「……ふぅ」
トリニティ某所。
精神を支えるためにも、もはや紅茶が全身に巡っているのではないかと思わせるほど、ナギサは黙々と紅茶を飲み続けていた。
「──ふぁ……」
不意に、口元から息が漏れる。
眠そうにしているわけではない。それは、眠気から来るものとは少し違う──生あくびだった。
……ナギサは、決して寝不足というわけではないが、エデン条約の調印式が目前に迫っていることもあり、その準備に追われる日々の中で、生活リズムなどとうの昔に崩れていた。
眠る時間も、食事を取る時間も、休む時間さえも曖昧になり、気付けばストレスと疲労だけが少しずつ積み重なっている。
「……」
ナギサは、誰もいない薄暗い室内を見渡した。
窓から差し込む月明かりだけが、部屋の中を淡く照らしている。
室内の照明を点けようとはしなかった。ただ、そうする気力すら残っていなかったのか。あるいは、この静けさを自分から求めていたのか。
それは、今のナギサ自身にも分からない。
『──権利の侵害をして、申し訳ありませんでした……!』
「権利の侵害……そうですね。私は、皆さんの権利を侵害して、人でなしと言われても仕方のないことをしてしまいました……あの謝罪をしたとしても、私は許されるべきではないのでしょう」
最初は、訳の分からない謝罪の仕方をしてしまったと思っていた。
だが、こうして改めて考えてみると──案外、的を射ているのではないかと、ナギサはそう思い始めていた。
落第寸前の生徒たちを集めて補習授業部を設立したかと思えば、その実態は教育でも救済でもなく、まだ確定すらしていない疑念を根拠に、補習授業部そのものを巨大な容疑者収容箱に仕立て上げたのが、桐藤ナギサという生徒だ。
冷静に考えてみれば、生徒たちの権利そのものを侮辱し、侵害する行為にほかならないだろう。
ただ、的を得ているとは思わないでほしい。あの謝罪が訳の分からないものであったことに変わりはないのだから。
レグルス以外に権利の侵害だなんて言葉を使わないでほしい。
「……あとは、皆さんが無事に合格してくだされば良いのですが」
──補習授業部の四人が、落第に匹敵するほど成績不振であることもまた事実だった。
彼女たちを容疑者として扱い、理不尽に追い詰めるような真似をしていたとしても、だからといって試験に合格してもらわなければ困る。
そのため、試験の合格基準を変えるつもりはなかった。
もちろん、いきなり合格点を90点以上に引き上げるような、鬼畜で人でなしと呼ばれても仕方のない真似をするつもりもない。
合格点はこれまで通り60点以上としているし、四人全員が同時に合格するようにとも伝えている。
さらに、改めて謝罪した際には、念のため──今後、合格基準点が変わることはないということも、先に伝えておいた。
これで、少なくとも試験に関して余計な心配をする必要はないはずなのだが、なぜか四人とも燃え盛るようなやる気を見せていた。
そのあまりの勢いに、ナギサはほんの少しだけ恐怖していたというのはここだけの話だ。
「……結局、スパイは誰だったのでしょうか」
エデン条約の締結を阻むスパイを炙り出すための箱を用意したのはいいものの、結果だけを見れば不発に終わったと言えるだろう。
レグルスから『セイアは生きている』と断言された以上、それを嘘だとは到底思えなかったし、セイアは間違いなくどこかで生きているだろう。
その事実に対する安心感によって、これまでナギサを苛んでいた精神的な苦痛は、いくらか和らいだが──
「いえ、疑念を抱えたままにするわけにはいきません。今度は別の方法で、真のスパイを探さなくては」
──エデン条約の締結を心の底から阻もうとしている、真のスパイ。
その正体を突き止めるという、今すぐにでも紅茶に流し込んでしまいたいほどの大仕事が、まだ残っている。
そうなると、やはりこうしてはいられない。
「今日の仕事は、先ほどの資料で最後でしたし、あと少ししたら再調査といきましょう──ほとんど振り出しに戻ってしまいましたが……」
何としてでも、真のスパイの正体を掴んでみせる。
そう意気込みながら、ナギサは静かに残っていた紅茶を口に含んだ……その時だった。
「──?」
──窓から、ノックの音が聞こえた。
静まり返った室内に、その音だけが妙に鮮明に響く。
「……紅茶でしたら、もう結構です。お気遣いいただきありがとうございます」
窓の向こうにいる相手へ、そう声を掛ける。
──こうして紅茶を届けに来てくれるだけでも、自分にとってはとてもありがたいことなのだと、ナギサは最近になってようやく意識するようになっていた。
今まで、彼女たちには自分の至らなさばかりを理由に、無下な態度を取り続けてしまった。紅茶はもう結構だとは伝えたものの、いま一度、顔を合わせてその礼を言うべきだろう。
「ですが、そこで少し待ってもらえ──」
──窓から、ノックの音???
