立ち込めていた霧が、まるで最初から存在しなかったかのように吹き散らされ、その向こう側でレグルスはミカへと向けていた顔をしかめていたが……すぐに何かを思い直したように表情を戻した。
そして今度は、レグルスの存在など知る由もないであろう、ガスマスクを被った生徒たちへ視線を向ける。
「──ああ、君はともかく、彼女たちに対して自己紹介がまだだったね……僕はゲマトリア所属の強欲の権化、レグルス・コルニアス。誰よりも平穏を愛し、平々凡々とただただひたすら穏やかで安寧とした日々を享受できればそれで十分だと思っている、僕という私財を守るのが精一杯のか弱い男性さ」
まるで、今この瞬間に思い出したとでも言わんばかりに、いきなりの自己紹介をし始めた。
自分を『か弱い男性』と称しているあたり、本人としては至って真面目なのだろう。
ただし、先ほどの光景を目の当たりにしていた彼女たちからすれば、その評価はどう贔屓目に見ても一致しない。
……霧を吹き飛ばした張本人が、平然と自らをか弱いと評している。
彼女たちの目には──人間というより、得体の知れない何かにしか映らなかった。
「──……っ!!」
「あのさあ、そんな恨めしそうな顔をされても、僕としては困るんだよ。僕はちゃんと言ったよね?君は一体、何をしようとしているのかってさ……まあ、君が答えるか答えないかについては、この際特別に免除してあげてもいい。僕は寛大だからね。答えたくないという君の意思そのものまで、わざわざ否定するつもりはないよ──だけどさ、それと君の言葉を僕が信用するかどうかは、また別の話なんだ。何より、他でもないこの僕は平穏をこよなく愛し、どこにでもいる一般男性なんだ。そんな僕に対して、こうも無遠慮に集団で銃口を向けてくるような状況を作っておいてさ。そのうえで何を言われたところで、それを素直に信じろという方が無理な話だよね」
「……ほんっと、ナルシストの貴方はよく口が回るね。無駄に話が長いのは会った当初から変わらないし。さっさとそこをどいてくれないかな?邪魔でしかないんだけど☆」
「話の論点をずらして、僕の疑問に何一つ答えないだなんてどういうつもりなわけ?それってつまり、僕の問いに答えるというごく当たり前の行為すら拒否しているってことだよね?その君の行いの全てが、僕の権利に対する重篤な侵害だ!これは決して許されることではないなあ……!」
「ぐちぐちうるさいなあ。一言でまとめてくれないかな?」
「脳筋で猪突猛進で短絡的で直情径行で思考より拳な聖園ミカ、僕の疑問に答えるんだ」
「のっ……!?」
計画通りに行くと思っていた。
アリウスの計画を完全に無視して、ヒナを助ける。
これから先の負担を少しでも減らすため、ゲヘナに乗り込んで、片っ端から問題児を叩き潰してしまえばいい。
そして、トリニティの子たちと気が合う人物同士で、本当のエデン条約を作ってしまえばいいと。
──四方八方、ありとあらゆる存在を裏切っている私と比べて、ヒナちゃんは報われるべき子なんだ。
「──ふう……貴方に答えられる疑問なんかないよ。本当に、そこをどいてくれる?時間が無いんだからさ」
「……」
レグルスから見ても、ミカは本当に焦っているように見えた。
ミカの言葉通り、『時間がない』というのは本当のことなのだろう。
それなら、ミカの背後に広がっている、趣味がいいとは到底言えないガスマスクを被った生徒たちが、整然と並び、その手にした銃口をこちらへ向けているのはどう説明するのだろうか。
……いや、考えるまでもない。
彼女たちは、どう考えたって武力集団だ。そうでなければ、これほど大勢で銃口を向けてくる理由など存在しない。
アビドスの市街地でゲヘナの風紀委員と対峙したときとも違うし、アビドスの砂漠でカイザーと対峙したときとも違う。
──単純に、規模が違いすぎる。
何より、全員が迷いなくこちらへ銃口を向けている。その事実が、レグルスにとっては何よりも不愉快だった。
平穏から遠ざかっている時点で、自分の望む日常が、またしても誰かの都合によって踏みにじられようとしているように感じられた。
『──ナギサが危ないんだ』
「──ああ、なるほど」
そんな嫌気を吐き出すように、レグルスは小さくため息をついた。
そして、一人で勝手に納得したとでも言うように頷くと、ミカへ向けていた視線をゆっくりと動かす。
その背後に広がるように並び、いまだ銃口をこちらへ向け続けている生徒たちへ、レグルスは一人ずつ確認するように視線を巡らせていく。
「君たちは、皆で仲良くトリニティに遊びに行くつもりなんだね──そんな平和なものじゃないだろうけどさ」
『──っ!?』
