「──うっ……」
微かな息漏れとともに、その重たい瞼がゆっくりと開いた。
「──よく知っている天井だ。やはり、僕にとっての聖域というのは実に素晴らしい。誰にも邪魔されず何も襲ってこない、安心と安全が保証された場所というわけだ。これほど理想的な空間はそうそう無い。だからこそ、今この時だけでも静寂を享受しようとするのは当たり前のことであり、当然の権利だと思うんだよね」
見慣れた天井をぼんやりと見つめながら、言葉が零れた。
「──周囲に誰も居ないのにレグルス構文が真っ先に出るとは。僕も重傷だな……」
自分の口から出た言葉に思わず頭を抱えた。
約二年間も強欲ムーブを続けてきたツケが、ここ最近になって回ってきた気がしてならない。せめて、誰もいないこの場所くらいは、素のままでいさせてほしいものだ。
内心でそんなことを呟きつつ、ふと窓に目を向ける。視界の端で滲む光が、現実に引き戻すように瞳を照らしていた。
「……」
その滲む光に心を持っていかれるように、窓の外をじっと見つめた。
『……おや、もしかして私の夢の世界はお気に召さなかったかい?──ああ、私としたことが、先に紡ぐべき言葉を間違えたね。すまない、今まで成功したことが無かったものだから、柄にもなく少し興奮してしまったみたいだ』
『誰かの経験なんてものじゃない。正真正銘、君自身が経験してきたんだろう?』
『私はそれを“地獄の上映会”と名付けた』
『──ああ、君に言い忘れていたことがあった。現実の君が目覚めれば、この夢で私と会話したことは忘れてしまうんだ。残念なことにね』
『覗き見フォックスをしてすまなかった』
「──何もかも鮮明に、克明に、そして嫌というほど覚えている。数々の言葉も、態度も、『地獄の上映会』なんて悪趣味な名付けも、一言一句全て記憶として残っている」
何か話をした気がする程度の曖昧な記憶として残っているわけではない。
夢の世界に広がっていた、視界の彼方まで続く花畑のことも。
レグルス構文を一言二言紡ぐ前に、一方的に話されたことも。
そして、いつの間にか権利の侵害を幾度となく繰り返していたことも。
──全部、全部、過不足なく覚えている。
「まさか、彼女は僕を混乱させようとわざとあんなことを言ったのか……?」
彼女の喋り方や仕草から、どこか知的な雰囲気を感じ取った。
独特な単語を交えながら会話していることから、頭の切れるタイプか、あるいは変わり者であることは間違いない。
さらに、ゲマトリアを敵視しているかのような質問までしてきたことを考えると、僕を混乱させるために嘘を混ぜた可能性も、決して否定できない。
「とはいえ、嘘をついているようにも見えなかった。だとしたら、単なるイタズラ……?百合園セイアという存在と対話した僕からすると、本当にそういったことをやりかねない性格をしているからな……うーん……」
いくら考えても、結論が出るはずはない。
僕は百合園セイアではないのだから、真意を知るには本人に直接聞くしかない。もちろん、その本人がちゃんと答えてくれるかどうかはまた別の問題だが。
「何なんだ一体……」
思わずため息を吐き、再び頭を抱えた。
この世界に来てからというもの、自分の常識はほとんど通じない。夢の世界を構築できる生徒までいるとは聞いていなかった。もしかして、ここの生徒は特殊能力を持っているのが当たり前なのだろうか。そう考えるだけで恐怖がこみ上げてくる。
……これ以上考えても無駄だ。
今はとりあえず置いておこう。今日の僕には予定がある。
百合園セイアが気になって仕方ないけど、今後会える保証なんてないのだから。
その能力が欲しいと思わなくもないけど、望んだところで使えるわけじゃない。諦めよう。
「外出前に顔を洗うか……」
誰かに聞かれているわけでもないのに、そう独り言をこぼしながら洗面所へ向かって歩き出す。
──ちなみに、今日の予定というのは、普通に買い出しのことだ。
「……今日は襲われませんように」
ほとんど意味を成さないおまじないをかけながら、洗面所の前まで辿り着く。
