ゲマトリア所属の強欲の権化   作:ぬこぱんち

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「僕さ、君に言ったよね?人だろうが動物だろうが、互いに歩み寄ってこそ平穏は成立する。そうやって少しずつ関係性を積み重ねていくことで、世の中というものは今よりもっと穏やかで、生きやすい場所になっていくってさ……それなのに、君が実際にしたことは何だった?こんな人気のない森の奥深くまで僕を連れ回して、意味も分からない建物の前に立たせた挙げ句、結果的に僕に不法侵入みたいな犯罪行為までさせたんだよね。しかもそれだけじゃない。君は最終的に、僕の心身を傷付けるような真似までした。たとえ小動物だったとしても、たとえ悪意のない無意識の行動だったとしても、結果として他者を巻き込んで被害を発生させた時点で、そこには責任が伴うんだよ。そんなこと、わざわざ僕が教えなくても分かる話だと思うんだよね──僕はただ平穏を望んでいただけなんだ。誰にも迷惑をかけず、誰からも侵害されず、静かに生きていたかっただけなんだ。それを君は、善意みたいな顔をしながら全部ぶち壊した。つまりこれは、他者の権利の侵害だ。完璧で完成された存在である僕の権利の侵害だ!」

 

「──」

 

「その愛くるしい瞳で僕を見る前に、君の答えを聞かせろよ!」

 

 無茶を言うな。何度も言うが相手はシマエナガだぞ。

 

 ベッドで眠り続けているセイアの存在などお構いなしに、レグルスはシマエナガへ本気で説教をしていた。

 

 今ここにレグルス以外の誰かが居れば、シマエナガ相手に怒鳴っている哀れな大人だと思われるに違いないだろう。

 

『クッハッハぁ!レグルスさんは頭の面白い人ですねえ!』

 

 ──などと、黒服なら手を叩いて爆笑するかもしれない。

 

 もしそうなれば、黒服には大気圏まで吹き飛ばされる気持ちを味わってもらうことになるが。

 

「……はぁ」

 

 レグルスは頭へ手を当てる。

 

 ──シマエナガ相手に、僕は何を言っているんだ。

 

 内容こそ違えど、つい先程も似たようなことをしていた気がする……その既視感に、レグルスは自分自身へ呆れてしまった。

 

「馬鹿馬鹿しい。僕は帰らせてもらうよ。そもそもとして、君に期待したこと自体が間違いだったんだよね。僕が勝手に、君なら幸せでも運んできてくれるんじゃないかって決めつけて、僕が勝手にその後ろを着いて行ってしまった……だからまあ、責任を全部君だけに押し付けるつもりはないよ。確かに君にも非はある。けど同時に、軽率に期待した僕にも非がある。だったら今回の件は、お互い様ってことにしておこうじゃないか。互いの罪を帳消しにして、ここで終わりにする。それが最も平穏的で建設的だと思うんだよね。それじゃあ僕は、この場をさっさと離れ──おいッ!僕の鼻に向かって体当たりするのを止めてくれないかなあ!?分かった、分かったよ!帰らないから体当たりするのを止めろッ!」

 

 帰るなバカと言わんばかりに、シマエナガは小さな身体で懸命にレグルスへ体当たりを繰り返す。しかも、狙う場所は決まって鼻だ。

 

 そのあまりにも的確な突撃に、レグルスはほんの少しだけ悪意すら感じてしまう。

 

 シマエナガ自身はそんなこと微塵も意識していないのかもしれない。ただ純粋に、帰ってほしくない一心でぶつかっているだけなのかもしれない。

 

 ……しかし、レグルスが権能を発動していなければ、今頃その鼻は真っ赤に染め上げられていたに違いない。

 

 やっぱり悪意しかないだろ。

 

「はあ……さっきも言ったと思うけど、こんなものを見せて、僕に何をどうしてほしいってわけ?僕に出来ることなんて何もないし、するつもりもないんだけど」

 

 そう口では突き放しながらも、レグルスはゆっくりと入口の扉へ歩み寄り、内側から鍵を掛けた。シマエナガに対して、今すぐ帰るつもりはないという半ば呆れ混じりの意思表示だったのかもしれない。

 

 もっとも、状況だけを見れば完全に不法侵入であるし、誰かに見つかれば即座に通報されても文句は言えないだろう。

 

 ──だが、今は深夜だ。

 

