お気に入り、評価付与、誤字報告に全ての感謝を……
──僕は、平穏が欲しいだけなんだ。
そう、本当にただそれだけ。
何かを欲張るわけじゃない。何かを奪いたいわけでもない。
ただ、静かに穏やかに、誰にも邪魔されず、好きな時に好きなことをして過ごせる生活。それがあれば、それで良かったんだ。
けれど、この世界はどうしてもそれを許してくれない。だからこそ、あの黒服が差し出した取引に、僕は乗らざるを得なかった。
黒服の背中を追いながら、僕は思考を巡らせる。
早く僕のための住みかを見せてほしい。日当たりが良くて、空気も綺麗で、騒がしくなくて……
そして、誰一人が攻め込んで来ないような場所。
そこでなら、この世界の喧騒を忘れて、ようやく僕自身の時間を取り戻せるかもしれない──そう、期待していた。
「──着きました」
黒服が足を止めた先にあったのは、重たそうな鋼の扉と、無機質な鉄の壁。薄暗い地下通路の奥に、それは静かに佇んでいた。
「……ここが?僕の住む場所だっていうのかい?」
僕は眉をひそめて黒服に詰め寄った。
理由としては、確かにここなら誰にも邪魔されないのかもしれないが、地下深くの場所よりも地上が好ましいから。
理由としては、何となくだがレグルスはこういう場所を毛嫌いしそうだからというのもある。
もしそれで強欲ムーブに支障をきたし、権能が発動できなくなったら『ノミ以下死亡エンドルート』に直行してしまう恐れがあるから。
昔の僕なら喜んだかもしれないが、今の僕はレグルスだから絶対にそんなルートは御免だ。
「君も見て分かる通り、日当たりなんてまるで期待できない。空気もじめっとしているし、壁から無機質な鉄の香りが漂ってくる。これが人間の健康に良いわけがないよね?僕の身体に何かあったら、君が責任を取ってくれるっていうのかい?まさか、こんな場所を住まいとして紹介してくるなんて、常識ってものが欠落しているとしか思えないな!」
「ここはあなたの家ではありません……我々、ゲマトリアのアジトです」
黒服は、お前は何を言っているんだという風にそう答えた。
分かってるよ。でもペラを回さないと死ぬんだよ僕。
「普通は真っ先に僕の家を見せるのが筋だろう?常識的に考えてもそうだ。何故僕が他人の根城なんてどうでもいい場所に連れてこられなきゃならないんだ。順序がどう考えてもおかしいよね?これはいくら温厚な僕でもちょっと無視できない問題だよ」
僕の非難を一通り受け流した黒服は「クク……」と意味ありげに笑いながら、重たい扉に手をかけた。
ぎい、と鈍い金属音と共に開かれたその扉の先──
そこには、既に複数の人影があった。
部屋は広い。けれど閉鎖的で、地下独特の圧迫感がある。空気は冷たく澱んでいて、吐く息までが冷たく感じてしまう。そして、中央の机を囲むように並んだ椅子。その幾つかに、異様な姿の者たちが座っていた。
──うわ、マジかよ。なんだこの集団。
思わず僕は目を細める。
まず目についたのは、タキシードを着た異形の存在。いや、存在と形容して良いのだろうか。
マネキンのような無機質な身体に、なんと頭が二つ付いている。その両方が無言のまま微妙に角度を変え、僕の方を見た気がした。
ギギギと軋むような音を立てて、静かに身じろぎするその姿は、まるで演奏会前の舞台袖に潜む亡霊のようなものだ。
優雅でいて、狂気を孕んでいる。あんなのが夜中に廊下を歩いてたら、僕は絶対に発狂する自信がある。
そして、次に僕の視界に映ったのは顔のない男だった。
身体の形は人間のはずなのに、そこにあるべき首がない。薄暗いベージュロングコートを纏い、片手にはステッキ。沈黙をまとったような佇まいが、逆に不気味さを増していた……が、より不可解なのは彼の手にある写真だった。
写真には、背を向けた男が写っている。シルクハットを被り、こちらに顔を見せないまま、写真の中に立っているだけなのに、その男の視線が、なぜか僕を貫いているように感じた。
……いや、あり得ないだろう。あれは単なる写真だ。
次に、こんなにも目を合わしたくないと思ったのは、妙に目立つ女性だった。長身でスラリとした肢体。黒髪は長く、肌は赤く、身に纏った白いドレスはまるで血の上に雪を振りまいたような不気味なコントラストだった。
それで……頭部が、毛玉?
