いにしえ三国志 作:匿名希望
荊州南部、草原の戦場を駆け抜ける人馬一体の少女が一人。
特徴的な水色の髪をしたガタイが良い少女の名の夏侯淵、字は妙才。正史ではまだ、名を挙げていない筈の彼女は今、弓矢を手に荊州南部に巣食う賊を追い掛け回している。
彼女は今、荊州で一軍を率いる将となっており、荊州刺史、王叡の下で賊退治に明け暮れる日々を送る。
歩兵を率いる姉と連携し、類稀な機動力で賊徒を蹴散らしては荊州の治安維持に貢献する。
夏侯淵が率いる軍勢は五百余名。荊州の人間にとって、夏侯姉妹といえば、泣く子も黙る荊州軍である。
では、彼女が何故、王叡の下で一軍を率いる事になり、武名を轟かせているのか。
其処には、正史にまだ存在しない筈の一人の少女が、干渉している。
其の者の今生の名は、杜襲。正史では、曹操に仕え、曹丕にも仕えた魏の忠臣である。
杜襲が夏侯淵に助言をしたのは、ほんの気紛れである。夏侯淵が弓で狩りをしていた所を見て、暇潰しの退屈凌ぎにと軽く煽ってみせたのである。其処までの才覚がありながら、何故、お前は一羽の鷹を射抜いて満足するのかと。胡散臭い風貌の女に、夏侯淵が警戒しつつも「私に、何者になれと言うんだ」と問答に応じれば、「とりあえず人を率いる立場、一軍を率いる将にでもなれば良いんじゃない?」と返す。
皮肉屋で、まるで世俗との関わりを断つ世捨て人のような雰囲気を持つ彼女、何をするにしても溜息が付き纏う彼女が他人に助力をしたのは、本当に気紛れだったのだと夏侯淵は考える。
杜襲の助言通りに自分の能力を売り込めば、簡単に一軍を持つ事を許される将となる。
軍と云っても五百余名だが、劉表軍からの借りた兵士ではなく、夏侯淵に忠誠を誓い、夏侯淵自ら鍛える夏侯淵の部隊である。本来、夏侯淵は実直な武人であり、策を弄する事を好まない。故に自分を売り込むなんて、彼女にとっては発想の埒外、杜襲の助言に従って行動した結果として得られた今の地位に、夏侯淵は感謝の言葉を述べる為に彼女の邸宅へと足を運んだ。
杜襲の邸宅には、生命を維持するのに必要最低限の食料の他、兎にも角にも部屋の中を書籍が埋め尽くす。
部隊を率いるに辺り、夏侯淵は杜襲に兵法書を貸して貰った事がある。
とりあえず、これを読んでおけば間違いない、と彼女が手渡した数冊の書籍には全て、彼女自身が読み解いた解説とも呼べる代物が添えられていた。最初は私の為に用意してくれたのかと思ったが、そういう訳でもないようで彼女が自身が読んだ全ての書籍に覚え書きをしたためているようだった。夏侯淵が杜襲に礼を告げれば「こんなのは策の内にも入らないよ、常識だっての」と吐き捨て、手土産の饅頭を頬張る。
ふと従姉妹の曹操が、頭の切れる者を探していた事を思い出す。
(もしかすると目の前のような人物が、太公望や張良と云った軍師と呼ばれる存在なのかも知れない)
夏侯淵が杜襲の横顔を見つめていると「それに」となんでもない事のように軽い調子で続ける。
「高々五百ぽっちの兵を率いて満たされる器なら最初から口出ししてないよ」
「子緒、貴女は私の事を買い被り過ぎだ」
子緒とは、杜襲の字である。
「そう?」と彼女は、わざとらしく首を傾げてみせた。
弧を画いた笑みを浮かべて告げる。
「君なら万を超える軍を率いる将の器、現時点で、その程度は出来ると思うけどね」
「……貴女には、何が見えているんだ?」
呆れにも似た溜息を零す。しかし彼女の言葉は、心に沁み付くようだった。
「君の伸び代なんて知らないよ。だけど、その気があるなら一国の王にでもなってみる? 可能性はあるんじゃないの、知らないけど」
杜襲がせせら笑ってみせる。
嘲笑とも取れる冗談染みた言葉を受けて、夏侯淵は真顔で考え込んだ。
