「……完全に寝たみたいだね」
「そのようですね。聞きたいことが、山ほどあったのですが」
「今のナギサは、誰の目から見ても疲労困憊と言って差し支えない状態だった。現ティーパーティーのホストとして、果たすべき責務を全うしようとするあまり、あらゆる物事に疑念を抱き、やがては疑心暗鬼の渦中へと自らを追い込んでいったのだろうね。責任を果たそうとする姿勢そのものは、決して否定されるべきものではない。だが、こうして立ち止まる時間も時には必要ということだ、ミネにも分かるだろう?」
「──はい、救護対象であることは間違いありません」
「君の救護は聞くだけでも頼もしいね」
意図とは少々ずれた回答をするミネにセイアは苦笑する。
救護に関しては、ミネ自身が立ち止まることなど未来永劫なさそうだねと考えながら、その働きぶりには感心せざるを得なかった。
「しかし、私のレグ……『契約者』はどこに行ったのだろうか。あれほどここに泊まっても良いと言ったのに」
「…………飛び出すように出ていかれましたね」
自分のものだと主張しかけたセイアの発言を、ミネはあえて聞き流した。
……とはいえ、ミネ自身もレグルスが何を考えてあの場を去ったのか、疑問に思っているのは事実だ。
『僕の時間を差し出す義理はない』と、あれほど断言していたのだ。自分が持つ時間の権利を侵害されることを、よほど嫌っているのだろうか。
単純に考えれば、そういうことになるが……今ここで自分があれこれ考えたところで、答えが出るとは限らない。それに、セイア様ならば、後になってからでも理解するだろう。
そう結論づけ、ミネはひとまず思考を打ち切った。
「ふむ、仕方がないね。それについては、また機会を改めて誘ってみるとしよう」
──まだ眠るには早い時間だ。
ナギサはベッドで休んでいるのだから、自分は椅子にでも腰掛けて、本でも読みながら時間を潰すとしよう。
そうして本棚から一冊の本を手に取った、そのときだった。
「──おや」
何かに気づいたように、セイアの視線が本から離れる。その視線が向かった先は、窓の外を覆い隠すカーテンだった。
「セイア様?」
疑問の声を上げるミネをよそに、セイアはテクテクとカーテンへと歩み寄る。やがて、それを開いて窓を開けると、身を乗り出すようにして夜空を見上げた。
「──今日は、満月の日か」
感嘆の声が漏れ、月明かりを受けたセイアの瞳が淡く輝く。
視界いっぱいに広がるのは、一面の星空。そして、その中でもひときわ存在感を放つ、見事な満月だった。
月の光がキヴォトスの夜を照らし、その輝きを地上へと降り注いでいる。
「月というものは、不思議なものだね。満ちては欠け、欠けてはまた満ちる。その繰り返しの中にあっても月そのものが失われることはない。たとえ今、その姿が見えなくなったとしても……時が巡れば、再び夜空にその姿を現す。まるで、失われたものが必ずしも、永遠に失われたわけではないと告げるかのようだ」
思えば、敵襲から逃れるために身を潜める生活を始めて以来、こうして月を眺める暇すらなかった気がする。
それだけではなく、明晰夢に囚われ続けていたこともあり、心から夜空を見上げる余裕など、とうに失っていた。
身体はまだ万全ではないが、こうして月を眺めていられる程度には、ほんの少しだけ余裕が生まれたのだろう。
そう思うと、胸の奥に小さな安堵が広がった。
「……ん?」
穏やかな気持ちで満月を眺めていたセイアの目に、ほんの一瞬、何かがきらりと光るものが映った。
最初は気のせいかと思った。だが、目を細め、視線を凝らしてみると──しばらくして、その正体に思い至る。
「──流星?」
満月を背に、一筋の光が夜空を駆けていた。
淡く、けれども目を離すことのできないほど鮮烈な輝きが、漆黒の帳に細い尾を引きながら、月の白銀に照らされた夜空を裂いていく。その姿は、まるで天上から零れ落ちた星のようだった。
「いや、あれは……」
誰が見ても、流星だと断言するかもしれない。
宇宙の塵が大気圏へと飛び込み、摩擦などによって発光する現象。それが流星なのだから、あの光もまた、空から降り注いだ塵の一つに過ぎないと言われればそれまでだ。
──しかし、流星が描く一筋の光。その中に、ほんのわずかに欠けたような光が纏わりついているように見えるのは、気のせいだろうか……いや、待て。
「私はあれを、つい最近どこかで──」
「セイア様。夜空を眺めるのは構いませんが、あまり身を晒すような事はしないようにしてください。まだ、お身体も万全じゃありませんし……万が一のことがあれば、救護しなくてはなりませんから」
思考の途中で、ミネから声がかかった。
どうやら、夜空を眺めること自体は大目に見てくれるらしいが、今すぐ窓から身を乗り出すのをやめなければ、強制的に救護するぞ──そんな警告にも聞こえる言葉だった。
