それがこの部屋に現れたのはいつのことだろう。
私が鋳造されてから、長い年月が過ぎた。それとはここ最近、数千年のうちの数百分の一に過ぎない付き合い。
作られてから今日に至るまで、私の世界はこの展示室の中だった。
私の使命は単純明快。かつての指導者を僅かでもこの世に結び留め、長い時間をかけてでもいつかこの身に降ろす依り代となること。私はそのために誂えられた素材であり、いつかそれに取って代わられる存在だ。
復活のための儀式により、私の存在は指導者に近づく。それは死者に近づくことであり、長い時の果てに私は自分を失って消えるのだろう。
客観的に評価するのなら、きっとこれは理不尽な話だ。
けれど、それを辛いと思ったことはない。
思うことができない、というのが正しいかもしれない。所詮、感情というのは脳内分泌物のカクテルから滲み出した染みに過ぎないのだから。
染みを見て、何も感じなければそれはないのと同じ。狂う機能がなければ、狂うことなどない。
だから、あなたは私を憐れむ必要などないはずだ。
その人影はいつからか、そこにいた。黒く塗りつぶされた顔から表情を読み取ることはできないが、展示室の壁に背を預けたそれは、槍の陰からずっと私を見つめている。
いつの間にか私の視界に表れて、いつの間にか私の視界から消えている。
それはいつもそこにいて、私を見つめていた。
幾度となく太陽が昇っても、誰かが掃除をしに来ても、それはずっと動かない。時折、視界から消えてもいつの間にか元の場所に戻ってきている。
何年か、そんな日々が続いた。
そして跳躍の儀式が開始される直前。
私が儀式の受け皿としての務めを負い、髪の一部が切り取られた時のことだ。
影は背を預けていた壁から離れ、私に向かって歩き始めた。
参加者に切り取った髪を編み込んだ紐を配っているナイアの横を通り抜けて、私の目の前で足を止めた。そして、腰を折って私の顔を覗き込む。
空間に空いた穴のように、真黒な顔が目と鼻の先まで近づいた。
しばらく見つめあうと、影は何かを考えるように腕を組んだ。
それからだろうか、彼が妙に行動的になったのは。
部屋の中を歩き回り、腕を組み、首を傾げ、何か苛立った様子で壁を殴った。しかし幽霊のような存在なのか、物理的な干渉能力はないらしい。
そんな影が、珍しくやってきた客人の顔を覗き込んでいる。
フジマルと名乗った稀人と、生きていない二人。そして遥か昔に見た記憶のある司祭。
どういう組み合わせなのかは分からないが、影はフジマルのことを執拗に観察しているように見える。
「ナイア、珍しく賑やかだね。それで、今回は何を求めているのですか?」
「いいえ、あなたとの面会希望者です」
「そうか。私を見ても面白みはないと思うけれど。まあ、物珍しさはあるかもしれないね」
フジマルの表情は珍しい生き物を見物に来たそれではなかった。影が私に向けている視線、それが今目の前にあった。
私は彼に、彼らに哀れまれているらしい。
「これが私の存在意義ですから、気にしないでください。案外ここの暮らしも悪くありませんよ」
固定器具に身を任せているだけでいい。確かに両手足がなく、体も切り開かれてはいるが務めを果たすのに支障はない。食事も魔力が代替してくれるし、排泄も必要ない。窓の外を眺めて時間をつぶすこともできる。
利点を挙げていけば、フジマルの顔が険しいものになっていく。今まで黒く塗りつぶされた影の表情もこんな感じだったのだろうか。
「そっか。君は、満足なの……?」
「満足する必要がありますか?」
フジマルの問い。私の答え。
フジマルの顔から表情が消えた、何か選択を誤っただろうか。
彼の横にいる影も何か呆れたような雰囲気を醸し出している。
「ナイア、私はなにか返答を誤りましたか?」
これは自身に対する疑義……不安だろうか。このような反応をされたのは初めてかもしれない。
「……あえて言うのであれば、あなた以外の方が同じ状況に陥ったのなら助けようとする人が多数を占めるでしょう。立場が許しませんが私も同様です」
