『──貴方は何者ですか?』
そんな問いを投げかけてきたのは、どこまでも透き通っていそうな少女だった。
レグルス本人が聞いたら長々と説教を始めそうな台詞。だからこそ、僕はいつも通りに返した。
──人に名を尋ねるのなら、まずは自分から名乗るべきだと。
だが、その言葉を言い切るより早く、少女はふいに首をかしげ、柔らかい笑みを浮かべた。
「とりあえず、ここじゃなんですし、お邪魔しても良いですか?」
次の瞬間には、少女の細い体が僕の横をすり抜けていた。
まるで、この部屋が自分の家であるかのような自然さで、彼女は僕の聖地に入り込んだ。
呆気に取られた僕は、思わず目元を押さえた。
白髪になった原因も、きっとこうした理不尽さの積み重ねによるものでは?と。
◆
とりあえず少女を軽く叱った後、ソファに座らせた。
一応客人ということで、僕がいつも飲んでいる紅茶でも飲ませてやろうと思い、二つのカップに紅茶を淹れてもってきたのは良いが……
「わあ……!あのお花たち、綺麗ですね!」
少女の目が、窓際に飾られた花々へと向けられていた。
僕が気まぐれに買い揃えた花たちは、この区画だけを切り取ったように鮮やかで、少女はまるで宝物を見つけた子どものように瞳を輝かせている。
「ここの区画だけ鮮やかすぎて、目までキラキラしちゃいそうです!」
「……あのさあ」
僕は額に手を当てながら、呆れた声を漏らす。
「僕はね、常日頃から正しさに則って生きてるんだ。だから、他人の聖域に勝手に踏み込んできた君のような存在にも、寛大な心で対応してあげている。これは本来ありえない、特別なことだ。でもさ、それとこれとは別なんだよね。まず、礼儀としてアポも取らずに来たことを、きちんと謝るべきじゃないかな?」
「あっ……そうですね!ごめんなさい、えへへ……」
少女は照れたように笑い、頬を赤らめながら頭をぽりぽりと掻いた。
僕は重々しく二度目のため息を吐き出した。
だが、完全に怒っているわけではない。花を褒められて悪い気はしなかったからだ。
綺麗だと言ってくれるのなら、ここは僕も目を瞑ろうと思う。
「まあいいけどさ。君があの花を健気に褒めてくれたことに、ほんの少しだけど僕も悪い気はしなかった。だから今回は特別に、なかったことにしてあげるよ。僕はね、誰よりも正しくて、誰よりも慈悲深いからさ」
僕はそう言って、テーブルの上に二つのティーカップを置き、香り高い紅茶を注いだ。
「わぁ……ありがとうございます!」
少女は再び目を輝かせながら、差し出されたカップを受け取った。そして、一口──いや、二口、三口と立て続けに紅茶を喉に流し込む。
僕も向かいのソファに腰を下ろし、自分の分のカップをゆっくりと傾けた。
紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。口の中で広がる旨味と、舌に残る余韻。
──我ながら、良い出来だ。
おそらくレグルスは、こういった紅茶一つですら嫁さん達に淹れさせていただろう。
だが、真の強欲は他人に任せきりにはしない。
僕は日々、味と香りのバランスを研究し続け、ついにはこの極上の一杯を自らの手で淹れられる域に至った。
その味を、目の前の少女ががぶ飲みしているのを見て、思わず肩が力を抜けてしまう。
──とはいえ、戯れはここまでだ。
僕はゆっくりと姿勢を正し、声のトーンをわずかに落としながら言う。
「──さて、とても単純で当たり前のことを、わざわざ繰り返させてもらうよ。だって君は、まだ僕の質問に答えていないからね。君は、どこの誰で、どんな理屈で、僕の聖域に入り込んだのかな?当然、納得のいく説明があるんだよね?」