「良い子ならそろそろ就寝する時間……というほどでもないか。まあ、就寝するしないは君たちの自由だしね。僕が他人の生活習慣にまで口を出すほど、お節介な人間でもないからさ。ただ、寝る時間かどうかに関係なく、鍵くらいはちゃんと閉めておいたほうがいいと思うけどね。ナギサらしくないけど、今日はどこか気が抜けていたのかな?」
「っっ!??!!?!?」
ナギサが、何かがおかしいと感じたと同時に、窓の向こうから、不法侵入者──レグルスの声が響いた。
ナギサは既に、声にならない悲鳴を上げていた。
「ああ、こうして窓から侵入するなんていう、野蛮で非常識な真似をしてしまって、そこについては本当に申し訳なかったね。ここは僕も、誠心誠意謝罪するとしよう。何も僕だって、好き好んでこんなところへ来たわけじゃないんだよ。そこは君にも、きちんと分かっておいてほしいんだ。僕だって普通にしていられるなら、普通にしていたかったさ。わざわざ夜中に人のところへ押しかけて、しかも正面から訪ねることすらせず窓から入るなんて、僕だって趣味が悪いと思っているんだからね。時間だって非常識なのは承知しているよ。こんな時間に突然やって来られたら、穏やかで平々凡々な生活を望んでいる僕だって、多少なりとも怒りを覚えるだろう。だから君が不快に思ったとしても、それ自体を責めるつもりはない。そこまで僕は理不尽な人間じゃないからね。僕だって、自分の時間を好き好んでこんなふうに使っているわけじゃない。僕には僕の予定があるし、僕には僕の平穏を享受する時間がある。そこをわざわざ乱してまで来ているんだから、僕としても相応の事情があるということくらいはほんの少しでも良いから理解してくれるとありがたいよね。とはいえ、君が今後このことで愚痴を言いたいというのなら、あとでいくらでも聞いてあげるし、一つだけならなんでも言うことを聞いてあげよう。本来なら、そういうことは彼女が全部引き受けるべきなんだろうけどね。僕が謝るべきことまで謝って、挙げ句の果てには君の愚痴まで聞いてあげる。僕は本当に慈悲深くて寛大な人間だからね」
無理やり侵入されたかと思えば、今度はレグルス構文の嵐がナギサに降り注ぐ。
ナギサのライフは、恐怖と困惑と驚愕によってゴリゴリと削られていった。
ついには足にまともに力が入らなくなり、腰まで抜けてしまい、床に座り込んだまま、ナギサは少しずつレグルスから後ずさっていた。
「……僕としてはさっさとここから出てしまいたいところなんだけど、さすがに、何もせずにこのまま出ていくというのも、それはそれでどうかと思うんだよね。先の未来を考えるというのは、大切なことだからさ。今ここで少しばかり手を打っておけば、あとになって起こるかもしれない様々な被害を、少しでも小さくできるかもしれない。意外にも、ここまで気遣いができない人間はことのほか多いからね」
後ずさるナギサをさらに追い詰める──ことはなかった。
レグルスはそのまま、ナギサが先ほどまで仕事をしていたテーブルへと近付いていく。
「さすがに、機密情報が書かれているようなものを勝手に使うのは避けたいところだけど……ああ、君は必要なことがあれば、きちんとメモを取るタイプなんだね。うんうん、実に素晴らしいことじゃないか。自分の記憶だけを当てにせず、必要な情報をきちんと記録しておく。後になって『そんなこと言ったっけ?』なんて無責任なことにならずに済むんだからね。僕はそういう姿勢、嫌いじゃないよ──というわけで、メモ用紙を一枚だけ、借りさせてもらうよ。もちろん、後でいくらでも文句は受け付けるよ。君にはその資格があるからね」
レグルスはいきなり、机に置かれていた羽ペンと束になった紙から一枚を拝借する。
そして、ナギサが先ほどまで使用していたメモ用紙へ目を向けると、その筆跡を確認しながら、まるで模写するかのようにスラスラとペンを走らせ始めた。
「──っ!?……っ!??」
その間、ナギサは壁際まで後ずさっていた。
顔は青ざめ、口は何度も開閉するものの、まともに言葉が出てこない。
当然だ、いきなり不法侵入された挙げ句、長々と訳の分からないレグルス構文を聞かされたのだから。言葉を失うのも無理はないだろう。
「──うん、これくらい書いておけば、彼女たちの誰かが目にしたとしても、特に問題はないでしょ。ナギサのことをよく理解しているだろうしね。これを見たところで、不自然だとか、何かがおかしいだとか、そんな違和感を抱くとは思えないからね」
数分が経過した頃、レグルスはどうやらやるべきことが終わったらしい。
羽ペンをご丁寧にペン立てへ戻すと、腰を抜かしているナギサのもとに、一歩、また一歩と歩み寄っていく。
レグルスがナギサの前に立ったその瞬間、『ひっ!?』という甲高い声が、部屋中に響き渡った。
「ナギサ。残念だけどね、僕の時間という私財は、今こうして契約者に使われているんだ。僕だって、好き好んで時間を浪費しているわけじゃない。だから、あまり悠長にしているわけにはいかないんだよね……だから──」
「な、何を……ひゃっ!?」
近付いてきたレグルスに、ナギサは必死に抵抗しようとした。
しかしその前に、レグルスはナギサの身体を抱え上げ、そのまま小走りで、先ほど自分が入ってきた窓へと向かっていく。
「こ、こんなことをして一体なムグッ!??」
ナギサが大声を上げようとした瞬間、その口をレグルスの手が塞ぐ。抗議の言葉は、声になることすら許されない。
