“希望が見える”、私が好きな言葉です。後の曇らせが際立ちますから。
「法は万人に平等である。すなわち、富める者にも貧しき者にも、橋の下で眠ることを禁じる。」
「は、はぁ…そう言われましてもね、こちらとしては構成員の個人情報を保護する義務がありましてね。」
目の前の官僚は適当に相槌した。ここはガードの”交番”だ。ブラックマーケットに数ある非戦地帯。どこかの馬鹿がここに襲撃に入れば、直ちにガードの大軍が報復に来るだろう。
「そこをなんとか!!」
奥空アヤネと名乗る少女は、机に乗り出して懇願した。感情的な懇願に、さすがの官僚もたじろいだ。
官僚は頭にまた手を当て、苦悩した。どうすれば帰ってくれるだろうか。問い詰められている官僚は別に、優秀なわけでも、無能なわけでもない。彼は職務規定の範囲で仕事をしているのだ。
「はぁ…ですがね、彼への報復を避けるためにですね、それはできんのですよ。」
官僚はアビドス生を見た。彼女らの生徒証は確かなものだ。彼の生徒証も見せてくれた。ジョン•ドゥが記憶喪失のアビドス生だという前提も受け入れよう。
だが要求されている情報開示はプロトコルに反する。マーケットガードは個人に対する報復を避けるために、特殊部隊さながら顔を隠しているのだ。あるいは、山海経のエージェントらのように。
確かに、”彼”は顔を隠してはいない。だが、どこにいるかなど、どうして教えられようか。そしてそれを知る権限はその官僚には無い。交番に詰める同僚にもだ。
「やぁ、すみません。こんにちは。」
流暢な言葉遣いの軽い謝罪と、挨拶。背後からかけられたそれに振り返った。
声をかけた人物は生徒だ。ガードの制服を着込んでいて、顔はサングラスである程度隠されている。髪が傾き、腕を懐に入れた。
その人物はある物を取り出し、ガラケーのように、あるいは警察手帳のように”手帳”を開いて目の前に見せた。
フォーマットを見るに、その人物は「通信部」に属しているようだった。コードネームは”ハーパンジャー”。
「ガード通信部から参りました。”オフィサー”、ガードの幹部が貴方をお呼びです。奥空アヤネさん。」
「彼に学籍はありません。先生、貴方が救うべき生徒ではない。それは私たちもですよ。」
シャーレの先生は穏やかに言った。
「”そうかもね、だけど、それが大人の役割だから。”」
「そうですか。オフィサーは貴方が入ることを望んでいません。奥空アヤネ以外のアビドス生もです。それが不服であっても、その事実は変わりません。」
『私は”オフィサー”。ガードの幹部だ。ここ一年、私はここを率いて来た。
お代官様はニヒルな笑みを浮かべて言った。一人称を「俺」から「私」に。その話し方を滑るように、流暢に。
奥空アヤネは”一人だけ”で、呼び出されていた。ここはガードの本部ではない。本部は隠匿されている。ただ使い捨てることができる交渉場だ。
「私はアビドス1年生、奥空───」『奥空アヤネだろう。アビドス廃校対策委員会、一年、書記。役割はサポート。そうだろう?』
アヤネは沈黙した。向かい合っている生徒は微笑んだ。場の空気を完全に掌握したようだった。
「ちょっとちょっと、そーいうのは”おじさん”は良くないと思うなぁ」
小鳥遊ホシノは圧をかけつつ文句言ってやった。無理に入って来たのだ。オフィサーはアヤネだけを招いたが、寛容に彼女を許した。
アビドスの面々は入って来ようとしたが、護衛によって妨げられた。ホシノの立場やら実力やらを加味したのかもしれない。
彼女の口はようやく止まった。会話を楽しむ為ではなく、サングラスの下に公務員らしき顔を浮かべたのが分かった。そこに人間的感情は無い。
『話を聴こう。要件は?』
「前地リク君を返してくれないかな。」
『私は奥空アヤネに訊いたんだ。君にじゃない。それで、君は我々に何を求めているのかな』
アヤネは息を呑み込んだ。
「…リク先輩と会わせてください。」
その感情が秘められた言葉に、オフィサーはサングラスの奥で、眉を顰め、頭を下に俯けた。思わずため息が出た。失望だ。
法的根拠も、それによって齎される組織的利益も、何一つ無い。なんて旧共同体的な要求。くだらない、くだらない”感情的な”物言いだ。
