ネームドから逃げたら三冠がいるなんて聞いてない 作:アウラセイヴァー
曇り空が天を覆う学園にて、自分はメサイアに付き合わせてもらいながら鍛錬に取り組んでいた。
「1、2、3……1、2、3、4、5……」
そう一定のリズムで呟きながら、腰をスクワットの要領でゆっくりと上下させてゆく。体幹トレーニングとしてメサイアに勧められたそれは、一見同じ動作を繰り返す地味なものなのだが、かなり足腰に来る。
「……そこまで」
セットの終わりを告げるその声は、そばで見ていたメサイアのものだ。
腰に預けていた腕をそのままに、自分は大きく息を吐いた。
「お疲れ様です、アルバさん」
「……はい」
労いの言葉をかけてくれるメサイアに頷いて応えていると、彼女はこう続けた。
「間もなくあの時間ですし……インターバルがてら一緒に観ましょうか」
そう持ちかけるとスマホを取り出したメサイアは、ある中継映像を表示させる。
『──間もなく発送時刻を迎えます東京レース場、あいにくの空模様ですが、会場はすさまじい熱気に包まれております!』
手頃な位置に立てかけられると、間もなく発されたアナウンスが示すのは、今日のメインレース『NHKマイルカップ』の開幕だった。
『クラシック級における"世代最速"を決めるレースですからね。路線問わず快速自慢が集まり、頂点を決めようというわけですから、実に楽しみです』
そうコメンテーターが口にする通り、かのレースは三冠、ティアラ、短距離といった道が交差する数少ないレースだ。各路線のスピードスターたちが一同に会するとなれば、確かに"世代最速"の称号を与えるに相応しい戦いといえた。
『さらに今回は、桜花賞ウマ娘であるラインクラフトの出走が大きな注目を集めています!』
『史上初の例ですからね。どんな走りを見せてくれるのでしょうか』
アナウンサーとコメンテーターが触れたのは、この舞台イチのトピックといってよい事柄だ。意外なことに、桜花賞の勝者がNHKマイルCに出走するのは、クラフトが初めてであるらしかった。
『スピード自慢が集う中で勝利し、これまた史上初の変則二冠達成なるか! さあ、NHKマイルC、開幕まで間もなくです!』
そう本日の注目株──と言いつつも2番人気であるらしいが──への期待を語ったアナウンスののち、熱気あふれるスタンドが映し出された。
「やはり、クラフトさんへの期待は大きいようですね」
「まあ、あの中では唯一のGIウマ娘ですし」
隣のメサイアともやり取りを交わしながら、自分も端末を取り出すと出バ表を見た。
「でも、1番人気は違う人なんですよね」
「ふむ……それにしても、ハートさんが桜花賞と変わらず伏兵扱いだとは」
人気順ではトップのウマ娘──ニーベルングの名を見て呟くと、画面を覗き込んできたメサイアもそう続いた。
伏兵、と和らげて表現されたが、ハートは順位にすれば10番人気だ。GII、GIと続けて複勝圏*1に入っている彼女でも上位に食い込めない程度には、ここは死線を潜った猛者の集いであるらしい。
「……そういえば、クラフトさんが路線変更のときにアルバさんと話した、と仰っていましたが、ハートさんとも何かを?」
知人ふたりの名に触れたからだろう、思い出したようにそう問いかけてくるメサイア。やや苦笑しながら、自分はこう答えた。
「この間に喋りはしましたが、取り立てて言うほどのことはありませんかねぇ……」
クラフトが先でなければ、間違いなく部室へ乗り込むまで行っただろうが。
そこまでは口にする気になれず言葉を切ると、中継映像の方へ目をやった。ハートがNHKマイルCへの出走を表明したのは、クラフトの直後だった。口ぶりからしてクラフトを追って来たのは明確だったが、それでも不安を拭いきれず合同トレーニングの際、こう訊いたのは覚えている。
──あなたは、こっちに来たりしませんよね……?──
その問いかけは結局、怪訝そうにティアラへの想いを以て返されたことで解消されたのだが。