 キヴォトス中の生徒たちはもちろん、ロボットや獣人たちですら、それぞれ夢の世界へ旅立っている時間帯のはず。ゆえに、このタイミングで誰かがここへ訪れる可能性は、ほとんど皆無に等しかった。

 

「……」

 

 入り口の扉から離れたレグルスは、規則正しい寝息だけが静かに響く室内へ視線を向ける。

 

 大声で騒がれても目覚める気配はなく、身動き一つ取らないまま、セイアはただベッドへ横たわっていた。まるで本当に、世界そのものから切り離されてしまったかのように。

 

 レグルスはそんな彼女の元へ、ゆっくりと歩み寄っていく。

 

「──君は今もなお、明晰夢とやらであちこちを彷徨っているというのかな?権利の侵害をしておいて良い身分だよね、ほんと」

 

 ベッドの傍に立て掛けられていた折り畳み椅子を、レグルスは勝手に拝借する。

 

 内心で無断で借りてすまないねと思いつつも、そのままセイアの顔がよく見える位置まで移動し、遠慮なく腰を下ろした。

 

 ──不法侵入しておいて、そのうえ人の私物を勝手に借りるとか、どんな神経をしているわけ?それって相手の権利を侵害しているってことだよね?

 

 不法侵入した挙げ句、人の所有物まで無断で使用している時点で、言い逃れのしようもない権利の侵害をしたからか、レグルスの中のイマジナリーレグルスが直接脳内に語りかけてくる。

 

 なぜ、レグルスがレグルス構文でレグルスから権利の侵害について説教されなければならないという状況に陥るのだろうか。

 

 レグルスはこの状況に頭を抱えたくなりながら、脳内で騒ぎ続けるレグルスに対し、さっさと消えて二度と現れるなと切実に思う。

 

「……」

 

 ──脳内でギャーギャーと叫びまくるイマジナリーレグルスを消滅させたところで、再度、ベッドに横たわるセイアの顔を眺める。

 

「……夢の中だと遠慮なしにペラペラ喋りまくる君が、こうして現実となれば黙りこんでいるだなんて、笑っちゃうよね」

 

 ──こうして幾度となく顔を合わせてきたというのに、ここまで静かな彼女を見るのはこれが初めてだった。

 

 就寝したと思えば、訳も分からぬまま夢の世界へ引きずり込まれ、非現実的すぎる現象を前に困惑していようともお構いなしに、一方的にこちらへ干渉し、レグルスの権利を何度も何度も侵害し続けてきた、命知らずにも程があるトリニティの生徒。

 

 キヴォトスを歩けば、気付けば異常事態へ巻き込まれ、不良生徒にほぼ毎日のように襲われながらも、それでも平穏だけを望み続けてきた人生を勝手に覗き込み──挙げ句には、それを『地獄の上映会』などと呼び始めた鬼畜極まりない少女。

 

 ──回数だけで言えば、間違いなく、百合園セイアこそがレグルスの権利を最も侵害してきた存在なのだ。

 

「何回、何十回、何百回と……君はあと何回、僕の権利の侵害をするつもりなのかな?」

 

 こちらが眠るたびに夢の世界へ招いてくる時点で十分異常だと思っているのに、それだけでは終わらなかった。セイアの口からは、毎回マシンガンのように話題が次から次へと飛び出してくるのだ。

 

 明晰夢でこんなものを見たと言っては、わりとどうでもいい内容を延々と語り続けたり。

 

 隙さえあればゲマトリアについて聞き出そうとしたり。

 

 ──一体、どこにそんな会話の引き出しを隠し持っているのか。

 

 レグルスは何度も内心でドン引きし、何度もげんなりしながら、その話に付き合わされてきた。

 

 それでも途中で投げ出さず、聞き役に徹してやっていたのだから、むしろこちらの寛大さに感謝してほしいとすら思った。少なくともレグルスの認識では、それは感謝されて然るべき善行だったのだ。

 

「人のプライベートに遠慮なく踏み込んできて、こちらの都合なんて一切考えない。それなのに、自分の要求だけはしっかり満たして満足する……君は、それで気が済んだのかな?細やかで平凡な幸福だけが望みである、無欲な僕に対する権利の侵害をして、そうまでして自分の願望を押し通して、君は一人で満足して喜ぶことが出来たのかな?」 

 

 ──セイアは、答えない。

 

 レグルスがどれだけ権利の侵害を訴えようと。どれだけ不満をぶちまけようと。

 

