ホロライブラバーズ 『冥追の魔法使い』 作:錦坂
アホかもしれない
銀灰の髪が、肩口でゆるやかに揺れていた。
まるで光を吸い込むかのような滑らかな艶、そして空気を切り裂くような軽やかな動き。
白く染まる吐息が、彼女の周囲だけをほんの僅かに冷やしているようにも見えた。
ぱっちりと開かれた赤い瞳は、まっすぐにこちらを見据えている。
だがその奥には、現実を少しだけ斜めから覗き込むような、冷めた距離感が潜んでいた。
右手には、短剣。指先でくるくると弄ぶように回している。
左手は意味深にコートの右の内側に隠されていた。
無防備にも見えるその仕草には、どこか気怠さが漂っていたが――その裏には確かに、かすかな緊張の糸が張り詰めていた。
「──あれあれ、沙花叉のこと知らないの?」
彼女は黒いフードを深くかぶっていた。
そのフードの上には、目のような白い模様と、やたらと目を引く大きなリボン。
服装はやや装飾過多で、制服というにはあまりに凝っていた。まるで舞台衣装のように作り込まれ、ベルトや金具が複雑に交差している。脚を覆うタイツにはいくつも破れがあり、その不揃いさですらどこか「演出」のように見えるほど、彼女の姿は一種の完成された様式を成していた。
問いかけに対して沈黙を貫くフロイトに、彼女はつまらなそうに眉を下げるだけだった。
「……ほんとに知らないんだ?」
「無理もないだろ。最近まで
「じゃあお友達はシオン先輩だけ?」
「…どうして知ってんのかは聞かないでおくけど──お前…中学生か?」
「なんで??」
「シオンのことを
フロイトの指摘に、彼女はやけに得意げに胸を張った。
「敬意を表してそー呼んでるの。シオン先輩は
「え…お前いま、他人のこと神って言ったのか…?」
妙に場違いなその会話に、ふっと力が抜ける。
だがその瞬間ですら、彼女の纏う空気には確かな緊張が含まれていた。
第一印象としての『可憐な少女』という言葉とは裏腹に、彼女の佇まいは、まるで冷たい刃のように研ぎ澄まされていた。
魔法使いにしては鋭すぎて、
──きっと彼女は、
「……とにかく、中学生ならとっとと帰ろうぜ。もうGW終わっちまったんだし。中学はもう二時間目の時間だろ」
「…え? 沙花叉、1年生だよ?」
その一言に、フロイトは一瞬絶句した。
「なら余計帰らないと大目玉喰らうだろ……! いや、それにしては大人びてない? お前ほんとに中学生?」
微妙に噛み合わない二人の会話。
その違和感に最初に気づいたのは、クロヱの方だった。
赤い瞳をぱちくりさせて、一歩こちらに詰め寄る。
フードの奥から、ふくらんだ頬をわざとらしく見せつけるようにして、じとっと上目遣いを投げかけてきた。
「ちょっと! 沙花叉は今高1!!!!! フロイトと同じ!! この学園の生徒!!」
「……あっ、ごめん」
フロイトが少し苦笑しながら謝ると、クロヱはぷいっと顔をそらし、鼻を鳴らした。
だがその仕草には、どこか拗ねたような、からかい半分の柔らかさがあった。
……緊張の糸が、音を立てて崩れ落ちたような気がする。
“バトルロワイヤル”とは名ばかりのデスゲームが始まっているというのに、目の前の少女――沙花叉クロヱは、まるでそんな世界の外から来たかのように、悠然としたペースを保っていた。
「………うーん…」
「何さ、沙花叉が高1って信じらんないの?」
「ちげーよ、ただ………」
信じられないのは、あのシオンのことを『神』だなんて呼んでる事実の方だ。
クロヱのシオンに対する異様な心酔ぶりは何なんだ……? シオンって結構子供っぽいだろ?
もう高校生なのにマ◯クのナゲットソースは今までバーベキューしか頼んだことなかったらしいし──ナゲットのソースをマスタードにしたとき、アイツ俺に何したか分かるか? マスタード派はありえないって言いながら俺のこと演習場に磔にしたんだぞ?