──鏡を見ると、そこにはレグルス・コルニアスの姿が映っていた。
……この瞬間いつも思うことは、『ノミ以下だな』という感想だけ。
それ以下でしかない。
「……」
「襲われるなら外に出なければいいのでは?」と君たちは思うかもしれない。だが、それでは通販に頼らざるを得なくなる。住所が知られるのは極力避けたい。
いつ、どこで襲われるきっかけが生まれるか分からない以上、不安要素のある行為は避けるに越したことはない。
ましてやゲマトリアの黒服たちに頼むなど論外だ。ろくでもないものしか持ってこない未来しか想像できない。
──つまり、結局頼れるのは自分だけってことだ。
買い出し一つに命を賭ける羽目になるなんて、本当にどうかしてる。やっぱりこの世界、どこまでも理不尽すぎる……誰か僕を助けてくれ。
「……そういえば」
蛇口をひねって、手のひらに水をためる。
──そして、目が覚めてからずっと心の中で思っていたことを、今日ようやく口に出したのだった。
「覗き見フォックスって何だよ」
◆
「──大人しくして。これ以上周囲に被害を及ぼすというのなら容赦はしないわ」
──とある某所にて。
ゲヘナ学園の風紀委員会に所属する空崎ヒナは、今日も不良生徒の鎮圧のため、学園から遠く離れた現場へと駆り出されていた。
「っげ!?空崎ヒナじゃねえか!?」
「誰だよ!よりにもよって空崎ヒナをここに来させたのは!他にも風紀委員は居るだろうが!」
「アコから『委員長!野蛮な生徒がこの場所で暴れているみたいです!お手数ですが、委員長の圧倒的なパワーで彼女たちに制裁を加えてやってください!』って言われたからここに来たのよ」
「あの横乳女の仕業かよっ!?」
「普段は横乳だけ周囲に見せびらかしといて、こういう時だけは裏に隠れてこそこそチクってるのかよお!なんのために横乳を出してるんだっ!あいつはそれでも風紀委員か!?」
「絶対に許さないぞ天雨アコッ!!」
「……」
ひどい言われようね。
ヒナは、アコに対する罵詈雑言を聞きながら、内心でそう思った。
目の前でギャーギャー騒ぐ彼女たちには分からないかもしれないが、アコは風紀委員会の中でもかなり優秀だ。
行政官になるため、血の滲むような努力を重ねてきたことを知っている。報告書の処理も、アコがいるからこそ助かっている部分が多いのだ。
それを橫乳女だの周囲に見せびらかしているだの、アコの何を知って罵詈雑言を吐いているのだろうか。
……まあ、確かに服装については少し……思うところもあるのだけれど。
「とにかく、既に他の風紀委員にもこの状況のことは伝えてあるわ。少しすれば私たち風紀委員会によって包囲されるのだから、諦めなさい」
──とにかく、早くこの無駄な時間を終わらせたい。
長引けば長引くほど、ただひたすらに『めんどうくさい』という気持ちが募る。
私にはまだ、やるべき仕事が残っている。
たびたび嫌がらせをしてくるマコトへの対処、積もり積もった書類の片付け、部活の破壊活動の鎮圧……エトセトラ、エトセトラ。
「そう言われて私たちが止まるとでも?その答えは否ァ!!」
「空崎ヒナ、私たちは常に欲求に飢えているんだ。そしてついさっき、一つの欲求を満たした。なら後はどうなる?」
「どうもならないわ」
「──知らないのか?次の欲求が始まるんだ」
「………………」
──ああ、本当にめんどうくさい。
「貴女たちの言い分は分かったわ……さっさと終わらせる」
愛銃であるマシンガン……終幕:デストロイヤーの銃口を不良生徒一同へ向ける。
こちらの言い分を聞くつもりがないのなら、言葉どおりに鎮圧して終わらせるだけだ。
「仕方がない、いつもなら一目散に逃げるところだが……ずっと逃げ続けたっていつまでも前に進めない。ここで空崎ヒナを倒して、逃げ続けてきた私たちに終止符を打つんだっ!」
「いつもの私たちだと思うなよ空崎ヒナぁ!」
「お前を倒した暁にはあの横乳にも同じ目に遭ってもらうっ!」
「──はあ……」
