「……私は、本当に目覚めることができたのか」
「まだ君はここが夢の世界だと疑ってるのかな?正真正銘、ここは現実世界で、君が間抜けな顔をしながら長々と寝ていた場所である隠れ家だよ」
「レディーの寝顔を間抜けな顔と評するとは……君も大概、言わなくてもいい一言まで律儀に口にするものだね」
地平線から顔を覗かせ始めた朝日が窓から差し込み、その光を背負うように立つレグルスは、相変わらず呆れたような表情を浮かべていた。
──そして、なぜかその肩にはシマエナガが一羽、ちょこんと乗っている。小さな身体を揺らしながら、細められたようにも見える目で、ようやく目を覚ましたセイアをじっと見つめている。
セイアはその姿を見つめ、わずかに目を細めながら、静かに口を開いた。
「……君は、いつから目を覚ましていたんだい?こういう時は、二人揃って目覚めるのが一つのセオリーだと思っていたのだけれどね」
──なんせ、私は君に起こされたんだぞ。
無茶苦茶な理屈を並べ立て、意地でも自説を曲げようとせず、相手の心情などお構いなしに土足で踏み込んで……そして、虚像ばかりが広がる夢の世界から、半ば強引に引きずり出された。
仮にも女性を相手にしているというのに、レディーファーストなど知ったことかと言わんばかりの扱いだ。
「……」
……まさか、誰に対してもこうなのだろうか。
そんな疑念が脳裏をよぎる。
もっとも、そうであるのなら困るが。
なぜなら、あまりに容赦がなさすぎる。こんな調子で他の少女たちまで振り回しているのだとしたら、それはそれで気の毒でしかない。
……だからこそ、こういう無茶苦茶な振る舞いは、私だけに向ける程度に留めておいてほしいものだ。
「そんなセオリーなんか知らないよ。そこまで君の都合に合わせなきゃいけない理由なんて、どこにもないよね?君には君の常識があるのかもしれないけど、それを当然のように僕へ押し付けられても困るんだよ……ちなみに、僕が目を覚ましたのは君より二時間も前だ。健康的で規則正しい生活を送っている僕とは違って、君は呑気に惰眠を貪り続けていた。その結果、僕はこの場所で二時間以上も待ちぼうけを食らわされたというわけだ」
セイアが口にした皮肉の籠もった言葉を聞いても、レグルスはどこ吹く風といった様子だった。
それどころか、いつものように涼しい顔を浮かべたまま、ペラペラと長ったらしく、説教じみた言葉を並べ立てている。
──この男には、物理的な攻撃だけではなく、言葉やその他のあらゆる精神的な攻撃すら、まともに通用しないのではないか。
そう思わせられてしまうほどの有様に、セイアは呆れるよりも先に、思わず感心してしまった。
これほどまでに自分というものを貫き通し、他者から向けられる言葉すら意に介さない。
彼の『強欲』とは、果たしてどこまで深いものなのだろうか。
──もしかすれば、その『強欲』こそが、彼の神秘そのものに関係しているのだろうか?
