「君、そんなに驚いた顔をして一体どうしたのかな?」
僕はそう言って、ごく自然な口調で続けた。
けれど、その言葉に含めたのは純粋な疑問というよりも、少し不思議に思ったという程度だ。
「……ううん、びっくりしただけ。急に話しかけられたから……」
少女は、首を軽く振って、少し照れたように言った。
その声は柔らかく、けれど芯があり、年齢の割に落ち着いている印象を受けた。
──僕が話しかけるその前にも不良達が囲っていたんだが、本当に眼中に無かったんだな……
意外と精神が据わっているのだろうかと内心で思っている内に、彼女の視線が再び花へ向けられる。
彼女が見ているのは、木漏れ日の中でゆらゆらと揺れている一輪の花。
その花は、さきほど生花店にも売られていたのを僕は知っている──スミレだ。淡い紫色をした小さなスミレ。
特別に珍しい種類でもなかったが、なぜか目を惹いた。色が鮮やかだったからだろうか。それとも、彼女がじっと見つめていたから印象に残ったのかもしれない。
「──うん、好き」
そう答える彼女の言葉には、偽りがなかった。
ただ『好き』だから見ていた。理由なんて必要ない。ただ好きだと思えるものが目の前にあったから、立ち止まって眺めていただけなのだろう。
僕は、そんな彼女の隣に立ち、同じように花を見下ろした。
「レグルス・コルニアス」
突然の名乗りに、少女がもう一度僕を見た。
名乗った理由も、間もなく続く言葉も、唐突に思えるかもしれないが、それが僕にとっての誠意であり、礼儀なのだと伝えるように。
「ゲマトリア所属強欲の権化、レグルス・コルニアス」
そう言って、僕は続ける。
「何度でも繰り返してあげよう。これは僕の名であり、僕を示す言葉だ。だからこそ、たったそれだけで、僕という存在を理解しなくてはならない。それが誠意ってものだと思わないかな?」
言葉の一つひとつに、奇妙な重みをがあるように。
単なる自己紹介ではない。僕の生き方そのものを、今の言葉に込める。強欲ムーブとはそういうものだ。
「貴方の名前だったんだ……このお花の名前かと思った」
こんなに綺麗なスミレにノミ以下の名前を付けるとかそれこそ『反吐が出る』んだが。しかも、永遠にやかましく咲き誇っていそうで腹が立つ未来しか見えない。
だからすぐに「この花はスミレと言うんだ」と言っておいた。これでこの子の中ではレグルス・コルニアスという花は消え去った。
「──さて、この僕が名乗ったんだから、ここはすぐに君も名乗るのが道理だと思わない?いや、これはお願いとか強制とかでもなく、礼儀ってやつさ。対等な関係っていうのは、片方が一方的に開示して、もう片方が黙して済ませる、そんな歪んだものじゃないからさ」
僕は、どこか哲学的で、同時に理屈っぽくもあるその言葉をまっすぐに彼女へぶつける。
それが僕なりの誠実さであり、僕がこの世界で他者と向き合うための唯一の方法だから。
「ふふ……貴方の言い方、なんだか面白いね」
その反応は僕にとっては少し意外すぎて、混乱した。
──この言動が面白い?まさか、冗談だろ?
けれど……この子はどこか楽しそうに笑っている。僕の振る舞いのことなんて、まったく気にもしていないようだった。
無敵かよこの子……!?