「喜んでいたとしたら、君はとんでもない生徒だ。普通、人間というものは多少なりとも遠慮というものを覚えるはずなんだよ。相手の都合を考えるとか、迷惑になるかもしれないと想像するとか、そういう当たり前の配慮をね。それなのに君は違った。僕が困惑していようが、呆れていようが、帰りたいと思っていようがお構いなしだった。次から次へと話を持ち出してきて、その度に僕は巻き込まれたんだ。本当に迷惑だったよ。迷惑以外の何物でもなかった。眠れば呼び出されるし、放っておけば勝手に話し始めるし、しかも話題の大半が君しか得をしていない。僕からすれば理不尽そのものであり、権利の侵害だッ!何度でも言わせてもらうよ、これは悪質すぎる権利の侵害だと思うんだよねッ!!」

 

 レグルスは権利の侵害を訴え続ける。黙って聞いている相手なら反論も出来ないだろうとでも言わんばかりに。

 

「……」

 

 ──だが、セイアが答えることはない。

 

 声を荒げても、声を潜めても、あるいは沈黙しても。ベッドへ横たわる少女は微動だにせず、規則正しい寝息だけを繰り返す。

 

「────…………」

 

 そこでようやく、レグルスは言葉を止め、静寂だけが室内を満たす。

 

「……………………………はぁ」

 

 眠り続ける少女の寝息だけが微かに聞こえる中、レグルスは小さく肩を竦めた。

 

「……?」

 

 ──そこでふと、右肩にかすかな気配を感じた。

 

 気配を感じ取ったレグルスがそちらへ視線を向けると、先ほどまで鼻へ執拗に体当たりを繰り返していたシマエナガが、いつの間にか肩の上へちょこんと乗っているではありませんか。

 

「おいおいおいおいおいおい」

 

 ──このシマエナガ、レグルスの神経を逆撫でしかねないことばっかしてくるな。『僕』が『レグルス・コルニアス』じゃなくて良かったと感謝するべきなのではないか?

 

 レグルスがレグルスじゃなくて良かったと思うと同時に、レグルスではないレグルスに対して感謝するようにとレグルスがシマエナガに求めるという、わけの分からない思考が頭を過る。

 

「──」

 

 こちらは軽いゲシュタルト崩壊が起きていたというのに、シマエナガはそんなレグルスのことなど意にも介していない様子だった。

 

 こちらに顔を向けてくるわけでもなく、どこか明後日の方向を見るわけでもなく……ただただ、小さな身体を揺らしながら、眠っているセイアの顔をじっと見つめ続けている。

 

 最初はあれほど自分へ体当たりを繰り返していたというのに。興味がなくなった途端、今度は勝手に肩を借りて居座るだなんて、烏滸がましいにも程があるんじゃないの?

 

 ──と、思っていたのだが。

 

「……ああ、そうか。それもそうだよね」

 

 ──シマエナガが何を考えているのかなど分かるはずもないのに、それでもレグルスは、勝手にその気持ちを解釈し、勝手に納得していた。

 

「僕にとってはさ、権利の侵害を散々繰り返された挙げ句、何の説明も無く一方的に関係を断ち切られたことへの不満があるんだよね。毎日のように勝手に現れては僕の平穏を乱して、好きなだけ話して、好きなだけ振り回しておいて……ある日突然、何も言わずに居なくなる。なかなかに酷い話だと思うよね?そして君は君で、日頃から構ってもらっていた相手に、急に構ってもらえなくなったことへの不満を抱いている。理由は違うし、立場も違うけれど、根っこの部分だけ見れば、今の僕たちの心境は全く同じなんだよね。だから、君の気持ちは隅々まで分かる。僕だからこそ、理解も出来るというわけだ」

 

 ──きっと、このシマエナガも待ち続けているんだろう。

 

 たとえ一羽の小鳥であったとしても、人間と同じように命を持つ生き物だ。

 

 ずっと当たり前のように傍に居てくれた相手が、ある日を境に突然眠り続け、二度と目を覚まさなくなったとしたら、何も思わないはずがない。

 

 不満でも、寂しさでも、怒りでも──その胸に何らかの感情を抱くのは、ごく自然なことだ。

 

 そしてそれは、誰にも侵害されるべきではない当然の権利でもある。

 

「君は、僕たちの権利の重篤な侵害を続けている事を早急に理解するべきだ」

 