そして、次の瞬間──
「──君の時間を、少しばかりいただくよ。それと、舌だけは噛まないようにね」
「──っ!?、っ!?!?!???!?」
──レグルスは、窓から外へと飛び出した後、思い切り跳躍し……レグルスとナギサは、地上から消え去った。
◆
「……おかしいですね。合計87個のセーフハウス、そしてそのローテーションまで把握した上で、こうして伺ったというのに──」
「……誰もいない、周囲に気配すらも無い。かといって、罠が仕掛けられてるわけでも、配備されている護衛がいるわけでもない」
「──ええ、不気味で仕方がありません。これはいったい、どういうことなのでしょうか」
──時と場面は変わって、またしても、トリニティ某所。もとい、とあるセーフハウスにて。
かつてトリニティきっての才女と謳われた少女、浦和ハナコ。
そして、かつてクーデターを引き起こしたガスマスクの少女、白洲アズサ。
この二人は、ナギサの身柄を確保するため──ではなく、その安全を確保するために、ナギサがいるとされているセーフハウスへと足を運んでいたのだが……そこに待っていたのは、あまりにも奇妙な静けさだった。
護衛の姿はおろか、ナギサ本人すらも存在しない。セーフハウスとして機能しているのかどうかすら疑わしいほどに、そこには人の気配がなかった。
「まさか、事前に逃げ出したのでしょうか?アリウスから襲撃されるのを知っていて……」
「いや、桐藤ナギサが事前に知るタイミングは無かったはず。知っていたら、もっと早くから身を隠すか、所有する全てのセーフハウスにトラップを仕掛けていないとおかしい」
「身を隠すのはともかく、ナギサさんが全てのセーフハウスにトラップを仕掛けるなんてことは……ありえそうですね。ナギサさんなら、やりかねません」
なんということだ。ナギサの人でなしの一面をすでに垣間見てしまっているせいで、そんなことをするはずがないと風評被害を否定することができなくなってしまった。
こればっかりは仕方がない。受け入れよう、ナギサ。
「どうしましょう。ナギサさんが居ないとなると、今後の動き方が変わってしまいます。最悪、ほんの少しだけ脅しながら、無理矢理にでも連れて行こうと考えていたのですが……」
ハナコは、困ったように周囲を見回す。
ナギサは現在、エデン条約の締結を阻むスパイ──すなわち、裏切り者を探している。
そんな状況を考えれば、襲撃にも近い形で自分たちが現れた以上、『やはり、あなたたちが裏切り者だったのですか……!?』と、面と向かって疑われたとしても仕方がない。
むしろ、これまでのナギサの警戒ぶりを考えれば、そうならないほうが不思議なくらいだった。
もっとも、ハナコとアズサには、ナギサを本気でどうこうするつもりなど、今さら毛頭ない。
なにしろ、以前ナギサから土下座までされ、これまでのことを謝罪されているし、補習授業部を新設した理由についても、すでに本人の口から事前に聞かされていた。その時点で、ある程度の話には折り合いがついている。
多少の恨み言こそ残っているものの、だからといって、今さらナギサを責め立てようというつもりはなかった。
ただ、ナギサの身の安全を確保するために、多少脅すことくらいは仕方がない。そう考えていただけなのだから。
脅すという名の、『お友達ごっこ宣言』ではあるが。
「──ハナコ、こっち来て。机の上に、紙が置かれている」
「……?紙が、どうかしたのですか」
「桐藤ナギサが残したメモらしきものがある。隣の書類と見比べてみたら、それに書かれている文字と同じようなものだった。間違いなく、桐藤ナギサが書いたものだと思う」
「──!!」
アズサは周囲を警戒しながら部屋の中を散策しており、その途中で、机の上に置かれた一枚のメモを発見した。
そして、すぐさま近くにあった書類と見比べ、その筆跡からナギサが残したメモだと推測する。
それをハナコへ伝えると、彼女は早足でアズサのもとへと近付いていった。
「ナギサさんがメモに残したもの……それは、この場にいない理由と関係しているのでしょうか?」
「どうだろう。私もまだ全て読んだわけじゃないから、分からない」
「それなら、一緒に確認しましょうか」
そう言って、ハナコはアズサの隣に立つ。二人は机の上に置かれていたメモ用紙へ視線を落とし、そこに綴られていた内容を読み始めた。
『──この場にお越しくださった方へ。突然このような書き置きを残すことになってしまい、申し訳ありません。私は、しばらくこの場所を離れることになりました。皆様にはご心配をおかけするかもしれませんが、どうかお気になさらないでください。私自身に何かあったというわけではありませんので、どうぞご安心いただければと思います』
『理由といたしましては、仕事が一区切りついたため、まだ見ぬ茶葉を探しに行こうと思い立ったからです。産地や製法、茶葉の等級によって香りや味わいが異なるのはもちろんのこと、同じ茶葉であっても、淹れ方一つでその印象は大きく変わります。そう考えると、まだ見ぬ紅茶を求めることには、決して終わりがないのでしょう。私がまだ知らない、素晴らしい一杯がどこかに存在するのであれば、それを確かめずにいるというのも、紅茶を愛する者としてはいささか失礼な話ではないでしょうか』