「……」
……なんて。『強欲』が神秘に関係していると考えるのは、些か強引な結び付け方なのかもしれない。
今こうして見ているレグルスの人間性も、所詮はレグルスという一個人の表面を垣間見ているに過ぎない。それだけの情報から、レグルスの持つ力と神秘を結び付けたところで、望むような答えが得られるとは限らない……いや、そもそもとして、だ。
──レグルスがその身に宿している力は、本当に『神秘』などという単純な言葉だけで片付けられるものなのだろうか。
「……私が二時間も目を覚まさなかったというのなら、君はそのまま帰るという選択肢もあったはずだよ。別に、ここで私を一人残したからといって咎めるつもりは無かったさ。そもそも、君がここへ来た経緯がどうであれ、この場において君は客人なのだからね。客人をいつまでも引き留めておくというのも、あまり行儀の良い振る舞いとは言えないだろう?」
──おっと。今は、そういうことを考えている場合ではないね。
……と、相も変わらず思考の海へと沈みがちなセイアは、未だ答えの出ていない思索をいったん頭の隅へと追いやり、先ほどから胸の内に抱いていた疑問をレグルスへと投げかけた。
こうして、至極単純な疑問を口にするだけのことなのに──いつの間にか、レグルスへ問いかけることに対して、ほとんど抵抗を覚えなくなっている。
その事実に気付いてしまいながらも、セイアは意識的に、それを気付かなかったことにした。
「あのさあ、単純に考えてみなよ」
「?」
そんなセイアの思考をよそに、レグルスは何度目になるかも分からない呆れを浮かべる。やれやれと言わんばかりにため息を吐き、首を左右に振り、そのまま両手を背中へと回す。
そしてまるで、自分にとってはあまりにも当然のことを語るかのように、レグルスは口を開いた。
「──こっちから契約を持ちかけておいて、いざ契約が成立した途端に、『はい終わり』とでも言わんばかりに、相手のことを一切顧みず、その場からさっさと離れていく……そんな振る舞い、人でなしのやることだと思わない?君の方から契約を結ぶことを望んだわけではなく、僕から契約を持ちかけた。だったらなおさら、契約した瞬間から相手のことなんて知ったことじゃない、なんて態度を取るのは筋が通らないでしょ?僕は『君の安全を保障しよう』と言ったんだからさ。なら、少なくとも初日ぐらいはある程度君の気持ちや事情に寄り添ってあげるのが当然だ。僕のように完璧で、完成された人間ともなれば、その程度の気遣いが出来て当然なんだよね」
「────…………」
つまり、何だ。
──レグルスは、間の抜けた顔で眠りこけていたセイアを、契約の内容に従って安全に守っていたということなのだろう。
降りかかる理不尽があるのなら、ついでに君も守るというのが、レグルスの口にしていた契約内容の一部だったはずだ。
『守ってほしい』と約束も何もしていないはず……だというのにレグルスは、さっさと立ち去ることをしなかった。
こうしてその場に留まり続け、二時間もの時間を費やしてまで、セイアの傍に居続けた。
……それはセイアからすれば、もはや契約で定められた範囲を越えた行為としか思えなかった。
「……そうか」
──とんでもない男と契約したものだ。百合園セイアは。
「そうとも。君がこうしてようやく目を覚ましたおかげで、僕もやっとこの場からおさらばすることが出来る。そもそも僕は、こんなところに長居するつもりなんて最初から無かったんだよね。それどころか、本来ならここへ来ること自体なかったんだけど……最終的には僕にもちゃんと利益のある契約を結ぶことが出来た。そう考えれば、ここまでの苦労も無駄ではなかったということになる。今回の不満については、それで帳消しとしよう」
それだけ言うと、レグルスはこれ以上の長話も長居もするつもりはないとばかりに、窓から離れた。そしてそのまま、おもむろに出口へ向かって歩き出す。
──すると同時に、これまで彼の肩に乗っていたシマエナガが、ぱたぱたと羽ばたいて飛び立った。
小さな身体が宙を舞い、そのままベッドの上で身体を起こしているセイアの頭へと着地し──頭の上に収まったシマエナガは、なぜか妙に胸を張っており、その表情はまるで、自分の仕事を成し遂げたとでも言いたげな、どこか誇らしげなものだった。