どうして、そのやる気を他のことに使えないんだろう。
いつも何かを『めんどうくさい』って思ってる私よりは、よっぽどマシなのに。
そんなことを内心で思いつつも、相手は不良生徒という問題児だ。
これ以上周囲に被害を広げられては困るのも事実だし、だからこそ素早く鎮圧して、増援の風紀委員に引き渡すのが最善だろう。
「空崎ヒナは今ここで倒す!後に続べえええええええぇぇッ!?」
「ぎゃふぅ!?」
「うわああああぁッ!!?」
──そう思った刹那、轟音とともに不良生徒たちはすでにヒナの視界から消えていた。
「──え?」
これには思わずヒナも困惑した。
ある一人の不良生徒の足元が爆ぜると、次の瞬間には一人が吹き飛ばされる。さらに巻き込まれるように、他の不良生徒も一瞬で吹き飛ばされ、近くの壁に叩きつけられたのだ。
……いや、そもそも何故急に足元が爆ぜて──
「──この僕を巻き込むような真似をするなんて、良い度胸じゃないか」
「!?」
聞き覚えのありすぎる声が耳に届いた瞬間、ヒナは思わずそちらに顔を向けた。
「──あ」
視界に飛び込んできたのは、中肉中背で、特に目立った特徴もない、どこにでもいそうな平凡な青年だ。
──でも、それはあくまで青年とほとんど関わりのない人たちの見方にすぎない。
ヒナにとって、その存在は決してそんな軽い評価で済ませられるものじゃなかった。
「確かに人にはそれぞれ事情というものがあるだろうし、君たちにも君たちなりの目的があったのかもしれない。そこは理解してあげよう。理由がどうであろうとさ……だけど、だからといって他人を巻き込んでいい理由にはならないんだ。常識的に考えて、その行為そのものが重罪に等しいからね。いつもの僕は寛大だから、多少の迷惑くらいなら見逃してやるつもりでいた──だけどさ、君たちは完璧に限度を越えたよ!」
ほんの一瞬だけ理解を示したかと思えば、次の瞬間には怒り全開。情緒不安定さ丸出しで、右手を前に突き出した。
……そこには、不良どもに見せびらかすかのようにある物が握られていた。
「見なよ、この人々の手によって生み出された品々の残骸を!君たちが好き放題暴れて僕を巻き込むだけでなく、人の努力を踏みにじるような真似をするなんて……努力を重ねてきた創造者たちの権利の侵害だ!冒涜そのものだよこれは!」
ある物とは、大きめの紙袋の残骸の切れ端のことだ。
おそらく、不良生徒が暴れている最中に偶然巻き込まれ、その際に紙袋に入っていた品々もろとも、残骸と化してしまったのだろう。
「くっそ……よりにもよって『歩く災害』と出くわすなんて……」
「いや、あいつは『白い悪魔』だ。見ろよあの顔、あまり特徴がないが表情が悪魔っぽい……だ、ろ……ぐふっ」
「『違法聖職者』め、絶対にいつかぶっ倒してやる……!」
「僕は『ゲマトリア所属の強欲の権化、レグルス・コルニアス』だッ!!」
歩く災害であり、白い悪魔であり、違法聖職者である青年……レグルスは、不名誉な二つ名を即座に訂正し、自分の所属と名乗る権化を大声で叫んだ。
「これだから君たちみたいなのは困るんだ。好き勝手暴れて、周囲の事なんてお構い無し。ハメを外すなとは言わないけど、限度を考えてほしいものだよね。それと、僕という存在を知っているのであれば正しい名前ぐらいは把握し……うん?」
ここで、レグルスは初めて不良生徒以外にもこの場に誰かが居ることに気付く。不良生徒から視線を逸らし、その存在の方を見据えた。
「──レグルス」
今、この場で初めてヒナとレグルスの目が合った。
ヒナはようやく自分に気づいたレグルスに向かって、名前だけを口にした。
「──」
レグルスがヒナに気づいた瞬間、周りの誰も気づかないほど短く、その瞳が一瞬だけ見開かれた。
「……?レグルス、どうかし──」
