世界が歪み始めた日、俺は孤独になった。
誰も異常に気づかず、俺だけが正気を疑われる。

そんな中、彼女は現れた。
この狂った世界で、唯一分かり合える存在だった。

孤独は終わり、代わりに――狂気と愛が始まった。

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第1話

 

 道がねじれていた。

 

 本来まっすぐであるはずのアスファルトが、柔らかいゴムのように歪み、ビルはひしゃげて傾いている。それなのに、街を行き交う人々は何事もないように歩き、笑い、会話を交わしていた。

 

「…………」

 

 額を押さえながら、ふらつく足取りで歩き続ける。

 

 この異常な光景を見始めてから、もうどれくらい経っただろうか。最初はほんの小さな違和感だった。電車のドアの位置がズレたように思える。店の看板の文字が、意味を成さない記号に見える。

 

 やがて、それは明らかな異常へと変わっていった。

 

 道路がぐにゃりと曲がる。人の顔が時折ぼやけ、のっぺらぼうのようになる。空は赤黒く染まり巨大な口が現れ、何かを呟いている。信号機の赤が人の目のように蠢き、青になると嘲笑するような声が響く。ビルが溶けるように崩れ、液体のように流れ出すが、人々は気にも留めずその中を歩いている。

 

 けれど、誰も気づかない。誰も、おかしいとは思わない。この異常をどれだけ必死に訴えても、または落ち着いて尋ねてみても、みんな俺が妄言を言っているかのように怪訝な顔をして離れていく。

 

「……もしかして、本当に狂っているのは俺の方なのか?」

 

 思い返せば、世界がおかしくなる前からおかしな人はいた。明らかに見えてる世界が違うというか、現実を正しく認識できていない人。

 病気なのか、心が病んでしまったのか。何が原因かは知らないが明らかに異常な世界を見ている人はいた。当時は完全に他人事だと思っていたが、もしかしたら俺と同じ心境だったのかもしれない。

 

 狂っているのは世界か、俺か。

 

 感情では世界が狂っていると思いたい。だって俺はヤバい薬なんか一度も使ったことはないし、メンタル的にも特に異常はなかったはずだ。急に俺がおかしくなる理由がない。何よりもそんな事実は認めたくない。

 

 しかし理性では俺自身が狂っていると訴えかけている。こんな物理法則から明らかに逸脱した世界が成り立つはずがない。世界はずっと変わってなくて、一人の人間の脳が原因不明のエラーを起こしていると考えた方が合理的だ。

 

 日を追うごとに疑念が心を蝕み、食事も喉を通らず、夜もまともに眠れなくなり、やがて夢と現実の境目すら曖昧になった。

 

 だが、その日――俺は彼女に出会った。

 

 

「あなたは、見えているの?」

 

 その声は、耳ではなく、脳に直接響いたような気がした。

 

 俺ははっとして振り向いた。

 

 そこに立っていたのは、一人の少女だった。

 

 黒いワンピースをまとい、長い髪を風に揺らす。肌は透き通るほど白く、瞳は深い海の底のようにどこまでも昏く、静かだった。

 

「何の話だ?」

 

「あら、やっぱり見えているのね」

 

 彼女は、微笑んだ。

 

「あなたは気づいているんでしょう? 世界が、おかしくなっていることに」

 

 胸が締めつけられた。

 

 初めて理解者かもしれない人と出会った。

 誰に話しても、「何もおかしくない」と笑われただけだったのに。

 

「君も……この世界がおかしいと思うか?」

 

「ええ」

 

 少女はゆっくりと歩み寄ると、囁くように言った。

 

「安心して。あなたは、独りじゃないわ」

 

 俺は彼女を、まじまじと見つめた。

 この世界にただ一人、自分と同じものを見ている存在。

 

 彼女は俺にとって、何よりも特別な存在だった。

 

 

 彼女は、どこか現実離れしていた。

 

 街灯の下に立つと、その光を吸い込むように影が薄れる。目を逸らした瞬間に、輪郭がふっと溶けるように消えそうになる。

 おかしな現象ではあるが、不思議と嫌な気はしない。むしろ彼女の特別性を表しているように思えた。

 

「君がいなかったら、俺はどうなっていたんだろうな」

 

「きっと、壊れていたでしょうね」

 

 彼女は他人事のように言う。

 

「はは、確かにそうだな。いや、もしかしたらとっくに壊れてるのかもしれない。俺も、君も」

 

 以前までは冗談でもこんなことは言えなかった。それはこの世界の中で一人だけ異常だと、一生孤独だと認めてしまうことになるからだ。

 

 だが、今は一人じゃない。彼女が理解してくれる。彼女がいれば、俺は壊れていたって構わない。

 

 どうせ元の世界に戻れないのであれば、狂っているのが世界か俺かなんて些細な問題だ。ついでに彼女の正体についてもどうだっていい。重要なのはその世界でどう生きるかだ。

 

 彼女と二人でこの異常な世界を回って、笑ったり、怖がったり、確かめ合うことはとても幸せなことだった。それこそ正常な世界にいた時よりも。

 

