迅悠一が救われるまで   作:ミルクネコ

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照らし照らされる未来へ

夕暮れが雲を薄く彩り、オレンジ色の光が灰色のコンクリートを斜めに照らす。

スパイの隠れ家⋯その屋上を過ぎていく風はやや冷たく、

潮の香りが遠くから微かに届いていた。

 

フェンス際に立つ唯華の背は小さく、だがその輪郭には異様な硬さがあった。

身体の力が抜けているのに、倒れることはなく、ただ虚空を見つめるようにして立っていた。

振り向きもせずに、ぼそりと、まるで自分の思考を口にするかのように言う。

 

「じゃあ……背負ってるもの、ひとつ聞かせてあげるよ」

 

その声に、迅悠一は眉を寄せる。

彼女の背中は、まるで“何か”を背負い続けた石像のように重く、崩れかけていた。

 

「──過去視。私のサイドエフェクトの名前だよ」

 

振り返った唯華の瞳は、光を失った硝子玉のように濁っていた。

焦点は合っているのに、感情が通っていない。

何かが壊れているのを、迅は即座に察してしまった。

 

「お兄の……過去も、現在の視界も。視てる未来も。──全部、視えてるの」

 

「……え?」

 

「お兄の視てる景色、どれもこれも……嫌なものばかりじゃん。

誰かが死んだ過去とか、間に合わなかった現在(いま)とか、どうにもならない未来……」

 

唯華の声は平坦だった。しかしその奥に、幾重にも折り重なった疲労と絶望が滲んでいた。

 

「過去視ってさ、ほんとに死にたくなるほど便利なんだよ。

誰が何考えてるかもだいたいわかるし、相手のトラウマとか大切なものも知ってしまう。

だから私ね──お兄の“先回り”だってできちゃうんだ。」

 

「やめてくれ……っ!」

 

迅が苦しげに呻くのを知ってか知らずか、唯華は淡々と続ける。

 

「この力がなかったら……あたし、大規模侵攻のとき、とっくに死んでた。

でも、視えたから、生き残れた。だからやめないよ。やめたら、死ぬだけだから」

 

「頼むから⋯おれの未来から⋯いなくならないでくれ⋯!」

 

「私に死ねって言ってるの?」

風が吹いた。唯華の髪がはらりと揺れ、迅の目の前で一瞬その姿がぼやける。

 

「──夜、寝る前にね。陽太郎くんのところ、よく行くんだ」

 

「……え?」

場違いな乳幼児の名前に、迅の思考が一瞬乱れる。

 

「過去視ってさ、視る対象によって負担の度合いが段違いなの。

お兄を視てると本当に辛くなる。でも赤ちゃんの陽太郎くんだと楽なんだよね。」

 

唯華は軽く笑った。だけどその笑顔には、何の熱もなかった。

 

「全部視てるんだよ。お兄の師匠のことも、旧ボーダーのことも。

だからね、私は何もかも知ってるんだ」

 

「ごめんなぁ……おれがいるせいで……嫌なものばっかり見せちゃって……」

 

迅は声どころか体を震わせて膝を折る。

その瞬間、唯華の感情が噴き出した。

「どいつもこいつも、私に何も言ってこないくせにさぁ……なんで……っ!」

 

彼の謝罪に対して、唯華は歯を食いしばって怒鳴り散らす。

 

「どうして私を責めてくれないの!? 気持ち悪いって言えよ!

鬱陶しいとか、関わりたくないとかさぁ! あんたもさっき泣いてたじゃん!

なにそれ! なんで泣いてんのよ!」

 

迅は何も言えなかった。必死に言葉を探すばかりで、何もできなかった。

それだけではない、唯華はあまりにも自分に似ていたのだ。

 

未来が視えるなんて気持ち悪いだろ?

ほら、おれの言ったとおりになった。

想起された過去には、いつだってキザったらしい自分の笑顔があった。

(あぁ⋯おれはあの時⋯なんて言ってほしかったんだっけ⋯)

 

「──ねえ! なんで泣いてるの!? 教えてよ!

お兄が泣くなんて、今までなかったのに……! どうしたらいいの……どうすれば……!」

 

唯華は、息を荒くして、視線をさまよわせる。

目に宿った光は、動揺と困惑、そして恐怖だった。

 

 

「わタし、どうしたらいいの……?