救護騎士団の団長であるミネのことだ。身体を心配してくれているのはもちろん、世間から身を隠している現状を踏まえ、万が一にも誰かに姿を見られないよう配慮してくれているのだろう。
「──あ、ああ。すまないね、ミネ。夜空をこうしてゆっくりと眺める機会など、久しくなかったものだから……どうやら、知らず知らずのうちに気分が高揚していたようだ」
その意図を察したセイアは、少し慌てながらミネに謝罪した。
せっかく気を遣ってくれている相手に、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
「……」
セイアは最後にもう一度だけ、あの不可思議な流星へと目を向け、ほんのわずかな時間、その光を見つめてから──
「──不思議なものだね」
カーテンを閉め、夜空を遮断するのだった。
◆
「ふざっけるなよおおおおおおぉぉぉぉッッ!!?」
背中に凄まじい衝撃が走った刹那、レグルスの身体が森林の木々へと叩きつけられ、太い幹が次々と砕け散り、枝葉が宙を舞う。
身体が木々に激突するたびに凄絶な衝撃が響き渡り、それでもなお止まることのないレグルスの口から、怒りと憤りに満ちた絶叫が森林中へとこだましていく。
──奇しくも、先ほどのミカとまったく同じような有様である。
幾重にも重なっていた木々の壁は無残に崩れ去り、折れた幹や砕けた枝が周囲に散乱し、レグルスが突き抜けた軌跡に沿って、月明かりを遮っていた樹冠が次々と失われていく。
やがて、レグルスが通過した一帯は、夜空から降り注ぐ月光に照らされるほどに開けた空間へと変貌していた。
「──あと少し……あと少しだったのにっ……!」
ミカの蹴りは、積もり積もった怨みをすべてぶつけるかのような勢いだった。
ゲヘナの問題児を叩き潰したかった。何もかも蹴散らしてしまいたかった……それなのに、それを邪魔された。そして挙げ句の果てには、アリウスの生徒たちにまで手を出し、自分を独りぼっちにさせた。
──まるで、お前はそういう人間なのだと、突きつけられているかのように。
「……はやく、行かないと──」
「あのさあ、僕をここまで散々コケにしておいて、そのまま何事もなかったみたいに立ち去ろうとするなんて一体どういうつもりなの?わざわざ時間を割いて、こうして向き合ってあげていたというのに、僕の話をまともに聞こうともせず、挙げ句の果てには僕を無視して立ち去るだって?そんな身勝手で悪質な行為が、どうしてまかり通ると思っているのかなあ!?」
「──なんで、平然としているの」
星を落としたときもそうだった。
あのときは、あまりの恐怖に駆られ、咄嗟に行動したに過ぎない。考えて動いたわけでも、勝算があったわけでもない。ただ、自分にできることを必死にやっただけだった。
それなのに、レグルスは傷一つ負うことなく、あの凄まじい蹴りを繰り出してきた。
生徒たちとは違い、先生と同じように、ただ一人の男性にしか見えない。それにもかかわらず、擦り傷の一つすら負わない。
キヴォトスの常識からすれば、あまりにも異常で、あまりにも異端な存在。
──ミカは、そんな化け物を攻略しなければならない。
「他ならぬ君が、エデン条約をぶち壊そうとすることで、僕がようやく手を伸ばしていた平穏への道を、その一歩を踏みにじろうとしている。だからこそ君には、身をもって理解してもらうよ──そんなことが未来永劫訪れることはありえないんだということをね」
そう言いながら、先ほどの激突によって木が折れ、無造作に転がっていた丸太を足先に引っ掛けると、まるでボールでも扱うかのように軽々と蹴り上げ、軽快な動きでレグルスは丸太をリフティングし始めた。
「……っ」
その光景を前に、ミカは警戒を強める。
明らかに普通の相手ではない。だが、やろうとしていること自体は単純だ。あの丸太を蹴り飛ばし、こちらへぶつけてくるつもりなのだろう。
ならば、攻撃を避けて懐へ飛び込み、隙を突いてぶん殴ればいい。
「さあ、聖園ミカ」
──そんな簡単にできれば苦労はしないが。
「──避けれるものなら避けてみなよッ!」
脚が大きく振り抜かれ、足先が丸太に触れたほんのその一瞬、丸太の動きがぴたりと止まる。
次の刹那、時間を停止させられた丸太は蹴撃の衝撃を受けたまま砕け散り、無数の木片へと姿を変え──それらすべてが弾丸となり、空間を切り裂くような勢いでミカへと殺到した。
「ちょっ!?」
想像とはあまりにもかけ離れた攻撃に、ミカは即座に身を低くし、反射的に近くの木の陰へと飛び込み、太い幹を盾にして全身を隠す。
そうやって、飛来する木片をやり過ごそうとしたのだが──
「──っ!」
次々と抉られる木肌、絶え間なく叩き込まれる衝撃に、とうとう幹が耐えきれなくなる。鈍い音を立てて木が折れ、ミカの頭上を覆っていた枝葉が崩れ落ちた。遮るものを失った視界に、夜空と月明かりが一気に広がる。