「……」
一番に動揺するかと思っていたミカが、意外にも表情を変えることはなかった。けれど、その背後にいた数百人の生徒たちのうち、ほんの数人程度が、一瞬だけ身体を震わせて動揺を見せる。
本人たちは隠しているつもりなのかもしれないが、バレバレだ。
「沈黙というのは肯定とも取れるし、逆に動揺しているということも、十分に肯定材料として扱えるんだよね……人間というのは面白いものでさ。何も言葉にしなくたって、ほんの些細な仕草や、視線の動き、間の取り方ひとつで、ある程度のことは察してしまうものなんだよ」
「──まるで化け物側が言う台詞だね!」
「君をこの場で始末してやろうかッ……!」
会う度に互いに罵倒し合うレグルスとミカは、周囲のことなどお構いなしに、またしても罵倒の応酬を続ける。
数百人もの生徒が銃口を向けているという状況すら、二人にとっては互いを言い負かすことより優先順位が低いらしい。
「……想定外の事態だ」
しかし、そんな二人のやり取りの間にも、時間だけは刻一刻と失われていく。
このまま無駄な時間を費やし続ければ、予定していた作戦にも支障が出かねない。そう判断した指揮官を務める生徒は、周囲の様子を窺いながらポケットへと手を入れ、ひび割れたスマートフォンを取り出した。
そして、画面に視線を落とすと、ある人物へ連絡を取り、今後の指示を仰ごうと通話ボタンに指を伸ばす。
──それが、良くなかった。
「ぐっ!?」
指先が画面に触れるよりも早く、手元に僅かな衝撃が走ったかと思えば、握っていたはずのスマートフォンが彼女の手を離れて勢いよく上空へと弾き飛ばされた。
あまりにも突然の出来事に、彼女は思わず目を見開く。
手元から離れたスマートフォンは、くるくると回転しながら頭上へ舞い上がり、やがて上昇する勢いを失うと、今度は重力に引かれるまま落下を始めた。
落とすわけにはいかないと、咄嗟に手を伸ばし、地面へと落ちる寸前のスマートフォンをどうにか受け止める。画面に走るひび割れがさらに増えていないことを確認する余裕もないまま、手の中に収まったそれを握り直した。
「……?……!?」
……一体、何が起きたのか。
疑問を抱いた彼女は、原因を確かめるべく、ゆっくりと顔を上げた。
──そこには、怪訝そうに顔をしかめながら、人差し指を天へと突き立てるレグルスの姿があった。
「あのさあ、いま僕がそこの頑固すぎる彼女と話をしていたところじゃないか。それなのに、自分には関係ないとでも言いたげに平然とスマホをいじろうとするなんて少しばかり無遠慮が過ぎると思わないの?君たちとしては、自分たちは関係ないと主張したいのかもしれないけど、そこに居合わせている君たちだって、決して無関係ではいられないんだ」
わざわざレグルスがそこまで気にしているのは、余計な行動を取ってほしくないからこそだ。
そして何より、レグルスが望んでいるのは、あくまでも穏便に事を済ませること。
さっさと家に帰り、花を眺めながら穏やかな時間を過ごしたいという思いが先行しているため、どうにかしてこの場の不穏分子を片付けてしまいたい。それが、この男の本音だった。
「いいかい。僕は別に、君たちのスマホを取り上げたいわけでも、好き好んで壊したいわけでもないんだよ。僕は平和主義者だからね。無用な争いなんて、できることなら避けておきたい。けれど、それは君たちが何をしても許されるという意味じゃない……だから、もう一度だけ言っておくよ。次にスマホをいじるような真似をしたら、今度こそ、その画面がどうなろうと僕は一切保証しないからね。君たちが自分の持ち物をどう扱おうと自由だけど、僕の忠告を無視した結果まで、僕に責任を押しつけるのは止めるんだ──君たちならさあ……分かるだろ?」
『──っ!』
……彼女たちは、ただ銃口を向けているだけではなかった。
レグルス・コルニアスと名乗った男の一挙手一投足を注意深く観察し、本当にただの一般男性なのか、それとも何かしらの戦闘能力を隠し持っているのか、あるいは衣服の下に銃などの武器を隠しているのではないかと、それぞれに考えを巡らせていた。
しかし、そのどれもが、先ほど目の当たりにした現象の説明にはならなかった。彼女たちが共通して認識できたのは、ただ一つ。
「……気を付けろ──あいつは、普通じゃない」
──目に見えない何かを飛ばし、スマートフォンを弾き飛ばしたという事実だけだった。
何をしたのかも、どのような手段を用いたのかも分からない。だからこそ、彼女たちにとって目の前の男は、先ほどまで以上に警戒すべき存在となってしまった。
「ちょっと興奮したからってすぐに手を出すだなんてさ、この子たちが可哀想じゃん。貴方は何がしたいの?馬鹿なの?」