僕は、驚きと困惑と、ほんの少しの尊敬が入り混じった感情が胸を駆け巡る。強欲のまま突き進む精神が、その無邪気さに撃ち抜かれる。
そんな僕を差し置いて、彼女はただ笑った。特に深い意味があるわけでもなく、ただ自然に。警戒もせず、怯えもせず、受け止めるように微笑んだ。
それだけで、周囲の空気が少し変わったような気がした。
「──アツコ。秤アツコだよ」
彼女は、自分の名前をそう口にした。
それは、まるで風に揺れる花のように自然だった。名前を教えることを、何のためらいもせず、当然のように受け入れた。
「アツコか……うん、君らしくて実に良い名前だ。飾らず、曇らず、ただただまっすぐに咲き誇る花のようにね」
花の香りがまだ微かに残る風の中、アツコは小さく呟いた。
「そうなの?」
その問いに、僕は眉ひとつ動かさず、静かに、だが確固たる自信を宿した声で応じた。
「そうだとも。疑う理由なんてないだろう?僕は常に真実を語る男さ。それが正しいということに、これ以上の証明が必要かな?」
アツコはほんの一拍、目を瞬かせた後、「そうなんだ」と小さく呟いた。
そして、彼女の視線が再び花へと戻るのかと思いきや──そのまま、僕の顔をじっと、真っすぐに見つめてくる。瞬きもせず、揺るがぬまなざし。何の意図も読み取れぬ、けれど確かに、何かを探るような眼差し。
僕はそんなアツコに、小さく鼻を鳴らした。
「君、人の顔をまじまじと見つめ続けるのは失礼だって教わらなかったのかい? 常識ってものを軽んじているんじゃ──」
そう言いかけて、僕はようやく気付いた。
アツコの視線が向いていたのは、僕の顔ではなく、腕に抱えていた紙袋──その中に詰め込まれた色とりどりの花々だった。
「……もしかして君、この花たちが気になって仕方がないのかい?」
僕の問いに、アツコは一瞬だけ唇を閉じてから、少し戸惑ったように微笑みを浮かべて言う。
「……うん、綺麗だなって思って」
その言葉は、風の中でふわりと解けて消えそうなほどに静かだった。しかし、それでも僕の耳には鮮明に届いた。
ほんの一瞬、時間が止まったかのような沈黙が流れる。風が枝葉を揺らし、遠くで小鳥が一声だけ鳴いた。
「……もしかして、この花たちが欲しいのかな?」
ふと、レグルスが口にしたその問いに、アツコは驚いたように目を見開いた。
「くれるの?」
それはあまりに純粋すぎる反応だった。だが、僕はすぐさま肩をすくめ、首を振る。
「いいや。これは僕によって選ばれた花たちだ。僕という存在から注がれる愛情、興味、そして気配りによって、この花たちは美しさを維持する予定なんだ。つまり、これは僕とこの花たちだけに許された特別な関係だから、そこに他人が入り込む余地なんて、本来あるわけがない」
そこまで言ってから、僕は少し視線を逸らし、わざとらしく小さく溜息をつく。
「──と、普通なら言うところだけどね。でも、そう言って君を突き放すのも、なんだか薄情な男みたいだ。だから……この一本だけなら、君にあげるよ。僕の気まぐれ、そしてほんの少しの慈悲の心ってやつだ。ありがたく思うといいよ」
そう言って僕は袋の中に手を入れ、その中からある花を取り出す。
──取り出したのは、一輪の白い薔薇だ。
……この色の薔薇だけ、一本多く買いすぎたんだよな。部屋の置き場にも困ってたし、まぁ、ちょうどいいか。
内心の声を隠すように、僕はそっと白い薔薇をアツコに差し出す。アツコは一瞬だけためらったが、すぐにその手を伸ばし、そっと受け取った。
そして、まるで宝石を手にしたかのように、白い薔薇を両手で包み込み、まじまじと見つめる。
「この花……なんて言うの?」
その問いかけに、僕は少しだけ口元を緩めて答えた。
「これは薔薇──僕の中で一番美しいと思っている花さ。言い忘れてたけど、トゲがあるから気をつけて触るんだよ。繊細で、そして凶暴。まさに矛盾を抱えた美しさの象徴だからさ」
アツコは小さく「薔薇……」と呟くと、視線を花からレグルスに移し、満面の笑みで告げる。
「ありがとう──一生、大切に持っておくね」
「は?」
僕は文字通り絶句した。思わず肩をすくめて、心底呆れたように言う。
「あのさあ、一生大切にするって言っても、寿命ってものがあるんだよ?君、そもそも花の名前もあまり知らないみたいだし、育て方なんて分かってないだろ?その薔薇だって、いつか枯れてしまうさ。君のその理想論、正直無謀──」
そこまで言いかけて、僕はふと立ち止まる。