そう思い返してからしばらく、メサイアとレースの展望について語らったのち、かのGIは待望の発走を迎えようとしていた。
『まぎれの少ない正々堂々広々府中、清々しく、たくましく──』
18人全員が収まったゲートへ誰もが視線を注ぐ緊張の一瞬。
『さあ95秒の夢ドラマ、スタート!』
そのアナウンスとほぼ同時に開かれたゲートから、各々が飛び出す。7番──クラフトやハートの他ではただひとりのティアラ路線出身のウマ娘だ──が出遅れた他に言うことはない立ち上がりから間もなく、集団はコーナーまでの先行争いへ向かう。
『オオイナルワクセイが大方の予想通り行くのか、それとも──内からシンエイヤナギが行ったぁぁっ!?』
大まかに皐月賞勢ふたりが争うことになった先頭争い。他にもうひとりのウマ娘も加わりつつも、結局最内枠から猛加速を試みたヤナギがハナに立つ形となってレースは進んでいった。
『──向こう正面を過ぎて第3コーナー、シンエイヤナギが逃げる形で、あとは固まった状態が続きます』
そしてコーナーに入っても、前のウマ娘たちにさほど動きはなかった。クラフトやハートも先行ウマ娘としてポジションを確定させたらしく、間もなくこうアナウンスが入った。
『ラインクラフトは桜花賞同様4、5番手の位置、今日はその後ろにデアリングハートがつけています』
より具体的に言うならば、インコースにて前の三人を見る位置で走るクラフトと、それをやや外目で追いかけるハートといった構図だ。
それも道中で変わることはなく、全体的に緩やかなペースとなったレースは、とうとう最終直線まで進んだ。
『さあ、一段が府中の長い長い直線へ向かいます! 後方集団、ここで追い上げ態勢!』
スパートには絶好の条件である直線へ向け、前との差を縮め始める後続組。先行ウマ娘らがどう粘るか、と注目したところで、先に大きく動きを見せたのはクラフトだった。
『ラインクラフト、残り400mでスパート! 早くも先頭へ上がったっ!!』
驚異的な加速を魅せると、これまでハナに立ってきたヤナギへ容易く手を掛けるクラフト。
それからさほど時間が経たない頃に、2のハロン棒を見たらしいハートも動く。
『外からデアリングハートも仕掛けた! 桜花賞組がここで前に出た!』
そう実況が評す通り、1着争いは件のふたりのみに許された領域となっていた。電撃にも見紛う気迫を以てハートが迫るシーンだったが、間もなく示されたのは彼女にとって非情かつ劇的な幕切れだった。
『デアリングハート追い上げる! しかしラインクラフト落ちない!』
先頭をハートに明け渡すことはついになく。ゴール板を駆け抜けていったクラフトの瞳には、どんな景色が見えていたのだろう。
『ラインクラフトだラインクラフトだ!! 桜花賞に続き、ラインクラフト変則二冠達成ーーっ!!』
偉業を高らかに叫んだアナウンスを皮切りに、スタンドからの大歓声がスピーカーから吐き出される。
「成ったのですね、クラフトさん……」
感慨深げに呟くメサイア。だがその声色がやや寂しそうに聞こえたのは、自分が卑屈であるからなのだろうか。いや、そうに違いなかった。なぜならすぐ後に、メサイアはどこか勇ましげにこう告げてきたからだ。
「……申し訳ありません。この後のプランを変更してもよろしいでしょうか」
「え、ええ。もちろん」
言いながらおもむろに立ち上がったメサイアになんとなく肯定を返していると、彼女はいかにもウマ娘らしい申し出をしてきた。
「この体幹トレーニングのあとに……本気で走る機会を頂けませんか」
「……わかりました」
ライバルの走りを見て興奮しているのだろうか、そんなメサイアの声色を受けてもう一度、肯定の言葉を返す。
思えば彼女と会うときは、8割方こうして走ることになっている気がする──そんな苦笑を混じえながら。
──あれから、メサイアと走ることが増えた。
合同の自主練習に取り組む関係性は、彼女と自分のトレーナー間でも知るところとなっていたらしく、トレーナー指導下のトレーニング時もスケジュールの許す限り鍛錬を共にすることになったのだ。