有無を言わさず、無実のマスタード派の俺を磔にした人のどこが神なんだ。お前はマスタード頼んだだけで、『
俺はあるぞ、三回くらい……あの磔台、やけに高くてマジで怖かったんだからな。
「沙花叉は、沙花叉クロヱ。さっき放送あったでしょ? 優勝候補の一人。よろしく」
「…ならまあ俺のことも知ってんだろ。優勝候補ってことは…お前も俺のこと、殺しに来たのか」
フロイトがわずかに警戒の色を浮かべて言うと、クロヱは口元に薄い笑みを浮かべた。
それは、無邪気とも冷徹ともとれる、不思議な曖昧さを持つ微笑だった。
「うーん。
その口調は軽い。
けれど、彼女の指先で弄ばれていた短剣の動きが、ほんの僅かに鋭さを増していた。
「はぁ…そうか」
慣れは怖いものだと感じる。だが、殺されるのはもっと嫌だと思った。
だとしても──殺意を向けられることに少しずつ慣れてきた以上、そういった脅し文句も、もはや安い挑発以上の意味を持たなくなっていた。
彼女は俺を潰しておきたいのだろうか…悪いが、俺はケイ以外と戦うつもりはない。
優勝候補同士が無用なつぶし合いをしたら作戦が破綻する。俺には端からクロヱを相手取る気なんてなかった。
フロイトが肩をすくめて力を抜くと、クロヱは一瞬、ぽかんとした表情を浮かべた。
それから、すっと眉を下げて気まずそうに問い返す。
「…驚かないんだ?」
「血の気の多い奴に追いかけ回されると、脅しなんてかわいいもんだよ」
「じゃあ話続けるね」
「俺も闘う意思ないし、続けてくれ」
フロイトが杖をしまうと、それを見たクロヱもまた、短剣を静かに降ろした。
その切っ先には、淡く魔素の粒が揺れていた。――やはり、彼女の使う触媒はその短剣なのだろうか。
すると、彼女の雰囲気がふっと変わった。
まるでノスタルジックなピアノの旋律が流れ出すかのように、しんとした空気がその場を包み込む。
「シオン先輩がこの学園に入るって聞いた時──沙花叉ね、死に物狂いで勉強したんよ。中三の春くらいだったかなあ……当時の沙花叉、魔法の成績下から一番目だったから」
「……最下位って言えよ」
唐突に始まったのは、予想していた本題とはまるで違う話だった。
「勉強の仕方も魔法の鍛え方も間違ってるのが分かってたから、生活から少しずつ変えていったんだ。例えば──ノートの字が汚すぎて自分でも読めなかったから、魔法で文字を書いて繊細な魔素操作を鍛えたり……あと、部屋が散らかってて杖がよく行方不明になったから、探知魔法も鍛えたんだよ?」
そう言いながら、クロヱは胸に手を当て、遠い目をして目を閉じる。
過去を振り返る仕草はどこか芝居がかっていたが、その言葉には確かに熱があった。
突っ込みたい箇所は山ほどあったが──今は黙って聞くしかなかった。フロイトは口を閉じた。
「でも! 成績は全然上がらなかったの!!!!」
悲鳴のような叫びに、思わずフロイトは肩をすくめる。
「……そりゃ大変だったな」
「大変なんてもんじゃないよ!? 中三の夏休み、300時間も勉強したのに……休み明けの総合テストで150点も落ちたの!!!!」
「マジで?」
魔素の操作精度まで上げて、他にも色々やったんだろ? なのに?
「……ってことは、その前は何点くらい取れてたんだ」
「夏休み前のテストは沙花叉史上初の205点! もうマジですっごく頑張ったの! あの時は嬉しくて、シオン先輩に会えると思って、一晩中気持ち悪い笑い方してたくらいなのに!!!」
ああ、それは確かに叫びたくもなる。
憧れの人間のいる世界に一歩近づくことの感動ってやつだな。
それに、俺の中学も同じく300点満点だった。彼女と同程度の点を取っていた経験があるからこそ、150点下がるという絶望感は想像に難くなかった。
「……あの、参考までに聞くけどさ。そのテスト、満点って何点?」
「え? 定期も総合も900点が満点だけど? なんか違うの?」
「……難儀だな、お前」
なるほど。900点中55点…成績が
クロヱは話の熱が冷めないうちに、手にしていた短剣を壁に突き刺した。
廊下の壁の石材に亀裂が走る。
…魔素で身体を強化してもその膂力は尋常じゃないぞ。冷や汗をかきながら、フロイトは沈黙を貫いた。
「その頃ね、シオン先輩のニュースを見たの。エオリスの開発したって!で沙花叉は思ったの──これは学校が……魔法教育が……社会構造が悪いって」
「……いや矛先おかしいだろ」
「それと同時に確信したの!! これだって! シオン先輩を見習って魔法開発の勉強初めて、まずは自分の戦闘スタイルを補助する簡単な魔法から──あっごめん、話しすぎた?」
「やっぱこれ本題じゃなかったんだな???」
「こっちも本題なのになーんか素っ気なくない? ……まいいや。じゃあ本題ね」
あたりを見渡せば、拘束されていた他の生徒たちは皆、気を失っていた。
緊迫していた空気はすっかり薄まり、妙な静けさだけがその場を支配している。
クロヱのテンポに飲まれるようにして、場の空気そのものが変化していた。
そして──
まるで何かのスイッチが入ったかのように、彼女の目が細まり、声のトーンがぐっと低くなる。
「……フロイトさ、シオン先輩とどういう関係なの? 手とか……繋いだの?」
…また本題と逸れてない?