『まだ見ぬ茶葉。まだ知らない香り。そして、まだ一度も口にしたことのない一杯。そうしたものが、この世界のどこかで私を待っているのだとすれば……それを探しに行かない理由など、私にはありません』
『もちろん、仕事を放り出して遊びに行くわけではありません。現時点で必要なことについては、すでに済ませてありますので、その点についてもどうかご心配なさらないでください。明日には戻る予定ですので、ほんの短い旅となります。皆様も、短い間ではありますが、どうか健やかにお過ごしください』
『……それでは、次にお会いするその時まで』
『──桐藤ナギサ』
──まず、ハナコとアズサが抱いたのは、安堵だった。
ああ、良かった。ナギサ自身に、何かが起きたわけではないと。少なくとも、この書き置きを見る限りでは、そう考えて良かった。
なぜなら、アズサはともかく、ハナコにとっては、この筆跡がナギサのものだという確信があったからだ。
文字の特徴から、細かな癖に至るまで。記憶の中にあるナギサの筆跡と、完璧に一致している。
だからこそ、すでに何者かに攫われてしまったのではないか。あるいは、襲撃を受けて連れ去られてしまったのではないか。
そんな最悪の可能性がないのだと分かり、二人はひとまず胸を撫で下ろした。
「──?」
「──?」
『──????』
──しかし、それはそれとして、理由が理由なだけに、ハナコとアズサは顔を見合わせ、揃って首を傾げた。
◆
「──レグルスさん。私は、貴方のことを誤解していました」
「誤解も何も僕は──」
「私を!平然とした顔で誘拐した挙げ句!空を歩き、トリニティ全域を見下ろすという訳の分からない状況に置いて!私の記憶に恐怖を深く刻み込んだうえで、こうしてトリニティから遠く離れた森林の中を歩かせる……!そういう鬼畜な男性なのだと、ようやく理解いたしました……!」
「あのさあ!誰が鬼畜な男性だって!?僕は君を傷つけるつもりなんて最初からないんだ。確かに君を突然連れ出したし、結果として空を歩くようなことにもなったし、森林の中を歩くことにもなったよ。でもね、僕は君の身体を雑に扱ったわけじゃない。ちゃんと抱えて運んでいるし、余計な怪我をしないようにもしている。出発する前には、わざわざ『舌だけは噛まないように』と忠告までしてあげたんだ。ここまで気を遣っている人間を、鬼畜呼ばわりするのはさすがにどうかと思うんだけどねえ!」
「……誘拐している時点で、何を言ってもあまり響かないです」
「だろうね。本当に行き過ぎた真似をしたよ。改めてこの通り、誠心誠意謝罪しよう」
──これは誘拐ではない。
あくまで、悲惨な事件が起こるであろうということを聞いたからだ。
それが僕の平穏を脅かすのであれば、それを避けるために、あの場から連れ出しただけ……と、レグルスは、内心ではそんなことを考えていた。
しかし、いくらバカ正直にそれを説明したところで、ナギサの中では誘拐されたという事実があまりにも強く残っている。今さら何を言ったところで、素直に聞き入れてもらえるとは思えなかった。
だからこそ、レグルスはこれ以上、自分の行動を否定することをやめた。
「本当に、信じられません……!」
そう呟きながら、ナギサはレグルスの横を歩いている。レグルスは、そんな彼女を横目で捉えた。
……ナギサを抱えて、思い切り跳躍した後、一時的に空を歩いたのが、やはりよくなかったのだろうか。
思えば、口を塞がれた状態でいきなり空を歩き始めたのだ。あれでは、恐怖が勝ってしまうのも無理はない。
実際、ナギサはあまりの高さに一瞬だけ気を失っていた。
その後、すぐに意識を取り戻したものの、空を歩いているという現実を受け入れることができず、レグルスに必死にしがみつきながら、身体をガタガタと震わせていた。その光景は、レグルスの記憶にもまだ新しい。
そして、周囲に誰もいないであろう森林の中へ着地し、抱えていたナギサを降ろした瞬間、涙目になったナギサが、先ほどのようにレグルスを責め立てたというわけだ。
「……どうして、私をあそこから連れ出したのですか?」
「理由ならちゃんとあるよ。ただ、それについてはもうすぐ君にも分かることだからね。わざわざ僕から説明する必要もないでしょ?僕がいくら説明したところで、結局は僕の言葉でしかない。だったら、その張本人から直接聞いたほうがずっと早いし、話も正確だ。僕が間に入って説明したところで、君にとっては余計な手間が増えるだけじゃないか」
「そうだとしても、もっと他に方法はあったはずですが」
「逆にあそこまでしないと、君はイヤイヤと首を振って抵抗するばかりだったよね?だから、あれが一番効率的だったんだよ。時間も無駄にしないし、君を必要以上に傷つけることもない。僕が抱えてしまえば、それで確実に目的地まで連れていけるし、実に合理的だ。君がイヤイヤと首を振って抵抗している間、いつまでも付き合って時間を浪費するほうが、よほど不合理だと思わない?君はいい加減、それを理解した方が良いと思うんだよね」
「理解できるわけないじゃないですかっ!」
「だろうね。誠心誠意、謝罪するよ」
つらつらと自身の意見を述べたところで、ナギサが納得するはずもない。だが、これが平穏へと繋がるのであれば、致し方ないことだ。
今でこそプンスカと怒っているナギサだが、この後のことを考えれば、その怒りが収まることはレグルスにとって確定事項だった。
……問題は、それまでの時間である。