「はああっ!!」
隣を走るメサイアの咆哮を聞き届けながら、タイムキーパーとゴール地点を兼ねるトレーナーのもとを目指す。
メサイアの覇気にも思える何かが、チリチリと右半身を炙っているように感じられる中、彼女がいる世界をどうにか──片鱗だけでも覗かんとひた走る。
(もう少しで、
スパートに伴い、意識が非日常の領域へ向かうそのとき、脳裏にチラつくある記憶が自分を焦らしてくる。
『きたきたきた! ラインクラフト! ラインクラフトが一気に差を縮めていくっ!』
かすかに瞳へ映るのは、そのアナウンスと共に駆け出すティアラウマ娘の姿。
あの日のごとく色彩なき世界に有るその影はひどく朧げだが、だからこそ常識の外にあるスピードぶりが浮き出て見えた。
そこにかすかでも踏み込めなければ、強敵ひしめくGIに挑む資格はない──かつて挑むことを拒みながら、結局そんな強迫観念に囚われている皮肉ぶりには苦笑を禁じ得ないが、それを飲み込んででも往かなければならない頂の高さを痛感させられたのもまた事実だ。
(──来る)
そして、
『ここが! ドリップの! 晴れ舞台となるか!』
忘れもしないアナウンスと共に現れた宿敵へ、思わず食いしばられる歯。
それらふたつの影が前で二列に並んだとき、唐突にもメサイアの声がした。
「──ふっ!!」
何のことはない。彼女がギアを上げた合図に違いなかった。着いていかない択などない、と気迫を込める代わりに一度力強く瞬きをした、そのときだった。
(……な?)
その一瞬で変わり果てた世界が、自分の目に飛び込む。戸惑ったが、この体験を既視感のあるものとして受け入れたのは、それから時間にしてコンマ数秒にも満たない程度にあとのことだ。
慣れもあるのだろうが、それは不可思議とも言える今の体験の性質によるものだった。
(これだ、まさにこれが──)
──さっき願った
願って視えたのは初めてのことだったので、困惑のほかにも様々な思念が渦巻く。
だが、その世界にいられたのは、そのわずかな時間のみだった。
「……う」
色彩なき空間から弾き出されたかのように、視界は平常を取り戻してしまった。予見しているはずもない自分は、これからスパートという局面で思考停止に陥る無様を晒してしまう。
超常たる領域にあった精神に肉体が置いてきぼりを喰らったのだろう、つんのめるようによろめいたのをどうにか立て直したのが精一杯で。
「──そこまで!」
唐突に耳に飛び込んだその言葉で、意識はレースから完全に締め出された。
声の方を向けば知った男性ふたりの顔が飛び込んできたことから、ゴール地点を通過したのだということをようやく悟る。
「ふう……アルバさん?」
心配げに見つめてきたメサイアを目にして、自分に起きている異常が意識下に表れた。
気づけば、ただ併走しただけとは思えないほど息が上がっている。どうやらあの数秒の間、ほぼ無呼吸で走行していたらしい。
「どうした、アル──」
件の様相を見てだろう、声をかけてきた自身のトレーナーへ、掌を突き出すことで
GIを走るとき、見るとき、先ほどのように視界が白黒になって
「……っ!」
冷静になれ、と己の頬を叩く。出鱈目へまともに取り合ってどうするのか。どこか焦りに濁らされた思考をなんとかクリアにしようと、大きくため息をつく。この手にあるのは、目指す頂へ至り得る力を持った友人たちとの繋がりのみだ。それを刻一刻とつまらない思案で無駄にしているようでは、この奇跡のような巡り合わせは意味をなくしてしまう。
心配そうなトレーナーへ向けようやく顔を上げると、右脚をさすりながら彼へこう嘯いた。
「すみません。スパートのとき、足元が狂ってしまって」
「……っ! 脚は大丈夫か? 違和感はないか?」
慌てたように問いかけてくるトレーナーへ、「大丈夫です」と言ってかわしながらも、結局インターバルを命じられた自分はベンチへ向かうことになった。転びかけたのは意図的でも何でもないアクシデントなので、強く断る理由がなかったのだ。