「やあヒナ、また会えたね。今度は約一ヶ月ぶりぐらいかな?思いのほか早く再会できて正直嬉しいよ。君は今日も治安維持のために奔走しているのかな?本当に立派だね、心の底から尊敬するよ。誰かのために動けるその強さは、僕にはまぶしすぎるぐらいだ。到底真似することは出来ない……だけど、頑張りすぎは良くないよ。君は確かに、身体も精神も強いのかもしれない。だけどさ、僕から見れば一人の女性であり、生徒であり、そしてまだ子供なんだよね。そんな君が無理をして倒れてしまったら、それこそゲヘナ学園の損失でしかないと思うんだよね。そう考えると、やっぱり適度に頑張るのが一番──」
「!?」
そして、いきなりレグルスが悠然と口を開く。
その言葉は津波のようにヒナに押し寄せ、圧倒するのだった。
◆
「僕としたことが、会ってそうそう君を困らせるような真似をするだなんて……情けない話だね。ただ君とこうして偶然にも再び相まみえることが出来た、それがあまりに嬉しすぎて醜い姿を見せてしまって本当にすまなかった。これじゃあさっき連行されていったあの子たちと同じだ。君に迷惑をかけてしまったという点でね。だからこそ、誠心誠意謝罪するよ」
「……私は特に気にしていないわ。それに……その、悪い気はしなかったから」
ヒナは不良たちを縄で縛り、ちょうど現場に到着した風紀委員に向かって「確保したから、後は連行よろしく」とだけ伝えた。
不良たちが連行されるのを軽く見届けたあと、二人は少し離れたベンチに腰を下ろし、今に至る。
「──それなら良かった。ただでさえ君は自らの身体を酷使し、問題児の生徒を粛清し続けているからね。気分まで害してしまい支障をきたす、なんて事にならなくて心の底から安心したよ」
レグルスは文字通り、誠心誠意頭を下げて謝罪していた。
しかし、ヒナが「気にしていない」と言ってくれたことで、安心したように表情を緩め、頭を上げた。
「……そう」
ヒナは、そんなレグルスの横顔をチラリと見た。
先ほどまでの怒りは消え、今はむしろ上機嫌そうだ。不良生徒たちに被害を受けたはずなのに、どうしてここまで上機嫌でいられるのだろうか。
「むしろごめんなさい。レグルスのプライベートをこちら側の生徒たちが邪魔するような真似をさせてしまって」
「君が謝罪する必要は微塵も無いとも。その謝罪は、君じゃなく僕の時間を台無しにした張本人たちが言うべきものだと思うんだよね。君はむしろ被害者側だろう?彼女たちを止めた上で、僕にも気を遣って場の空気を整えようとまでしてくれた。そんな優しさを見せてくれる人に、僕が文句なんて言えるはずがないじゃないか。それでも文句を言うのであれば、それはただの人でなしだからね」
おたくらの生徒はどうなってるんだ。教育はどうなってるんだ……被害を受けた一般人であれば、そんな言葉を口にするのも無理はない。
実際、たまにそう言われることもあり、その度に頭を下げてきたことだってある。ゲヘナ学園の生徒は事件を起こしまくることで有名であり、先入観から全員が野蛮だと思われがちだったから。
「──ありがとう」
レグルスが長々と話す横で、ヒナは短く一言だけ感謝を口にした。
それを見たレグルスは、うんうんと満足そうに頷き、視線をヒナから外しておもむろに空を仰ぐ。
「……僕は以前君にこう言ったよね。『また機会があればその時は他愛のない話でもしよう』……と」
「……そういえば、アビドスの時に──」
忘れもしない。アビドス自治区で、約二年ぶりにレグルスと直接対話したときのことだ。
あの時、先生とアビドスの対策委員会、そして風紀委員たちが対立していた。
そのど真ん中で、レグルスは周囲が困惑しているのを気にも留めず、ヒナに対して約束を交わしていたのだ。
そしてヒナは、『そんな落ち着ける機会があるといいわね』と言いながらも、レグルスの口にした約束を承諾していた。
……まさか、今この瞬間にその約束を果たそうとしているのだろうか。
「空も青く澄み渡り、ヒナのおかげで周囲の騒音が消え去り、今この時はまさに僕が望んでいる平穏そのもの。他愛もない話をしまくるにはもってこいだ……だけどね」
──しかし、その予想は外れることになる。
「今の君はきっと、それどころじゃないんだろうからね。だから、今回は遠慮しておこうと思うんだ。こちらから頼んでおいて何様だ、と思うかもしれないけどね」