「──レグルス」
「……なに?僕の用はこれでもう済んだんだから、ここに留まり続ける理由は何一つ残っていないんだよね。僕としては一刻も早くここから立ち去って、自分の時間を取り戻したい。僕の時間は僕だけのものなのだから。それをどう使うかを決める権利だって、当然僕にあると思うんだけど?」
「ああ、いや……」
セイアは、僅かに視線を窓の外へと逸らすが、すぐにそれを戻し、改めてレグルスを見据える。
「──君と私で結んだ契約の期限については、決めているのかい?」
そして、確認するかのように問う。
「期限?何を言うかと思えば……そんなもの──」
そして、やはりと言うべきか。レグルスは、それがあまりにも当然のことであるかのように答えるのだ。
「──決めてるわけないだろ。僕が良いと言うまで、無期限であり続けるんだから」
──あまりにも自分都合で、自分勝手。
何もかもを自分の思い通りにしようとする、強欲そのもののような言葉だった。相手の気持ちを尊重していると口では言いながら、その実、相手がどう思うのかなど欠片も考えていない。
そんな矛盾に満ちた発言を前にして、セイアはというと──
「……ほう……そ、うか……」
まるで喉の奥に何かが引っ掛かっているかのような、妙に歯切れの悪い返事を返すことしかできなかった。
「もう良いかい?僕が確認したかったことも確認できたし、今度こそお暇させてもらうよ」
それだけ告げると、レグルスは今度こそ立ち去ろうとする。
──朝日が昇り始めたばかりのこの時間なら、帰路につくには都合がいい。何より、生徒たちに襲われる可能性も、まだ比較的低い時間帯だ。
そんなことを考えながら、レグルスは扉へと歩み寄る。
そしてドアノブへ手を掛け、これから帰路を辿るために、それを捻る。
「……レグ──」
その背中を、どういうわけかまたセイアが引き留めようとする。だが、レグルスは構わず扉を開いた。
──その瞬間、事件は起きてしまった。
「──」
「……!?」
……それは、ある意味ではレグルスが最も恐れていた事態だった。
かつてセイアは、夢の世界でこう語っていた。
『安心してほしい。私は生きているよ、美人なナースに介抱されながらね』
──介抱されているのであれば、その人物がこの場へ足を運ぶこと自体は、決して不思議ではない。
朝だろうと、昼だろうと、夜だろうと。セイアが眠っている間、時間を作っては、彼女の傍でずっと介抱していたのだろう。
実に勤勉であり、決して簡単には成し遂げられない立派な行いだ。
……だからこそ、レグルスは万が一の事態を考え、できるだけ早くこの場から立ち去りたかった。
ただでさえ、二時間もここに居てやったというのに。こんなことになるくらいなら、もっと早く出ておくべきだった。
後悔しても、もう遅い。世の中、そう都合よく事が運ぶはずがない。自分の思い通りに物事が進むなどと思ったら、大間違いなのだ。
──レグルスは、ゆっくりと視線を下げる。
そして、目の前に立つ、その人物の姿を視界に収めた。
……まず目に入ったのは、整った髪だった。
長く伸びた髪は肩から腰へと流れ、その一部はまるで水面に差し込んだ光のように、柔らかな輝きを帯びている。
整った顔をしており、幼さを残した輪郭でありながら、その表情にはどこか凛とした落ち着きが見て取れた。
……なるほど。セイアが美人と言うだけある。
「…………おはよう。今日は良い天気になりそうだね。まず始めに、僕は決して怪しいものデュワアアアアアァァァァァァァッッ!!?」
刹那、勇ましい拳が胸元へと容赦なく炸裂し、レグルスの身体はそのまま後方へと吹き飛ばされ、壁を突き破り、さらにその向こうに立ち並んでいた木々を次々となぎ倒し、土煙を巻き上げながら、その姿はあっという間に視界の彼方へと消えていった。
「え」
セイアは、あまりにも一瞬の出来事に、何が起きたのか理解できなかった。
「侵入者……!まさか、この場所を特定してまで、セイア様を狙う者が現れるとはっ……!」
聞こえてきたのは、セイアがよく知る人物の声だ。それは、自身の事情を知りながらも、これまで甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた、信用に足る生徒。