わからないよ……お兄が泣くなんて、おかしいよ……ワたシのせい……?」

 

そのとき、唯華の目から、ぽろりと涙が落ちた。

 

涙は頬をつたって、顎をかすめ、制服の襟に染み込んでいった。

その小さな肩が震わせ、必死に混濁する思考をなだめているのだろう。

 

静かに、耐えるように、壊れた音楽のように、心だけが震えていた。

 

迅は唯華に歩み寄り、そっとその肩に手を置いた。

その手はあたたかかった。だけど──唯華は、動けなかった。何もできなかった。

 

「唯華……」

 

かすれた声で、迅は彼女の名前を呼んだ。

その響きだけが、夕暮れの風に溶けて消えていく。

 

 

唯華の肩に触れていた迅の手が、そっとその背中に回される。

彼は震える彼女の体をやさしく包み込むように抱き寄せた。

 

唯華は思わず息を飲む。

 

それは、かつて何度も夢に見た「救い」の感触に似ていた。

 

だがもう、自分は救われる側にいちゃいけないと思っていた。

過去視という力にすがって、相手の秘密を勝手に知って、未来まで踏み込んで──

その上で何かを語る資格なんて、あるわけがないと思っていた。

 

「……大規模侵攻の時、おれは……唯華だけでも助けようとした」

 

迅は低く静かな声で、呟くように言葉を紡ぐ。

「おれだけが生き残る未来、唯華と一緒に死ぬ未来⋯

視えたのはほとんどそれだけで、唯華が生きていられる未来はほぼ0だった」

唯華は何も言わずに動かないまま、その続きを待つ。

 

「でも……結果的におれたちは生きてここにいる。謎が解けたよ。

唯華がおれの未来視を視て行動してくれたから……2人とも助かる未来になったんだ」

 

その言葉の中に、後悔でも悔しさでもない、純粋な感謝が宿っているのが伝わってきた。

 

「おれの未来視だけじゃきっと……だめだった」

 

唯華の目が少し揺れる。

脳裏にちらついたのは、崩れかけたビルやトリオン兵の姿だった。

 

そのとき迅が、肩越しに小さく⋯しかしはっきりと言い切った。

 

「おれを救ってくれた能力を……唯華のことを……嫌いになるはずがないだろ!」

 

その一言が、彼女の胸に突き刺さる。

 

唯華の中にあった「わたしなんか」「誰からも求められない」

「気持ち悪いと思われてるに決まってる」という思考が、ぐらぐらと揺らぐ。

強すぎる否定と、強すぎる肯定のあいだで、崩れそうな感情が、今にも噴き出しそうだった。

 

だから彼女は、ぽつりと、心の奥から本音をこぼした。

 

「私……お兄のこと、大好きだよ」

 

涙声だった。けれど、その声音には揺るがぬ真実があった。

 

「お兄がいたから、今日まで生きてこられた……!

いっぱい未来視て……私を助けようとしてくれてたの、ちゃんと知ってるもん!」

 

「唯華……」

 

「だから……だからもう泣かないで。お兄が泣いてるの、もう見たくないよ!」

 

そう叫んだ瞬間、唯華はようやく両手を彼の背に回し、ぎゅっと、ぎゅっと強く抱きしめた。

必死に、過去と現在と未来のすべてに、しがみつくように。

 

そしてようやく、唯華の心がほんの少しだけ緩む。

 

きっとすぐには元に戻らない。傷は癒えないし、抱えたものはほとんど減らない。

しかしそれでも、「誰かに抱きしめられること」「それを自分が受け止められること」が、

どれほどの重みに耐えうるか、唯華はその身で知っていた。

 

冷たい夜風が吹き抜けた屋上で、二人はしばらく、ただ静かに寄り添い続けていた。

「⋯帰ろうか」

「うん⋯でもスパイ(この人)どうにかしてからね」

 

 

 

玉狛支部の夜は、普段なら静かで、どこかあたたかい。

だがこの夜ばかりは、玄関の戸が開いた音と共に、張り詰めた空気が走った。

 

「ただいま……」

 

間の抜けた声。

それに続いて、同じく疲れたような声がくぐもって届く。

 

「……ただいま戻りました」

 

遅れて帰ってきたのは、迅悠一と唯華だった。

 

時計の針はすでに22時を回っている。

 

本来であれば夕食もとっくに終わり、支部のメンバーもそれぞれ自室でくつろぐ時間帯。

そんな空気を破って帰宅した迅に、最初に飛んできたのは優しい迎え──ではなかった。

 

「おせぇよ、迅。なんで連絡寄越さないんだ」

 

台所の奥から、重い足音と共に現れたのは、林藤匠。

着崩した上着に微かなタバコの匂いを纏いながらも、

いつもに穏和な雰囲気は鳴りを潜め、獣のように鋭い目を彼らに向けていた。

 

「いやぁ支部長(ボス)、あのですね、ちょっと……その、いろいろと……」

 

迅は後ずさりしながら唯華の背後に回り、さも「この子が理由です」的な顔をする。

 