『………本当に迷惑だ。私たちがヴァルキューレだったら、君を公務執行妨害で捕まえられるぐらいね。』
ホシノはアヤネが怖気付いたのを見て反発した。傲慢な仕草に見えた。
「彼は君のモノじゃないでしょ?わざわざ会うためにこんな手間をかけてるんだからさ。合わせて欲しいんだけど?」
『彼は誰のものでもない。君のものでも、私のものでも。だが、契約上は…彼は
そこまで言い切った後、彼女は笑みを深め、嘲った。『いやはや、つまりだな』
『お嬢さん、君が提示すべきモノをテーブルに何一つ出せていないじゃないか。お巡りさんじゃない、ただの私的武装組織に、「会わせてほしい」?とんだお笑いじゃないか。』
彼女はアヤネをまるで人間扱いしていなかった。社会に存在する人個人として処理していたのに、共同体的要求をされたことにうんざりとしたのがよく分かった。
「彼はアビドス中学校の元生徒です。だから───『アビドス中学校とアビドス高校は中高一貫校じゃない。』
『卒業生がアビドス高校に入学しやすいのは慣習法だ。成文法じゃない。言い訳は聞きたくないものだ』
「まぁまぁ、ぶっちゃけた話をしよう?なんで会わせたくないの?」
『………信用が足りない。第一声で本当に失望したよ。私は彼という一構成員を保護するためにいる。』
『彼の記憶喪失の話は最近聞いたし、調べたよ。だが過去の人間だからと言って、会わせる理由にならない。そして───』
『───彼は面会を拒絶している。』
『法務部。』
その呼びかけに応じて、側に立っていた犬型の獣人は二人に正式な書面を配布した。その嫌疑を晴らすためだ。そして、まだ配っていない医学的鑑定の結果は書類に納めたままだ。
「どうぞ。さて、読み上げますね。」
甲をジョン•ドゥとする。乙をブラックマーケットガード合同会社とする。この条項は相互に意思決定能力を有し、かつ本契約の内容について十分な説明を受け理解した上で正式に署名された。
1. 乙は、乙の構成員である甲の個人情報を、公的な裁判所による確定した法的拘束力を有する開示請求の場合を除いて、いかなる状況でもこれを保護することを甲に誓約する。
2. 乙は、甲が望まない、第三者による甲に対する身柄の任意引き渡し請求、任意の面会要求、ヘッドハンティング、スカウトその他これらに類する私的な引き抜き行為を甲の正式な法的代理人として拒否することができる。甲が乙にそれを受諾する旨を伝える書面または電磁的記録による通達がない限り、乙は拒否を継続できる。
3. 甲はこの書面において、この契約が行われた時点で2に見られる引き抜きに応じる気はなく、代理人である乙にもそれに合致した対応を求める。この条項は甲がその意思を変更する旨を、書面または電磁的記録による通達をもって、乙に通達することで効力を失う。
4. 甲は乙との条項が意思決定能力のもと定められたことを確かにするため、利害関係を有しない第三者委員会による、意思能力確認を目的とした簡易な認知・判断能力テストでその能力を確かめるものとする。これに対する嫌疑がある場合、乙は甲に関する利害関係にない医師法における「医者」による医学的鑑定および、必要に応じて補助的な心理検査の結果を送付することに応じる。
『この契約をくぐり抜ける方法、つまりは裁判所への訴えなどの場合、』オフィサーは誠実に言及した。『この意思決定能力を確認した第三者委員会と医師の妥当性を検証することになるだろうな。』
彼女は一拍おいて、法務部の人間を見た。その期待に答えるように法務部はいった。「しかしながら、」
「これは契約で、我々は誠実に対応しました。これはオフレコですが、第三者を誠実に選定したされていると考えてもらっていい。」
アヤネの為に世界は回らない。
『私も君たちの立場に沿って、抜けがないか確認したとも。将来における法的拘束力も存在せず、公的な求めには応じるとある。我ながら、違法性が微塵もないのだよ。』
「これは独り言だがね、」
オフィサーは顔を隠していたサングラスを取った。整った少女の顔が露わになった。その顔を隠すものは無い。
隠さなくて良いのだろうか?まさか、本当に
「ジョン•ドゥは行方不明だ。我々にとってもね。何者かによって彼の家は全焼した。彼は法人としての構成員保護契約を結んだ後、行方知らずだ。もはや、