「これ以上、セイア様に危害を加えるような真似は──」
そんな生徒が、その手に握られていたライオットシールドを勢いよく床へと突き立て、ガァンッ!!と、鈍い音が室内に響き渡る。
続けて、もう一方の手で愛銃の銃口をまっすぐに、レグルスが吹き飛んでいった方向へと向け、突き破られた壁を、鋭い眼差しで睨み付けた。
「私が許しませんっ!救護、開始しますっ!!」
どういうわけか救護を開始しようと宣言した生徒──蒼森ミネを、セイアは寝起きの身体に鞭を打ち、必死に制止する。
一方のミネは、何故セイアが目を覚ましているのかと驚愕しながらも、侵入者を追いかけようとするが、そんな彼女を、セイアは盾にしがみつくようにして何とか引き留める。
そして、この混沌とした状況を生み出した元凶たるレグルスはというと、森の彼方へと吹き飛ばされ、文字通り星になったまま、一向に戻ってこない。
かくして、朝早くから始まった一連の出来事は、収拾のつかない混沌と化した。
◆
「──あのさあ、君の気持ちも分からないわけじゃないんだよ?状況だけを見れば、僕は不法侵入者。君からすれば、そこのベッドで身体を起こしている、病人でもあるセイアを守らなきゃいけない。そう考えて僕に立ち向かったんだろう?その心意気自体は立派だと思うよ。誰にでも出来ることじゃない。全てじゃないにせよ、僕は君について断片的には知っていたし、聞いてもいたからね。だから、その行動そのものを否定するつもりはない。だけどさあ、いくらなんでも、壁が壊れるほどの力で殴りつける必要はないんじゃないかな?君たちと僕とじゃ、そもそも身体の作りが違うんだよ。君たちは銃弾が飛び交うような環境で平然としていられるのかもしれないけど、僕は違う。僕はか弱い身体しか持たない、どこにでもいる一般人なんだ。そんな相手に対して、加減もせずに壁まで壊れるような一撃を叩き込む。それで僕が無事だと思っていたのなら、少しばかり認識を改めた方がいいんじゃないかな?守りたいものがあるからといって、何をしても許されるわけじゃない。相手が誰なのか。どれだけの力を使えばいいのか。その結果、何が起こるのか。そこまでしっかり見極めた上で、適切な処理をするべきなんだよ……分かる?分かってくれるよね?お願いだからさ、そこだけはちゃんと分かってくれるよね?」
「レグルス、いくら君がそう願ったところで、残念ながら今の状況では分が悪いことに変わりはないと思うよ。願望と現実は、必ずしも同じ方向へ歩いてくれるわけではないからね」
「…………………………」
セイアがミネに必死にしがみつき、何とか救護が始まるのを阻止し続けていた、その数分後。
レグルスは、無事ではないものの、無事に隠れ家へと帰還した。
隠れ家の壁には、ミネの拳によってレグルス自身の形を型抜きされたかのような穴が、くっきりと残されていた。
もはや一種の芸術である。
「──こうしてお会いするのは初めてですね。トリニティの救護騎士団団長、蒼森ミネと申します……まず始めに、いきなり救護を執行してしまい、申し訳ありませんでした」
「救護を執行……?ああいや、今はそんなことよりもだね。うんうん。僕から催促する必要もなく、自分から名乗ることができる。素晴らしい心掛けだ。そこのベッドでシマエナガと戯れている生徒なんて、自己紹介するまで随分と時間が掛かったからね」
「なぜそこで私を刺す必要があった?」
ミネからの自己紹介を聞き、レグルスは満足げに頷く。
しかし、忘れてはいけない。
どれだけ余裕ぶっていようとも、目の前にいるのは、ひとたび拳を振りかざせば、レグルスなど文字通り呆気なく吹き飛ばしてしまえる生徒なのだということを。
「貴方のことは、ここに戻られる数分前に、セイア様から一通り簡単に概要をお聞きしました。元より、こうして目覚めていらっしゃることの方が驚きでしたが……レグルス・コルニアスさん。貴方がセイア様を目覚めさせたのですね」
「……どこまで話したのかな?」
「安心したまえ。何も、彼女に洗いざらい話したわけではないよ。ただ、君が戻ってくる前に、こちらから少しばかり説得はしておいたんだ。そうでもしなければ、君はミネにいつまでも追い回される羽目になっていたかもしれないからね。それはそれで一つの喜劇として眺めてみるのも、悪くはなかったのかもしれないが」