「……?別に、私は全然大丈夫よ?今もこうして貴方と話しているのに」
他愛のない話では無いかもしれないが、確かにヒナとレグルスは隣り合って会話している。人によっては、これだけで約束を果たしたと言えるかもしれない。
──だが、レグルスはそれだけで満足するような存在ではない。
「本当に何も予定がない、何のしがらみもない、誰かが介入するわけでもなく、ただ平穏な時間を享受しながら他愛のない話をする……僕が求めているのはまさにそれなんだよね。だけどさ……今の君はそうじゃないだろう?ヒナ」
残念そうに首を左右に振るレグルス。
ヒナは一瞬、何で──?と思ったが、すぐにあることに気がついた。
「──まさか、エデン条約のことを言っているのかしら?」
「素晴らしい、さすがヒナだ!察しが早くてすごく助かったよ。やっぱり君は素晴らしい女性だ」
「……お、大袈裟よ……」
思えば、最初にレグルスを助けたときも、あんな風に大袈裟に反応していた気がする。
その後に握手を求められたことも、二年前の出来事なのに鮮明に覚えている。
……だからこそ、それがあったおかげで今の私があるのかもしれない。
アビドスの市街地に居た時にも口にしたが、レグルスと邂逅してからというもの、私はなぜかすこぶる調子が良い。
それは、他の風紀委員にも『働きすぎじゃないか?』と心配されるほど。
理由は未だに不明だが……もしかすると、レグルスは何か知っているのかもしれない。
また機会があれば、何気なく聞いてみようかしら。
ヒナは内心そう思いながら、少し紅く染まった頬を落ち着かせ、いつもの澄ました表情に戻した。
「……エデン条約、これほどまでにさっさと終わらせたいと思った事はないわ」
「僕は部外者だし、詳細までは知らないけど──ゲヘナとトリニティが仲良くしようとしている。言い換えれば、まあ平和条約ってところかな?僕はそう認識しているよ。トリニティ側の代表が誰かなんて知らないし、正直、微塵も興味はない。けど……君の言動から察するに、ゲヘナ側の代表は君ってことで間違いないんだよね?」
「本当に察しが良いのね」
「僕は完璧で、完成された人間だからね。相手に気を遣う、察してあげるのは人として当然のことだと思わない?」
「……ふふ、そう」
──本当に大袈裟ね。
内心でそう思いながら、ヒナは少し笑った。
話すたびに、先生とはまた違った大人だなと感じる。
それは何故だろうか。やはり、先生と違って本音をはっきり言うからだろうか。
「レグルスの言う通り、その認識で間違いは無いわ。実際、ゲヘナ側でエデン条約を推進したのは私だから」
「なるほどなるほど……ちなみに、それは理由を聞いても良いものなのかな?ああ、別に無理に答えろなんて言うつもりはないよ。嫌なことなのであれば、この質問は今すぐ忘れてくれたって構わないからね」
「──引退」
「え?」
レグルスの質問に、予想に反してヒナは即答した。
それに少し驚いたレグルスは、思わずヒナの方を向く。
「まだこれは誰にも言っていなかったけど……私、風紀委員長を引退しようと思ってるの。
ヒナは少し俯き、考えていたことをぽつりと口にした。
風紀委員長になってからも、レグルスと会うことで疲れを感じなくなった。だからこそ、ゲヘナ学園の秩序を維持し続けてきた。それは事実だ。
──だが、続けたいかどうかとなると話は別だ。
身体は疲れなくとも、精神は疲れる。無責任に放棄したいわけではないが、少しの期間ぐらい休むのも悪くないのではないか……そんな思いを抱くことは何度もあった。
「……いや、少しはっきり言い過ぎた。今のは忘れて──」
まずい、ぶっちゃけすぎた。ヒナはそう考えていたが……。
「良いじゃないか、引退しても。君にはその権利がある。というより、そう考えるのは誰もが持つ当然の権利とも言えるね」
「……え?」
レグルスはそれを否定せず、むしろ肯定的だった。
ヒナは驚きのあまり、呆然とレグルスの顔を見つめてしまう。