いや、正確には目がぎっしりと詰まった羽毛のような何か。
小さな翼の集合体で構成されたそれは、まるで生きた塊のように見える。
しかし、どの目も僕を一斉に捉えているように感じられる。これを気持ち悪いと言わずして、何と言えばいいのだろうか?
「──ふう……」
なんなのこの連中。
こいつら……全員、人間じゃない。間違いなくそう断言できる。
人外だ。怪物だ。化け物だ。もはやどれだ。
僕は泣きたい気持ちでいっぱいになった。
「メンバーには既に連絡済みです。あなたが、ゲマトリアの新たな仲間になると」
黒服がそう言うと、全員の視線──いや、視線に似た何かが、僕に集中した。
「──は?勝手に決めつけるなよ黒服。そもそも僕はそんなつもりじゃなかったんだけど?君の『平穏を提供する』っていう言葉を信じて仕方なく来たんだ。それがどうして知らない連中の集まりに加えられることになるんだ。僕の意思を完全に無視するなんて、人の心をなんだと思っているわけ?」
僕の長々しい文句も黒服には通じず、黒服は涼しい顔で椅子を指差す。
「どうぞ、そこに座ってください」
「……はぁ、僕の意思は関係ないってことか。まったく、どこまでも僕の権利を蔑ろにする世界だね、ここは」
僕は、忌々しい視線を感じながらも、仕方なく空いている椅子に腰を下ろした。
……これ、平穏どころじゃなくないか?
僕は訝しんだ。
「……さて。まずは、互いに名乗り合うといたしましょうか」
黒服が穏やかな口調でそう言ったが、その声音はあまりにも静かで、逆に空気を張り詰めさせる。
「改めまして……我々はゲマトリア。ここキヴォトスで神秘に対して様々な角度から探究を行う者たちの集まりだと思っていただければ結構です。先程もレグルスには名乗りましたが、わたしの事は黒服、と呼んでいただければと」
黒服の言葉と共に、双頭のマネキンのような身体が動き、軋むような音が空間に響いた。
「私はマエストロと言う。神秘に対する私なりの解釈を形にし、それを芸術として昇華する。それが私の探究であり、喜びでもある」
マエストロはギギギと軋みを鳴らす。何故身体が木材で出来ていそうなのに喋れるのか疑問だ。
僕の脳内はその疑問で埋め尽くされていた。
マエストロが軋み終えると、今度は黒服の隣に座っている首のない男が無い口を開けて喋り出す。
「私はゴルコンダと申します。そして、私を支えてくれるこちらの身体が……」
ゴルコンダの支えるそれが、不意に声を発した。
「そういうこったァ!」
「──っ!??」
「デカルコマニーです」
「おい君、写真が喋る時点で驚きだけど、その身体も喋るなら事前にそう伝えておいてくれよ!か弱い僕が驚きすぎて失神でもしたらどう責任を取ってくれるわけ!?」
「……すみません。ただ、事前に伝える間など無かったと思うのですが」
「そういうこったァ!!」
「君はそれしか言えないのか!?」
顔がないから余計に不気味だ……
ゴルコンダはそのまま続ける。
「私は記号とテクストを鍵として、この世界が孕む無数の物語を読解することを目的としています。ここキヴォトスもまた、解釈すべき書物の一章。その頁を繰り、読み進めることが私の探究です」
さっきから言っていることが高度すぎて何一つ理解できない。ここのメンバーは僕を置いてけぼりにするのが好みなのだろうか。
いずれこういった知識もゲマトリアメンバーに教えられるのか?と、内心でそう考えていると──
「……気に入らないですね」
その冷ややかな声と共に、空気がぴたりと張り詰めた。
目が蠢く、禍々しい翼を顔に纏った異形の女が、まるで害虫を見るような視線で僕のことを睨みつける。扇子を広げる仕草は優雅だが、そこにこめられた悪意は隠しようもなかった。
「は?」
僕も対抗するように眉をひそめ、素っ気なく返す。
その瞳にあるのは軽蔑すら通り越した無関心。いきなり不機嫌を撒き散らす目の前の女に対して、呆れたように口角をわずかに吊り上げる。