さすがに、隣を歩きながら延々と怒られ続けるというのも、気まずいったらありゃしない。だからこそ、どうにかしてナギサの機嫌を宥めようとは考えている。さて、どうしたものか──
「──レグルスさんは、誠心誠意謝罪するとおっしゃいましたよね?」
「……ん?ああ、言ったよ。そして僕は二度、君に誠心誠意謝罪をしたつもりなんだけどね」
「それだけでは納得できません……レグルスさん。貴方は、『一つだけならなんでも言うことを聞いてあげよう』……そうおっしゃいま──」
「──さて、僕と君は目的地にたどり着いた。君との話は決して無駄ではなく、むしろ有意義な時間だったけど、それも終わり。悲しいけれど、こればっかりは仕方がないね」
「──……」
と、森林の中を歩き続けて、数分。
ここで二人は……正しくは、レグルスがナギサを強制的に連れてきた形ではあるが、目的地へとたどり着いた。
レグルスに時間稼ぎをしているつもりはなかったが、こうして目的地に着いたのであれば、これ以上話していても仕方がない。そう、これは仕方がないことなのだ。
「……」
とはいえ、納得がいかないのか、隣で若干頬を膨らませたナギサが視界に入る。
無理もない。自分が話している途中で唐突に会話を打ち切られたのだ。当然の反応と言えば、当然の反応だった。
「僕がさっき言ったことに、嘘偽りなんて一つもない。相手を尊重することでまた自らも尊重される……当たり前の配慮が、より互いの溝を深めずに済むんだ──いつの日か、君がやるべきことをきちんと成し遂げて、今抱えているものがすべて落ち着いたその時にさ。君が望むことを一つくらい、僕が叶えてあげよう。もちろん、常識的な範囲でだけどね。それで、今日の非礼を帳消しにしてほしいんだ」
「──」
綺麗事を並べているようにも聞こえるが、事情がどうであれ、ナギサを誘拐したという事実に変わりはない。
その事実がある以上、今の言葉に対して多方面からツッコミを入れられたとしても、レグルスには何ら文句を言う資格はないだろう。
……だが。ティーパーティーのホストとして、疑心暗鬼の闇の中を彷徨い続け、自らを追い詰め、そのほとんどを一人で抱え続けた少女がいる。
──そんな少女一人くらいには、労いがあってもいい。
これは紛れもなく、レグルス自身の本音だった。
先生や生徒とは、また違う立場にいる大人だからこそできること。その中で、レグルスが選んだ方法がこれだった。
「…………分かりました。ひとまずはそれで、納得します」
「良い子だ。君みたいに、早く理解して、その時点での最適解をすぐに導き出せる子は、思いのほか少ないんだよね。感情に流されて、いつまでも自分の主張ばかりを押し通そうとする人間のほうがずっと多い。だからこそ、君みたいに状況を受け入れて、今どうするべきなのかを考えられる子は貴重なんだ」
頷きながら、レグルスはナギサへと近付いていく。
そして、その肩を軽く押しながら、目的地である──森林の中にひっそりと佇む小さな建物の扉の前へ、彼女を立たせた。
「──この扉は、君が最初に開けるべきだ。この一歩は、君自身の手で踏み出すべきものだからね。そうしてこそ、ここまで連れてきたことにも意味がある」
「……私が、ですか」
トリニティから遠く離れた森林の中に、こんな建物があるなんて思いもしなかった。
仮に存在していたとしても、とうに廃墟と化していてもおかしくない。それほどまでに、人の気配から遠く離れた場所だった。
……それなのに、建物の窓からは、淡い光が漏れていた。つまり、中に誰かがいるということだ。
「……」
──罠かもしれない。嘘かもしれない。虚言かもしれない。欺瞞かもしれない。思惑があるのかもしれない。悪意かもしれない。
様々な疑念と警戒、そして不確実性が、次々と脳裏を駆け巡っていく。
──ただ、いつまでも逃げ続け、疑い続けているだけでは、何も変わらない。強制的に連れてこられたとはいえ、せっかくここまで来たのだ。
ならば、せめてこの先に何が待っているのかくらいは、自分の目で確かめなければならない。
もし罠ならば、そのときに疑えばいい。
もし嘘ならば、そのときに問い質せばいい。
もし悪意があるのならば──そのときこそ、自分自身の目で見極めなければならない。
……目の前にあるのは、何の変哲もない一枚の扉だ。
けれど、それを開くというたった一つの行為が、今のナギサにとっては、ひどく大きな意味を持っているように思えた。
「ふぅ……」
一度、深く息を吸う。
そして、ほんの僅かな逡巡の後──ゆっくりとその手を扉へ伸ばし、静かに開けた。
「──だからこそ彼、レグ……おや」
「……!」
──視界に飛び込んできたのは、ベッドで身体を起こしている狐耳をぴょこりと立てるセイアと、その隣で椅子に腰かけているミネの姿だった。
「────」
ナギサは、一瞬だけ理解が追いつかないといった様子で、その場にいる二人を交互に見つめる。
その姿を何度も確かめるように視線を彷徨わせ……やがて、その目はセイアへと止まった。
──以前、レグルスから聞かされていた。
セイアは生きている。襲撃を受け、ヘイローを破壊されたと思っていたあの少女は、死んではいないのだと。
頭では理解していたはずだった。けれど、こうして実際に本人を目の前にすると、その事実は遅れてナギサの胸へと落ちてくる。
──生きている。本当に、生きていてくれた。
