"黒服"はしばしその部屋を眺め、観察した。
"ジョン・ドゥ"の部屋は、どのような女学生の部屋とも対照的に、まるで時間が止まったかのような静けさを漂わせている。空間の隅々には、一部を除いて無駄を削ぎ落としたミニマルな家具しか置かれていない。床は無機質なコンクリートのままで、白い壁がひたすら広がっている。
部屋には暖色系の照明がかろうじて灯っているが、冷たい空気と硬い雰囲気がそれを包み込んで、どこか無機的だ。ベッドは簡素で、カバーは無地の黒か灰色だろう。枕は少しだけ凹んでおり、使われた形跡を残しているが、それ以外は整然としていて、あまり生活感を感じさせない。
本棚には数冊の薄い本と、適当に積まれたファイルが置かれている。
部屋全体の雰囲気は、どこか孤独で、外界と隔絶された空間。彼が
黒服は本棚の上に置かれた一つの写真立てを見た。その中のジョンは目に見えて慣れていないと思われる笑みを浮かべていて、その隣に立つ白髪と黒のメッシュの髪をした少女はカメラに向けて優しく微笑んでいる。
彼は部屋の雰囲気から浮いている一つの壁面をみた。ほんの少しだけ他者の影響を感じさせるものがある。
それは、壁に掛けられた一枚のポスターと、部屋の隅に置かれた古びたレコードプレーヤーだ。ポスターには伝説的なロックバンドのメンバーたちが勢ぞろいし、粗い質感のアートワークが印象的に描かれている。そのようなモノに疎い黒服でもあってもそのポスターは「ロックへの入門書」のようなもので、仲の良い人物に押し付けられたものだと理解できた。
しかしながらプレーヤーの横に並ぶレコードは、どれもほとんど再生された形跡がない。埃がうっすらと積もり、ポスターすら新品のように端正だ。それらは「趣味」ではなく、誰かに習ったという“痕跡”にすぎない。彼の中で音楽は、まだ響いていない。
その姿を見ている者がいる。
「おい、」
ジョンが拳銃を、グロック19を黒服の頭部に向けて構えていた。
風呂上り特有の濡れた髪の奥にある冷たい目が黒服を無感情に見ている。彼の肉体は素人目でも実戦的に鍛え上げられていて、腹筋は六つに割れていた。下は真っ黒のパジャマのズボンを着ていて、肩にはタオルをかけている。どうやら観察に時間を使いすぎたらしい。
ソファで待っていようとしたのに、自身の悪い癖だ。黒服は自身の好奇心を少し咎めた。だが少しは人格を分析できた。
黒服は向けられる敵意に対して両手を挙げようともせずに演説する。
「貴方の人生譚は魅力的でしたよ」
黒服は絶品の料理を食べたように、富裕層の男のように言う。
「かつての貴方は何十の自治区もの人間と関係を築いた」
「一つの自治区に収まるには余りに強大な善性と知性を持ち、そして記憶を失う前には中学生にも関わらず、少しは名の知れた植物学者だった。ですが、今の貴方はどうでしょうか?」
そうか、と逡巡すら見せずにジョンは拳銃を向け続ける。
「それで、強盗犯の戯言はそれで終わりか?」
「貴方は記憶を取り戻すためにブラックマーケットを渡り歩いた。雷帝に拾われ、政権崩壊時にまた失踪。そこまでしても何も見つからず、貴方はようやく前地リクが死んだことを知り、ブラックマーケットでジョン•ドゥとなった」
「”何故今になって、彼女たちがもう少し早く見つけてくれれば”と思っているのではないですか?」
黒服はその問いを無視して言う。ジョンはなぜこの化け物がいくつかの事情を知っているのかを少し疑問に思い、警戒を強める。
「貴方は自身を見つけてくれなかったアビドスに復讐がしたい、そうでしょう?」
「ですが貴方の神秘は皆無だ。しかし、もし我々に協力してくれるというならば───」
ジョンは溜息を吐き、制する。
「そっちの結論ありきで話しかけるな。」
ジョンは黒服の頭を撃ち抜いた。
「ふむ、痛いですね。殺してしまうとは思いませんでした?」
頭を撃たれた黒服は勢いによって仰け反るが、その一部を除いて真っ黒な頭は非人間であるかのように修復され、戻る。その二秒。
「お前のようなモノは