あまりにも直球すぎて、フロイトの思考が一瞬止まった。
「は?ってか本題は???」
「これが本当の本題!──で、どういう関係? 制服とか運動着は交換した? お昼一緒に食べた? テスト勉強会とか教科書を見せ合ったりとか放課後まで残って魔法の練習とかないの?? 間接キスは? あとはお風呂──」
「お、お前……」
その目の奥にあるのは、まぎれもない執着。
信じたいのに信じられない。尊敬と嫉妬と疑念が、ぐちゃぐちゃに混ざったような感情がそこにあった。
同時にフロイトも、クロヱの掲げた本題を信じたくても信じられないでいた。
「な、なんで俺とシオンが…そんなイチャコラしなきゃいけないんだ…?」
「男女2人きりのバディなんでしょ!? 何も起こらないワケないじゃん!!」
「それが何も起こってないんだよなあ!」
「嘘、
「……いや続くんかい。それに俺そんなことしないから、人聞き悪いな…」
冷や汗をかきながら答えたが、内心は穏やかじゃなかった。
こいつマジで狂信者だ。よかったわ、俺とシオンがただのバディ候補同士で!!!
まだ正式にバディになったわけじゃないし。
「………そう? …まあ確かに、フロイトって意気地なしっぽいし奥手っぽいし、恋愛とか出来るだけの土壌が整ってても、チャンスを逃したりタイミングミスって成就しないタイプっぽいし」
「なんなんだよお前、一々失礼なやつだな…」
あそこまで勝手に盛り上がって根掘り葉掘りしたくせに、なんだこの温度差は。
俺のことを殺したいのか馬鹿にしたいのか煽りたいのか…忙しいやつだなマジで。
俺は、怒りと呆れの入り混じった感情をどうにか表に出さぬよう、表情を抑えた。
クロヱの逆鱗に触れぬよう、慎重に言葉を選びながら、彼女の問いに対する答えを冷静に探っていく。
「推薦入試の日、シオンから
「バディ……努力……?」
「正式なバディになったわけじゃない。バディ制度の申し込みも始まってるけど、てんやわんやで手続きする時間的余裕もなかったしな」
クロヱの眉がぴくりと動く。その目は、疑いと信じたい気持ちの間で揺れていた。
「少し前に噂になってただろ? 『シオンがしょうもないのとバディ組むかも~』って。その
それを聞いて、なんだなんだと彼の死で学園中が盛り上がったことも思い出しているようだった。
暴走しそうなクロヱを抑え込めたところで、フロイトは淡々と、出来る限りの事実を話した。
だが──
「──そういうわけで、俺とアイツは、まあ……
クロヱの瞳が細まる。そして、問いが来た。
「……守れるの?」
「え? なんだって?」
「そんな弱いのにいざって時にシオン先輩のこと守れるの!? 一回死んだんでしょ!!?」
「なんてこと言うんだ…むしろ生き返ったんだからそこそこ強そうって思えよ」
「だってフロイトさあ!!! 話聞いてる限りだとほんとに弱そうだし…」
「さっきまで無遠慮だったのに申し訳なさそうに声量落とすのやめような? 俺が最強だったら手が出てたぞ??」
一見すれば無慈悲なだけのその言葉が、容赦なくフロイトの胸の奥を抉っていく。
あの日、最強にバディの提案を受けたところから始まり──ケイに命を奪われ、奇跡的に蘇り、こうして今日に至るまでの時間。
自分の無力を恨まなかった日はなく、嘆かずに過ごせた夜もない。
シオンとの間に存在する『差』に目が眩むことはしょっちゅうだった。
だが、環境と幸運のおかげで、何でも出来そうな気がする日もある。
前向きは悪いことじゃないけど、俺は俺の浮ついた感情が苦手だった。
シオンやティア、その他の人間から向けられる、俺の実力に対する好意的な評価。
それよりも、俺は俺が弱いことを突きつけられる方が、進むべき道を見つけられる気がする。
俺の今と未来を指し示す道標は、いつも悔恨や嘆きの感情で。
そういうまっすぐな事実だけが、静かに俺の中へと染み込んでいく。
「……まあ、そうだな」
『弱さ』は、俺の現在地だ。
