文豪ベイバトル 作:はるきすと
その日、僕は午前十時ちょうどに町外れの公園にいた。空はやけに澄んでいて、夏の終わりの光が、すべてのものの輪郭を柔らかく染めていた。僕は小さなトートバッグからベイスタジアムを取り出し、そっと地面に置いた。スタジアムの底には細かな砂埃がたまっていたけれど、それはこの場所に、時間がちゃんと流れているという証しだった。
「君が挑戦者かい?」と、誰かが言った。
振り返ると、そこには小柄な男が立っていた。藍色のシャツに、ベージュのチノパン。無地のキャップをかぶっていて、年齢は僕より少し上に見えた。でも、それ以上の情報はなかった。名前も、住所も、好きなミュージシャンも。
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」と僕は答えた。
彼は黙って頷き、ゆっくりと自分のランチャーを取り出した。僕も同じように、自分の左手にドライガーSを構える。刹那、風が吹いた。どこか遠くの国で誰かがレコードをかけたような音がした。
「3…2…1、ゴーシュート」と、二人はほぼ同時に呟いた。
ベイブレードがスタジアムの中で火花を散らすようにぶつかり合う。銀色のリングが回転し、軌道を描き、重力と遠心力と、そしてたぶん少しの運命に導かれて、互いの心を削り合うように回っていた。
「君のベイは…何かを探しているようだ」と、男は言った。
「それはたぶん、僕自身のことだと思う」と僕は言った。
数秒後、僕のドライガーはゆっくりと斜めに傾き、静かに倒れた。勝負はついた。でも、どこかで時計の針がひとつ進んだような、そんな感じがした。
「じゃあ、また」と男は言って去っていった。何も言い足さず、何も残さずに。
僕はしばらくスタジアムを眺めていた。回転の終わったベイが、そこにぽつんと佇んでいた。静かに。少し寂しそうに。
どこか遠くで、犬が吠えていた。
■■■
午後二時過ぎ、僕はいつものように深煎りのコーヒーを飲みながら、ベイスタジアムを磨いていた。僕の住む町では、ベイブレードはもはや「自己表現」ではなく、「内面の風景」になっていた。そんなある日、彼が現れた。
「君が春樹君か?」
そう言って現れたのは、彫刻のように整った男だった。濃紺の和服に、異様なまでに光沢のある鉢巻。手には漆塗りのランチャーを握っていた。その眼差しは、まるで己の死期を見据える武士のようで、しかもほんの少し詩的だった。
「ええ、まあ、たいていの午後はそう呼ばれています」
「よろしい。では、斃れよう」
「……え?」
「勝負、という意味だ」
僕はトートバッグから愛用のドライガーSを取り出した。彼は黙って、全身黒漆のベイを掲げた。異様に重厚で、どこか神道的ですらある。
「行くぞ。吾、回転の美を以て、君の存在を否定せん」
「3、2、1――ゴーシュート」
世界が一瞬、無音になった。
僕のドライガーが軽やかに、踊るようにスタジアムを滑る。まるでジャズの即興演奏のように。
だが彼のベイは、まるで思想そのものだった。直線的で、意志的で、己を滅してさえ前進する鉄の旋律。
「君のベイは、……自由すぎる。肉体がない」
「君のベイは、……重すぎる。内面がない」
僕らはそう言い合いながら、ただひたすらに回転を見つめた。勝敗は、よく覚えていない。ただ、風が少し変わった。そして彼は、ベイを手に取り、静かに立ち去った。
「春樹君、回転は、魂の比喩ではない。それそのものだ。忘れるな」
「覚えておきます。でもたぶん、しばらくしたら忘れます」
あとには、空っぽのスタジアムと、アイスコーヒーのぬるさだけが残った