そして、ぽつりと呟いた。
「……いや、方法がないわけじゃないか」
僕はアツコに向かって、手を差し出した。
「その白い薔薇を、一度だけ僕に返してくれないかな?」
アツコは小さく首を傾げたが、素直に頷いて渡す。僕はそれを丁寧に受け取ると、右手で白い薔薇にそっと触れる。
僅かに異質な気配が宿る。
何も語られぬまま、ただ沈黙が続く。空気が少しだけ張り詰める。
やがて、僕はその白薔薇を再びアツコに差し出した。
「はい、返すよ」
アツコはそれを受け取り、また首を傾げた。
「……何をしたの?」
僕は小さく笑みを浮かべて言う。
「わがままな君のために、おまじないをかけたのさ」
──権能を使って、白い薔薇の周囲の時間を止めた。これによって、枯れることも、萎れることも、朽ちることもない。権能の効果が及ぶ限り、その白い薔薇は、今の姿のままで咲き続けるだろう。
どうせ、この先も頻繁に強欲ムーブをすることになる。権能の効果が解除されても、白い薔薇の周囲の時間はほぼ進むことは無いだろうし……薔薇は思った以上に寿命が長い植物だ。すぐに枯れることもないだろう。
アツコは薔薇を見つめ、ふわりと微笑む。
「おまじない……うん。おまじない、ありがとう」
その声に、僕は何も返さなかった。
目だけをわずかに細める。
アツコは、両手で包むようにして受け取った白い薔薇を見つめていた。その頬がわずかに染まり、唇がわずかに開かれる。
「……そうだ。私も、お返ししないと」
そうぽつりと呟く彼女の声音は、どこか決意を含んでいた。それは義務感ではなく、もっと柔らかくて、けれど芯のある何か。
不思議で良い子だ……だけども。
「君は見たところ、何も持たずにここに居るように見える……僕にお返し出来るものなんてあるのかい?」
僕は、冷静な声音で指摘した。
この周囲ではあまり見ないような服装をしており、どこか所在なげで、浮世離れしているような感じ、それはまるで……
「君はまるで、本来居るべき場所から脱走してきたみたいに見えるからね」
その言葉を聞いた瞬間、アツコはぴたりと動きを止めた。
「……」
まるで防衛反応のように、僕から視線を逸らしてあたりを見回し始めた。
──なんだ、いまの沈黙。
僕は一瞬、内心でそう思う。どこか無邪気で、天然で、明るく見える彼女の中に、どこか深く沈んだ影のようなものを見た気がして、思わず言葉をかけようとする。だが、その矢先。
「あ、そうだ──」
アツコが何かを見つけたように、ぱっと表情を明るくさせたかと思うと、しゃがみ込んだ。
問いかけるタイミングを、完全に失った。
彼女の目の前にあるのは、さっき彼女がじっと見つめていた、一輪の小さなスミレだった。淡い紫色をした、か細くて、それでもまっすぐ空を向いて咲いている花。
アツコはスミレの根を傷つけないように、周囲の土にそっと指を差し入れた。小さな手で、丁寧に、少し湿った黒土をそっと掬っていく。
その様子を、僕はただ黙って見守ることしか出来ない。
やがて、スミレは土ごと彼女の掌に持ち上げられ、まるで宝物を扱うようにそっと支えられた。彼女は立ち上がると、にこっと微笑んで言った。
「はい」
差し出された、小さな命。
僕は一瞬、言葉を失った。
「……これは、一体どういうことなのかな?」
ようやく口を開いた僕に、アツコは嬉しそうに笑って、まっすぐに言った。
「レグルスは、私にお花をくれた。だから、私からもお返し」
あまりにも素直すぎて、あまりにも綺麗な理由だった。けれど僕は、ふと現実的な側面を口にしてしまう。
「そ……その献上しようとする意思は美しくて、僕も嬉しいけどね。これ以上、花たちを増やしても、いずれ手元からこぼれて落ちてしまうだろう?」
手のひらには限りがある。どんなに慈しんでも、抱えきれなくなるものは、やがて零れてしまうものだ。
「そっか……うーん……」
アツコはその言葉を受けて、しばらく首を捻って考え込む。しばしの沈黙のあと、「じゃあ、分かった」と呟くように言った。
「私のために、育てておいてほしいな」
その言葉は、予想の斜め上をいっていた。
僕はまた絶句する。
「できれば私が最後まで育てて、この子が大きくなるところを見てみたいけど……」
アツコの声は、風のように静かだった。土に触れた指先を見つめながら、彼女は言葉を続ける。
「私じゃ、この子の育て方は分からないし、育てられる環境もないから……」