これでは、隠れていても意味がない。
ミカは即座に判断を切り替え、木片の飛んでくる射線から逃れるように身を屈めたまま地面を蹴った。間一髪、直前までミカがいた場所を木片が通り過ぎ、背後の地面へと突き刺さっていく。
「あっぶないなあっ!さっさと地べたに這いつくばってくれないかなあ!?」
「人の話を聞こうともしない君の願いなんて、僕が受け入れてあげるつもりはないッ!君にできることは、ただ一つだ。今ここでその銃を下ろして拳を収め、そして僕と対等な立場で話をすることだけなんだよねッ!」
「──貴方に話すことなんて、何もないっ!」
言葉で対話を拒絶すると同時に、ミカは愛銃を構え、身を低くして走りながら引き金を引く。それにより、立て続けに放たれた弾丸が、一直線にレグルスへと殺到した。
……しかし、レグルスは避けようともしなかった。
弾丸が迫ることなど、とうに承知している。放たれた弾丸はレグルスの身体へ届く寸前、見えない壁にでも弾かれたかのように次々と虚空へ散っていった。何発撃ち込もうと、その身体には傷一つつかない。
「……っ!!」
その光景を目の当たりにして、ミカも悟ったのだろう。少なくとも、銃弾ではこの男を止められない。
──だったら、もう信じられるのは自分の拳だけだ。
ミカは走りながら愛銃を乱雑に投げ捨てた。銃が地面を転がる音を背に、なおも飛来する木片を紙一重でかわし、身体を低く保ったままレグルスへと突き進む。
「さっきみたいに、吹き飛ばしてあげるね☆」
手のひらに爪痕が刻まれるほど、強く拳を握り締める。狙いを定めるように肩を引き、全身の力を乗せて腕を振り抜いた。
「あのさあ、迂闊に僕に近づかない方が良いと思うんだよね」
……しかし、レグルスは呆れたように忠告しながら、小さな石をひょいと放り投げた。
石は緩やかな弧を描き、地面へ向かってゆっくりと落下していく。
──そして。
「──そこに、地雷があるんだからさ」
「……っっ!!?」
その言葉を聞いた瞬間、ミカの脳裏に嫌な予感がよぎった。反射的に足を止め、レグルスから距離を取ろうとする。
だが、落下した小石が、何もないはずの空間に触れた刹那──地面が爆ぜた。
「なん──!?」
何が起きたのか。どうしてそんな場所に地雷があるのか。疑問が形になるよりも早く、爆発によって生じた爆風がミカの身体を吹き飛ばした。
足が地面から離れ、身体が宙を舞う。何とか勢いを殺しながらも、地面へ叩きつけられ、土を巻き上げながら何度も転がった。そして最後には、背中から太い木の幹へと激突する。
「駄目じゃないか。周囲のことなんてお構いなしに、ただ一直線に近づいてくるから、普段なら広く見渡せているはずの視界まで狭くなって、周りへの注意も疎かになるんだよ。目の前の相手にばかり意識を向けて、ほかのことが見えなくなる……それって、今の君がどれだけ余裕を失っているのか、よく表れている証拠だとは思わないかな?」
爆発によって巻き上げられた土煙が、周囲に立ち込めている。視界はひどく悪く、ミカの姿をはっきりと捉えることはできない。
それでも、吹き飛ばされたミカが木の幹に叩きつけられたことだけは、何となくでも確認できた。
──このまま戦意を喪失して、人の話をまともに聞いてくれるようになれば助かるんだけどね。
内心でそんなことを考えながら、レグルスは煙の向こうにいるミカへと視線を向ける。
「さあて、君のその顔をこの僕が特別に拝んでやろゥゴぁッ!!?」
「──知った風な口を聞かないでくれる?気持ち悪くて仕方がないから☆」
──しかし、土煙を突き破って飛び込んできた、怒りと笑顔が入り混じったひどく歪な表情を浮かべるミカによる拳が、レグルスの身体へと叩き込まれた。
爆発で吹き飛ばされようと、木の幹に叩きつけられようと、ミカの戦意は微塵も衰えていない。それどころか、レグルスの言葉が癇に障ったのか、その拳には先ほどにも増して容赦のない力が込められていた。
まるで、これ以上その口を開かせまいとするかのように。
「この分からず屋がああああぁぁぁぁッッッ!!」
木々の間を抜け、地面へと叩きつけられた身体は、その勢いを殺しきれないまま土を抉り、幾度となく地面を跳ねた末……ようやく進路を遮る木々が途切れる。
「こうなったら絶対に分からせてや──は?」
──しかし、その先に広がっていたのは、月明かりを静かに映し出す、小さな湖だった。
視界が開けたのも束の間、レグルスの身体は最後の勢いを保ったまま湖畔へと飛び込み、そのまま水面へと突っ込んでいく。
「何してくれてんだッ!ふざけ──」
レグルスの恨み言とは裏腹に、月光を映していた水面が大きく波打ち、白く輝く飛沫が夜空へと弾けた。