その言葉に、少女の手が止まる。
カップをそっとテーブルに置き、表情が一瞬凪いだように静かになった。
空気が、ほんの少しだけ張り詰める。
「──そうですね、申し遅れました。私はれん……」
そう言いかけた少女は、なぜか顎に手を添え、数秒だけ沈黙した。
僕はその仕草に一瞬だけ眉をひそめたが、やがて少女はふわりと微笑み、口を開いた。
「──私は、白鶴と言います」
なぜ名前を言う前に一度止めたのか。何かの意図があったのか。
僕にはその理由が分からなかったが、それを追及する気はなかった。ただ、うんうんと頷いて言葉を返す。
「そうそう、最初からそうやって名乗ればよかったんだよ。まったく、君の最初の無礼は本来なら見過ごせないことだ。でもね、素直に応じた君に対して、僕の寛大さを示してあげよう。つまり、僕は君を許してあげると思ってくれて良い」
そして立ち上がり、胸に手を当てるようにして、ゆっくりと語りかけた。
「そして君は、僕に何者かと尋ねたね。ならば答えよう」
紅茶の湯気がふわりと立ち昇る。
静かに、しかし確かに言葉を紡ぐ。
「ゲマトリア所属強欲の権化、レグルス・コルニアス」
「ゲマトリア……」
その名を聞いた少女──白鶴は、小さく唇を動かす。
「他にもゲマトリアのメンバーは居るんだけどさ」
僕は、腕を組みながら苦笑を浮かべる。
「どいつもこいつも、おっかない連中ばかりでさ。僕が一番まともだと本気で思ってるくらいなんだよね。一人は研究バカで、もう一人は芸術に魂を捧げすぎてて……で、もう一人は──」
「──知っています」
その言葉の途中で、すっと白鶴が口を挟んだ。
淡々とした声。僕の言葉を遮るその一言には、不思議な重みがあった。
「あのさあ、人が喋っている時に口を挟むなんて──」
僕は咄嗟に説教を始めかけたが、それを遮るように、白鶴がさらに衝撃的な言葉を続ける。
「黒服さん、マエストロさん、ゴルコンダさん、デカルコマニーさん、ベアトリーチェ、フランシス、地下生活者──私が知る限りでは、このようなメンバーだったでしょうか?」
それを聞いた瞬間、僕の思考が一瞬止まった。二人ほど聞いたこともない名前が混ざっていたが、それ以上に──なぜ白鶴がそこまで知っているのか。
僕の脳裏によぎった問いをそのまま言葉に乗せる。
「……君、どうしてそんなに詳しいのかな? それが、普通の人間が知っているべき情報じゃないってこと、分かって言っているよね? 正直、君みたいな存在がそんなことを知っているなんて──到底納得できない。だから改めて聞くけどさ、君は一体、何者なのかな? どうしてそんな情報を握っているのか、僕に分かるように説明を要求するよ」
僕の声には、無意識に警戒が滲んでいた。目を細め、白鶴をじっと見据える。
だが、白鶴はあくまで柔らかな微笑を浮かべたまま答えた。
「私は、ただの白鶴ですよ」
その一言では、到底納得できるはずもない。だが彼女は続けた。
「皆さんとは一度以上は喋ったことがありますからね。何をどのように目指しているのかもわかります。今後超人と呼ばれる私にかかれば、お茶の子さいさいです!」
ふんす、と胸を張る白鶴の姿には、誇張された自信に満ち溢れていた。
……なんでこの子、自分を『今後超人と呼ばれる』とか言っているのだろうか。まさか、僕が強欲ムーブなら白鶴は超人ムーブでもしているのか?
僕はこめかみを指で押さえながら、呆れたように溜息をついた。
──いや待て、まさか、彼女はゲマトリアの一員なのか?