「脳みそまで筋肉でできているんじゃないかと思うほど語彙力に乏しい君とこれ以上話を続けたところで埒が明かないんだよね。そこの子たちと話をさせてもらえるかな?もちろん、穏便に済むようにね」
「この違法聖職者っ……!」
ミカが恨めしそうに吐き捨てるものの、レグルスは聞こえなかったとでも言いたげに、彼女の言葉を綺麗に無視する。
そして、ガスマスクを被っているせいで表情の窺えない生徒たちへと向き直り、今度こそ話を進めようと口を開いた。
「──それで、君たちは一体どこの学園の生徒で、どうして聖園ミカと一緒にいるのかな?できるだけ簡潔に、誰が聞いても理解できるような答えを提示してほしいんだけど」
『…………』
「おいおい、黙秘は正当な権利とでも訴えたいわけ?この状況でそんなことがまかり通るわけが──」
「動くな」
「──……」
「……それ以上こちらに近づいたら、無事では済まないと思え」
指揮官の言葉を合図にしたかのように、生徒たちの動きが変わった。
ただ銃口を向けるだけでは飽き足らず、いつでも発砲できるとばかりに照準を定める者がいる一方で、グレネードのピンに手を掛ける者や、ロケットランチャーを構えてレグルスを文字通りオーバーキルしようとする者まで現れ始めた。
穏便に済ませたいというレグルスの願いとは裏腹に、周囲の物騒さは増していくばかりである。
──それでも、戦車がないだけマシだなと思うのは、果たして良いことなのだろうか。
「だとしたらなに?僕がこうして立ち止まって、君たちは僕に答えを提示してくれるわけ?そうやって黙秘を続けることが、僕の疑問を解消する機会を奪い、僕が納得する権利を踏みにじっていることに気づきなよ。僕はただ、筋の通った説明を求めているだけなんだ。それすら拒んでおきながら、自分たちの権利ばかり主張するなんて、そんなのはあまりにも身勝手じゃない?」
「お前には関係ない。今すぐ後退して、この場を去れ」
「あのさあ、僕は最初に名乗ったよね?レグルス・コルニアスってさ。僕がこうしてきちんと名乗っているというのに、君は僕のことを『お前』だなんて、ずいぶんと野蛮で無遠慮な呼び方をするじゃないか。相手の名前を知っているのなら、きちんと名前で呼ぶ。それだけで意思疎通だってずっと円滑になるし、余計な摩擦を生まずに済むんだよ。そんな当たり前の配慮すらできないのかな?今から君たちの名前を一人ずつ聞き出して、面と向かって対話してやっても良いんだよ僕は……ま、そうなると終わる頃には太陽が顔を見せることになるかもしれないけどね」
生徒たちはレグルスを退かせようとし、レグルスは彼女たちから納得のいく説明を引き出そうとする。
互いに自分の目的を果たすため、その場から動こうとしないのだから、このままではいつまで経っても埒が明かない。
そう考えていたレグルスだったが──不意に耳へ届いた意外な声によって、停滞していた事態は思いがけない進展を見せることとなる。
「──この子たちは、『アリウス』の子たちだよ。アリウスは元々はトリニティの一員で、ゲヘナを心底憎んでいるの……だから、一緒にエデン条約をぶっ壊そうって、私が誘ったの☆」
「っ!?──なぜ目的をっ……!?」
先ほどまでの恨めしそうな表情が嘘だったかのように、ミカは明るく、さも何でもないことのように自分たちの目的を口にした。
そのあまりにもあっけらかんとした告白に、アリウスの生徒の一人が、なぜ部外者に目的を明かしたのかと動揺を露わにする。
「──『アリウス』だって?」
エデン条約をぶっ壊すという、聞き捨てならない言葉。
それを耳にしたレグルスだったが、彼がそれ以上に強い反応を示したのは、ほかでもない『アリウス』という単語に対して、眉間に皺を寄せ、その名を確かめるように呟く。
「そうそう、ナギちゃんもセイアちゃんも協力してくれなかったからね、私が手を差し出したの……志を共にして、ゲヘナと平和条約を結ぼうとする悪党たちを──」
「君たちは聖園ミカの言う通り、『アリウス』の生徒に間違いはないんだろうね?」
「ちょっと、まだ私が話してるところだよね!?」
「君の言い分も、その先に控えているロクでもない企みも、わざわざ最後まで聞かなくたって大体の察しはついているんだ。そもそも、君がこれから何を口にしようと、それで僕が納得するとは限らないからさ、これ以上無駄に言葉を費やす必要なんてないじゃないか。さっさとその小さな口を閉じて、黙っていてくれないかな?」
「ほんっとにさ、ほんっっとにさっ!!ほんっとに貴方ってムカつく人だねっ!?」
話の腰を折られたミカが、たまらず声を荒らげる。