 我ながら異常な考えだと理解しているが、再び孤独になることへの恐怖と比べたらこの程度は問題ですらない。

 

「ふふ、そうね。確かに私はもうとっくに壊れてる」

 

 少女は昏い瞳で俺の目を覗き込み、氷のように冷たく細い手で俺の頬に手を添えた。

 

「でも、大丈夫。私にはあなたがいる。そして、あなたには私がいる」

 

 彼女と会うたびに、俺の中の不安が薄れていった。

 彼女と確かめ合うたび、孤独じゃないことを実感できた。

 彼女がいない時間は耐えがたいほど苦しかった。

 

「明日は会えるか?」

 

「さあ、どうかしら?」

 

「そんなの、困る……」

 

 俺は思わず彼女の冷たい手を強く握った。

 

「君がいなかったら、俺は……」

 

 彼女だけが、俺の真実だ。彼女を失えば、俺の存在は意味を失う。

 だから、彼女を離したくなかった。

 

「ごめんね、冗談よ」

 

少女は、優しく微笑んで言った。

 

「私は、あなたのそばにいるわ。ずっと。だからあなたも、私を忘れないでね」

 

 そう言うと彼女は俺の脳の中に手を入れた。そして瞳のようなものを取り出し、それを砕いた。

 

「またね」

 

 

 目を覚ますと、彼女はいなかった。

 

 隣に誰もいない。手をつなげない。目を合わせられない。あの冷たさを感じられない。

 この深淵に堕ちるような孤独を癒せない。

 

 考えるより先に動いていた。彼女と出会った場所、巡った地、初めて手を繋いだ場所、抱きしめ合った公園、そのどこにも彼女はいなかった。

 

 体力がなくなるまで走り続けて倒れ込んだ時、ようやく世界の異常に気づいた。いや、『正常』に気づいた。

 

 人々の顔は、のっぺらぼうではなくなっていた。

 道路はまっすぐになり、空の色は普通の青になった。信号は正常に動き、ビルは屹然と無機質に立ち並んでいる。

 

「……そんなはずはない」

 

 けれど、それはまるで――

 

 彼女がいたという「異常」そのものが、世界から消去されたようではないか。

 

「……嫌だ」

 

俺は叫んだ。

 

「こんな世界、嫌だ!」

 

彼女がいない世界なんて、何の意味がある?

 

俺は彼女を探し続けた。

 

それでも、彼女は見つからなかった。

 

 

 こちらの世界に戻ってきてから数日が経った。

 

 数日も経つと色々と見えてくるものもある。

 彼女がいた世界。あれはやはり異常だったのだ。

 

 冷静に考えればそう難しいことではない。あの時の俺は狂っていたとするには理性的すぎた。そしてあの世界で疑うことができる者は異物だ。つまり俺は元からあの世界にいたのではなく、この世界からあちらへ飛んだのだろう。

 

 そして彼女は明らかにあの世界の人物だ。あの世界が異常であることを認識しつつも世界に馴染んでいた。そこにあるのが当たり前というように。

 おそらく彼女はあの世界における重要な役割を持っているんだろうが、今はそんなことはどうでもいい。

 

 今重要なのは彼女と再び会うこと。それだけだ。

 

 こちらの世界に戻ってからは以前と同じように過ごそうとした。あの世界のことは忘れて、普通に大学に行き、普通に遊び、普通にご飯を食べて、普通に寝た。

 友人や家族と話し、多くの人と思いを共有した。

 

 それらの全てが空虚なものにしか感じられなかった。

 

 本当の孤独と本当の愛を知った俺にとって、この世界は実に空虚で、欺瞞に満ちていて、孤独だった。

 

 彼女こそが真実で、愛で、俺の全てだ。

 俺と彼女を隔てているこの世界には憎悪しかないが、俺にとって彼女がどんな存在かを改めて認識させてくれたことについては感謝している。

 

 さて、自分の置かれた状況と真の想いを理解した俺が取るべき行動は一つだ。

 

 彼女との最後の瞬間を思い出す。

 これまで彼女と交わした言葉、芽生えた愛、育んだ絆は全て真実だ。ならば彼女の言葉と行動の意味も、彼女が望むことも全て分かる。

 

 恐れるものなんて何もない。

 

「遅くなってごめん。今行くよ」

 

 俺は自分の手で右目を抉り出した。

 そしてそれを額に押し込む。

 

 あまりの激痛に脳が拒絶するが、そんなくだらない感情は理性で抑え込む。今はただ、彼女と再び会える喜び、それだけを感じればいい。

 

 目を開けた瞬間、世界は壊れた。

 

 道路がぐにゃりと曲がる。人の顔はのっぺらぼうのようになる。空は赤黒く染まり巨大な口が現れ、何かを呟いている。信号機の赤が人の目のように蠢き、青になると嘲笑するような声が響く。ビルが溶けるように崩れ、液体のように流れ出す。

 

 そして、この世界には彼女の笑顔があった。

 

 俺は、微笑んだ。

 

 そして――

 

「おかえり」

 

 君の声が、俺を迎えた。


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