「──はあ、はあ……沈んだ?……もう、本当に手間取らせるね☆私はもう、戻れないところまで来てるんだからさ。こんな私に構っていないでさっさと帰っ──」
「完璧な完成された人間であるこの僕が無様な姿を晒して沈むわけがないだろ!この分からず屋の脳筋生徒がッ!」
「──はあ!?なんで水の上に立ってるの!?気持ちわるっ!?」
ミカが本心からそう口にした瞬間、レグルスの額に、ほんの少しだけ青筋が浮かんだ。本人にとっては、それだけでも到底看過できるものではなかったらしい。
──だがレグルス。誰だって水の上に普通に立ってるのを見たら、そりゃあ気持ち悪いと言うだろう。
レグルスだから余計にだ。
「好き勝手言ってくれちゃってさあ……ッ!僕に喧嘩売ったこと、心の底から後悔させてやるよッ!」
苛立ちを露わにしながら、レグルスは無造作に湖の水へと手を突っ込み、そして権能によって水を持ち上げる。
以前、大量の水を持ち上げたときのように、無数の水滴を弾丸へと変え、雨のごとくミカへ降り注がせるつもりなのだろうか。
──それは、否だ。
レグルスは、これまで幾度となく自身の身を守るために権能を行使してきた。そのせいか、本人の自覚とは裏腹に、対象を持ち上げ、動かし、攻撃へと転用する技術は、無駄なほどに洗練されていた。
ゆえに、今回のレグルスは、これまでとは違う手段を選んだ。
「ずっと不公平だと思っていたんだよね。君は銃を構えて、好きなように弾丸を撃ち出すことができる。それなのに、僕には同じような手段があってはいけないなんて、そんなのはあまりにも理不尽じゃないかってさ」
丸太を木っ端微塵に砕いて木片を弾丸代わりにしていた男が何を言っているんだ。
などと、そんな至極真っ当な指摘も、今のレグルスには通用しない。そんな反応など意に介さず、持ち上げた水を自在に操り始めた。
まるで、かつてアビドスでオアシスの水を練り上げていたときのように、液体を意のままに動かし、形を変えていく。
「だから、僕もそれ相応の物を用意したって、何の不都合もないよね」
──そして、レグルスは弓を引くかのように腕を構えた。
その動きに呼応するように、水が一瞬で形を変える。レグルスの手元に生み出されたのは、ミカを狙い撃つための水の弾丸だった。
「今度は何をするつもり?言っておくけど、私は貴方が──」
ミカが言葉を続けようとした、その瞬間。ミカの顔のすぐそばを、何かが横切った。
凄まじい速度で飛翔したそれは、ミカの頬をかすめるように通過し、その背後にそびえる木へと着弾し……直後、轟音とともに爆発が巻き起こる。
「──え」
背中を叩く爆風に、ミカは思わず息を呑んだ。
恐る恐る振り返った先では、先ほどまで木々が生い茂っていた一帯が、見るも無惨な姿へと変わり果てていた。
草木も、地面も、まとめて吹き飛ばされ、まるで巨大な何かに円形にくり抜かれたかのように、周囲一帯が深々と抉り取られていたのだ。
「いやあ、僕としたことが、狙いを外してしまうだなんてね……これは少々、恥ずかしい真似をしてしまったかな──もっとも、だからといって、次も外すなんて保証はどこにもないけどね」
「っ!!」
あまりにも凄まじい破壊の跡に、ミカは一瞬、呆然としかけるが、すぐさま我に返る。
あの攻撃が直撃すれば、どうなるのか。考えるまでもなかった。
ミカは追撃が放たれるよりも早く、地面を蹴ってその場から飛び退いた──その数秒後。先ほどまでミカが立っていた場所が、爆ぜた。
水の弾丸が地面へと着弾し、周囲の草木ごと土を吹き飛ばす。先ほどと同じように、地面には円形の大きな窪みが刻み込まれていた。
「そうやってこそこそと逃げ回るよりも、僕と対話する意思を見せてくれさえすれば君のことを尊重してやらなくもないんだよ!僕は何度も言っているよね?セイアは生きているってさ!それなのに、どうしてこうも頑なに僕の話を聞こうとしないわけ!?いい加減、少しぐらいは耳を傾けようとしたらどうなんだ!」
「貴方みたいな人の言葉を信用するわけないでしょ!?水の上に立って、その水を使って私を狙い撃つ化け物だって自分自身でさっさと自覚したら良いじゃん!」
「好き放題言ってくれちゃってさあッ!!」
逃げるミカと、水の弾丸でそれを追うレグルス。
ミカが走るたび、背後の地面が水の弾丸によって次々と抉り取られていく。着弾するたびに爆風が吹き荒れ、木々がへし折れ、土砂が舞い上がった。
ミカは迫り来る衝撃に何度も足を取られかけた。爆風に身体が煽られ、体勢が崩れそうになる。それでも、歯を食いしばって踏みとどまり、どうにか走り続けた。
──しかし、ただ逃げているわけではない。
この状況を覆し、目の前の男を打倒するための機会を、ミカは必死に窺い続けているのだ。
「ちょこまかちょこまかと逃げようたって無駄なんだよ!僕がその気になれば、一瞬で君の意識だって狩り取ることが出来るんだからさあッ!」