しかしそれならば、ゲマトリア会議に顔を出していないのはおかしい。彼女の存在は、もっと別のどこか外側に立っている。
「それじゃあ、君は、彼らとは今でも交流していたりするのかな?」
僕は探るように問いかけた。白鶴がどこまで踏み込んでいるのかを、少しでも掴むために。
だが──
「いえ、もうずいぶんと交流はしていませんね」
その答えは一見普通だった。しかし、どこか言い方に引っかかりがあった。まるで何かを隠しているような、あるいは過去の関係を断ち切ったことに、微かな哀愁すら混ざっているかのように。
「──ただ、貴方とは本当に一度も会話したこともありませんし、ここのキヴォトスで初めて認知しました」
言葉は真っ直ぐだったが、やはり何かが変だった。妙な間、妙な重み。そして──やはり微妙にずらされた焦点。
「そりゃそうだろう?僕と君がこんな風に話すのは初めてなんだからさ、いたって当たり前のことだ。何故なら、君が僕に認識されるなんて、今日という日が初めてなんだからさ。会話するのも今この瞬間から始まるのが極自然のことだ」
僕はあえて軽く言い返す。それでも、警戒の火は消えない。
白鶴は少しだけ目を伏せ、「……それもそうですね」と苦笑いを浮かべて小さく吐息を漏らした。
「レグルスさんのことは、大方分かりました」
今の会話でどこの何が分かるんだよ……
思わず内心でそう突っ込んだが、僕は慣れたように笑いながら言った。
「分かってくれたのならそれで良いさ。僕のことはちゃんと記憶に刻んでおいてくれ。曖昧な印象じゃなくて、絶対的な確信と共にね。そうすれば、次に僕と会うとき、君は無礼は避けられるはずだからね」
いつもの調子で、軽口を叩く。
白鶴は元気良く「はい!」と言うが──
「──レグルスさん」
しかし次の瞬間、空気が変わった。
「そんなレグルスさんに──お願いがあります」
白鶴の瞳が真剣さを帯びた光を宿して、真っ直ぐにレグルスを見つめた。
その視線の強さに、僕は軽く眉を上げる。
「へえ、僕に何かを頼むなんて、随分と思いきった真似をするじゃないか。まあ、君がどうしようもない不快な子じゃないってことは分かったからさ。内容によっては、気が向いたら耳くらいは貸してあげてもいいよ? 僕は、寛大だからね」
肩をすくめるように言う彼に、白鶴は意を決したように一歩踏み出した。
そして、深く息を吸い込む。
「──この世界を、見守ってくれませんか」
静かな言葉だった。
だが、それは祈りのようで、命令のようでもあり、何より確かな願いだった。
「……何も、全ての事象に関わって欲しいとは申しません。ですが、やはり……私は、一人では限界だと感じています」
彼女の瞳が揺れている。儚く、それでいてどこか覚悟を湛えて。
「全てを救うことは出来ない。どうしても……こぼれ落ちてしまうものがあるのです」
そう語るその姿は、どこまでも現実を受け入れた者のそれだった。
「レグルスさんも、感じているはずです。この世界が、歪んでいると。透き通っているように見えて……その実、いずれたどり着く終着点は、捻れていると」
僕は黙って聞いていた。だが、今の僕の視線は、白鶴の内奥をえぐるように鋭い。
「──ですが、どういうわけか、貴方という『変数』が、この物語に加入した。それが誰の手によってなのかは、私にも分かりません」
白鶴はソファーからゆっくりと立ち上がり、窓辺に移動した。光が、その透き通る水色の髪を淡く照らす。
「貴方は、今の時点で既に……二人の心を救いかけている。それは、今まで繰り返されたなぞられた世界では、決して起きなかったことです」
僕は誰の心も救った覚えはない。そんなことよりも、この世界で生きるのに精一杯だった記憶しかない。
彼女の視線は、窓際に飾られた花たちに注がれる。先程まで無邪気に見惚れていた花々──その中でも、小さなスミレをじっと見つめた。