「──」

 

「ほら、シマエナガもそう言っているじゃないか」

 

「……」

 

「────…………ふう」

 

 ──ああ、駄目だ。

 

 そもそもシマエナガは喋らない。喋るはずがない。百歩譲って鳴き声を上げることはあっても、『権利の重篤な侵害』だなどという、『レグルス・コルニアス』以外の誰が口にするのかも怪しい言葉を発するわけがない。

 

 それなのに、当然のように代弁した。まるでシマエナガが自分に同意しているのだと疑いもせずに。

 

「…………………………」

 

 ──本当に、意味が分からない。

 

『こればかりは私に非があると言わざるを得ない。逃げようとしても明晰夢が私を逃がしてはくれなかったんだ。まるで、君という存在を知ること自体を禁ずるかのように、夢そのものが制裁を加えると言わんばかりに私を縛りつけていたんだ。まったく、皮肉な話だと思わないかい?』

 

 ──なにが皮肉な話だ。

 

 僕という存在に接触し、何度も何度も夢を通して『レグルス・コルニアス』という存在を知っていったくせに。何が知ることを禁じられていただ、何が縛りつけられていただ。

 

 本当は最初から、そんなもの存在しなかったんじゃないか。

 

 ただ君が見たかったから見ただけで、知りたかったから知っただけで、結果として僕に干渉し続けただけじゃないか。

 

『改めて考えてみれば、私はこうして君をこの場所に招いておきながら、いつも一方的に語ってばかりだった。それでは、あまりにも不均衡ではないかとずっと思っていたんだ。私は明晰夢を通して君を観測したに過ぎない。断片的な事実や出来事は知っていても、その内側……君がどう受け取り、どう解釈したのかまでは、何ひとつ知らないままだ。だからこそ、良い機会だと思った。私の知らない君の経験を、君自身の言葉で聞いてみたいとね』

 

 ──なぜ執拗に僕へ関わり続けた?

 

 なんの意図があって、その選択をした?偶然見つけた接点を利用してまで、なぜそこまで『レグルス・コルニアス』を知りたいと思った?

 

 ……理解できない。理解できないからこそ、不愉快だった。

 

 その疑問に答えが与えられないまま、さらに別の記憶が脳裏をよぎる。

 

『……………君が、死んでいる事になっているだって?訳が分からない、何をどうしたらそんな事になるのかな?説明を求むよ、百合園セイア』

 

『詳しくは言えない、私の元に来た彼女のためにも……私からはそう答えるしかないが、安心してほしい。私は生きているよ、美人なナースに介抱されながらね』

 

 ──はたしてそれは、本当に生きていると言えるのだろうか。

 

 世間から忘れ去られたわけではないのだろう。肉体も生きているのだろう。詳しく説明できない事情があり、その神秘が明晰夢を生み出しているのだという理屈も理解はしている。

 

 だから、いつかは目を覚ますのだろうとも思う。勝手に、何事もなかったかのように。

 

 ──だが、その『いつか』とは、いつだ?

 

 明日か。一週間後か。一年後か。十年後か?

 

 ……誰にも分からない。目覚める保証はどこにもない。

 

「──ふざけてるのかな?」

 

 そんな不確定要素をぶら下げておいて、権利の侵害を何度も何度もしておいて……自分だけは仕方がないと割り切った顔で、夢の世界に閉じ籠り続けるつもりなのだろうか。

 

「──僕を、馬鹿にしているのかなあ?」

 

 許していいはずがない。赦されるはずがない。責任を取るべきだ。取らせるべきだ。

 

 文字通り、『夢』を見せてしまったのだから。『レグルス・コルニアス』という存在を知ってしまったのだから。

 

 ──ならば、その責任を負うべきだ。

 

「……絶対に、確実に、何としてでも、どんな手段を用いてでも」

 

 客観的に見れば理不尽だろう。横暴であるし、無茶苦茶でもある。セイアからすれば、到底受け入れられる話ではないかもしれない。

 

 ……だが、それがどうした。

 

 そんなことは関係ない。理屈も道理も知ったことではない。彼女がどう思うかなど問題ではない。

 

 ──『レグルス・コルニアス』が納得していない。

 

 ただ、それだけで十分だった。

 

「必ず君を──」

 

 結局のところこの男は、大人げなく、救いようもなく、そしてどうしようもないほどに。

 