しかし、レグルスはミカの抗議など意にも介さず、目の前の生徒たちへと問いを投げかけていた。
「──っち……そうだ、我々は『アリウス』に所属している。それがどうした?」
ミカがほとんど目的を口にしてしまった以上、アリウスの生徒たちが所属を隠し続ける意味も薄れていた。舌打ち交じりに認めたものの、だからといって彼女たちが警戒を解いたわけではない。
むしろ、問題はここからだった。
目の前にいるレグルスという男が、今後の計画にとって障害となり得るのか。それを見極める必要が生じたことで、生徒たちの警戒は一層強まっていく。先ほどまで向けられていた銃口や、いつでも攻撃に移れるよう構えられた武器の存在が、その緊張を如実に物語っていた。
「──君たちアリウスのトップは、ベアトリーチェで間違いはないよね?」
「……?『マダム』のことか?」
「は?あの女、生徒たちにまで『マダム』なんて呼ばせてるの?……そう考えれば考えるほど気持ち悪いし、鳥肌が立ってきたよ。そう呼ばせることで、自分の立場や権威を実際以上に大きく見せたいってわけ?」
──気持ち悪い、だからあの女の性格だけは心底嫌いなんだ。
吐き捨てるように呟くと、レグルスは改めてアリウスの生徒たちへと向き直る。
つい先ほどまでは、銃口を向けられ、グレネードやロケットランチャーまで持ち出されたことに、少なからず憤慨していた。だが、今はそれ以上に、ベアトリーチェという女に対する嫌悪が勝っていた。
「……ガスマスクの着用は、あの女が命令したからなのかな?」
「お前に答えてどうなる。今のこの状況とは何も関係ないだろう」
「いいや、関係あるとも。周囲に有害なガスが蔓延しているわけでもなければ、単なるファッションとして好んで身につけている、という話でもない。それなのに、そこにいる全員が揃いも揃って同じものを着用している。これを異常と言わずして、一体ほかに何と表現すればいいわけ?……それに──」
──レグルス・コルニアスは、権利の侵害を大いに嫌う生物だ。
ゆえに、彼は嫌悪を露わにした表情を何一つ隠そうとせず、まるで憐れむかのような眼差しを向けながら、数百人もの生徒たちと向き合う。
「──その行いは、君たち一人ひとりから、ありとあらゆる感情表現を奪っているのと同義だと思わないのかな?」
「……は?お前は何をいって──」
レグルスは今、あからさまに嫌そうな表情を浮かべている。
レグルスのように、人間の表情というものは、目や鼻、口といった顔の各部位が感情に応じて動くことで初めて形作られるものだ。
レグルスが不快感を露わにしているのも、怒りや嫌悪といった感情が、その顔に如実に表れているからにほかならない。
「人間の顔というのはね、ただ目や鼻や口が並んでいるだけの、つまらない部品の集合体じゃないんだよ。喜んだときには笑い、悲しんだときには曇り、怒ったときには険しくなる。そうやって、一人一人が異なる感情を持ち、異なる反応を示すからこそ、その人がその人であると分かるんじゃないか」
「ちょ、ちょっと貴方、いきなり何をいって──っ!!?」
突然始まったレグルスの演説に、ミカは慌てた様子でレグルスのもとへ駆け寄ろうとした。
しかし、レグルスにしては珍しく、すぐに片腕を勢いよく振り上げ、直後、凄まじい風圧が巻き起こり、轟音とともに真空波がミカのすぐ脇を通り過ぎる。
地面が抉れ、土砂が飛び散り、その余波だけでミカの足は止まった。
──近づこうにも、近づけない。
これまでレグルスと顔を合わせるたびに、ギャーギャーと言い合いを繰り返してきたミカだったが、少なくとも、こんな態度を取る彼を見たことはなかった。いつものように腹立たしい言葉を並べているはずなのに、そこには普段とは異なる、妙な迫力があった。
「それなのに、いまの君たちは?誰も彼もが同じガスマスクを着けて、顔を隠して、表情を覆い隠している。誰が笑っているのかも、誰が怯えているのかも、誰が怒りを堪えているのかも分からない。もちろん、顔を隠すこと自体が悪いなんて言うつもりはないよ。そんなものは個人の自由だ。必要があるなら着ければいいし、着けたくないなら外せばいい。僕はそういう、当たり前の選択を尊重する人間だからね」
そこまで言うと、レグルスは一瞬、満足げな笑顔を浮かべるが、それも束の間のことだ。次の瞬間には、再び憐れむような表情へと戻っている。
「だけどさ、それが本当に君たち自身の意思なのかな?笑いたいときに笑い、怒りたいときに怒り、悲しいときには悲しむ。それが許されるからこそ、人間は一人一人違う存在でいられる。誰かの都合で顔を覆われ、感情を読み取る手段を奪われ、ただ同じ姿をした集団の一部として扱われる……そんなものを、とてもじゃないけど、僕は健全な状態だとは思わない」