「唯華の用事に付き合ってたんだ。おれは付き添い。

ほら、夜道を女の子1人で歩かせるわけにはいかないでしょ?」

 

「そうなんです。お兄はわざわざ迎えに来てくれて⋯」

 

唯華が眉をひそめながら振り返ると、

迅は「えへへ」と苦笑して後頭部をかいた。

 

「唯華は唐沢から連絡きてたから問題なし。……でもなぁ」

 

一歩前に出た林藤が、ぐいと迅の胸ぐらを掴まんばかりの勢いで睨みつける。

 

「お前はなんで黙ってんだ。連絡ひとつよこせないほど忙しかったか?」

 

「……はい、すいませんでした」

 

「何をしてたんだ?」

 

「唯華を待ってて⋯その⋯暗躍?」

 

「あんやく?」

更に言及しようとする林藤から逃げるように、

バタバタと靴を脱ぎながらキッチンへ駆け込む迅。

唯華は呆れたように息をつきつつ、その後を追った。

 

林藤は眉間を揉んだあと、ぽつりとつぶやく。

 

「2人とも腹減ってるか?適当に何か作ってやるから、手洗って座れよ」

 

 

台所に入ると、テーブルには簡単なおかずが数品。

出されたのは優しさのにじんだ料理だった。

 

「「いただきます……」」

 

ふたりで並んで、テーブルについた。

唯華は黙って、炒め物を箸で口に運ぶ。迅もそれに続く。

 

「……あ、これうまっ。支部長(ボス)って料理できたんだね」

 

「おいおいさすがに舐めすぎだろ。ゆりほどじゃないが、ちょっとは作れるさ」

 

「ちょっとですか?⋯バリバリ自炊できる人だと思ってました」

 

「そりゃ買いかぶり過ぎだな、全力出してこのくらいだし⋯」

 

ぽつぽつとしたやりとり。

だがその背後で、林藤はふたりの表情をじっと見ていた。

 

涙の跡。赤く腫れたまぶた。

どちらも言葉にしなければわからないほどには取り繕われていたが、長年の勘はごまかせない。

 

だが彼は何も言わなかった。

 

それが林藤匠の優しさだと言えるだろう。

 

 

 

食後、迅はため息をつきながら皿洗いに向かった。唯華も当然のようにそれを手伝う。

 

「ほんっと手伝わなくていいのに〜。おれが怒られたんだから」

 

「いーじゃん、遅れたのは私のせいだし。そのスポンジとって」

 

「はいどーぞ、唯華って意外としっかりしてるよね」

 

「それって⋯粗雑だと思ってたってこと?」

 

「う〜ん、ちょっと違うかな⋯」

 

 

 

皿洗いを終え、寝る支度を済ませる。

 

唯華はそっと自室のドアを閉じて、ベッドに座り込んだ。

彼女は兄の凄惨な過去に、今日の出来事が加えられていることに気づいた。

それでも⋯過去は消えない。

 

自分の過去も、他人の過去も、全部を思い返すのが怖い。

静かに目を閉じた先に広がるのは、数え切れないほどの未来だ。

 

──陽太郎。

その存在を強く意識して、強引に視界を塗り替える。

くすぐったそうに笑って寝返りを打つ赤ん坊の姿。

唯華の過去視が映し出す、優しい夜の光景だった。

 

(これで、今日も眠れる)

 

そう思いながら、唯華は毛布の中にもぐりこみ、

心に重くのしかかった沈黙を閉じ込めるようにして、ゆっくりと眠りについた。

 

 

「いつまで寝てんのよ!起きなさーいっ!」

 

朝の玉狛支部に、やけに張りのある小南桐絵の声が響いた。

 

バタン。

 

容赦なく開け放たれたドアの向こう、いつもなら誰より早く起きている唯華は、

まだベッドの中にいた。掛け布団を鼻まで引き上げて、顔の半分を隠している。

「あとじゅっぷんだけぇ⋯」

 

「そんなの許すわけ無いでしょ。めずらしいわね……唯華が寝坊するなんて」

 

小南が眉をひそめながらも、そっとベッドの端に腰を下ろす。

その声は、責めるというよりも心配の色が強かった。

 

唯華は布団の中から、やや眠たげな目で彼女を見上げる。

 

「⋯⋯あとごふんでいいから」

 

「約束よ。じゃあ朝ごはん冷める前に、さっさと起きなさいよね」

 

くすくすと笑いながら、小南は立ち上がり、ドアを閉めて出て行った。

 

唯華はしばらく天井を見つめたまま動かなかった。

昨夜の出来事が、まだ胸のどこかで熱を持っている。

けれど、それを意識するのが怖くて、彼女は深く息を吐いて、ベッドを出た。

 