そう叫んだレグルスは、再び湖へと手を突っ込んだ。だが今度は、水の弾丸を作り出すためではない。
レグルスは湖に残された水を、権能によって一気に持ち上げ始めたのだ。
「──」
その光景を目の当たりにして、ミカは言葉を失った。
湖に満ちていたはずの水が、みるみるうちに水面から離れていく。大量の水がひとつにまとまり、巨大な塊となって宙へと持ち上がっていく。
最終的に残されたのは、湖底を露わにした空っぽの湖のみだった。
「君にとって、水の弾丸程度じゃ生ぬるいということはよく分かったよ。だったら、これ以上同じことを繰り返しても意味がない──仕方がないから、こちらも手段を変えさせてもらうとするよ」
レグルスは持ち上げた水を、そのまま権能で操り始めた。時間を止めては解除し、再び止めては解除する。その繰り返しによって、水の塊を少しずつ丸め、形を整えていく。
……まるで、手のひらで粘土をこねるかのように。
ただし、レグルスが扱っているのは粘土などではない。湖に蓄えられていた水、そのほぼすべてである。
膨大な水量が凝縮されるように形を変え──やがて、森林の中に収まりきるのかさえ疑わしいほど巨大な水の球体が完成した。
「──」
その大きさを前にすれば、先ほどまでミカへと撃ち込まれていた水の弾丸など、比較することすら馬鹿らしく思えるほどだった。
そして、レグルスはその巨大な球体を背に、ゆっくりと口を開いた。
「──ティーパーティーのパテル分派代表の聖園ミカ、その君に告げよう」
かつてカイザーに対してそうしたように、もったいぶった口調でミカに告げる。
「今から僕と──」
言葉を紡ぎながら、レグルスはミカのいる方向へと走り出し、勢いをつけたまま地面を蹴り、跳躍する。
「ボウリングでもしよう。君は、ボウリングのピンだ」
──次の瞬間。レグルスは巨大な水玉へと片手を添え、まるでボウリングの球でも転がすかのようにミカへ向かって勢いよく押し出し、地面を転がり始めた。
それは、ただの水とは思えないほどに形を保ち、水面を波打たせることもなく、巨大な球体の姿を維持したまま森林の地面を這うようにして進んでいく。
「──もう、本当に、訳が分かんないよ……!」
迫り来る巨大な水の球体を前に、ミカは思わずそんな言葉を漏らした。
あまりにも規格外な光景だ。いったい、目の前の男はどこまで常識から逸脱すれば気が済むのだろうか。
圧倒的な質量を前に、ミカの心が折れかける。
──だが、それでも。ミカは、そんな程度で立ち止まる生徒ではなかった。
迫り来る水玉を睨みつけ、どうにか直撃だけは避けようと、即座に地面を蹴った。巨大な球体の進路から外れるように、全速力で横へと駆け出す。
「っ!」
間一髪、直撃は免れた。
しかし、安堵する暇などなかった。巨大な水玉は、ミカのすぐ脇を凄まじい勢いで通過していき、その際に生じた風圧が、ミカの身体を容赦なく襲う。
「──うわ、わっ……!?」
踏みとどまろうとする間もなく足が地面から浮き上がり、ミカの身体はあっけなく宙へと持ち上げられ……レグルスがいる場所から、どんどん遠ざかっていくのだった。
◆
「──これでもダメだったら、どうやって聖園ミカの無駄なやる気を削ぐことができる……僕は何を、どうすれば良いんだ……!」
レグルスの目的は、最初からミカに戦意を喪失させることだった。
今のミカは、あまりにも周囲が見えていない。レグルスが何を言おうと、嘘つきだの信じられないだのと叫び倒し、何が何でもレグルスの言葉を受け入れようとはしないだろう。
これは明確な権利の侵害である。人の話を聞くという、ごく当たり前の権利を踏みにじられているのだから、レグルスが憤るのも当然と言えば当然だ。
……もっとも、今はそんなことを主張している場合ではないのだが。
「あの猪突猛進な脳筋生徒を分からせるためにはどんな手段を──」
そう呟きながら考えを巡らせていた、そのとき……ふと、空を見上げると、視界に満月が映り込んだ。
「──」
そういえば、今日は満月の日か。
そんな場違いな感想が、頭の中に浮かんだ。
満月の日なら、ゆっくりと月を眺めながら紅茶を嗜むのも悪くなかったはずだ。それなのに、聖園ミカのせいですべて台無しである。せっかくの穏やかな夜を、どうしてこんな脳筋生徒との不毛な争いに費やさなければならないのか──
「……満月?」
──しかし。その満月を見上げた瞬間、レグルスの脳裏に、とんでもない考えが浮かんでしまった。
「いやいや、他にも手段は考えればいくらでも……!」
──本当に?
一歩手段を間違えれば、取り返しのつかない傷を負わせてしまうかもしれない。それでも、今までと同じことを繰り返したところで、ミカが戦意を失うとは到底思えない。
ならば、どうするべきか?