探し人は、全く知らない別の戦線で息をしていた。ガードは法的な保護者であって、匿えているわけではなかった。
「彼は何も言わなかったから、誰がやったのかは知らない。だが、彼を狙う輩は五万といる。目下調査中といったところか。」
オフィサーとしてではなく、
「さて、今日はガードの皆もどこか
彼女は片目でウインクした。捕まえられない保証は無い。だが、あちらは何かを期待をしているようだ。
「おっと、」彼女はこちらを軽く見直して、誤魔化すように咳払いをした。
「これは聞かなかったことにしてくれるかな?」
アヤネは勢いよく頷いた。
「はい!頑張ります!!」
「…アヤネちゃん。多分だけど、元気な返事は要らなかったんじゃないかな」
「俺カッコよく粋に振る舞ったのに…」
「わわわ、す、すみません!何も聞きませんでした!?」
「…それはともかく、彼は腹に一物抱えている。俺も何かは掴めていないが、それは地雷だ。踏み抜けば、とても悲惨な目に遭うだろう。俺はそれを何度も見てきた。」
「思うに、彼は冷徹な人間であろうとしている。事務的な処理以外で、彼が喜んで君と会話したがるとは思えない。くれぐれも、それに気を付けていなさい。」
「どうだったの?アヤネ。」
「バッチリです!ガードの方々も居場所を知らないらしいのですが、ここで探しても良いと言われたので…」
アヤネは急にトーンダウンした。迷惑をかけないから心配のようだ。
「探すの…えぇと、皆さんさえ良ければ手伝ってほしいのですが…。」
「もちろん、可愛い後輩の頼みですから〜⭐︎」「アヤネちゃんの為にも頑張るから!」「ん、任せてほしい。折角自転車持ってきたし」
「”もちろん、私も手伝うよ。”」
「うへへ、良かった良かった。これなら問題なさそうだね〜」
「それでは、捜索作戦、開始しま………あれ、シロコ先輩は?」
ノノミは首を傾げた。
「シロコちゃんはもう行っちゃいましたよ?」
シロコは自転車で既にスタートダッシュを決めていた。車道の端を走るその自転車は、自動車より速い。既に背中しか見えない。
「み、見てたなら止めてください!ノノミ先輩!?待ってくださいシロコ先輩!!」
どこを探すかも決めてないし、方法だって決めかねているのに!風を切る音の為、シロコに声は届かない。シロコは最高速に達する。
何日かマーケットを周回すれば見つかるかな?という脳筋じみた思考によって、シロコはペダルを漕ぎ始めた…
……あぁ、なんて忌まわしい顔だ。吸い込まれるように、怒りに満ちて鏡を見ている。その顔を裂いて、火傷でもして、かつての面影がなくなれば諦めがつくだろうか。
ホテルの備品だぞ?彼の理性が囁いた。しかし、どうにもならなかった。そのパッションはその抑制を打ち破った。
その疑問は、彼に向けられるものか、それともアビドスか。彼は怒りのまま、それを抑制することはなく、鏡を破壊した。いや、抑制はしていた、それが効かなくなり始めた。
…ホテルの備品だ。後で賠償しなければならないだろう。
それを抜きにしても、怒りは沸々と煮えたぎり、それを濃縮する。濃縮された結果の破壊だ。あぁ、あぁ、なんて情動だ。
自分の足元が崩壊していく感覚。自らが真綿で殺される感覚。彼は法的な妥当性ある拒絶の契約を作った。自分の意思で。それでは足りない!!過去が自分を呑み込むのを、迫り来るのを感じる!!
彼は急ぐようにスマートフォンに手を掛けた。素早い開錠と、素早いタップ。電話は正確に目的の人物に掛けられる。
「理事。貴方の依頼の件ですが、受諾します。詳細を送ってください。」
あぁ、あの冷静な契約などでは、とうてい気が済まそうも無い。分かるだろう?法的な拒絶を行う理性よりも、過去を害したいという自己アイデンティティの保護の為に来る激情が、勝るのだ。
彼は理性を“道具”として、激情の目的に従属させている。カイザーの依頼として、その感情を理性を介して、激情は、最上位意思決定権を容易く掌握した。
彼は、彼であることを矯正されたくない。
彼は「ジョン•ドゥ」だ。前地リクなどでは、決して無い。その凝縮された殺意と感情の結晶は、漠然と過去へと向かう。ナイフを研ぐ。それで肉を裂くために。