「──引きずり出してやる」

 

 ──強欲の権化なのだ。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

 ──やはり私は、『選択』を間違えたのだろう。

 

 迷い込んだ場所がアリウス自治区だと理解した瞬間、早急にその場から離れるべきだった。

 

 ロクでもない祭壇を視認した刹那、その場から逃げ出すべきだった。

 

 ──そう、みっともなくても良かったのだ。

 

 無様でも良かった。誇りなど投げ捨てて、這いずるようにその場を離れるべきだった。

 

 例え得られる情報が僅かだったとしても。例え何一つ真相に辿り着けなかったとしても。生きて帰りさえすれば、それを誰かへ伝えることができたのだから。

 

 だが、私は立ち止まった。理解したいと思ってしまった。

 

 目の前にある異質な祭壇の正体を。ベアトリーチェが目指すものを。ゲマトリアが抱く崇高の意味を。

 

 その答えに手を伸ばそうとしてしまった。

 

 ──そして、その代償がこれだ。

 

 情報を持ち帰ることもできない。誰かへ警告することもできない。先生に伝えることもできない。私に残されていた最後の役割すら、果たせなかった。ただ好奇心に足を止められ、結果として全てを失った。

 

 それが、百合園セイアという生徒が選んだ結末だった。

 

「──私は……」

 

 言葉は続かなかった。続けようとしても、その先に置くべき言葉が見つからない。

 

 ──本当に、失敗した。

 

 そんな単純な言葉では、この状況を表せない気がした。ただ一つ確かなのは、私はもう誰にも届かない場所へ来てしまったということだけだった。

 

「…………」

 

 ──そこに広がっていたのは、どこまでも続く闇だった。夜ですらない。

 

 夜ならば月がある。星がある。遠くに街の灯りがある……だが、ここには何もない。

 

 色という概念そのものが消え失せたかのような、完全なる暗黒。光もなければ影もない。見えているはずなのに、何も見えない。

 

 とてもじゃないが、夢とは思えない異質な空間だった。

 

「……深淵、か」

 

 ぽつりと零した声は、反響しなかった。吸い込まれるように消えてしまう。まるで世界そのものが、音の存在すら拒絶しているようだった。

 

「──」

 

 一歩、前へ進む。床があるのかも分からない。

 

 だが、不思議と足だけは沈まない。

 

 二歩、三歩と、ただ歩く。歩くしかなかった。

 

 立ち止まったところで何も変わらない。

 

 振り返ったところで出口などない。

 

 進んだ先に何かがある保証もない。

 

 ──それでも歩く。なぜなら、他に選択肢が存在しないからだ。

 

 選択を間違えたというのに、どの口が言っているのだろうか。情けなさすぎて、反吐が出る。

 

「…………」

 

 どれほど歩いただろうか。

 

 十分か、一時間か、あるいは一日か……もしくは、一年か?

 

 時間の感覚は失われていた。夢であれば流れるはずの景色もない。眠りであれば訪れるはずの覚醒もない。

 

 ここはレム睡眠でもなければ、ノンレム睡眠でもない。ベアトリーチェが語った通り、それ以上の……そのどちらからも切り離された場所。

 

 ──意識だけを閉じ込めるために存在する牢獄。永遠という概念を形にしたような世界だった。

 

「────」

 

 足を動かす、動かし続ける、何も見えない、何も聞こえない──そう、何も感じない。

 

 ……自分が本当に歩いているのかさえ怪しくなってくる。それでも歩き続けて、歩き続けて──

 

「──っ!?」

 

 不意に足がもつれる。

 

 何かに躓いた訳ではない。ただ、身体が歩くことを忘れてしまったかのように。受け身を取る間もなく、そのまま地面へ倒れ込むのだ。

 

「うぐっ……!」

 

 鈍い衝撃。けれど痛みは薄い。今はそれが、逆に恐ろしかった。

 

「──私は……」

 

 ……本当に、何がしたかったのだろうか。

 

 未来を変える方法を知りたかっただけだろうか?誰も知らない真実を手に入れて、それを伝えたかっただけだろうか?あるいは、自分にしかできない何かを成し遂げたかったのだろうか?