「僕としては大歓迎だ。君と他愛のない話をする時間が増えるからね。時間があればこうして二人で会って、取り留めもない話をする。僕が求める平穏そのものの一つにしようと考えているぐらいだよ」
「……」
「君はいつも誰かのために動いて、背負って、考えて、気づけば自分を置き去りにしている。だから、少しくらいは君のための時間を持っても罰は当たらないとも。それに、肩書きなんてものは人を縛る鎖であって、君そのものを形づくるものじゃない。君が何を選ぼうと、君は君であることに変わりはないからね」
「──」
「──まあ、最終的にどうするかは君の自由だけどね」
結局どうするかは本人次第だ。レグルスが決めつけることではない。権利を主張する者が、相手の権利を侵害するなんてあってはならない。ましてや、それを押し付けるなどもってのほかだ。
「……ふふっ、ありがとう」
「僕は人としてごく当たり前のことを言っただけだよ。君がわざわざお礼なんて言う必要はない……だけど、それを無下にするのもおかしな話だ。だから、素直に受け取っておくよ」
瞼を閉じ、胸元に手を添えるレグルス。その動作は、ヒナに対しての敬意を表しているのだろうか。
「──前向きに、何なら本当に辞めてしまおうかしら」
「うん?」
「何でもないわ」
ヒナは首を振って立ち上がり、衣服の埃をさっとはらう。そして、愛銃・終幕:デストロイヤーを手にし、レグルスの方へ向き直った。
「レグルス、ほんの少しの間だったけど、私も貴方と話せて良かったわ……エデン条約を終えた後、何ならまた会えた時でも良いから、貴方の言う他愛のない話をしましょう?」
今度は、ヒナがそう約束した。
今まではレグルスが一方的に約束を取りつけていたが、ヒナからも約束することで、レグルスに気を遣わせないためだ。
今は本当に忙しくて気軽に話すことはできないが、いつの日か、エデン条約のことが落ち着いたときに、他愛のない話をしようと。
「願っても叶ってもない。むしろ僕から改めてお願いしたいぐらいだ。君と過ごす静かな時間は、僕にとって何よりも貴重だからね」
「そう、ありがとう……それじゃあ、私はこれで」
オブラートに包まずはっきりと言う。それに少し気恥ずかしく感じたヒナは、バレないように内心で喜びを噛み締めながら、その場を去る。
「──ああ、それはそうと……」
「!?」
しかし、その場で別れるかと思ったら、レグルスがいつの間にかヒナの隣に歩いていた。
ヒナは驚きのあまり、その隣姿を見つめてしまう。
「そう驚かなくて良いとも。ここからの僕の帰路だと、ゲヘナも通り道でもあるからね……だからこそ、短い時間ながらも他愛のない話が出来ないことはないと、そんな風に思わないかな?」
「──」
レグルスの言い分に、一瞬呆気を取られたヒナだったが──
「──うん、そうね。その通りだわ」
ヒナの言葉をきっかけに、二人は別れるまで他愛のない話をしながら歩いた。
最近何をしていたのか、こんなことがあった……そんな本当に何でもない話をしながら、互いに帰路を進む。
このまま行けば、平穏そのものを感じながら今日という日は終わる──そのはずだった。
「──うーん、先生は本当に人たらしじゃんね。平気であんなことを言うなんて……」
ここからゲヘナ学園へ向かうには、どうしてもトリニティを通る必要がある。トリニティを毛嫌いする者であれば、わざわざ遠回りするだろう。
しかし、レグルスとヒナは特に嫌悪感を抱いていないため、堂々と話しながら歩いていた──のだが。
「……って、あっ!?」
妙に聞き覚えがある声がした。そう思った時には、既に遅かったかもしれない。
「……うん?」
「……は?」
どこか驚いたような声に、二人は同時に声が聞こえた方を向いた。
「──運命は本当に残酷じゃんね……何となく、今だけは会いたくなかったかなあ」
「……?」
「──」
聞き覚えのある声の正体は、聖園ミカだった。
その声を聞いたヒナは首を傾げ、レグルスは右手で目を押さえながら空を仰ぐのだった。