「寝起きの人間を空に向かって投げ飛ばしたら一体どんな反応をするのか、僕はずっと気になっていたんだよね。どうやら今は絶好の機会らしいし、さっそく実践してみようかな」
「冗談だよ。わざわざ悲劇の幕を上げる必要もないだろう?頼むから、これ以上こちらへ近づいてくるのはやめてくれ。私が悪かった」
セイアが事の顛末をミネに全て話してしまったのではないかと危惧していたレグルスだったが、どうやらそこまで詳細に伝えたわけではないらしい。
様子を見る限り、少なくとも二人の間で交わされた契約についてまでは話していないようだ。
レグルスは、ひとまずそれで良しとすることにした。
「……正直な話、にわかには信じがたいと思っています。なぜ貴方がこの場を訪れ、どういった経緯でセイア様を起こすに至ったのか。全てを聞いたわけではありませんが──私としては貴方が、怪しくて仕方がありません」
「まるで何もかも知り尽くしているような口ぶりだけどさ。君は、僕の何を、どこまで、どのように知っているというのかな?確かに、状況だけを見れば僕が怪しい人物に見えるというのは否定しないよ。突然ここへ現れて、君たちからすれば素性も分からない人間なんだからね。だけど、結果だけを見ればどうかな?僕は君たちに危害を加えたわけでもない。それどころか、君がずっと望んでいたであろうセイアを、実際にこの僕が起こした。だから、セイアが無事に目を覚ましたことが嬉しくて仕方がない──そんな風にしか見えないけどね」
「否定はしません。レグルスさんの言う通り、それらは全て事実です。ですが、『違法聖職者』と噂されるほどにトリニティにもたびたび出没し、特にゲヘナでは、生徒を薙ぎ倒している白衣を纏った男性がいると聞けば、怪しいと思うのも当然です」
「聖園ミカァッ!!」
「ミカ……」
『違法聖職者』という呼び名を広めた人物など、どう考えても一人しかいない。
その人物に対する怒りを露わにした叫び声と、呆れを滲ませた声が、同時に部屋へ響き渡る。
「──ですが。もしもセイア様を狙っているのであれば、既に手が掛けられていたであろうということもまた事実です。少なくとも貴方は……レグルスさんは、それをしなかった」
そう告げると、セイアの隣に腰掛けていたミネはおもむろに立ち上がり、右手を胸元へ添え、真っ直ぐにレグルスを見据える。
「こうして私が救護する機会を、再び与えてくださったのは、紛れもなくレグルスさんによるものです。その一点だけについては、感謝します。セイア様とこうしてお話しできるようにしてくださり、ありがとうございます」
そう言って、ミネは深々と頭を下げた。
──もっとも。ミネにとって、レグルスが怪しい人物であることに変わりはない。
今後、セイアだけでなく、他の誰かに手を掛け、傷付ける可能性だって残されている。それはまだ、レグルスという男の本質を知らないミネだからこそ抱く疑念だった。
「……まっ、別に何と思われても良いけどね。こちらこそ、紛らわしい真似をしてすまなかったね」
相手が謝罪したのであれば、こちらも相応の謝罪を返さなければならない。
それこそが、互いを一人の人間として尊重し、対等な関係を築いていくために必要なことなのだから。
「だけどさ」
──しかし、それでもレグルスには、先ほどからどうしても気に掛かることがあった。それは何よりも、彼女たち二人のこれからの動きにも関わってくることだった。
「あれはどうするわけ?こうして見ると、随分と派手にやり過ぎたと思うんだけど」
レグルスがある方向へと視線を向けると、それにつられるように、残る二人も同じ方へと視線を移す。
──その先にあったのは、レグルスの形をした壁の穴だ。
ぽっかりと開いた穴から、寂しげな風が吹き込んでくる。三人はしばし無言のまま、その光景を眺め、何とも言えない気持ちにさせられた。
「…………本当に、すみません」
「いや、ミネが気に病む必要はない。レグルスが吹き飛びすぎるのが悪いのだから」
「君を使ってそこの壁で型抜きをしよう」
「やめてくれ」
