「ナギサは近い将来、自身の心そのものが軋みを上げ、崩れ落ちる。過度な疑念を積み上げ続けた末に精神の均衡は揺らぎ、やがて自重に耐えきれなくなった……そういう帰結、と言ったところだろうか」
──明晰夢……未来予知を通して映し出された一幕を観測しながら、静かにそう呟いた。
「……」
自身の神秘が織り上げた夢の世界を媒介に、私はレグルスとの接触を果たした。
しかし、彼が夢の世界から立ち去った直後、再び未来予知が発動したことにより、彼方まで花畑が広がる幻想的な夢は霧散し、私はまた夢の中を彷徨うことになった。
──一体、どれほどの時間が経過したのだろうか。
一日、一週間、一ヶ月……あるいは、一年が過ぎてしまっているかもしれない。
明晰夢を通して、未来、過去、現在を問わず観測してしまうがゆえに、時間感覚は限りなく希薄だった。
朝は眠りから目覚め、昼は人生の極一部を生きて、夜は明日を生きる自分自身に託して眠りにつく。
そんな、人間として当たり前のルーティンが、ここ最近まるで成立していない。
一度夢に囚われれば、ずるずると深淵へと引き摺り込まれ、キヴォトスで起こり得る、ありとあらゆる未来を観測してしまう。
──私が一体何をしたと言うんだ。せいぜい覗き見フォックスをしただけじゃないか。わざと覗き見しているんじゃない、私の神秘がそうさせているんだ。私は悪くない、何も悪くない。私の神秘が悪いんだ!
「……もっとも、こんなふうに言葉を並べたところで、何も変わらないのは最初から分かりきっているんだがね」
未来予知に文句を言ったところで、未来は変わらない。観測された事象は現実となり、キヴォトスに降り注ぐ。
例えば──今のナギサがそうだ。
顔色は真っ青に染まり、全身は小刻みに震え、この世の終わりを見たかのような表情を浮かべている。
一体、彼女の身にどれほどの不幸が降り注いだのだろうか。
「先生に失望された?補習授業部の面々に復讐された?……それとも、『パラノイア』である自分自身に嫌気が差してしまったのかい?」
『…………………………』
俯いたままのナギサに問いかける。
……当然、返答はない。
代わりに、全身を震わせながら、ナギサはおもむろに立ち上がる。
この世の終わりのような表情を浮かべたまま、おぼつかない足取りで部屋の出口へ向かい……そのまま、奥へと消えていった。
「……重症だね。あんなナギサは、初めて見たよ」
だが、客観的に見ればふさわしい末路とも言えるかもしれない。
『パラノイア』の権化となったナギサは、なりふり構わず他者を疑い、攻撃し、その心を傷つけた。
そして、その結果は巡り巡って自分自身へと返り、自らの心も傷つけられてしまうことになる。
──これは、ただそれだけの話だ。
「ティーパーティーの仲間としても、かけがえのない友人としても……手を差し伸べることすらできない。もっとも、そもそも私にその資格があるのかと問われれば、限りなく無いに等しいんだがね」
ナギサが『パラノイア』となってしまった原因の一つには、百合園セイアが襲撃を受け、死亡したと認識された出来事が挙げられる。
……もともと慎重派な性格の彼女のことだ。
次は自分が襲撃されるのではないか……そう考え、自ら疑心暗鬼という闇の中を彷徨い続けているのだろう。
「……私が生きているという事実を、世間に明かすわけにはいかない。もしそうなれば、再び悪魔の手が伸びてきて……今度こそ、私はそこで命が散ってしまうだろうからね」
それに、昏睡状態にある私に付き添ってくれているミネにも申し訳が立たない。
これ以上迷惑をかけ、救護騎士団の活動に支障をきたすような事があってはいけないのだから。
──ナギサが部屋を出ていったことで、室内に残されたのはセイアただ一人。
いつものように孤独となり……そして、その状況にすっかり慣れてしまった自分を自覚しながら、内心でそう呟く。
「これで、この一幕も終わりか」
物語として綴られるであろうこのシーンも、未来予知による観測を終えれば幕を閉じる。
そして私は再び、次の一幕を観測するためにこの世界を崩壊させ、新たな世界を構築し始めるのだろう。
「……そういえば、『地獄の上映会』を観測することは、すっかり無くなってしまったね。いや、二度と観たいとは思わないが……」
──地獄の上映会。
それは、ゲマトリアに属するレグルス・コルニアスという男が、生徒の手によって脳天を銃弾で撃ち抜かれ、砲弾の爆風に吹き飛ばされ、繰り返し絶叫し、何度も何度も同じ被害に遭い続ける……そんな光景を観測し続けた私が、勝手に名付けた不謹慎極まりない上映会のことだ。
こんなにもか弱い私にまた地獄の上映会を見せようとでも言うのかい?これ以上私の神秘が私を虐めるのは止めてくれないか?それを続けるのであれば、私はお前を絶対許さないからなっ!