 

 答えは出ない。思考は濁った水のように渦を巻き、行き場を失ったまま沈み続ける。

 

 ──その中でふと、これまでの自分を振り返った。

 

 あの日、暗殺未遂が起きてから私はほとんど目覚めることがなくなった……たった一度を除いて。

 

 現実と夢の境界は曖昧になり、明晰夢の世界を彷徨いながら、過去や未来を断片的に観測し続けていた。

 

 まるで自分だけが時間の外側へ取り残されたかのように。誰にも届かない場所から、ただ世界を見つめ続けていた。

 

 ──そうだ。

 

 その途中からだった。『地獄の上映会』が始まったのは。

 

 理不尽で。騒がしくて。こちらが思わず呆れてしまうほど、目を背けたかった上映だったというのに……どういうわけか目を離せなかった。

 

 強欲を叫びながら平穏を求める、意味の分からない男。

 

 未来を観測することすら日常になっていた私にとって、その存在だけは予測不能だった。

 

 ──そして、私は。

 

「──」

 

 気付けば、未来を探していたはずなのに。ゲマトリアを知ろうとしていたはずなのに。崇高の正体を追っていたはずなのに。

 

 いつの間にか、あの男と話をすることそのものを当たり前のように受け入れていたのだ。

 

 それは、初めて夢の世界へ長く留まることができる存在だったからなのだろうか。

 

 あるいは、生徒たちの敵であるゲマトリアについて知るため、打算的な理由で関わり続けていたからなのだろうか。

 

 ──分からない。何も、分からない。

 

「……ふふっ」

 

 不意に、小さな笑みが零れた。こんな状況だというのに。

 

「君が知ったら、きっと権利の侵害だと怒るのだろうね」

 

 ……返事はない。それも当然だ。

 

 ここは夢ですらない深淵の底。意識だけが沈み続ける、終わりのない海。

 

 もう誰の声も届かない。誰にも届くことはない。

 

「……先生にも、迷惑をかけ、心配させてしまう。最も、私のことをおぼえているかどうかは定かではないが」

 

 ──せめて、彼にもほんの少しでもアリウスのことを伝えたかった。祭壇のことを。ベアトリーチェのことを……そして、まだ見ぬ破滅の未来についても。

 

「……」

 

 何一つ伝えられなかった。何一つ残せなかった。

 

 預言の大天使などと呼ばれていても、未来を見通すことができても、その未来を届けられなければ、何の意味もない。

 

「レグルス…………先生──」

 

 ──そう大人たちの名を呼んでも、セイアを助けてくれる保証はない。自分勝手で身勝手な生徒のことを、誰が助けるというのだろうか。

 

「──本当に、私は無様だね」

 

 最期になるかもしれないその言葉は、深淵の底へ落ちていき。誰にも聞かれることなく、静かに消えていく──

 

「おいおい、今までの君はどこにいったわけ?君の口から『無様』なんて単語が飛び出してくるだなんて、さすがの僕も予想していなかったんだけど」

 

 ──そんなシナリオは、木っ端微塵に砕かれてしまった。

 

「───────────ぇ」

 

 思考が止まる。呼吸が止まる。心臓だけが、あり得ないほど強く脈打った。

 

 ──聞き間違えるはずがない。忘れるはずがない。もう何度も聞いてきて、今だけはどうしようもなく聞きたくないようで、聞きたかった声。

 

「僕を差し置いて、君は一人で何してるのかな?散々こちらの都合を無視して踏み込んできた挙げ句、自分が好きな時に現れて、自分が好きな時に去っていく。あまりにも理不尽じゃない?今の僕には、正当な理由を聞く権利があると思うんだよね」

 

 ──あり得ない。そんな都合の良いことがあるはずがない。

 

 ここは深淵の底だ、誰も辿り着けない場所だ。だからこそ、理解していた。理解していたはずだったのに……目の前に広がる光景は、その理解を容赦なく踏み潰してくる。

 

「──な」

 

「な?」

 

「──な、なんで……!?どうやって……!?」

 

 言いたいことは山ほどあるのに、出てきた言葉は短い疑問のみ。いつものように難解な言葉遊びを交えた、小難しく遠回しな台詞を口にすることは出来ず、心情は相変わらずグチャグチャと掻き乱されたままだ。

 

「はあ?なんでもなにも──」

 

 君は何を言っているんだ?と、そう言わんばかりの視線を向け──

 

「──君が僕をこうして招いたんだろ。今まで散々無視してきたのにさ」

 

「─────────」

 

 ──さらに、セイア心情をグチャグチャと掻き乱して抉る。

 

 ……ここは、いつもの夢の世界ではない。

 