「だからこそ、貴方にも託したいのです。……これは、貴方にとって呪いのようなものかもしれません。でも、貴方にはその資格がある……その力を、持っている」
そう告げた白鶴は、やがて花から視線を外し、僕の方へと振り返った。
「どう……でしょうか?」
その声は微かに震えていた。目元は涙で潤み、どこか焦燥を孕んでいる。
僕は、ふうっと長いため息を吐いた。
──もう何度目になるのか、僕にも分からない。
「はぁ……まったく。君という人間は、どうしてそう、自己犠牲の精神を当然のように掲げながら、他者の領域へ土足で踏み込もうとするのかなあ?」
鋭い言葉を投げつける。だが、白鶴は怯まなかった。
「僕から言わせてもらえば、君のような自分の感情の押し売りは、非常に不愉快なんだよね。僕はね、誰かの都合の良い救世主になる気なんて、さらさらないんだ。自己陶酔に浸る暇があったら、まずは自分自身の足元を見てほしいものだよ。理解者ぶって君の言う物語の外から俯瞰しているつもりかもしれないけど、その態度こそが、他者への傲慢の表れだとは思わないのかい?」
言葉の刃は鋭くも、核心を突くかのように。それを白鶴はじっと聞いていた。
「──だけどさ」
声色をふっと変えて。
「僕は、僕のために平穏な生活を望んでいる。ただそれだけさ。なんたって僕は無欲だから。過剰な幸せなんて望んでいない」
一拍、間を置いて。
「──だけど、それを邪魔するような連中が現れた場合は、話が別だ」
僕は、静かに言い切った。
「僕は、問答無用で己の強欲を振るうだろうね」
その言葉に、白鶴は息を呑んだ。瞬きも忘れたように僕を見つめる。そして、言葉を失ったまま……やがて、微かに口を開いた。
「……ありがとうございます」
感謝の言葉。けれど、その声は確かな重みと感情を持っていた。
「今日は、このような訪問の仕方をして……申し訳ありませんでした」
深く頭を下げる白鶴。
そんな白鶴に僕は目を細めて言った。
「そうそうそれで良い。過ちを認め、許しを乞う。人として当然の在り方だ。これからもずっと──間違えたらすぐに謝る。その習慣、君の中に深く根付かせておくといいさ」
「はいっ!」
白鶴はぱっと顔を上げ、満足げに微笑んだ。
「今日はありがとうございました!」
明るく言って、彼女は立ち上がる。
「もう帰るのかい?」
僕はがそう問いかけると、白鶴は力強くうなずいた。
「はい!要件は、もう達成しましたから!」
なら玄関前まで案内しようと言い、僕は白鶴と並んで玄関へと歩く。僕が扉を開けると、外の空気が流れ込んだ。
「本当に……今日はありがとうございました!」
もう一度、白鶴は深く頭を下げる。
「……とはいえね、何度も何度もすぐに頭を下げてたら、その行為そのものが軽くなるだろう? 謝罪っていうのは、もっと重みを持ってるべきなんだと僕は思うんだよね。君ってそういうところ妙に律儀だ……まあ、それが悪いとまでは言わないけどさ」
皮肉交じりの言葉、だが、僕はすぐにそれを肯定する。
白鶴はその言葉に、柔らかく目を細めた。
「……はい!」
そう言って背を向け、歩き出す──が、途中でふと足を止めた。
「そういえば、言い忘れてましたけど──」
再び振り返り、満面の笑みを浮かべる白鶴。
「レグルスさん。貴方は自分が強欲に向いていないと思っているかもしれませんが……私はそうは思いません」
──何を言っているんだ君は?
爆弾のような言葉を投げたその顔は、晴れやかだった。
「だから、自分を卑下するのは控えてくださいね!私の全部をレグルスさんにあげることは出来ませんが──」
白鶴はそっと手を胸に添え、瞳をまっすぐに向けた。
「──自分をもっと信じられる勇気をあげます!」
「────」
僕が「君はどこまで知って──」と言いかけた時には、白鶴は既に踵を返し、走り去っていた。
その背が見えなくなって、改めて口に出す。
「──まじでどこまで知ってるんだよ……」
そっと鼓動しない胸元に手を添え、強く握りしめた。