脳裏に浮かんだのは、城壁に立つ自分の姿。蒼天が何処までも続いている、草原が地平線の果てまで続いている。
そして、背中には、発展した街並。万を超える将兵。
隣に立つのは、姉の夏侯惇。そして、
「子緒」と短く杜襲の字を呼んだ。
「私の真名は、秋蘭。季節の秋に、鈴蘭の蘭で秋蘭だ。私の真名を受け取って欲しい」
唐突な真名の譲渡に、杜襲はきょとんとした顔を浮かべた後、鼻で笑ってみせる。
「冗談、そういうのって止めて欲しいんだよね。これだから陽の者は……ほいほいと簡単に真名を渡そうとしてさ、真名ってのは、もっと神聖で奥ゆかしく呼ぶものなんだよ。ねえ分かってる?」
杜襲は嘲り、そして告げる。
「先ずは一万の将兵の長になってから出直して来い。高々五百人将を相手にするほどボクは暇じゃないんだ」
すげなく振られる。しかし夏侯淵は一度、目を伏せたのに「分かった」と短く告げる。
「私が一万の将になった時には、子緒。お前が私の軍師だ」
「はあっ!? ふざけんじゃないっての!!」
「お前が私に野心の種を植え付けたんだ、最後まで責任を取るべきだと思うが?」
夏侯淵の飄々とした態度に、杜襲はぎりぎりと歯ぎしりを立てる。
「……だったら、ひとつだけ条件がある」
杜襲は睨み付け、そして人差し指を夏侯淵の鼻先に突き付ける。
「絶対にボクの事を我が子房なんて呼ぶんじゃないよ、縊り殺してやる」
「……その細腕でか?」
「なら社会的に殺してやる、死より悍ましい方法で辱めてやるよ」
途端に毒舌を吐いて、言葉の節々に挑発的な笑みを交える。
その謀略家の姿に、ちゃんと可愛い所もあるのだな、と夏侯淵は場違いな事を考えた。
彼女と一緒なら一国一城の主も難しくない。
そんな気持ちにさせてくれる、彼女には間違いなく王佐の才がある。
そう信じさせてくれる何かを彼女は持っていた。
◆
司隷洛陽、漢王朝の宮廷。高祖劉邦、光武帝が築いた栄光も夢の跡、賄賂が横行し、汚職に次ぐ汚職。利権を守る為であれば、暗殺も厭わない魑魅魍魎が跋扈する伏魔殿に堕ちた漢王朝の器は汚泥で満たされる。
冷害の影響による飢饉で民草が斃れるのも構わず、宮廷では、権力闘争に明け暮れる。
宮廷では、何をするにしても賄賂が必要だ。有志の者達が冷害の影響による飢饉対策を講じるも、資料作成の為に参考にする文書を持ち出すのに賄賂が必要で、政策を上申するのに賄賂が必要になる。
人を動かすには、兎にも角にも賄賂が必要であり、宮廷の人間は、賄賂を特別支給される給金と解釈し、賄賂を受け取る事が当然と考えるようになっている。
政策とは、資金を調達する為の手段、予算は、賄賂に次ぐ賄賂で民衆に還元される前に底を尽きる事が大半、漢王朝に資金が尽き始めれば、増税し、特別支給する極々少量の金銭と食料で民衆を慰撫する。
そして特別支給する為に組んだ予算もまた賄賂の種なので、天下は金の周りものだと官僚は馬鹿笑いをした。
そんな有り様だったので、次第に民心は漢王朝から離れて行く。
人が死んだ、それも大量に。冷害による飢饉が、身近な存在の死が、民草の意識を変える。この国は、一度、滅ぼさなくちゃいけないと民草の集合意識のようなものが農民反乱を呼び起こす。
それでもまだ宮廷の人間は、権力闘争に明け暮れる。
彼らには民草の顔が見えていないのだ。何故ならば、彼らの世界とは、宮廷の中だけで完結している。特に外戚と宦官は、そうである。誰よりも権力に近い人達は、誰よりも狭い世界の中で生きている。
自分達が国を回している自負があるから、自分達が居なければ、国は崩壊するのだと人質にする。
そんな国だから滅びの一路を辿っている。
漢王朝は病人である、重篤の患者。点滴だと言って、刺す針から血を抜き続けている。