 セイアの意思で誰かを招くことも、誰かが応じて訪れることもできない場所だ。少なくとも、そう信じていた。

 

 だからこそ、目の前の光景が理解できない。仮に、レグルスがここへ辿り着いたのだとしたら、それは彼自身が何らかの手段を用いて、この深淵へ干渉したということになる。

 

 そこまでは、半ば強引にでも理屈を組み立てられる。

 

 ──しかし、問題はそこではない。

 

「──嘘、だろう……?」

 

「はっ?嘘?僕が嘘をつくわけがないよね?君は僕のことを馬鹿にしてるのかなあ!?」

 

 そういうことじゃないレグルス。セイアは、百合園セイアは──

 

「────」

 

 ──こんな状況でも、無意識にレグルスを招こうとしていた……ということに、嘘だと言っているのだ。

 

「こうして呼ばれたから君の元に来たというのに、その結果が、嘘つき呼ばわりされた挙げ句、馬鹿にされることだなんて思わなかったよ。本当に君は、僕の権利を何回侵害すれば気が済むわけ?僕は誠実に応じた。 君の呼びかけを無視することなく、こうしてちゃんと姿を見せた。それなのに返ってくるのは疑念と中傷ばかり。あまりにも理不尽だと思わないかな?……はあ。まあ、いいよ。本来なら一つ一つ丁寧に追及して、どれだけ不当な扱いを受けたのか説明してあげてもいいんだけどね。今はそれよりも気になることがある。だから今回は特別だ。特別に許してあげようじゃないか」

 

 言葉を失うセイアなど意にも介さず、レグルスは一方的に言葉を重ねていく。

 

 そして、自分が聞きたいことだけを遠慮なく問い掛けたるのだ。どこまでも身勝手な男なのだから。

 

「いつものあの場所はどうしたわけ?何で君はこんな場所に居るわけ?」

 

「──そ、れは……明晰夢で、君の仲間である、ベアトリーチェに接触して……いつものようにあの世界を構築しようとしても出来ずに……こんな場所まで……」

 

「は?ベアトリーチェ?なに、あの醜悪な存在でしかないクソバカゴミカス女に君は会ったわけ?他のゲマトリアの奴らならともかく、何であいつに関わろうと思ったのかなあ?あいつに関わるのは金輪際止めた方が良いよ。それが世界のためだからさ」

 

 クソバカゴミカスなベアトリーチェの名前を耳にした瞬間、レグルスの顔が露骨に歪む。

 

 まるで不快なものでも見せられたかのような表情だ。その反応だけで、レグルスがどれほどあの女を毛嫌いしているのか理解できる。

 

「口に出すのも嫌なんだけど、そのベアトリーチェが余計な真似をして、君をこんな場所まで追いやったことは何となく理解したよ。今後、本格的にあの女の処遇を決めないといけないと思っているんだけど──」

 

 そう言いながら、レグルスは不意にセイアから視線を外した。

 

 ……その先にあるものは、彼がこの場所へ来てからずっと気に留めていたもの。

 

 深淵という異質な空間に意識を囚われていたためか、セイアには認識できていなかった存在。

 

「──ベアトリーチェは、君に対してあんな置き土産でもしたのかな?」

 

「置き土産?……っ!?」

 

 セイアはレグルスの視線を追い、そしてその先にあるものを目にした瞬間──言葉を失った。

 

 ──それは、いつの日からか、セイアが何度か感じたことがあった、あの視線。

 

 一点に定まらず、しかし確実にこちらへと向けられている視線。焦点を結ばない濁った何かが、空間そのものに滲み出し、皮膚の裏側をなぞるようにまとわりついてくるもの。

 

 呼吸の深さ、心拍の間隔、瞳孔の開き。そうした些細な反応一つ一つを、意味もなく、執拗に拾い上げられているあの感覚──

 

「──私が感じていたのは……!間違いない、『アレ』だ……!」

 

 ──『ソレ』だ。

 

 『ソレ』が、こちらを見ていた。

 

「一人で勝手に納得しないでくれるかな?僕は『アレ』が何なのかと聞いているんだけど?」

 

「……私にも分からないんだ。ただ、これだけは言える。『アレ』は、彼女の置き土産でもなんでもない」

 

「じゃあ何だと言うんだよ君は」

 

「──私が……感じているのは、そう、そうだ……!私が『アレ』を見て感じたのは『恐怖』そのもの──」

 