その実感が身体の奥まで届いた瞬間、ナギサの瞳に涙が溜まった。堪えようとしていたのか、それとも堪えるということすら忘れてしまったのか、やがてその涙は頬を伝い、静かに流れ落ちていく。
そんなナギサを見つめながら、セイアは穏やかに口を開いた。
「ああ、『契約』を遂行してくれたんだね、さすが、私の『契約者』だ」
そう言って、セイアはレグルスをチラリと見た。
その視線には、まるで言葉の裏にある意味まで含めて確認するようなものがあったが……それも一瞬のこと。すぐに、ナギサへと視線を戻す。
「──セイア、さん?」
ナギサの口からようやく出てきたのは、そんな短い言葉だけだった。
「ああ、みんなのセクシーフォックスだ」
冗談めかしてそう答えたセイアを見て、ナギサの涙はさらに溢れた。頬を伝っていた涙は次第にその量を増し、ついには顎先へと集まって、一滴の雫となって床へ落ちていく。
セイアは、そんなナギサの様子を静かに見つめながら、言葉を続けた。
「……人というものは、思いのほか感情の起伏が激しい生き物だ。平静を保っているように見えても、その内側ではいくつもの感情が互いにせめぎ合っている……君を見たら分かるとも、ナギサ。君もここへたどり着くまでに、きっと様々なものを見て、様々なものを抱えてきたのだろうね」
「──っ……っ」
嗚咽を堪えようとする声が、ナギサの喉から漏れる。
「改めて、久方ぶりだね、ナギサ。私がホストを離れてから、もう随分と時間が経った……きっと、君には話したいことも、話すべきことも、たくさんあるのだろうね……ただ──」
そう言って、セイアはゆっくりと両腕を広げた。そして、嗚咽交じりに泣き始めたナギサを、ただ静かに見据える。
「──ひとまず今は、感情の波を落ち着ける時間も必要だろう。私がこうして生きているのだと、君自身が実感するためにもね。だから……こういうひとときを過ごすのも、君の友人として、悪くはないと思っているのだが、どうだろうか?」
「……っ!!」
その意味を理解した瞬間、ナギサの身体が僅かに震えた。
けれど、すぐには駆け寄れなかった。まるで今まで張り詰めていたものが一気に身体へとのしかかってきたかのように、ナギサは引きずるような、ゆっくりとした足取りでセイアのもとへ近づいていく。
「セイア、さん……」
一歩、また一歩。
その足取りは、次第に早くなっていった。
「──セイアさんっ!!」
そして、ついには堪えきれなくなったように駆け出し、腕を広げて待っていたセイアの胸元へ、その小さな身体がすっぽりと収まる。
顔を埋めるようにして抱きついたナギサは、声を押し殺すこともできないまま、嗚咽交じりに泣き続けた。
セイアは、そんなナギサを静かに受け止める。その身体を抱き留めながら、彼女がここへたどり着くまでに背負ってきたものを思うように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「褒められることもあれば、褒められないこともあっただろう。理解されることもあれば、理解されないこともあった。受け入れられることも、恨まれることもあったはずだ。その一つひとつの間で、君はきっと、数え切れないほどの葛藤を抱えてきたのだろうね……まだ何もかも全てが終わった訳じゃない。けれど、今の私から君に伝えられる言葉は、たった一つだけ──よく頑張ったね、ナギサ」
「っ……!──ひぐっ……!」
その言葉に、ナギサの肩が大きく震えた。
それでも、涙は止まらない。むしろ今まで必死に押し込めていた感情が、その一言をきっかけにして、堰を切ったように溢れ出しているようだった。
──セイアの言う通り、まだ何も解決してはいない。
問題は依然として山積みであり、そもそもエデン条約すらも始まっていない。ナギサがこれまで抱えてきた罪悪感も、後悔も、疑念も、これから向き合わなければならない問題も、何一つとして消えたわけではなかった。
それでも、このひとときだけは必要だったのだ。
失ったと思っていた友人が生きている。その事実を、自分自身の目で確かめるために。そして、ここへたどり着くまでに抱えてきた様々な感情を、ほんの少しでも整理するために。
少なくとも今だけは、それ以上を求める必要はなかった。
「──色々と、お聞きしたいことはありますが」
その様子を傍らで見守っていたミネもまた、それを理解していた。
ナギサ様が横暴な振る舞いをしていたこと。権力を濫用し、罪のない生徒たちを苦しめているのではないかという疑念。そもそも、セイア様の言う『契約』とは一体どういうことなのか……聞きたいことは山ほどあった。
「……今は──」
けれど、その先の言葉を、ミネは口にしなかった。
日々、生徒たちの救護に携わる身だからこそ、ミネには分かっていた。
今のナギサに必要なのは、問い詰めることでも、事情を一つひとつ確認することでもない。まずは、自分の感情を整理するための時間なのだ。
だからこそ、ミネはそれ以上の言葉を続けることなく、ただ静かに二人の姿を見守った。
「君の今回の『契約』内容はここで終わり。僕の心を弄ぶような真似をしたにも関わらず、君の望みをこうして成し遂げてあげたこの僕に感謝するといい」
「ああ、感謝するよ。さすがは私の『契約者』だ。お礼は、私のハグで良いかい?」
「そんな趣味はないし、君とハグすることは未来永劫訪れることはないよ。自分によほど自信があるのか、自意識過剰も良いところだよね。そういうところは、いずれ矯正した方が良い。いつか、身を滅ぼすことになるかもしれないからね」