**

 

朝食のテーブルでは、陽太郎がちぎりパンを両手で掴んで食べており、

林藤ゆりが目玉焼きを配っているという、なんとも平和な日常が広がっていた。

支部長は新聞を読んでいたが、

唯華が来たのに気づくと軽く目を上げて「おはよう」と声をかけた。

 

「おはようございます」

 

「遅刻は珍しいな。体調でも悪いか?」

 

「いえ、大丈夫です。ちょっと、夢が長引いただけで……」

 

「そっか。……じゃあ、よく噛んで食えよ」

 

支部長の言葉はいつもどおりだったが、どこか優しさが滲んでいた。

唯華はそれに微笑んで、席につく。

 

朝のメニューはトーストに卵とウインナー、温かいコーンスープ。

ふと隣を見ると、迅が少し不満げな顔でトーストにジャムを塗っていた。

 

「お兄、それ塗りすぎ。手ぇベタベタになるよ」

 

「甘さが足りないとやる気出ないんだよね〜」

 

「どうせ今日の任務、午後からでしょ?」

 

「……レイジさん醤油とって」

 

なんてやりとりをしながらも、いつものように支部での朝が過ぎていった。

 

**

 

ランドセルを背負い、パーカーの紐を整えて、唯華は支部を出た。

 

もうすぐ進級して、彼女は中学2年生となる。

だいぶ慣れた学び舎への道を歩きながら、唯華は空を見上げた。

 

(あと何回、ここの空を見て通うんだろう)

卒業はまだまだ先だ。あと2年も⋯まぁ2年ある。

 

乾燥した冬の匂いがする風が頬を撫でる。

感傷に浸る間もなく友達の声が聞こえ、唯華は笑顔を浮かべて走り始めた。

 

**

 

その日の授業は淡々と過ぎていった。

卒業式の準備、通知表の整理、ちょっとした小テスト。

 

なんとなく教室の空気もしんみりしていて、みんなの声も少し小さかった。

 

「みんなとは、また会えるよねー」とか、

「中学別々になっても、連絡とろーね」とか。

 

唯華はそれを眺めながら、少し遠いところから世界を見ているような気分だった。

 

そして放課後──

 

「迅唯華さん、ちょっと職員室まで来てもらえるかな」

 

大規模侵攻の前日ぶりに担任の先生に呼ばれた。

 

**

 

職員室の奥、面談用の机に通された唯華は、目の前に座った担任の顔を真っ直ぐ見つめていた。

 

「唯華ちゃん……だいぶ期間が空いてしまいましたが、叔母さんと叔父さんのことについて」

 

「……もう、終わった話です」

 

唯華はまっすぐに、けれどどこか無機質な声でそう返した。

 

「叔母さんたちは、私を捨てました。

私は、あの人たちの元を去りました。だから、今は大丈夫です」

 

「……いけません」

 

担任は眉を寄せて、前のめりに言った。

 

「“今”が大丈夫でも、それで終わりにしてはいけないんです。

これはきちんと終止符を打たなければ、唯華さんの心に一生傷を残してしまう……!

もう準備は整っているんです、だから──」

 

「やめてくださいよ」

 

その声は、あまりに静かで、そして酷く冷たかった。

 

唯華は目を細め、にこりと笑った。

だがその笑みに、どこにも温度はなかった。

 

「せっかく忘れてるのに、わざわざ掘り起こさないでください」

 

言い終えると同時に、唯華は立ち上がった。

「うれしかったです。気にかけてくださり、ありがとうございました」

 

クルリと一回転、スカートの裾をふわりと揺らしながら、

かわいらしく、けれどどこか芝居がかった仕草で振り返る。

 

瞳に宿った光は、嘘だったものを塗り替えたように輝いていた。

 

「……さよなら、先生」

 

そして、唯華は静まり返った教室をあとにする。

「待ってください!唯華ちゃんは⋯本当に笑えていますか⋯?」

廊下に響いたのは、教師らしいよく通る声。

「えぇ、笑えていますよ!」

 

唯華は過去最高の笑顔を浮かべ、ダブルピースで駆けていった。




誤字報告を受けて、林藤支部長のお料理シーンを修正。
唯華(作者)は、林藤支部長はキャンプとかしてるたくましさがあり、
気ままに旅する風来坊みたいなイメージがあるので、
本編で「料理できそう」というような発言をしています。

叔母さんたちを再登場させるか(唯華の給料目当て)

  • 登場させて恥をかかせよう
  • 登場させてボロクソ言ってやろう
  • 不快なので登場させないで
  • 迅悠一が裏で殺す
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