『──────────』

 

「……?…………っ!?!?おいおいおい!?なんでこっちに近付いてくるわけ!?」

 

 セイアの言葉に反応したのか、それともまったく別の理由があったのか。理由は全く分からない。

 

 ──だが、『ソレ』は動いた。

 

 ゆっくりと、まるで獲物を追い詰める捕食者のように、レグルスとセイアのもとへ距離を詰め始める。

 

「な、なぜ……!?今までは近付いてくる気配なんて──」

 

「そんなことはどうでも良いし、問題はそこじゃないだろ!?僕は君に呼ばれてこんなところに来たけどさあ!こんな何もない空間に長時間居座る趣味もないんだ!君が責任とってこの場をなんとかするべきじゃないの!?」

 

 セイアの両肩をガシッと掴み、すごい形相で何とかしろと迫るレグルス。

 

 強欲の権能があるのだから、さっさと権能をもって『ソレ』を滅せれば良いのだが……。

 

 ──動揺しているからなのか、または全く別の要因なのか。どういうわけか、レグルスは『ソレ』に対して()()()()()()という選択肢をとった。

 

「……っ、そんな事言ったって、今の私の神秘は何も応えてくれな──」

 

 セイアは、レグルスを招く仮定で、何度も何度も夢の世界を織り上げようとしたことで、脱出を試みているのだ。

 

 しかしその度に、何も反応してくれない己の神秘を何度恨んだことか。いつもの明晰夢とは違う場所だからか分からないが、神秘は何も反応が示さなかった。

 

「……!?織り上げれる……!なぜ……!?」

 

 ──しかしそれは、権能を前にしては無意味となる。

 

 レグルスは別に意識していなかったが、セイアの両肩に触れることで、セイアの身体は何のデバフも受け付けない状態となった。

 

 この深淵に、どんな制限があろうと、制約があろうと……世界から切り離された存在に、世界の法則は届かない。

 

 それこそが強欲の権能。理不尽そのものを形にしたような力だった。

 

「何でも良いから早くしてくれないかなあ!?僕も君も、こんな場所に長居したくない気持ちは一緒なはずなんだからさあッ!」

 

「──わ、分かった!……念のため、そのまま私の肩に捕まっていてくれ……!」

 

 ──応えろ神秘。私は、『レグルス・コルニアス』を夢の世界に招くッ!!

 

 その強い意思に呼応するように、神秘が脈動した。

 

 今まで何一つ反応を示さなかった力が、堰を切った濁流のように溢れ出す。

 

 溢れ出した神秘は二人を包み込み、深淵の底へではなく、深淵の外へと脱出するのだった。

 

 

 

 

 

 ◆

 

 

 

 

 

『──』

 

 ──それは、視点と呼んで良いものだろうか。

 

 あるいは、視点という概念を借りて、仮にそう置かれているだけの何かなのだろうのか。

 

 境界は存在しない、内と外の区別もない。距離も、広がりも、奥行きも、本来は意味を持たないはずの場所に、『ソレ』が存在していた。存在している、と解釈していいのかすら曖昧だ。

 

 なぜならば、気づけば『ソレ』はまた存在していたのだから。

 

『────』

 

 相変わらず、中心には理解を拒む欠落があった。

 

 何も映していない、空白の部分。ただ、そこに虚無という事実だけが、異様な重みをもって鎮座していた。その周囲を縁取るように、名づけようのない輝きが滲み、揺らぎ、静止していた。

 

『──────』

 

 ──しかし、『ソレ』はまた見ていた。

 

 深淵の中を落下していく、()()の意識を確かに見ていた。

 

 感情も、 意思も、目的も、明確な指向性も皆無で、ただ在るままに在り続ける存在……そのはずなのに。

 

『─●●──●─●●─』

 

 その()()の意識に対して──

 

『──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────』

 

 ──■■(●●●●)は、熱を帯びているような気がした。

 





文字伏せがほぼ機能していないに等しいですが、あくまでレグルスとセイア視点では不明な存在ではあるので、文字伏せを使用しています。

最後の状況について、『まるで意味が分からんぞッ!』の方のために、少しだけ下の方に補足しておきます。

興味がある方だけでも、スクロールしていただけたらと思います!











































 ■■(●●●●)➡➡➡➡➡➡➡➡➡➡➡➡➡➡➡➡➡レグルス

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