そう懇願しつつ、自分の神秘を脅すという訳の分からない行為までして抗おうとしていたのだが……予想とは裏腹に、地獄の上映会は鳴りを潜めた。
まるで、上映中の映画のテープが突然切れたかのように。呆気ないほど、唐突に。
「……」
なぜ、地獄の上映会は幕を下ろしたのか。
ありとあらゆる仮説を立てようとしたが……結局、その結論に至るまでさほど時間はかからなかった。
「──レグルス・コルニアスと接触したことによって、私は地獄の上映会から解放された。嘘みたいに、呆気なく」
トリガーとなったのは、彼と接触したあの瞬間だ。
私は一時的に現実世界へ帰還し、目覚めることに成功した。さらに、夢の世界でも彼と再会し、ほんの数分だけ言葉を交わした。
まるで計ったかのように、私の神秘が織り上げた夢の世界は崩壊し、新たな世界の構築が始まった。
──ああ、また地獄絵図を見せられてしまうのか。
そう絶望してしまうほど、私は嫌で嫌で仕方がなかった。
……だが、次の明晰夢で映し出されたのは、人の心がない地獄の上映会ではなく、未来予知による、ごく普通で、ありきたりな観測だった。
──私は、泣いて喜んだ。
とうとう観念したか。私の神秘が私を苦しめようたってそうはいかない。君の負けだ、私の神秘。利敵行為ばっかしていないで、せいぜいそこで這いつくばっているといい!
夢の中とはいえ、あそこまで罵詈雑言をぶつけたのは初めてだった。
未来予知による疲弊で弱音を吐くことはあっても、ここまで露骨に文句を言ったことは一度もなかったのだから。
それほどまでに、地獄の上映会は本物の地獄だった。
……いま思えば、あの頃の私は本当にどうかしていた。
だが、最大の障害とも言える地獄の上映会は、確かに終わりを迎えた。これからは、適度に先生と接触しながら、未来予知で観測した事象を、できる限り伝えることに尽力しよう。
──そう、思っていたのだが。
「──っ……ぁ!?」
突如として、全身に悪寒が走った。
背骨をなぞるように冷たい感覚が駆け上がり、呼吸が一拍、遅れた。
胸の奥で鈍く疼き、しかし言葉にすれば霧散してしまいそうな違和感。まるで、見えない糸が首元に絡みつき、今にも引き絞られようとしているかのような感覚に、思考が急速に冷えていく。
「……っ!」
衝動に突き動かされ、顔を跳ね上げるようにして天井へと視線を向ける。
「…………」
当然、そこにあるのは部屋の天井だけだ。
トリニティの建築物らしい、見慣れた天井。それ以上でも、それ以下でもない。
……だが、問題はそこではなかった。
「また、この感覚だ」
──視線を感じる。
だが、それは誰かの眼差しというには、あまりにも質が悪かった。
一点に定まらず、しかし確実にこちらへと向けられている視線。焦点を結ばない濁った何かが、空間そのものに滲み出し、皮膚の裏側をなぞるようにまとわりついてくる。
呼吸の深さ、心拍の間隔、瞳孔の開き。そうした些細な反応一つ一つを、意味もなく、執拗に拾い上げられている感覚。
「──っ、ふぅ、ふっ……!」
肩を強張らせ、無意識に身を引く。
その瞬間、どういうわけか、絡みついていた感覚が霧のように薄れていく。
皮膚の裏側を這っていた冷たさが、指先から順に引き剥がされるように後退していった。
──そして。
「……消えた、か」
全身に悪寒を走らせていた視線は、完全に消え去っていた。それを理解した瞬間、肺の奥に溜め込んでいた空気を、ゆっくりと吐き出す。
「ふう……ああ、今この瞬間だけでも、生きているだけで偉いと自画自賛したいくらいだよ。本当にね」
生きているって素晴らしい。
……そう、無理やり納得させる。虚勢を張る。
こうでもしなければ、自分自身を保てなくなり、いつかは静かに崩壊してしまう気がしたからだ。
「……」
再び天井を見上げる。もう、あの不可解な視線は感じない。いつもそうだ。ふとした瞬間に現れて、こちらを嬲るだけ嬲り、勝手に消えていく。自分勝手にも程があると思う。
「──レグルスと接触してからだ」
……いや、正確には、明晰夢を通してレグルス・コルニアスを観測し始め、第一回地獄の上映会が始まった、その瞬間から。
あの不可解な視線は、不規則に感じ取れるようになった。地獄の上映会が終わった今でも、それは定期的に現れる。