「本当にレグルス・コルニアスをこちらに加えるのですか? どうにも、信用に値しないようにお見受けします。態度も、言動も、全てが癇に障ります。ああ……とても不快です。汚らわしい。受け入れるなど、私には到底、理解できません」
女は吐き捨てるように言い放った。
「……」
空気が一気に凍りつく。数秒の沈黙が、場にいる誰にも手出しできない重圧としてのしかかった。
しかし、そんな僕は少しも動じない。というか動じたら死ぬ。
むしろ興味を失ったように見せつけるために肩をすくめ、ふん、と鼻で笑った。
「君さぁ、初対面の男に向かっていきなりそんなこと言われても困るんだけど。僕はね、自分は完璧で、完成された人間だと思っている。それなのに僕のことを何も分からない君は、言動がどうとか、そんなことで他人を判断するのは傲慢だと思わない?そこのところ理解できるかな?」
その口ぶりは嘲るようでいて、どこまでも真顔だ。飾り気のない本音に満ちた言葉が、逆に場の緊張をさらに引き締める。
「……ふふ、なるほど。面白いことを言いますね。己の小さな自信に縋る男ほど厄介なものはありません。やはり、いつかどこかで躾けて差し上げないといけないようですね」
女の扇子がパチンと音を立てて閉じられる。怒りは静かに、だが確実に彼女の身体から立ち昇っていた。
「落ち着いてください、双方とも。私たちは敵ではなく、ゲマトリアの一員としての仲間になるのです。互いに刺激し合うのは止めた方が賢明かと」
その瞬間、ゴルコンダが割って入る。
椅子に深く腰を下ろしていたデカルコマニーに支えられたゴルコンダが、写真から声を発する。
顔は無いのにどこか落ち着いた所作のデカルコマニーが、ゴルコンダのその言葉に重みを加えていた。
その声は低く、よく響く。それだけで、張り詰めた空気が幾分和らいだ。
「レグルスはいずれキヴォトスに到来する色彩に対しての対抗戦力になるほどの神秘を秘めています。その強欲の人間性も評価して、ゲマトリアの人材として必要不可欠な存在になり得ます」
黒服が冷静な口調で付け加える。
資料を読み上げるように淡々としていながらも、その眼差しは女から放つ怒気を真っ向から受け止めていた。
それでも女は納得していない様子で、腰かけていた椅子から立ち上がる。
その後つま先を鳴らすと、ひらりと長衣を翻した。まるで何か汚らわしいものに触れたかのように。
「……気に入らないですね」
吐き捨てるように繰り返すと、彼女は誰にも背を向けてそのままアジトを出ていった。鋼の扉がバタンと閉まると、残された空間に、ただ無音だけが残った。
「ベアトリーチェがすまなかった」
そんな無音を打ち破ったのはマエストロだった。
やや気まずげに、マエストロが頭を下げる。申し訳なさそうな表情が双頭に浮かんでいる気がした。
「全くだよ。ただでさえこんなところに連れてこられて動揺しているのに、あんな態度だなんて、とてもじゃないけど初対面の人間にする対応とは思えない……それで、君たちが何をどう目指しているかは何となく聞いたけど、彼女は何をどのように目指しているのかな?」
僕は肩をすくめながらも、ふと遠くを見るような目をした。
今度は黒服がまた意味深にククッと短く笑いながら、先程ここから去ったあの女についての詳細を僕に語る。
「まず始めに、先程マエストロも口にしていましたが、彼女の名前はベアトリーチェと言います。私はマダムとも呼んでいますね……彼女は、自分が崇高へと至る道を模索しているのですよ。そうですね……例えばそれに向けての準備として、自身の領地や配下の生徒達を持つなどの手腕を持っています」
僕はその言葉にわずかに目を細めた。
──なんだあの女、内容を聞く限りでは中々の腕前の持ち主なのか? 配下の生徒達というのは気になるが……