盛大に壁へと穴が開いてしまった以上、もはやこの場所を隠れ家として利用し続けるのは難しいだろう。
身を潜めるにしても、別の手段を講じるにしても、少なくともこの隠れ家に長居することはできそうになかった。
「……セイア様は、どうされますか?」
「──そうだね。これを機にティーパーティーへ戻るという選択肢も考えたが……それで私の身に取り返しのつかない事態が起きてしまえば、ミネにも余計な苦労を背負わせることになる。ミネにもこれ以上、私のことで心労を重ねさせるのも本意ではないからね。幸い、身を隠すためのセーフハウスは他にもある。しばらくはそこで、改めて身を潜めることにするよ」
「では、私はもう……」
「……いや、ミネには、もうしばらく苦労をかけることになりそうだ。本来なら、これ以上肩に荷を載せるべきではないのだろうけれど……もう少しだけ、私のわがままに付き合ってもらうことはできるかい?」
セイアにとって、ミネは非常に頼りになる存在だった。
何せ、レグルスがここへ訪れるまでの間、誰にも知られることなく、救護騎士団としての務めと並行してセイアを守り続けてくれた恩人なのだから。
これまで積み重ねてきた時間を考えても、もはや簡単には切り離せない──否、切っても切れない存在と言っても過言ではなかった。
「──!お任せください。セイア様は必ず、私が救護し続けます」
ミネの答えは、セイアの意思を尊重したものだった。
ミネが傍にいてくれるのであれば、セイアの身の安全は保証されるだろう。そして、それはレグルスにとっても都合が良い。セイアの安全が確保されているからこそ、契約に基づいてセイアと関わり続けることができる。
同時に、セイアにとっても、レグルスとの契約をより安全な形で利用し続けられるだろう。
──ミネの奮闘によって、二人は対等な関係を崩すことなく、互いの利益を尊重しながら、契約に則った関係であり続けることが可能となるのだ。
「──僕がこの場にいつまでも居座っていたところで、君たちが動きづらくなるだけだろうし、ここは君たちの意思を尊重してあげることにしよう……僕はこのまま退散させてもらうよ。そんな気遣いが自然にできてしまう僕の素晴らしい人間性には、せいぜい感謝するといい」
そこまで言うと、レグルスは満足げに頷いた。
久々に盛大に吹き飛ばされるという、実に不本意な目に遭ったものの──その代わりに得られたものは、レグルスが想定していた以上に大きかった。
それを思えば、先ほどの一件も些細なこと。
むしろ十分すぎるほどのリターンを得られたと判断したのだろう。
機嫌を良くしたレグルスは、もはやこの場に留まる理由はないとばかりに、悠々とその場を立ち去ろうと、律儀に出口まで向かう。
「途中まで送りましょうか?」
「君は思っていたより、ずいぶんと誠実な生徒なんだね。先ほどの行いさえなければ、なお良かったんだけど……ああ、君のその気遣いは、僕には必要ないよ。君は君のやるべきことに集中するといい」
一歩、また一歩と扉へ近付いていく。
「……」
──あと少しで、そのドアノブへ手を掛けようとした、その時だった。
「──レグルス」
「……?まだ何かあるっていうのかな、セイア」
背後から、名を呼ぶ声がした。それにレグルスは足を止め、振り返る。
──もう、用は済んだはずだ。
あとは契約通りにしてもらえれば、それでいい。
何か伝えたいことがあるのなら、その都度伝えればいいのだ。互いが互いを利用することだって、何も今すぐである必要はない。
そう考えていたからこそ、わざわざ引き留められたことに、レグルスは僅かな疑問を覚える。
「──……──……っ」
セイアは口を開いては閉じ、何かを言おうとしているのか、あるいは迷っているのかも分からない行動を繰り返していた。
もともと変わった人物だとは思っていたが、ここまで意味の分からない挙動をする生徒だっただろうか──と、レグルスは内心で首を傾げる。
だからこそ、いつものように皮肉の一つでも言って、そのまま帰ってしまおうか──そう思った、時だった。
「──歌を、聴いてくれないかい?」
「!!?」
「は?」
セイアは突然そう言った。
そして、ミネは何故か驚愕の表情を浮かべ、レグルスもまた、思わず間の抜けた声を漏らした。
──なぜ、歌?