ミカに戦意を喪失させるには、今まで以上に非常識な光景を見せつける必要があるのではないだろうか。いっそ、失神するほどの衝撃を与えてしまえば、さすがのミカも戦い続ける気にはならないはずだ。
──きっと、そうに違いない。
「──ああ、いいさ!腹を括ってやろうじゃないかッ!まったく、僕ほど寛大で慈悲深い人間もそうはいないよ!この僕がわざわざ覚悟を決めてまで相手をしてあげるんだ。君は、その幸運と僕の寛大さに、心の底から感謝するといい!」
こうして、レグルスは覚悟を決めた。
──こんなことをするのは最初で最後になる。他でもない、聖園ミカこそが、最初で最後の生徒になるのだ。
「──貴方だけは、絶対に地べたに這いずり回らしてやるじゃんね!」
その叫びと同時に、先ほど吹き飛ばされたはずのミカが、全力疾走でレグルスへと向かってきた。
いつの間にこちらへ向かってきていたのだろうか。
あれだけ吹き飛ばされておきながら、すぐさまこちらに突っ込んでくる時点で、この生徒も大概おかしいのではないか?
そんなミカは再びレグルスをぶん殴るべく拳を握り締め、その顔面へと叩き込もうとする──その瞬間だった。
「今日は、月がとても綺麗だね」
「──────え」
レグルスの口から飛び出した、あまりにも場違いな一言。
それを聞いた瞬間、ミカの拳は思わず勢いを失った。
その言葉が持つ裏の意味を、ミカは知っていた。だからこそ、どうして今、この男がそんなことを口にしたのか。そんな疑問が頭をよぎり、ほんの一瞬、動きが鈍ってしまったのだ。
──当然ながら、レグルスにそんな意図は微塵もないのだが。
「っ!?しまっ……!」
失速した拳を難なく躱し、レグルスはミカの腕を強引に掴んだ。
「だからこそ、いつまでも分からず屋で脳筋じみた思考しかできない君を、このままキヴォトスに野放しにしておくわけにはいかないんだよね。君自身がどれだけ自分の行いを正当化しようと、周囲にどれだけ迷惑を振りまこうと、そんなことは僕の知ったことじゃない。けれど、君がこれ以上、僕の平穏を脅かすというのなら話は別だ──だから、少しの間、僕と一緒に離脱してもらうよ」
「何を言っ──!?」
ミカが反応するよりも早く、レグルスはミカに触れた状態のまま権能を発動させる。
身体を包み込むように、その周囲の空間が停止し、空気も、飛び散る水滴も、ミカに触れようとするあらゆるものが動きを失い、外部からの干渉を一切受け付けない、絶対不変の領域が形作られる。
「君は──」
そして、レグルスは掴んだ腕を引き寄せ、身体を大きく捻った瞬間──
「──月に向かって落ちる気分を、味わったことはあるかなあッ!!」
そう言い終えると同時に、レグルスは全身の力を込め、渾身の力でミカを投げ放った。
◆
「──……っ──……っっ!!」
視界がぐるぐると回転し、何が何だか分からなくなる。浮遊感があるはずなのに、吹き飛ばされているという感覚はひどく鈍い。
身体がどこへ向かっているのかも、今どれほどの速さで移動しているのかも、まるで実感が湧かなかった。
そんな言葉で片付けていいのかすら分からないほどの速度で、風を切る音も、周囲の景色が流れていく様子も、何もかもがまともに認識できない。ただ、レグルスに投げ飛ばされたという事実だけが、嫌というほど明確に残って──
「うぐっ!?いっ──たくはない……?本当に、良い大人がこんな少女を投げ飛ばすだなんて信じられない!……私、何言ってるんだろ」
──勢いのまま、ミカの身体が何かに衝突した。
しかし、予想していたような衝撃はない。身体が砕けることも、骨が軋むこともなく、ただ何かにぶつかったという事実だけが、妙に曖昧な感覚となって残っていた。
レグルスに投げ飛ばされた身体と同じように、ミカは自身の心も、とっくの昔にどこかへ投げ捨ててしまっていた……だからこそ、ミカは目を開こうとしなかった。
閉ざされた瞼の向こう側には、相変わらず闇が広がっている。何も見えない。何も分からない。今、自分がどこにいるのかさえも。
目尻から涙が溢れ落ちそうになるのを、ミカは必死に堪えた。
──私に、涙を流す資格なんてないのだから。
『──月に向かって落ちる気分を、味わったことはあるかなあッ!!』
……そういえば、あの人は何を言っていたのだろうか。
月に向かって『落ちる』という表現も意味が分からないが、そもそも月に向かって、というのも意味が分からない。
あまりにも速く投げ飛ばされてしまったせいで、自分がどこへ向かい、何に衝突したのかすら、ミカにはまるで見当がついていなかった。
やはり、分かるためには、目を開ける必要がある。これは仕方がないことだ。
「……うん!私が『独り』になったとしたも、やるべきことが残ってるからね!あんな人、さっさと振り切ってでも迎えば良かったかな☆失敗、しっぱ──」
──たった『独りで』。
その言葉を、自分の中で見て見ぬふりをしながら、ミカはおもむろに目を開いた。
「───────────────え?」
──理解が出来なかった。
「は……え、あ──────?」
──自分自身の置かれている状況が、訳も分からなかった。
眼前に広がっていたのは、見慣れたキヴォトスの景色などではない。
果てしなく広がる、底知れない闇。そこには、風の音も、木々のざわめきも、虫の鳴き声もなかった。耳に届くはずの日常の音はことごとく失われ、世界そのものが息を潜めてしまったかのような、奇妙な静寂が広がっている。
砂埃が舞い上がることもなければ、石が転がる音が響くこともない。
ただ、空気の存在しない世界が、そこに広がっていた。
「月からキヴォトスを眺めるなんて、さすがに僕も初めての経験だったけど……危うく僕自身の手で、月という誰もが儚さを感じずにはいられない象徴を、跡形もなく破壊してしまうところだったよ。まったく、危ないところだったね。やっぱり、こんな真似をするのは最初で最後にしておくべきだと思ったよ。何事にも限度というものがあるし、僕だって無意味に同じことを繰り返すほど愚かじゃないからね──君もそう思うでしょ?聖園ミカ」
見慣れた世界が、こんなにも遠くにある。その光景は幻想的で、あまりにも非現実的だった。
ミカは、何度も瞬きを繰り返した。
投げ出されて、空の彼方へ……成層圏を突き抜けて、宇宙へ行って──?