「──黙れ。それ以上変なこと喋るのであれば、今度こそ問答無用で始末するぞ」
そんな脅しを受けても、レグルスが口を閉ざすことはない。
「君たちは、あの女に従うために生徒になったのかな?それとも、自分自身の人生を生きるために、ここにいるのかな?……まあ、別に答えなくてもいいよ。どうせ君たちの口から聞くことは叶わなそうだからね──ただ、一つだけ覚えておくといいよ」
──権利の侵害に関しては、この男に勝る者はいない。
もちろん、悪い意味でだ。
「誰かに顔を隠されることと、誰かに自分自身を奪われることは、決して無関係じゃないよ。それに、君たちが自分の意思で選んだわけでもないものを、さも当然のように受け入れなければならないのだとしたら──それってある意味、君たちの権利の侵害だよね?」
「お前っ……!」
長々と、嫌味ったらしさをこれでもかと詰め込んだ演説だった。
アリウスの生徒たちが権利を侵害されているのだと、レグルスはさも当然のように言い切ったのである。その言い分はあまりにも一方的で、身勝手極まりないものだった。指揮官を含め、何人かの生徒が怒りを露わにするのも無理はない。
──だが。
「──私たち、他の子たちと違うのかな」
それは、あまりにも小さな声だった。周囲の怒声や武器を構える音に紛れてしまいそうなほど、か細い声だった。
「っ!!総員っ!発砲を許可する!目標、レグルス・コルニアスと名乗る男!奴は絶対に始末するんだっ!!」
──これはダメだ。
あの男とこれ以上話していたら、目的を見失う。前提を見失う。今まで積み上げてきたものも、何もかもが崩れてしまう。
「あのさあ!僕は君たちにできるだけ歩み寄ったつもりなのに、出した結論が始末するだって!?それってさ、僕に対する権利の重篤な侵害だよねっ!これは到底、許されるものではないなあっ!!」
「ちょ、ちょっと、何でこんなこと──」
思わぬところで、大規模な戦争が始まる……まさに、その瞬間だった。
「皆さん、今一度、落ち着いてください」
──杖が、地面を叩く音が聞こえた。
「っ!今度は誰だ!?」
「……おいおい、何で君がここにいるわけ?」
「──どういうこと……もう、訳が分かんないよ……」
それぞれが驚きや困惑を露わにするなか、突如として空間の一角が紫色に迸った。
次の瞬間、そこにはブラックホールを思わせる、底知れぬ闇が口を開ける。まるで空間そのものが捻じ曲げられ、その奥に隠されていた何かが、こちら側へと姿を現そうとしているかのようだった。
そして、その異様な空間の中から──それは現れた。
「この物語は、まだまだ終わりを迎えず、どこまでも続いていくのでしょう……ですが、その概念が、いかなる終着点へと至るのか。それについては、わたくしにも……いえ、誰にも知り得ないことです。すでに物語は捻れ、文脈は絡み合い、あらゆる事象が本来の意味から逸脱しつつあるのですから」
「まあそういうこった!」
──その存在には、首がなかった。
あまりにも奇妙で、あまりにも不気味な存在。
そんなものが、今まさに緊張の極みにあったこの場へと姿を現し──
「──ゆえに、アリウスの生徒たちは、この場において、既存の文脈から逸脱した存在となった……そう解釈するのが妥当でしょう。何しろ、これは紛れもなく、『レグルス・コルニアス』と『聖園ミカ』という、この場では本来交わるはずのなかった二つの記号によって構成された、不可思議にして不可解なテクストなのですから」
「そういうこったあっ!!」
デカルコマニーが声を張り上げると同時に、その手に握られていた『爆弾』が、あまりにも軽やかな動作で放り投げられた。
「……は?爆弾──」
それに気づいたアリウスの生徒の一人が、咄嗟に声を上げようとした、その刹那──爆発は起こった。
「うっ!?」
「がっ……!?」
「あがっ!?……なんだ、こ、れ──」
轟音とともに、凄まじい衝撃が周囲を蹂躙する。煙が立ち上り、視界を覆い尽くしていく。
突如として巻き起こった嵐に、先ほどまでの緊迫した状況すら、別の意味で霞んでしまうほどだった。
「──ほんっとに、何が起こってるの……!?」
もはや理解が追いつかない。そう言わんばかりに、ミカは悲鳴じみた声を上げ、爆発の衝撃に備え、背中の羽を広げ、できる限り自身の身体を覆い隠すが──いつまでたっても痛みがくる気配がない。
「……?」
恐る恐る、ミカは身体を覆っていた羽を戻す。