「クロヱ──お前もシオンを追ってここまで来たなら分かるだろ。シオンは俺たち魔法使いにとって天井だ、俺たちはいつも守られるだけ」
「そうだね。シオン先輩の強さを考えたら──間違いないと思う。」
フロイトもクロヱも、静かに、けれど真っ直ぐな声音で言い切る。
バディとは、守る者と守られる者ではない。
信じ合い、共に歩く存在──それが、本来の『対等な関係』のはずだ。
「だから、今の俺にアイツを守る資格なんてない」
「…ふーん」
クロヱのまなざしが、一瞬、硬くなる。
まるで、失望を押し殺すような沈黙が、そこには宿っていた。
彼女の問いは、シオンの考えを探るものではない。
俺が、シオンの隣に立つに値する人間かを見定めるためのものだった。
守られるだけの今の自分では、シオンの隣に立つことさえ許されない。
けれど──
「なら、バディなんてやめて今すぐにシオン先輩を目指して──」
「言っておくけど、俺はシオンを
フロイトの脳裏には、シオンのあの退屈そうな横顔が浮かんでいた。
彼女の姿は──理解されることを諦めて、孤高を選んだようにも見えた。
だから、いつかきっと。
彼女は孤高の魔導師だ。孤高であることに苦しむ日がきっと来る。
強さを理解されない日が、彼女の視界に広がっている世界を理解されない日が、誰からも認められない日が──きっと、来てしまう。
紫咲シオンは特別だから、シオンを理解できない人間から心を追い詰められる日が来る。
でも、そういう時に隣にいるのがバディだと思うから。
「今でこそあいつに守られちまってるけど、俺はシオンを超える」
クロヱは、黙ってフロイトの言葉を飲み込んだ。
一度は失望した人間を前にしているんだ──普段ならもっと突っ込みたくなるような冗談や軽口、感情をぶつけたくなるような言い回しもできたはずなのに。
彼女の口は、しばらくのあいだ何も発さなかった。
「アイツにはゴシゴシ鍛えてもらってるからな…手塩に掛けて育てたフロイトはこんなに強くなりましたよって──今日のバトロワで、そういうのを見せられたらいいなって思ってる」
俺はシオンを超える──それは、ただの冗談みたいな言い回しだった。
けれど、そこに込められた覚悟に、クロヱは密かに気付いてしまった。
(……何それ、ズルいじゃん)
フロイトは、自分を過大にも過小にも見せなかった。与えられた評価と、持っている実力で、現在地を計って、ゆっくりと歩みを進めている。
だから、彼にとって守れないことを認めるのは、弱さじゃない。
今を受け入れて、未来に繋げる強さだ。
「俺はシオンを超える」
その言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。
あぁ──。
フロイトは“追いかける”んじゃない。
シオン先輩の隣に“立つ”って、バディを誘われた日から、最初から、そう決めてたんだ。
誰もが紫咲シオンを、雲の上の存在みたいに崇めている。
敬意と畏怖の中で──彼女に近づくことすら畏れ多いと、どこかで距離を取ってしまう。
見習い、憧れ──でも、
(沙花叉は…シオン
きっとそうだ。そうだった。
憧れて、焦がれて、執着して……でも結局、その感情が強ければ強いほど、自分は“届かない側”だと証明してしまっていた。
見習うという発想が、崇めるという発想が、隣に立つ自分を、超える
どれだけ信じても、祈っても──そこに“並ぶ”という発想は生まれなかった。
でも今、目の前にいるフロイトは、
まっすぐにシオンの隣を目指している。
迷いなく、それが当然のように。
(……それって、なんかズルいよ)
羨ましいと思った。
悔しいとも思った。
フロイトは、誰よりもシオンを高く見てるくせに、同時に“対等”になろうとしてる。
それは、誰よりもシオンを信じている証で──誰よりも、彼女の強さと孤独の両方を、正面から見ている人間の目だ。
(……あたしには、そんな目で見れなかったかも)