そんな内心は冷笑と好奇の狭間で揺れたが、すぐに次の情報で打ち消された。
「同時に子供達は我々大人が搾取すべきものと強く思っていますがね」
くたばれベアトリーチェ。
心の奥底で、毒にも似た感情が静かに芽吹いた。
「……ここを立ち去った彼女以外、君たちのことはよく分かったよ」
そう言いながら、僕はゆっくりと立ち上がる。
「これだけ丁寧に話を聞かせてもらった以上、僕も礼を尽くさないといけないよね。丁寧に、自己紹介しないと」
その言葉に、ゴルコンダがわずかに首をかしげる。
「……あなたのことは既に、黒服よりある程度聞き及んでおりますが」
その口調はどこまでも丁寧であり、とても写真とは思えない。デカルコマニーは相変わらず頭から黒いモヤがゆらゆらと揺れている。
不気味だなやっぱりと内心で思い、僕は小さく肩をすくめて返す。
「ふうん、なら聞くまでもないって思うのかい?だとしたら、ちょっと心外だよ。情報っていうのは、語られる言葉よりも、その人自身の語り方が大事なんだ。僕が何者なのかを、他人の言葉で知るんじゃなくて、僕自身の声で伝える──それが僕という存在の意義でもあると思うんだよね」
「……なるほど。語りの形式そのものが、自身のテクストを構成する、と。面白い主張ですね」
ゴルコンダはよく分からない事を言いながら何か納得した。
「そういうこったァ!!!」
まじでそれしか言えないのかデカルコマニー。
一瞬だけ僕の視線はデカルコマニーに固定されるが、気を取り直すように全体を見渡し、僕は小さく笑みを浮かべた。
胸元に右手を添え、口からノミ以下の名を名乗る。
「僕の名前は、レグル──」
──そこで言葉が途切れる。内心にある感情が不意に顔を出す。
僕が唯一、レグルスを褒めるところとしたら。
『魔女教大罪司教強欲担当、レグルス・コルニアス』
この名乗り方だけは、唯一格別だと思った。
傲慢で、支離滅裂で、どこまでも自分勝手な男。
だが──この名乗りだけは、一度でいい、やってみたくなる美しさがあった。
──黒服との契約で、平穏な生活を手に入れるには、ゲマトリアに入る以外に道はない。ならば、どうせなら、僕は“ゲマトリアのレグルス・コルニアス”として、その様式美に倣って名乗ってみたい。
心にそう決めて、僕は再び周囲を見渡した。
黒服、マエストロ、ゴルコンダとデカルコマニー。
「いや、君たちの一員になるなら、こう名乗った方が良いかな?」
そして──堂々と、宣言する。
「ゲマトリア所属強欲の権化、レグルス・コルニアス」
静寂が降りた。
「──ふむ」
黒服はわずかに首をかしげ、どこか観察者めいた目を向ける。
「形式に則りながらも、語りの主体性を維持する……実に興味深い試みですね。素晴らしい名乗り方です……!」
黒服に続けて、マエストロは双頭をカタカタと揺らし、どこか楽しそうに言う。
「強欲が単なる衝動ではなく、自我の明確な定義になるとするならば──なるほど、それも一つの芸術というわけか」
そんなマエストロにゴルコンダも続く。
「名乗りとは、自己を言語化する第一のテクスト。作品の始まりとして、相応しいと思います……なるほど、我々も名乗り方を改めても良いかもしれないですね」
ゴルコンダがそう言った直後に──
「そういうこったァ!」
と、デカルコマニーが大声で肯定した。
「私が名乗るとするならば、観察の権化でしょうか……いや、探求の権化も捨てがたいですね……」
「ならば私は、芸術の権化と名乗ろう」
「ふむ……我々だと何の権化になるのでしょうか?」
「そういうこった、そういうこったァ!!!!」
ゲマトリアのメンバーがノリノリで名乗り方を考え始めた。その場で思い付いたものを口にしただけで普通ここまで真剣に考え出すものだろうか。
そんな光景を見た僕は、小声で呟いた。
「……案外ノリが良い人達なのか?」
ベアトリーチェ以外は。
あの女はいつか絶対に痛い目に遭わす。