、パテル分派の生徒は遠慮がちに両手を仰向けに差し出す。その仕草からは緊張と迷いがにじんでいた。
「──これは餞別だ、ありがたく受け取ると良い」
仰向けに差し出された小さな手のひらの上に、包装された一切れのロールケーキをポンと軽く乗せた。
「これは──」
「君の代表は、どこか血の気が多くて一筋縄じゃいかないタイプだろう?そんな相手と向き合うには、君自身にだって相応の気力が要るはずだ。だからこそ、甘いものくらいは必要不可欠だろう?だから、それは君にあげるよ」
「で、ですがこれは貴方の……!」
「別にまた買えば良い話だからね……それじゃあ、客人が長居しても良い気はしないだろうから、僕はこれで失礼するよ」
「──!?あ、あの、出口までご案内します!」
「出口までの道はもう頭に入っているから、君がわざわざ案内してくれる必要はないよ。親切心はありがたいけど、これ以上手を煩わせるわけにはいかないからね……後のことは君に託すよ、それじゃあね」
ポカンとした彼女をちらりと見やり、背を向けて軽く手を振る。そのまま僕は、その場から立ち去った。
「……」
そして、その場に残された彼女は、手の平の上に置かれた包装されたロールケーキをしばらく見つめた後──
「──はむっ」
それを開封して、美味しそうに頬張るのだった。