一度、そこで言葉を切り、瞳を僕に向ける。
「だから、レグルスがこの子を育てて。立派になったら、私にちょうだい?」
彼女の声は、願いというより、僕に預ける事で立派に育つことが出来るだろうという想いの、信頼だった。
「──」
僕は絶句を通り越して、脳の一部が完全に情報処理に追われていた。心の中にある強欲という感情が、どこかへ吹き飛んでいた。
だが、僕はもはやその道の達人になりつつあり、強欲ムーブを極め続ける男。情報処理を完了させ、理性を取り戻し、再びその役目に従って、口を開いた。
「あ、あのさあ。いくら君がそう言っても、無理なものは無理──」
そう言いかけた瞬間、アツコが一歩、僕の方へ近づく。
「良いから、受け取って?」
強引に、スミレを僕の手の中に押し込もうとする。
「君ちょっと強引すぎるなあ!?いくら温厚な僕でもそれは──」
僕は思わず抵抗するが、その時──
アツコの指先が、僕の手と重なった。
途端に。
──ドクン。
聴こえてしまった。あり得ないはずの、鼓動の音が。
「──あっ」
僕の口から、反射的に声が漏れた。
アツコが不思議そうに首をかしげ、覗き込んでくる。
「どうかした?」
その顔が、すぐ目の前にあって。
僕は、鼓動が鳴る理由を、嫌でも理解しながら。
「……いいや、何でもないよ」
静かにそう答え、僕は意識を切り替えた。
──アツコの手から強引に差し出された、淡い紫色をした小さなスミレ。
その小さな花を、僕はほんの一瞬だけ見つめる。見下すようでも、受け入れるようでもない。けれど、そこに浮かんだ感情があまりにも──脆く見えてしまった。
だから、誤魔化すように、僕は空を見上げた。
「……アツコ。僕が君に丁寧に話してあげてる間に、太陽が沈みかけているじゃないか。どうしてくれるんだい?僕個人の時間が君によって奪われてしまった……これは僕だけが持つ時間に対する侵害だよ」
薄い雲を縫うようにして、西の空へと傾いていく光の輪郭。
空気は柔らかくなり、草木の影が長く伸びる時間帯になってしまった。
「──良い子は、そろそろ帰る時間じゃないのかな?」
そう言うと、アツコは太陽を見上げた。少し眩しそうに目を細め、そのまま口元に微笑を浮かべる。でも、それは楽しげというより、どこか寂しげな笑みだった。
「……うん。そうだね……白い薔薇、ありがとう。大切にするね」
「それが良い……このスミレも、この僕によって、僕だけの愛情で育てられることになるだろうからねえ」
片手に持った小さなスミレ。その重さは僕にとってはほぼ無いに等しいけれど、なぜかやたらと意識させられる。
「君は、そんな僕に感謝しないと。なにせ、世界で最も完璧な管理者に愛される花なんて、そうそういないからさ」
冗談めかすような、でも確実に自負を混ぜた口調でそう言うと、アツコは「うん」とだけ頷いた。
そして少しの沈黙。空に漂う、やわらかな沈黙。
「ねえ……また、会える?」
その問いかけに、僕は少しだけ目を伏せた。
「運命か神か、あるいは──僕の気まぐれによって。また会うことはあるかもしれないね」
そう、まるでありふれた物語の幕間のように、僕は言う。
「そっか」
アツコはそう答え、そっと胸元に白い薔薇を抱いた。
「またね、レグルス」
そう言って、微笑む。彼女の言葉が風に溶けて、草を撫で、鳥の声に混ざって遠くへと消えていくようだった。
僕はアツコのその姿に、ほんの一瞬だけまぶしさを覚え──すぐに目を細めると、彼女に背を向けた。
振り返らない。別に後ろ髪を引かれているわけじゃない。ただ、視界にあの微笑みがあると、また僕の中で演じるべきの『理想像』が揺らいでしまいそうだったから。
アツコは、そんな僕の背中をしばらく見つめた後、くるりと体を反転させ、どこか浮かれたような足取りで、元居た場所へと帰っていった。
◆
──場所は、地上から少し離れたところにある迷宮のような回廊。
「姫、また勝手にどこか行ってたのか?マダムにバレたらどうす──」
そこまで言いかけて、流麗な黒髪を持つ少女の目がピタリと止まる。
アツコの両手に、大事そうに抱えられた一輪の花。
──白い薔薇。
この地下の、冷えた空間には不似合いなほどに、美しく、咲き誇る綺麗な命。
「姫、それは……?」
その反応を嬉しそうに受け止め、白い薔薇を胸元に抱き直す。その瞳は輝き、無垢な子供のような笑顔を浮かべながら──
「──おまじないがかかったお花だよ」
あまりにも無邪気にそう答えた。