「君はブーメランというのをご存じかな?」
レグルスにとって、これはあくまでも『契約』の遂行であり、自分の平穏を守るための行動という認識でしかない。
だからこそ、個人的なお礼など微塵も必要ないと思っている。
そもそも、『契約』とはそういうものなのだから。
「本来ならそこで君の衣服をこれでもかというぐらい濡らしているナギサにも感謝してもらいたいぐらいだけどね。僕は気が利く人間だからね、多少は気持ちを整理するぐらいの時間をあげてやれなくもない。こうして相手を尊重してあげることで、自らもまた尊重される。こういう小さな配慮が、互いにとって住みやすい日常を作っていくんだ」
そう語るレグルスは、そこでふと窓の外へと視線を向けた。
──ああ、すっかり遅くなってしまった。
最近、レグルスは私財という名の時間を、意図しない形で浪費させられていることが多すぎるような気がしていた。
……今回もそうだ。契約を遂行するためとはいえ、ナギサを連れ出し、ここまで移動し、セイアと再会させるところまで付き合った。
その結果として、今後の平穏が守られるのであれば、必要な出費だったと考えることもできる。
だが、それでも自分の時間が削られたことに変わりはない。
だから、こういうときは一人きりでブレイクタイムをするべきだろう。窓から月を眺めながら紅茶を飲むのも一興だ。
平穏とは、そうでなくてはならない。
「──もしかして、もう帰るつもりなのかい? そんなに急いで帰る必要もないだろう。君さえよければ、今夜はここに泊まっていっても構わないのだが」
「遠慮しておくよ。その行為は、僕の私財兼時間に対する権利の侵害になるし、君たちの権利の侵害と同義にもなる。さっきも言ったけど、今回の『契約』内容はここで終わり。そこから先まで僕の時間を差し出す義理はないからさ」
「……そうか」
とにかく、やるべきことは終えた。
これからは彼女たちの手腕によって、キヴォトスがより平穏になってくれたら、それでいい。
それに、これ以上ここに長居したくない。
さっさと聖域に帰って、束の間の平穏を享受しようじゃないか。
「それじゃあ三人とも。後は君たちで心ゆくまで──」
『ナギちゃんは、私が隣にいなくても大丈夫だよ』
……?そう、これでキヴォトスは、より平穏な世界へと近づくはずだ。
「……セイア。君は、明晰夢や未来予知で、聖園ミカについて何か観測はしなかったのかい?」
「──ミカ?……いや、すまない。私の明晰夢には、彼女は出てきていない。未来予知の中でも、その姿を見たことはなかったよ。それが、単に私とミカの反りが合わないことによるものなのか……あるいは、別の理由があるのか。そこまでは、私にも判断はできないが」
──平穏な世界に、近づくはずなんだ。
『──私は私で、別の方法で
──本当に?
「……聖園ミカは、君が生きていることを知っているのかい?」
「……?いや、以前にも言ったと思うが、私がティーパーティーへ戻れば、また命を狙われる可能性がある。だからこそ、こうしてセーフハウスに身を潜めていたんだ。そんな私に、外へ情報を伝える手段なんてなかったし……何より、それを伝えるための時間も与えられていなかった。仮にミネに頼んだとしても、私が生きているという事実そのものを外部へ知らせることになる。それでは、私がここに身を潜めている意味がなくなってしまうからね」
「……………………」
──ああ、思い出さなければよかった。
なんで僕が、こんなことまで考えなくちゃならないんだ。
こんな形で。こんな、都合の悪い形で。
僕の平穏を乱すようなことが起こっていいものなのだろうか。
──そんなこと、あってはならない。あってたまるものか。
「……レグルス?」
無言のまま三人のもとへ近づいてくるレグルスに、セイアは疑問そうに首をかしげる。
ナギサはセイアの腕の中に収まったまま、未だに嗚咽交じりに泣いているし、ミネもまた、セイアと同様に疑問そうな表情でレグルスを見つめていた。
レグルスは、ある程度まで三人に近づくと、ふいにスマートフォンを取り出し、カメラアプリを起動する。
そして、そのまま三人に背を向けるように立つと、スマートフォンを高く掲げ──
「──笑って」
──そう一言だけ呟いて、シャッターボタンを押した。
「ふっ」
「──!?」
「……ぇ?」
セイアはドヤ顔を浮かべながら、チョキチョキっとするハサミのついた、あのカニと同じようにピースをしていた。
ミネは、あまりにも突然の『笑って』という宣言に、驚愕した表情を浮かべたまま硬直していた。
ナギサは、何もかも理解できないまま、涙でぐちゃぐちゃになった顔を写真に収められた。
──そしてレグルスもまた、あの憎たらしい笑顔を再現するかのように、ドヤ顔を決めていた。
「……不意のことだったとはいえ、こちらのピース姿を写真という形で記録されてしまったが、レグルス。君はどういった意図で──」
「セイア」
「……?」
人の言葉を遮ったら権利の侵害を主張するくせに、レグルスは遠慮なくセイアの言葉を遮った。
そのまま、セイアに有無を言わせることなく、レグルスは仕方がないと言わんばかりに口を開く。