頭の中で情報がぐちゃぐちゃに絡まり、脳がショートしかける。それでも、どうにかして目の前の光景を咀嚼し、ひとつひとつの事実を繋ぎ合わせていき……そして、ようやく理解することができた。
──私はいま、月からキヴォトスを眺めてるんだ……って。
「なん……?貴方、本当に何者なの?こん、こんなこと普通じゃな──!そもそも、何で喋れて──」
「君が何を言いたいのか、もう少し要点をまとめてくれないことには、理解するだけでも相応の時間が必要になってしまうけどね。とはいえ、残念ながら僕にはここでいつまでも君の話に付き合ってあげるつもりはないんだよ。そもそも、どこかの赤髪の剣聖とは違って、君には自力で帰還する手段なんて持ち合わせていないだろうからね」
「赤髪の剣聖ってどういう……!?何をする気なの!?離して、離してっ──!」
レグルスは、ミカの抗議など意にも介さず、その身体を抱え込むようにして腕の中へ収めた。
触れられた時点で、ミカもまた、レグルスの権能を通じて絶対不変の状態へと移行する。もはや、ミカの周囲の時間をわざわざ停止させる必要もない。レグルス自身が外部からのあらゆる干渉を受け付けない以上、レグルスを介してその状態を維持されるミカもまた、宇宙空間の過酷な環境に晒されることはなかった。
──それでも、本人が納得するかどうかは別の話であるが。
「離してよ──!」
ジタバタと暴れるミカを無視しながら、レグルスは自身の身を屈ませた。
足元の灰色の地面を踏みしめ、はるか遠くに見えるキヴォトスへと視線を向けた瞬間──
「──このままキヴォトスに帰るよ。宇宙の藻屑にはなりたくないからさ」
月の重力を振り切り、漆黒の宇宙空間へと飛び出したレグルスは、腕の中にミカを抱えたまま、キヴォトスへ向かって落下を開始した。
「もう、私は貴方のことが理解できないよっ!離して!私一人で帰れるからっ!……離してよ!この違法聖職者!!」
「君は何を意味のわからない寝ぼけたことを言っているんだッ!僕のためにも、このままただ大人しく連れて帰らせてもらうッ!完璧で完成された人間である僕は、こういうことをすることだって造作も無いんだ!それとも君は、全身が凍って身動きが取れず、考えるのをやめて宇宙空間を彷徨いたいわけ!?」
どこの究極生命体の話をしてるんだ。
宇宙空間でも、ギャーギャーと叫びながら訳の分からない問答を繰り返すレグルスとミカ。
もっとも、実際には二人の声が宇宙空間を伝わっているわけではない。レグルスの権能によって保たれた二人の身体と、その内側に閉じ込められた会話だけが、真空という環境をまるで無視して成立しているのである。
周囲には、相変わらず音が存在せず、どれほど大声を上げようと、その声が宇宙空間へ響き渡ることはない。二人のすぐそばでは口論が続いているというのに、その外側では、星々が何事もなかったかのように静かに輝き続けていた。
……やがて、果てしなく広がる宇宙空間を抜け、世界を取り巻く大気の領域へと突入する。高度が下がるにつれて、周囲の空気は急速に濃さを増していった。超高速で落下する二人の身体が大気を切り裂き、その周囲に凄まじい熱が生じ始める。
──次の瞬間、二人の全身が、燃え盛る炎に包まれた。
轟々と燃え上がる火炎が身体を覆い尽くし、周囲の空気が赤熱しながら尾を引いていく。
──まるで夜空を切り裂く一筋の流星のように。
「──っ……っ!」
さすがにミカも怖いのか、レグルスとギャーギャー言い合うのを止め……ただただ、ぎゅっとレグルスの身体にしがみつくしかできなかった。
◆
夜空が、キラリと瞬いた。
一筋の流星が、暗闇を切り裂くようにして落下していく。その向かう先は、先ほどまでミカとレグルスが激闘を繰り広げていた森林だった。
地上へと近づくにつれ、空と地面の距離が急速に縮まっていき──流星は、轟音とともに地面へと着地した。
その瞬間、凄まじい衝撃が周囲一帯を襲った。
地面が抉れ、草木は根こそぎ吹き飛ばされる。周囲に残っていた水たまりさえも、熱と衝撃によって一瞬のうちに蒸発していった。まるで、本物の隕石が落下したかのような光景だった。
……ただし、実際に起きた被害は、これでも最小限に抑えられたものだった。
レグルスは、これ以上森林に被害が及ばないよう、落下の勢いを可能な限り殺しながら着地することに成功していたのである。