その度に息が詰まりそうになり、全身に悪寒が走るというのだ。なんだろう、ここは地獄か何かなのだろうか。
「本当に、私の身に何が起きて──っとと」
考察を始めようとした、その瞬間。時間切れを告げるかのように、夢の世界が崩壊を始めた。
天井、壁、床……といった感じに、上から順に吸い上げられるように分解されていき、自身の足元が消えた瞬間、虚無へと放り出される。
「──」
音も、重さも、方向も失った空間。
落ちているはずなのに、風圧はなく、耳鳴りすら起こらない。
ただ、意識だけが落下という概念をなぞっている。
……もう、何度も通った道だ。
未来予知による夢の世界が再構築されるまでの、ほんのわずかな空白。何十回、何百回と繰り返してきたからこそ、この虚無の意味を、私は勝手に結論付けていた。
──ここでは、何も考えなくていいと。
思考を巡らせる必要も、警戒する必要もない。
不可解な視線も、得体の知れない悪寒も、現実も……すべてが一時的に切り離される。
そう。これは休息の時間だ。
何も考えなくていい時間。何者でもなくていい時間。
自分を保つための言い訳も、虚勢も必要のない、そんな時間。
「……ああ、しかし──」
それでも、ふと気になってしまう。
なぜ、レグルスと接触した、あるいは接触しようとしただけで、私はこんな被害を受けるのか。
なぜ、全身に悪寒が走るような視線を感じるようになったのか。
なぜ、地獄の上映会は突然終わったのか。
なぜ、なぜ、なぜ、なぜ──
「……よし、決めた」
──レグルスを、また私の夢の世界に招いてやる。
「明晰夢を通して、ただ観測していた私を変えたのは君だ。レグルス・コルニアス」
そして、私の負担が増えたのも、覗き見フォックスにならざるを得なくなったのも……すべて、君という存在があったからだ。
「君はこちらのことを、ほとんど覚えていないだろう。だが、それでいい。今はその方が都合がいい」
とことん動揺させてやろう。
どこかで会ったことがある気がするのに、肝心の記憶は曖昧で、『君は一体、何者なんだ?』と、そう言わせてやる。
……この気持ちをレグルスにぶつけるのは理不尽だと言うことは分かっている。私は被害に遭っているのだから、少しでも私の気持ちを味わってもらおうと、困惑してもらうと、からかいにいくのだから。
そう、今度の私は、からかいフォックスとなるのだ。
からかいフォックスですまない。
「未来予知の時間は、一度中断させてもらおうか」
──私は、ゲマトリア所属の強欲の権化、レグルス・コルニアスを、私の夢の世界に招く。
そう宣言した刹那、神秘がそれに応えるかのように、夢の世界を織り上げていった。
◆
『──』
──それは、視点と呼んで良いものだろうか。
あるいは、視点という概念を借りて、仮にそう置かれているだけの何かなのだろうのか。
境界は存在しない。内と外の区別もない。
距離も、広がりも、奥行きも、本来は意味を持たないはずの場所に、『ソレ』が存在していた。
存在している、と解釈していいのかすら曖昧だ。
なぜならば、気づけば『ソレ』は存在していたのだから。
『ソレ』には輝きがあった。けれど、それは照らすためのものではなく、温度も色も、本来付随するはずの性質を拒絶している。
むしろ、その性質……いや、解釈そのものを、試すように歪めてくる。
『──』
中心には、理解を拒む欠落があった。
何も映していない、空白の部分。
ただ、そこに虚無という事実だけが、異様な重みをもって鎮座していた。
その周囲を縁取るように、名づけようのない輝きが滲み、揺らぎ、静止していた。
『──』
『ソレ』に感情はない。いや、感情があるかどうかも分からない。
意思も、目的も、明確な指向性も読み取れない。
……それでも、『ソレ』は見ていた。
見る、という行為ですら、人の理解を前提にした仮の表現だ。
観測か、認識か、あるいは単なる重なりなのか。
区別するための尺度そのものが、この場所には存在しない……しかし、虚無の中を落下していく、小さな意識を確かに見ていた。
『ソレ』は、その小さな意識を追わない。
近づくこともない……そして、ほぼ干渉することもない。
見届けているのか。それとも、単にそう認識されているだけなのか。