その思いが、ちょっとだけ悔しくて、ちょっとだけ誇らしくて。
だからたぶん、ほんの少しだけ照れ隠しに近い強がりで、
次に出てくる言葉が、また辛辣な一言になるんだろう。
でも心の奥底では、たしかに感じていた。
沙花叉が思ってたより、ずっとマジなやつだった。
と。
「…勇ましいヤツ、」
ぽつりと、肩の力を抜いた声が漏れた。
「でも、そっかぁ。強くなってシオン先輩に並ぶ…そーいうことなら──」
そう言って、クロヱは腰を落とすようにその場にしゃがみ込んだ。フードの影から覗いた頬には、さっきまでにはなかった青ざめた色が。
その足元には、うっすらと鮮血が滲んでいた。
「フ…ッっ、まずはさ…沙花叉のこと守って──くれない…?」
フロイトが眉をひそめる。
滲んで溜まる鮮血。
対極に青ざめていく頬。
色を失い始めた瞳。
震える声。
あの日がフラッシュバックする。
シオンと共に攻撃され、何もできずに死んでいった、あの日──。
「なあそれ──」
「さっき…ちょっとバチバチやってね。ケイ強かったぁ~……手加減してくれてたのに、普通に殺されかけたし…」
「──ケイ?」
軽い口調に反して、彼女の負った傷の深さは明らかだった。
右腹部……コートの下で隠されていた左腕が、傷口を無理に止血していたのだろう。腕の奥から覗いた腹部から、大量の血液が流れ出ている。
彼女と初めて会った時の足取りの不自然さは、大量の失血が原因だったのか──。
「…どこでやられた」
「実験棟……」
戦えるフリをしていただけだったのか。
「シオン先輩に…見つけてもらうつもりだったのに、こんなんじゃ無理だよね……あーあ、やんなっちゃうな」
そう呟いた声は、かすかに震えていた。
努力をして、準備して、命がけでここに来たのに。
結局、辿り着く前に足を止められたことが、悔しくてたまらなかった。
「ねえフロイト…取引しない?」
彼女はフロイトを見上げた。その赤い瞳は、今度は真っ直ぐだった。
「…沙花叉のこと、守るの……それってなんか、修行っぽくて強くなれそうじゃない?」
「……は?」
「だってさ、沙花叉はもう…今回のバトロワじゃ…シオン先輩に何もアピールできそうにないし。でも、フロイトはまだ戦える……これから強くなるんでしょ? シオン先輩…超えるんでしょ?」
「…………」
「フロイトが守ってくれたら──上にいければ…もしかしたら、シオン先輩の目に留まるかもだし…? 他人を守りながら勝ち抜くのも……悪い話じゃないと思うんだけどなあ」
そう言いながら、クロヱはふっと、照れたように笑った。
「…シオン先輩の隣、立ちたいんでしょ? だったらまず…沙花叉を守って、強くなればいいじゃん…シオン先輩のために頑張ってるって、ちゃんと伝わるよ? きっと」
口ではちゃらけたことを言ってるけど、目は本気だ。
これは賭けだ。クロヱ自身の、命と名誉をかけた。
「ふざけてるのか
クロヱは片方の膝を立てたまま、うっすら笑いながらフロイトを見上げた。
血で滲んだ指先を握り込みながら、その赤い瞳が、ふっと柔らかな光を帯びる。
さっきまでの冗談交じりの口ぶりとは違う、どこか“素”の熱を帯びた視線だった。
「マジだよ──今の沙花叉じゃ、誰と組んでも足手まといだけど…ね」
言いながら、唇の端を小さく引き上げて、少しだけ拗ねたように笑う。
自嘲気味に肩をすくめるその仕草は、どこか諦めを装っているようで、それでも“何かを賭けている”ように見えた。
そして次の瞬間、瞳の奥がきらりと揺れた。
「どう? シオン先輩ともまだなんでしょ?
ふっと顔を近づけ、目線を少しだけ細めながら。
「沙花叉とバディごっこ、しよ?」
いたずらっぽい笑みと、どこか試すようなまなざしが重なる。
ほんの少しだけ声を甘く落として、軽く問いかけるように。
でも、その奥には確かに、弱さと真剣さが同居していた。
フロイトとはバディごっこでいいから俺とは恋人ごっこしてください。