そもそも、どの歌を聴けというのか。
そんな疑問がレグルスの脳裏を駆け巡るが、それを尋ねる暇すら与えられなかった。
「っ……──────」
まるで有無を言わせないとでも言わんばかりに、セイアが突然、歌い始めた。
BGMもなければ、伴奏もない。
ただ、セイア自身の声だけを頼りにした、唐突な歌が始まったのだった。
◆
──一言で言えば、あまりにも綺麗な歌声だった。
ほんの僅かに震える呼吸が喉の奥を通り、そこから生まれた声が、静かに空間へと零れ落ちた。
決して大きな声ではない。むしろ、最初の一音だけを切り取ってしまえば、拍子抜けするほど穏やかで、儚い。
けれど、その声には不思議なほどの芯があった。
細いのに、弱くない。
触れればそのまま溶けてしまいそうなほど繊細でありながら、それでも決して消えることのない、確かな存在感を持っていた。
──レグルスは、何も言わなかった。
──ミネも、何も言わなかった。
──セイアは目を閉じ、ただ歌い続けた。
何かしらの権利の侵害を見出し、もっともらしい理屈を並べ立てる……それはあまりにも失礼だろう。
声が、あまりにも自然に耳へ入り込んできたから。
まるで静かな水面へ一滴の雫を落としたときのように、その声が触れた場所から、ゆっくりと余韻が広がっていき……そして。
「──……」
──終わった。
永遠に続くわけではないが、それでも永遠に続いてしまうのではないかと思わせるほどの歌は、静かにその終わりを迎えた。
「──」
「……」
「──なるほど、なるほど……」
ミネは、未だ信じられないものを目の当たりにしたかのような表情でセイアを見つめ、対するセイアは、ただひたすらにレグルスを凝視していた。
そして当のレグルスはというと──なぜか一人、妙に納得した様子で頷いている。
やがて、レグルスは何事もなかったかのように、出口の扉へと手を掛けた。
まさか、このまま何も言わずに帰るつもりなのか。そう思っていたが……レグルスは背を向けたまま、口を開く。
「君は、とんでもないことをしてくれたね」
顔だけをセイアへ向け、未だこちらを凝視しているセイアへ、率直な言葉を告げた。
「──次に他の歌を聴く時は、必ず君の歌と比較してしまいそうだ」
──それじゃあね。
最後に一言だけ告げ、セイアを一瞥し、あることを確認した瞬間、レグルスは僅かに安堵したような表情を浮かべ……レグルスは、その場から静かに立ち去っていった。
「……」
「……」
「──セイア様」
レグルスが去った後の沈黙を破ったのは、ミネだった。
「──どういうことなのでしょうか」
ミネが、セイアへと身体を向けた。
「──私は、疑問を抱いています」
ミネが、セイアに少し近付いた。
「──セイア様が歌を聴かせる意味については、以前お聞きしたことがあります……その上で、私は聞いています。その意味を理解しているからこそ、私はこうして聞いています」
ミネが、おもむろにセイアの両肩へと手を置いた。
「──彼と、何があったのですか?」
セイアは凄まじい勢いで掛け布団を引き寄せると、そのまま全身をすっぽりと包み込み、ミネの視界から自らの姿を完全に遮断した。
「っ!?セイア様!何も言わずにこのようにくるまれては困ります!最初はプライベートなことだと思い遠慮していましたが、私にも分かる範囲でお話ししてください!セイア様ッ!セイア様ッッ!!」
「──彼はゲマトリアだ、彼はゲマトリアだ、彼はゲマトリアだっ……!」
「……ッ!やむを得ませんね。セイア様──救護、開始しますッ!」
どういうわけか、隠れ家では、救護が開始されることとなったのだった。
──セイアの傍にいたシマエナガは、いつの間にかどこかへと姿を消していた。