そして、ゆっくりと目を開けたその瞬間、誰かのため息が聞こえたとほとんど同時に、周囲を震わせる轟音が鳴り響く。それにより、爆発によって立ち込めていた煙は、まるで何かに押し流されたかのように、あっけなく消え去った。
「────え」
煙が晴れ、視界が開けた瞬間、ミカは絶句した。
つい先ほどまで、銃を構え、レグルスを始末しようと息巻いていたアリウスの生徒たち。その数百人にも及ぶ彼女たちが、まるで一斉に機能を停止させられたかのように、ことごとく意識を失っていたのだ。ゆえに、立っている者はいない。
──ただ一人、ミカだけを残して。
「あのさあ、こんなことをしておいて、君は一体どう責任を取るつもりなわけ?僕は今、彼女たちを相手に、ごく当たり前のことを話していたところじゃないか。それを君が、試作品の性能を試したいからって、今この場で使用するとか頭おかしいんじゃないの?」
「……わたくしの試作品を覚えていてくださったのですね。これはこれは、実に嬉しいことです。もっとも……かの爆弾と比較すれば、こちらは劣化品と評するほかない代物なのですが。しかし、物の価値というものは、必ずしも性能の優劣だけで決まるわけではありません。あの時、アリウスに足を踏み入れ、あのテクストを持ち帰ったこと……そのおかげで、こうしてヘイローへのジャミングを実現できたのですから」
──ミカには、目の前にいる二人の人物が、どうしても理解できなかった。
「えっ?君が言うテクストって持ち帰ることができる代物だったわけ?衝撃過ぎる事実を躊躇なく暴露するのは止めてもらえないかな?」
──不気味で、不気味で、仕方がない。
「ああ、聖園ミカさんは、わたくしたちと初めての邂逅ですね──わたくしたちは、『ゲマトリア所属の解釈の権化、ゴルコンダ、デカルコマニー』と申します。レグルスと同じように、七つの大罪に則っていないことをお許しください」
「そういうこった!そういうこったあ!」
「この僕の言葉を無視するだなんて、良い度胸じゃないか。手始めに、デカルコマニーの杖を折ってやろうと思っているんだけど、良いよね?」
「どういうこったあ!?」
──片や、自分の主張を当然の権利として押し通す化け物。片や、『そういうこった!』と理解不能な言葉を叫びながら爆弾を放り投げる化け物。
あまりの恐怖に、思考がまともに働かない。
「わたくしたちがこうして足を運んだのは、助言するためです──レグルスさん。百合園セイアさんが生きていることを聖園ミカさんに伝えては?」
「は?何で君がその事を知って──いや、この際それはどうでもいい。確かにそうだ、今はそんなことを話している場合じゃなかった。まったく、余計な横槍が入ったせいで、すっかり話が脱線してしまったじゃないか。僕は本来、そのことを伝えるためにここへ来たんだったね──聖園ミカ。君に、一つ知らせておこう。セイアは、生きているよ」
「──嘘を、つかないでっ!!」
──あまりの恐怖に、これ以上、何も信じられない。
疑念と恐怖が絡み合い、まともな判断を下す余地さえ奪われていく。
「はあ!?誰が嘘つきだって!?僕は君に嘘つきと呼ばれる筋合いはないし、嘘をついて何のメリットがあるっていうんだ!……ああ、証拠が無いと何も信用できないって?それなら、お望み通り証拠を見せてやるよ。相手をどこまでも気遣えるこの僕に感謝すると良い」
レグルスは先ほど取った写真という名の証拠を見せつけるため、スマートフォンを取り出し、操作する。
「──────」
どうする?どうすればいい?どこで、何を間違えた?最初から、やっぱり間違えていたのだろうか?私は、どうすればいい?どうせ私には、もう先がないというのに。それなのに、どうして今さら、そんなことを思うのだろう。
私は、私は、わたしは──
「……っ──っっ!!!」
──ミカの中で、何かが限界を迎えた。
その瞬間、レグルスへと視線を定めると、必死の形相で腕を掲げた。
「──おお、これは……なんとも素晴らしいテクストですね」
「そういうこったあ!」
それを目にしたゴルコンダは、思わず感嘆の声を漏らした。デカルコマニーもまた、いつもの調子で声を張り上げる。
どうやら、それは彼らにとっても興味を引かれる代物だったらしい。
──だが、当のレグルスは、スマートフォンの画面を操作することに集中していた。目的の写真を探し出すことに気を取られているせいで、ミカが何をしようとしているのか、未だに気づいていない。
「会った時から僕を敵視して、挙げ句の果てには暴力を振ろうとするとか、滑稽すぎて笑っちゃうよね……ほら、これが紛れもない証拠だ!君はこれで認めざるをえ……な──?」
──あれ、やけに周囲が暗くないか……というより、なぜ僕の周囲だけがこんなにも黒く染まっている?