その答えは存在しない。その問い自体が最初から成立していない。ただ在るままに、在り続ける。
『────』
──『ソレ』は、不気味に輝いていた。
◆
──夢を、見ることが無くなった。
そう確信したのは、レグルス・コルニアスに成り代わってから、半年ほどが経過した頃だった。
その頃にはすっかり強欲ムーブにも慣れ、自身に襲い掛かる理不尽を退けるため、強欲の権能をある程度使いこなせるようになっていたと思う。
不良生徒が何度も襲ってきては、返り討ちの繰り返し。
皮肉なことに、その繰り返しによって、使い方を誤れば周囲が地獄と化す獅子の心臓を、ある程度制御できるようになっていた。
『全く、何で日常を過ごすだけでこんな目に遭わないといけないわけ?僕はただ平穏な日常を享受できたらそれで良いんだ。他に何も望まない、驚くほど無欲で善良な人間だというのにさ。それなのに、どういうわけか僕にばかりありとあらゆる理不尽が降りかかってくる。普通に考えておかしいだろ?これって僕の平穏を享受する権権の侵害だと思うんだよね!』
そんな愚痴を垂れ流しながら、安心と安全が保証された部屋へ帰り、そのまま不貞腐れるように眠る日々。
強欲ムーブが滲み出るほど、ぶつぶつと文句を言っていた気がする。
銃を使うなとは言わないが、一般人に発砲するなとか。
勝手に金持ちだと決めつけて、歓喜の声を上げながら襲いかかってくるなとか。
……だからこそ、せめて夢の中だけでも穏やかに過ごしたかったのかもしれない。
夢に縋り、少しでもこの理不尽な日常を上書きできたらいい。そんな淡い期待を抱いて、目を閉じた。
『……やっぱり、何も覚えていない。おいおい、夢を見るのは誰にでも持つ当然の権利じゃないのか?』
──起きたら、呆気なく夜が明けていた。そんな日々が、毎日続いた。
ノンレム睡眠とやらで、夢を見ていたとしても実際に内容を覚えていないだけだろうか。最初はそう思っていたが、半年も経過すればさすがにどこかおかしいと確信せざるを得なかった。
強欲の権能が関係しているのか。
僕自身に問題があるのか。
それとも、別の要因なのか。
原因を少しずつ探ろうとしたが、そもそも夢という実体の無いものを相手に探らないといけないわけであって。当然そんなのは無理ゲーに等しかったため、二年の時が経過した今はとっくに原因を探すことに諦めていた。
「…………………………」
──だと言うのに。
「見たことがある光景だなあッ!」
つい最近、『私だけの夢の世界だ』と言って、僕を強制的に招いた人物が存在する。
夢を見ることすらできない僕への当てつけのように。こうして私は夢がいつでも見れますよと嘲笑うかのように。
「良い機会だ。そっちがまた招いたのであれば、僕はそれ相応の態度をとらせてもらう。なに、僕は紳士であり慈悲深いんだ。茶会を荒らすような真似なんてもちろんしないとも。ただ聞きたいことを聞く、それだけのことだ。それは誰にでも持つ当然の権利だからね」
──その人物の名は、百合園セイア。
狐耳をぴょこぴょこ揺らしながら、勝手に話を締めくくり、『君は私のことをほぼ覚えていないだろう』と一方的に言い放った、実に罪深い少女だ。
「……やあ、よく来たね。ここは私の神秘が織り上げた、私だけの夢の世──」
初めて邂逅した時と同じように、涼しい顔でそう切り出したセイアの言葉を最初から最後まで完全に無視し、彼女が用意したであろう席に勢いよく腰を下ろした。
「!?」
想定していた展開と違ったのだろう。
セイアは狐耳をぴん、と直立させ、あからさまに動揺の色を浮かべる。
だが、そんな反応など気にも留めず、ソーサーの上に置かれていた紅茶のティーカップを手に取り、一切の乱れもない所作で、その中身を喉の奥へと流し込んだ。
「──君に問おう、百合園セイア」
「──……」
そして、カップを空にし、やや雑にソーサーへ戻し、真正面から彼女を射抜くように睨み据え、言葉を投げつける。
「どうしてこの僕に嘘をつき、心を弄ぶような真似をして、僕の権利の重篤な侵害を犯したのかな?」
どの嘘を指しているのか、あえて明言はしなかった……それでも、セイアは即座に理解した。
「…………」
沈黙の後、彼女はおもむろに袖で口元を隠し──
「──本当に、おもしれー男だね。君は」
おもしれー女が、そう断じるのだった。