「──本当に、二度とこんなことは御免だ」
周囲から草木も水も失われ、ただ剥き出しの地面だけが広がる一帯。その中心には、巨大なクレーターが生まれていた。
レグルスは、その底に横たわるミカを見下ろしながら、心底うんざりした様子で呟いた。
「まっ、これで君も分かったでしょ?完璧で完成された、どこまでも寛大で平穏を求める一般男性にでさえ、説得することは叶わなかった。それがすべてなんだ」
これだけの目に遭えば、さすがのミカも戦意を喪失したに違いない。
そうなれば、あとはミカが目を覚ますのを待つだけだ。起きた頃には多少なりとも頭が冷えているだろうし、今度こそ、まともに話し合うことができるはずである。
──ようやく、面倒な時間も終わりというわけだ。
「さあて、僕は近くで休憩でぼゴォ!!?」
その瞬間、後頭部に凄まじい衝撃が走った。
レグルスの身体が前のめりに傾き、そのまま地面へと倒れ込む。
何が起きたのか……いや、考えるまでもない。
──どう考えても、ミカの仕業だった。ミカは、気絶などしていなかったのである。
「何をするボゴぁ!?」
レグルスが起き上がろうとしたその瞬間、再び拳が飛んできた。
顔面に衝撃が叩き込まれ、せっかく持ち上げた上体が再び地面へと押し戻される。そして、レグルスが体勢を立て直すよりも早く、ミカがその身体を押さえ込み、馬乗りになった。
完全に上を取られてしまったレグルスは、ミカの攻撃をまともに受けることになる。
「あのさあ!こんなことしてただでブぼぉぁ!?ゴばぁ!?何がしたいんごへェ!?ぐほォ!!?」
容赦など、微塵もなかった。
ミカの拳が、何度も、何度も、何度も、何度も、レグルスへと叩き込まれる。
反撃する隙さえ与えない。言葉を交わすつもりもない。ただひたすらに、拳を振り下ろし続けていた。
「あのさあ!何度も何度も殴ったところで無意味なんだよッ!僕は完璧な、完成された人間だ!平穏を求めているだけの一般男性に、これ以上もこれ以下も──」
そして、53発目の拳が、レグルスの顔面へと叩き込まれた、その直後……頬に、何かが落ちてきた。
「──……」
──それは、ほんの小さな、ひと粒の水滴だった。
レグルスは、思わず口を閉ざした。
頬を濡らしたそれが何なのか、理解できなかったわけではない。
……涙だった。
あれほどまでに喚き散らし、こちらの言葉を一切聞こうとせず、何度も何度も権利の侵害を繰り返してきた忌々しい生徒。
自分のことなど顧みず、ただ一心に拳を振るい続けていた少女が──泣いていた。
その涙は一粒で終わらなかった。次から次へと溢れ出し、レグルスの頬を濡らしていく。
「なんで……なんで、傷ついてくれないの!?」
それは、あまりにも理不尽な言い分だった。
殴っているのはミカの方だ。傷つけようとしているのも、ミカ自身だ。それなのに、傷つかない相手へ向けて、まるで自分こそが被害者であるかのように叫んでいる。
けれど、ミカの声は震えていた。
押し殺していた感情が、堰を切ったように溢れ出していた。
「私は!行くところまで行くしかないのっ!もう、放っておいてよっ!構わないでよっ!それなら、貴方に傷をつけさせてよ──私が、裁かれるきっかけを作らせてよっ!!」
叫びながら、ミカはなおも涙を流し続ける。
自分でも、どうすればいいのか分からないのだろう。進むことしかできず、立ち止まることもできず、誰かに手を差し伸べられることさえ拒絶している。
──ああ、本当に。
「──っ!!」
──本当に、三人共、不器用な生徒だ。
そのまま、54発目の拳が振り下ろされ──
「……え──なん……で?」
──鈍い衝撃とともに、レグルスの頬が赤く染まった。
「……」
レグルスの口元から、ゆっくりと鮮血が溢れ出してくる。
今まで、何をされようとも傷ひとつ負わなかった男が。
絶対不変の無敵を誇っていたレグルスが。
ミカの54発目の拳によって、傷ついた。
「──落ち着いたか?」
あまりにも静かな声だった。
先ほどまでの、あの耳障りなほどに傲慢で、自己弁護に満ちた口調とは明らかに違う。
ミカは、何かを言おうと口を開きかけた。しかし、その言葉が形になるよりも早く──
「なんてね」
──腹部に強烈な衝撃が走り、ミカの意識は今度こそ容赦なく刈り取られたのだった。