そう考えた瞬間、頭上から何かが迫る音が聞こえた。それに、レグルスは反射的に顔を上げ──
「──────はっ???」
──隕石が、落ちてきていることが分かった。
「え、は?えっ、意味が分かぐぼぅ゛ああああああああああああああッッッッ!!?」
気づくのが遅すぎたせいで、レグルスは迫り来る隕石の直撃をまともに受けた。
あまりにも凄まじい質量が地面へと叩きつけられ、周囲の大地は大きく抉り取られる。衝撃によって土砂が舞い上がり、隕石の落下地点からは地獄の業火を思わせる炎が燃え広がっていた。
「はっ……はぁ……はぁ──!」
恐怖に駆られた末、隕石という名の星を落としてしまったミカは、荒い呼吸を繰り返していた。
息を吐くたびに、胸の奥で渦巻く恐怖まで一緒に吐き出そうとしているかのようだった。
「……聖園ミカさん」
「っ!な、なに!?貴方は、一体なに──」
「──前方に、気を付けた方が良いですよ」
「そういうこったあ!」
「えっ?……!!?」
次の瞬間、隕石の落下地点から轟音が鳴り響いた。
燃え盛る業火の向こう側。立ち込める煙と舞い上がった土砂を掻い潜るようにして、一つの人影が……レグルスが、凄まじい速度でミカへと迫っていた。
「──っっ!!!」
ミカは咄嗟に銃を盾のように構えた。直後、レグルスの繰り出した蹴りが、その銃へと叩きつけられた。
衝撃が全身を駆け抜け、そのあまりの威力に、ミカの身体は受け止めきれず、そのまま後方へと吹き飛ばされる。
背中から森林の木々へと激突し、一本、また一本と幹に身体を打ちつけながら、勢いを殺しきれないまま森の奥へと消えていった。
「……どうするつもりですか?」
その様子を眺めながら、ゴルコンダが静かに問いかけた。
当のレグルスは、服に付着した隕石の欠片を一つ一つ丁寧に払い落とすと、心底うんざりしたように長いため息を吐いた。
「──ああいうのは、一度叩かないと治らないポンコツだからね」
そして、レグルスはそれ以上何も語らず、地面を蹴り、ミカが吹き飛ばされていった森林の奥へと消えていった。
「……」
森林の奥へと消えていくレグルスの背中を、ゴルコンダがしばらく眺めた後──
「……満足しましたか?──黒服」
『クックック……!ええ、実に良いもの見せてもらいました。ゴルコンダのテクストによる解釈法に、レグルスの強欲さゆえの圧倒的な神秘……そして、聖園ミカさんによる神秘を凝縮した星の数々。ええ、ええ、実に素晴らしいッ!』
──ゴルコンダとデカルコマニーの目の前に、一機のドローンが現れた。
その音声モジュールから響き渡るのは、黒服の声。姿こそ見えずとも、声の端々から伝わってくる興奮は隠しようもなかった。
「私は試作品を試せて満足したのですが……これは明確に、ベアトリーチェに対しての妨害行為になるのでは?我々は、互いに妨害する権利はなかったはずですが……」
ゴルコンダは、どこか釈然としない様子で黒服へと問いかけた。
……確かに、テクストを追求した試作品を実際に使用し、その性能を確かめることはできた。得られた結果も、決して悪いものではない。だが、それとこれとは話が別だ。今回の一件は、明らかにベアトリーチェの計画へ干渉する行為にほかならない。
少なくとも、表向きの取り決めを考えれば、何の問題もないと言い切ることは難しいはずだった。
──しかし、返ってきた言葉は、黒服にとっては何ら問題にもならない、至極当然の返答だった。
『クックックッ……私たちは、ベアトリーチェがこの後何をしようとしていたか知らない。そうでしょう、ゴルコンダ?』
「──ええ、確かに。わたくしたちは、何も存じ上げませんね」
『つまりは、そういうことですよ』
「そういうこったあ!」
──素晴らしい意気投合だ。
ゲマトリアのメンバーは、基本的に各々が自由に行動する。そのため、定例会の席であっても意見が衝突することは珍しくない。各人がそれぞれの探求対象を持ち、独自の解釈と価値観に従って動いている以上、足並みが揃わない時がたまにあるのも当然と言えば当然だった。
だが、この瞬間に限っては、実に見事なまでに意見が一致していた。我々はただ、純粋な気持ちで崇高を追い求めているだけなのだ。
妨害行為?何それ美味しいの?