「なるほど」
影が同意するように頷いている。
ここにきてようやく、影の行動理由が判明した。どうも私を助けたいらしい。
「気持ちはいただきます。けれど私には使命がありますから、皆のためにも投げ出すわけにいかないのです」
その言葉を聞いて、フジマルは小さく『そっか』とだけ呟いて司祭の元へと戻っていった。
その時、私は見てしまった。影がフジマル一行とともに、部屋から出ていく光景を。胸の奥がざわめく。感じたことのない焦燥を感じる。
皆が出て行った部屋は、いつもよりなぜだか広く、寂しく感じた気がした。
「ご覧になられたあれが、当代のザヴァングです。我らの文明、この大地の礎。長い時間の果てに、いつか偉大なるものを降ろそうとする無謀な機構」
言葉が出ない。まるで逃げるように展示室を後にして、帰り際にナイア神官長と何か言葉を交わした覚えはある。
けれど何を話したのかすら覚えていない。見知った顔の存在が、あのような惨状にあるのは……あまりに衝撃が大きすぎた。
気づけばいつの間にか帰路を辿り、セモス司祭の教会に居た。
「セモス司祭は、思うところがないのですか?」
「勿論あります。しかし彼女はこの文明、この大地、そして跳躍の儀式における要石。あらゆる物が絡みついている以上、動かすわけにはいかなかったのです」
セモス司祭はポケットを探り、小さなミサンガを取り出し机に置いた。
「手はあります。跳躍の儀式は勝ち抜いたものの形質を種族全体に還元する。藤丸殿、見ての通り我らの種族は倫理観に乏しい。あなたが特別でないのなら、あなたの種はきっと、彼女のような扱いを大多数の人々は許さないのでしょう」
だからこそ、それを広める意味が、効果がある。
そう言って、自分の横に腰かけている二人に視線を向けた。
「母は、何も口を出す気は、ありません。二人のしたいように、するといい。あそこまで藤丸が取り乱すのは、予想外だった」
ティアマトは良かれと思い、悪いことをしたと項垂れた。各々の価値観の相違がここにきて露呈している。
セモス司祭は仕方ないと言い、ティアマトは予想外と言った。エルキドゥに関してはどうかと思う、とは言うものの、どうにかしようとは言いださない。
「つまり、俺が勝ち抜いてこの認識を広めれば、心情的にあのようなことができなくなると?」
「その通りです。とはいえ、我らは地獄を見るでしょうな。きっとそれが罪と識別できるようになり、罪悪感に苛まれるようになるでしょう」
セモス司祭は悪い顔で笑みを浮かべた。
「跳躍の儀式に臨む者たちは、進歩と聞けば出来なかったことが出来るようになることだと答えるでしょう。そのためにあのような儀式に身を投じ、競い合っている。だからこそ、行動に制約のかかる形質は残らなかったのです。加えて、ザヴァングはこの文明の要石。消えてしまえばこの大地は維持できず、我らは地上へと戻らざるを得なくなる……」
「そうか、だから脱出計画を発動するタイミングなら……」
「はい。だからこそ、今このタイミングで行われている跳躍の儀式であれば、その形質を広めるのに都合がいい。このような誘い方はあまり好ましくありませんが、藤丸殿。我々は協力し合えると思うのですよ」
その言葉を聞いて、俺はセモス司祭の差し出したミサンガを手に取った。
その様子を部屋の壁にもたれかかった影はじっと見つめていた。
人型してるけど全員種族違うので価値観も認識も違うよねという話
表情のわからない相手の心情がわかるのは、つまり自分がそう思うような状況だというのは内心どこかで理解しているけど気づいていないの可哀そう可愛いね
後半はセモスの「どうにかしたかったけど今までは時期が悪かった」という弁解です。ショックを受けたのを利用して視野狭窄に陥らせて誘導したとも言います
次からしばらく箸休め回です。ちょっとシリアスしすぎたのでバランスが大事なんだよバランスがと私の中の真島さんが言ってる