触ってもいいか、と前置いた上で足首に手をやり診ているトレーナーを無感動に見下ろしていると、隣からメサイアが話しかけてきた。
「……痛く、ありませんか?」
「ははは……心配しすぎですよ」
苦笑混じりに応えるも、こちらの不手際だ。気まずさが拭えなかった。そんな内心は知らないとばかりに安堵の声を漏らすメサイアはその後、何やら懐かしいものを語るようにこう切り出してきた。
「心配もしますよ。私の目指す樫の冠……掲げるなら、別の道を往くあなたにこそ見ていてほしいと思っていますから」
「それは……どうも」
照れ臭さからか、触診中で頭が回っていないからか、返事が気のないものになってしまう。
それをどう解釈したかは分からないが、彼女は続けてこう問いかけてきた。
「覚えてますか? 昔に母の話をしていたとき、私へかけてくださった言葉を」
心当たりのないその言葉に、「いえ」とまたも気のない返事をしてしまうも、メサイアは意に介する様子もなく微笑むとこう伝えてくれた。
「無念に終わった母の道、それを私が救うと言ったあの日──誰かを救うなら、まず自分から……あなたはそう仰った」
「……そうでした?」
実際に聞いてみても、件の記憶を引っ張り出すことはできなかった。言ったような気もするし、そうでないような気もする。すると、こちらから視線を外してどこでもない遠くを見つめた彼女は、何かを振り返るようにこう呟いた。
「走者としての私の始まりは……ティアラを競ったお母さまの記憶です」
それは自分にとって何度も聞かされた言葉だった。メサイアがティアラを志す原点に触れるとき、必ずブレない答えだ。先ほどの続きなのだろうか、と思って間もなく、彼女はこう口にした。
「レースというものから感じ得るものの
その言葉で自分は、かつてメサイアの実家を訪れた際に彼女の母親から見せられた──本人の目が届かない場所で──手書きの新聞記事のことを思い出した。描いたのが幼齢の頃だったからだろう、拙いながらも懸命に描かれたそれは、思えばいま言われた通りの想いが込められているように感じられたからだ。
「母の仇を取るために、と邁進していたあの日々が愚かだったとは思っていません。ですが、憎しみを以て作り上げた強さで掴むティアラに価値はない、と私は最初に気づくべきだった」
自嘲するようなそのセリフは、先述の『怒り』に包まれ歩んでいた己へフォーカスした言葉なのだろう。
「輝かしい栄光のため駆けた母の意志……それを受け継いだこの身は、復讐に、妄執に狂う機械であってはならない」
そこまで言った彼女は、こちらに視線を戻してこう告げてきた。
「あなたの言葉は……それに気づくきっかけとなりました」
「そ、そうですか……」
記憶の外の自分が一人歩きしているようで気まずい感情を覚えながら、当たり障りのない返事をする。握手でも求めるシーンなのかもしれないが、ふたつの意味でそれはできない。釈然としないのもあるし、それに──。
「──せめてふたりきりのときに、聞きたかった話ですね」
足下の自身のトレーナーに視線を降ろしそう口にすると、彼は気まずそうに頬を掻いた。気づけば触診は終えていたのか、ただしゃがんでいるだけになっていたトレーナーがどんな思いで今のやり取りを聞いていたのかはわからないが、いたたまれないことには違いなかった自分は、ひとつ咳払いをすると状況を動かそうと決めた。
「それで、脚はどうでした? トレーナー」
「あ、ああ。目につく異常は見当たらなかった。一度流しで走ってみて──」
「──だそうです、ちょっと行ってきますよ」
最低限のところまで聞くと、おもむろにメサイアへ告げ立ち上がり、内ラチ目がけて駆け出す。いい加減この場を離れたかった。
おい、と叫ぶトレーナーの声を背に受けて、一歩ごとに調子が戻ってくるのを感じながら、コーナーを回る。
彼女らと並び立つことを放棄した自分にできることは、こうして走るくらいしかないのだから。
次回は年内の更新を目指し筆を取る所存。