──そう、つまりはそういうことだった。
『本当であれば、暁の……小鳥遊ホシノさんと衝突することで、かの神秘を存分に発揮していただきたかったですが、それは叶わなかった──ええ、ですがッ!まさかトリニティにも、あのような方がいらっしゃるとは想定していませんでしたッ!文字通り、星を降らせるとは……!世界はまだまだ広いのだと、実感した次第です』
「……ふむ」
「そういうこったあ!」
『──だからこそ、アリウスの皆さんには申し訳ないのですが、こうして一度、眠っていただく必要がありました。そうしなければ、レグルスがその神秘を存分に振るうこともないまま、かつてアビドスの市街地で起きたことと同じように、あっけなく終わってしまう……それだけは、避けたかったのです』
「……なるほど」
「そういうこったあ!!」
『ゴルコンダ!今回の記録は、今までのものとは比較にならないほど素晴らしいものになりそうですよ!日常生活の中で生徒たちに襲われる時よりもッ!アビドスの市街地でゲヘナ風紀委員と対峙した時よりもッ!カイザーを蹂躙した時よりもッ!ああ、実に素晴らしいッ!素晴らしすぎて──』
「……」
ゴルコンダは、黙って次の言葉を待っていた。
黒服がここまで興奮しているのなら、そろそろ例の台詞が飛び出す頃合いだろう。これまでの経験から、その予想には確かな自信があった。
『脳が、震えてしまいますッッッ!!』
「そういうこったあッッッ!!」
デカルコマニーも、黒服に同調するかのように声高らかに叫んだ。
興奮した際にこうして叫ぶのは、いつものことではあるが、今日の『そういうこったあ!』には、普段にも増して気合いが入っているような気がした。
……よほど気に入っているのだろうか。
『──失礼、取り乱しました』
急に落ち着くな。
『それでは私はこの辺で。ゴルコンダ、また定例会で会いましょう。クックッ、クックックックックッ──!』
再び笑い声を響かせながら、黒服のドローンは飛び去っていった。
その進路は、先ほどレグルスが向かった森林の奥。どうやら彼を追いかけるつもりらしい。ドローンの姿は木々の間に広がる闇へと紛れ、完全に見えなくなった。
「……」
しばしの沈黙が流れる。
そして、黒服の姿が完全に見えなくなったことを確認してから、ゴルコンダは独り言のように呟いた。
「──楽しそうですね」
「そういうこったあ!」
◆
草木を掻き分けるようにして、前へ、前へと進んでいく。
森林に生い茂る木々は、ミカが衝突した際の衝撃によって、力なく横倒しになっていた。そのほとんどが、もはや木としての原形を留めておらず、無残にも丸太と化している。
そんな惨状の中を、レグルスは何やらブツブツと呟きながら、森林の奥深くへと進んでいった。
行く手を塞ぐ倒木を軽々と飛び越え、あるいは身を屈めて潜り抜ける。そうして着実に前進していたレグルスだったが──やがて、ふと、その足を止めた。
「おかしいなあ」
思っていたよりも、森林への被害が少ない。
そのことを裏付けるように、レグルスは想定していたほど森林の奥深くまでは進んでいなかった。
だとすれば、本来ならば、この辺りで見つかるはずなのだ。力なく倒れ、意識を失った一人の少女──聖園ミカの姿が。
少なくとも、レグルスはそう考えていた。あれだけの衝撃を受けたのだから、そうなっていて当然だと。レグルスの中では、すでに決着のついた話だったのである。
……しかし、これはすでに、レグルスの想定など容易く覆してしまった物語だ。
「──なんで、聖園ミカがここにいなォゴあ゛!?」
──背中に、強烈な衝撃が走る。
その瞬間、森林がさらなる被害を受けることは、もはや避けようのない事態となった。