「──僕の私情が大半を占めているからこそ、今回だけは特別に、本当に特別に、この『契約』内容については、無効ということにしてあげるよ。感謝するといい。ここまで寛大な判断をしてあげる人間は他にいないからさ」
それだけを言い残し、背後からセイアが何かを言っているのが聞こえたが、レグルスはそれを無視したまま出口へと向かい、外へ出る。
──そして、一瞬のうちに、三人をセーフハウスへ置き去りにしたまま、レグルスは空へ向かって跳躍した。
◆
「改めて、作戦概要を確認する。森林を離脱した時点で、トリニティまでの距離は約三キロ。以降、各チームは所定のポイントで分離し、それぞれの任務に移行する。チームIVはターゲットの確保を担当。離脱後、速やかにターゲットの所在へ移動し、接触、確保を実施する。チームV、チームVI、チームVIIIは────」
──森の中、数百人を優に超える生徒たちが、列を乱すことなく行進していた。
その先頭付近では、アリウスの指揮官である一人の生徒が声を張り上げ、数百人の生徒たちへ作戦概要を伝えている。
「……」
──ああ。この子たちは、私が本当にトリニティへ向かうと思っているんだ。信じて、疑ってすらいない。
森林の中へ無機質に響き渡る作戦概要を聞きながら、ミカはそんなことを考えていた。
「──」
ゲヘナの角が生えたやつらなんかと平和条約だなんて、冗談にも程がある。いくら考えても、その考えが変わるわけではない。
絶対に裏切られるに決まってるし、背中を見せたらすぐに刺されるだろう。
ミカは、ずっとずっと、そう確信していた。
──しかし。
「……ヒナちゃん」
それは、やはり一部の生徒……いや、大半の生徒がヒナのことを舐めているからこそ、暴動が起こるのではないかということだった。
ヒナが止める。それでも、また暴動が起こる。
止めて。起こされて。止めて。また起こされて……その繰り返し。
だからこそ、ヒナのような人が苦労する羽目になる。
その一幕を、この目で見たからこそ、ミカは別の視点から確信することができた。
──ゲヘナでも、そういうやつらを滅ぼしてしまえば……そうすれば、ヒナの負担は減るのではないか、と。
「あはっ」
狂気が入り混じった笑いが、口元からこぼれ落ちた。
それを、アリウスの生徒が聞き取ることはない。この後にミカが計画していることに気付かないのと同じことだ。
──そう。この数百人を率いて向かう先は、トリニティなんかではない。
いずれ向かわなければならない場所だとは思っていた。けれど、今となってはそんなことはどうでもよくなっていた。
「……んもう、見えにくいなあ」
そう呟いたところで、ミカたちは森林を抜けた。
薄暗かった視界が、月明かりによっていくらかクリアになったが……時間帯の影響か、あるいは、気候の影響か。
視界を覆い隠すように、濃い霧が立ち込めていた。
──見えにくいったら、ありゃしない。
「よし、ここから作戦を開始する。チームIVは、ターゲット確保するまで所定のポイントに──」
──なんか言っているが、心底どうでもいい。
だって、この後に向かう先はトリニティではないのだから。仮に反抗されたとしても、私一人で充分に制圧することができる。
……だって、真に向かうべき場所は──
「──君たちは、『スズラン』の花言葉を知っているかな?まあ、知らなくても別に困ることはないかもしれないけどね。とはいえ、知っておいて損になるようなことでもない。だから特別に、教えてあげなくもないよ。何事もそうだけど、知識というのは持っていて損をするものじゃないからね」
────は?
「──は?」
「……!?誰だッ!!?」
──意味が分からない。
何で、何で貴方がここにいるの。何で、憎たらしい声が聞こえてくるの。
「『再び幸せが訪れる』──そういう意味なんだよ。もちろん、幸せなんてものは人それぞれだ。何をもって幸せとするかなんて、他人が勝手に決めていいものじゃない。だけどね、僕に言わせれば、『再び幸せが訪れる』というのは、要するに一度失われた平穏が、もう一度自分のもとへ帰ってくる……そういう意味にも取れるわけだ。そう考えると、まさに僕のために存在する花と言っても過言ではないよね。何しろ僕が何よりも望んでいるのは、誰にも邪魔されず、誰にも権利を侵害されず、ただ平穏に生きていくことなんだから」
「総員警戒しろッ!この霧の中だ!むやみやたらに発砲するのは得策ではない!」
──何で、何で、いつも嫌なタイミングで貴方は現れるの。
「……まあ、好みという観点だけで言えば、僕はスミレのほうが好きだけどね」
──何で、先生なんかじゃないの。
「──ところでさ」
その一言を境に、レグルスから穏やかなトーンが消えた。
次の瞬間、周囲を覆っていた霧が、轟音とともに弾け飛ぶ。まるで何かに押し退けられたかのように、霧が一斉に四散していった。
それと同時に、ミカとアリウス生徒、そしてレグルスと、互いの視界が一気に開け、その存在をはっきりと捉えることができるようになる。
「──」
『ッ!?』
レグルスは、その異常ともいえる光景を視界に捉えた瞬間、目を細め、怪訝そうに表情を歪めた。
──その瞬間にはもう、数百人を超えるアリウスの生徒たちが、手にした銃口を一斉にレグルスへと向けていた。
……ミカは、身体をワナワナと震わせていた。
何に対して震えているのだろうか。
──恐怖?困惑?怒り?
「君は何をしようとしているわけ?──聖園ミカ」
その感情の答えは、この場においては全て無意味だ。