◆
現在は乱世の前日譚。
時報の如く、黄巾党が反乱を起こすその前に名を上げる者が少なからず存在する。
荊州軍の夏侯淵が、その一人。揚州軍の孫堅もまた海賊退治で名を挙げ、并州軍に所属する呂布が異民族退治で武名を轟かせる。涼州では、董卓と公孫賛の両名が涼州で起きた反乱を鎮圧した事で世に名を知らしめる。冷害による飢饉の影響で賊に身を落とす者達が居る、民草を救う素振りも見せない漢王朝の統治に不満を抱いた民草が立ち上がる今の御時世、中華全土に反漢の火種が燃え広がる中、未だ、中華の中心とも呼べる司隷周辺が一定の治安を維持し続けられる事には理由がある。一人の将の活躍がある。
其の者、徐晃。字は公明と申す者なり。
彼女は、五百の兵を率いて、司隷周辺の賊を東奔西走と休む間のなく片っ端から殲滅して回る。
巷の噂では、百の戦をして百の勝利を収める。無敗の将軍、もしくは常勝将軍として、司隷の民草に名を知らしめる。
そんな輝かしい実績も、実際に彼女が率いる部隊の姿を見て、幻滅する事になる。
徐晃隊は、官軍であるにも拘らず、統一感がなく身窄らしかった。
野盗と名乗った方がまだ幾分か納得できる。それもそのはずで徐晃隊は結成以後、まともな支援を受けた事が一度もないのである。装備は結成当時から変わっておらず、その時ですらも中古品、もしくは破棄される予定の装備が支給されていた。故に徐晃隊の物資は基本、賊から奪い取った代物になる。値打ちのある戦利品は、上官に奪い取られてしまうので修繕し、なんとか使い物になるものを漁って使い回している。
部隊の長である徐晃の見目が、聞き伝手通りの幼く華奢な身体に体長以上の大斧を片手で振り回す姿を見せなければ、誰も彼女達の事を官軍と、認める事が出来ない有様である。
徐晃は世の為、人の為と大斧を振るい続ける。
出世の為ではない。彼女もまた今の世の中を少しでも良くしたいと熱意を持って官軍に入った人間である。そして現実を知り、理想は淘汰される。自分の功績が全て、自分が派遣された任地の担当者が掠め取っている事実を彼女は黙認する。政治だとか、なんだとか、面倒だった。自分は自分の与えられた役割を熟せば良いと賄賂の請求ばかりに精を出す者達から距離を取れば、物資の補給が滞り、近頃はもう補給の概念すら忘れられているようだった。
食料も届かないので、近頃の食事は現地調達。討伐対象の賊から食事と装備を巻き上げる事で、なんとか部隊としての体裁を保ち続けている。
金目のものは全て、任地の責任者が持ち去る。
本当に食事に困った時、仕方なく戦利品を売り捌いて飢えを凌いだ事がある。責任者に横領したと問い詰められて、縄で括られた後、五彩棒と呼ばれる鉄の棒で気が遠くなる程に打ち据えられた事もある。
徐晃は名目上、正式な官軍である。
しかし漢王朝では、彼女の功績は何もなく、それどころか、自分が居ない筈の戦地での敗戦を自分の責任にされており、常敗将軍の名で蔑む者も居る程だ。
そんな彼女の事を助けてくれる者は、居なかった。
傷だらけの身体で、彼女は呆然と空を見上げる。
蝶に花よと意識を割く余裕なんてない。こんなにもボロボロになってまだして、守るべきものが漢王朝に残されているのか。戦えど、戦えど、民草の暮らしは貧しくなるばかり、部隊は疲弊し困窮する。
蒼天に流れ星は現れなかった。
故に彼女は、漢王朝を見捨てる事も出来ぬまま、今日まで心身を擦り減らして生きて来た。
お腹が空いている気がする。
徐晃は、寝台の上で、仰向けになりながら目を細める。