ジョンは次の銃撃の為に構えた。連続して身体を破壊し続ければ殺せるはずだ。ようやく黒服は両手を挙げた。
「失礼、自己紹介がまだでしたね。私は"ゲマトリア"という研究組織に属している"黒服"、と申します。カイザーPMC理事の紹介を得てここにいるわけです」
黒服は悪びれた様子を全く見せずにそう自己紹介し、理事からの紹介状をジョンに渡す。
「どっちかっていうと”被検体側"に見えるけど?」
ジョンは紹介状を一瞥し、皮肉な物言いで黒色の物質で構成された、概ね”ヒト”とされる黒服の姿を揶揄った。黒服はその言いように苦笑する。
随分と印象が悪いようだ。少し早まったか、いや、仕方あるまい。黒服らしくからぬミスは研究者のサガから湧き出たものであり、彼からして十二分に”ジョン•ドゥ”は興味深い存在であったのだ。
小鳥遊ホシノを名画家が描いたある傑作とするなら、ジョンは真っ白のキャンバスのようなものだ。どのようにだって絵を描くことができる。どのようにだって発展させていくことができる。黒服は創作意欲の湧き上がりを感じていた。なぜ彼が他のゲマトリアに捕まらなかったのか、不思議でならない。だがそれはどうでもいい。
彼と定義づけられ、結ばれるテクストはまだ少ない。十分に固まっておらず、まだ十分に塗りつぶせる。この神秘がなぜまだ無垢でいられるのか。それだけが私には分からない。
知りたい。
研究者として、何としても手に入れたい!
「本題に入りましょう。私たちは合法的な組織でありますから、誰かを攫うなんて事はできません」
黒服は少々大げさなジェスチャーを使う。
「つまり、我々は合法的な手段で被検体を探さなければならない」
「オーケイ。その広報対象が俺ってわけだな」
「えぇ、その通りです」
黒服は頷き、様子をうかがう。
「俺がアビドスに勝てないから実験体になって無敵になろうって?」
「えぇ」
「不確定要素が多すぎる」
ふむ、三顧の礼という言葉もありますし、ここは次の交渉の場に持っていく方向で締めますか。少し圧を掛けておけばいつかは言うことを聞くかもしれない。
「何か勘違いしなさってるようですが、貴方では小鳥遊ホシノには勝てませんよ。貴方は過去を克服できず、”前地リク”となってしまう。一緒に過去を超越しましょう?」
ジョンは目つきを鋭くする。おっと。
「状況が分かってないようだな。俺がこうやってアンタと話してるのも、俺がアンタに対して
ジョンは一歩踏み出す。銃口と黒服の頭部は近づく。
「アンタは自分が主導権を握ってると勘違いしてる。でもそれは違う。今、アンタは踏み込みすぎてるんだ」
「俺は言ったよな。そっちの結論ありきで話しかけるな、と」
「それ以上酷い顔面にされたくないなら、アンタは退くべきだ」
黒服はその銃口を見ながら、笑みを浮かべてまるで死が怖くないかのように言う。まだ踏み込める。まだ限界点じゃない。
「あくまでこれはイントロにすぎません。一度小鳥遊ホシノと戦ってみれば
彼はある場所の地図を本棚の、写真立ての横に置く。
「───この場所に来てください。私はいつでも待っていますよ、貴方を」
黒服は微笑む。
そして、ジョンは黒服がもはやどこにも存在しないことに気づく。音もなく消えた。残した地図だけが彼が存在したことを示している。
ジョンは不可解な出来事に悪態をつき、地図を一目見て、そしてゴミ箱に放り捨てた。
そして洗面所の鏡の前に立つ。彼は鏡にかかった黒いカーテンを開ける。
前地リクという男はどんな人間だったのか?ジョンは着ていた服に縫われた名前だけしか知らず、その服とズボンは火事で既に燃えた。
彼は鏡の中のリクに向かって言う。
「お前は死んだんだ、リク」
リク、ジョンによく似た、もしくはジョンの過去モドキは返答する。
「ジョン、君はどこに行くんだ?」
彼はどんな風に喋るのかすら、いいや、何一つも知らない。一人称も二人称も。
ジョンはリクから目を離す。
鏡は喋らない。それはジョンの妄想だ。
ジョンは鏡のカーテンを閉める。
ジョンは鏡が嫌いだ。
過去は、すでに死んだ自分だ。それでも人は、その死体に縋る。