この数ヶ月の間、ずっと、空腹だったので、感覚が、よく分からなくなっている。眠たかった、身体が重たくて動かない。もう何もかもを放り出し、何も考えず、ただ、ただ、ひたすらに眠り続けたい。瞼が重く、意識が遠い。気力が尽きている。もう、二度と、動かなくなる、そんな錯覚に、身を委ねる。漠然とした、死の予感、抗う気力が、もう、湧かなかった。
「公明様! 食事だ、食事を恵んでくださる方が……公明様!?」
寝台の上で、目を伏せる小柄な少女の寝顔は、なんとも穏やかで、まるで、今しがた、天に召されたかのような、そんな姿に偶然、部屋に足を踏み入れた部下が驚愕に声を荒げる。
起こさないでくれ、死ぬほど疲れているんだ。
ただ今は静かに眠りたい、そんな細やかな願いも、賊相手に奇襲を受けた時以上に錯乱する部下には伝わる事はない。
実際、あのまま眠っていれば、二度と目を覚まさない可能性はあった。
「……あ、あの、わた、わたわた……私、何か致しましたでしょうか?」
徐晃隊に与えられた郊外の兵舎、その一室。普段、執務室として活用する部屋の中で待たされていたのは一人の小柄な少女。間接的に自分を救ったかも知れない彼女の事を、徐晃は、恨めしげに睨み付ける。
「別に」
短く伝えられた言葉に「そ、そうですか」と少女は肩身狭く、小柄な身体を更に縮こまらせて本題を口にする。
「えっと、わ、私の名は、文優、ではなくて、李儒。字の方が文優でして、その、貴女に、投資をしたいと思い、足を運んだ次第であ、あります!」
漢王朝では、常敗将軍として名が通っている事を徐晃は知っている。何故、言葉には出さず、首を傾げる彼女に李儒は答える。
「王朝の中で人伝てに聴く情報など当てにはなりません。荀家や、司馬家など独自の情報網を持つ家は、貴女の戦果を疑問視しています」
自己紹介する時とは違って、今度はすらりと言葉が並べ立てられる。
徐晃は空腹で頭が回らず、彼女が語る言葉の半分以上が頭に入らず抜け落ちていた。
「……何が目的?」
しかし徐晃は不審感という一点だけで李儒を睨み付ける。
徐晃は面倒臭がりだが地頭が悪い訳ではない。現状を変えるだけの気力がないだけで、自分の立ち位置を理解している。故に自分を助ける意味が徐晃には分からなかった。
李儒は睨まれ、ひゅっと息を飲み込んで、しかし徐晃の視線から逃げなかった。
「わ、私は、漢王朝を、救いたい……!」
徐晃は飢えても勘を鈍らせない、むしろ窮地に尖り過ぎている。
故に分かる、彼女が本心から言葉を綴っている事が。
「貴女が苦しい立場に立たされている事は重々に承知しております。必要な物資は、私が直接、貴女様に送り届けます。私が、貴女様を支援している間は、どうか、漢王朝を見捨てないで欲しい」
李儒の言葉に、徐晃は何気なく窓から空を眺める。
陰りのない晴天、良い風が吹いている。風に乗り、美味しい匂いもした。横に視線を向ければ、配下の一人が自分の為に食事を持って来る。
焼いた肉、塩の振りかけられた簡易的な料理。一口、頬張れば、肉汁が溢れ出した。
部下達は皆、食事を始めているとの事だ。皆に行き渡っているのであれば、遠慮をする必要はない。食べ出せば、止まらず、与えられた肉をペロリと平らげる。
指に付いた肉汁まで吸い付くように舐め取る。
「……美味しかった、久し振りに生きた心地がする」
こんな美味しいものが食べ続けられるのなら、もう少し頑張っても良いかも知れない。
「策は、ある?」
徐晃の言葉に、李儒は目を伏せて告げる。
「今の漢王朝を是正するには、貴女の武に縋る事になるかも知れません」
振り絞るように呟かれる、その言葉は苦渋に滲んでいた。
夏侯淵妙才(秋蘭):荊州軍所属、五百人将。
夏侯惇元譲(春蘭):荊州在中、夏侯淵隊副隊長。
杜襲子緒(??):荊州在中、厭世家。
徐晃公明(香風):司隸在中、騎都尉。
李儒文優(??):洛陽在中、郎中。