ネームドから逃げたら三冠がいるなんて聞いてない 作:アウラセイヴァー
トレセン学園練習コース。夕暮れ時といった頃だったそこは、自分を含む二組のペアが占有していた。
「では、右回りの1600mでよろしいですね?」
そう眼鏡越しに視線をよこしてきたのは、自分にとって旧知の仲にあるウマ娘。
名をエアメサイアという彼女には、今回の実戦形式のトレーニングに付き合ってもらっていた。
自分が頷いて間もなく、すぐ近くから声が聞こえた。
「よし、じゃあ始めよう」
その言葉は自らにとっての師、もといトレーナーである男のものだった。ゴール地点となる反対側の直線には、メサイアにとっての彼もおり、ストップウォッチを片手にこちらを窺っている。
「よーい……始め!」
そう小ぶりな旗を振るい開始を告げたトレーナーの声によって、メサイアとともにスタートを切る。
真っ白なラチが、主に視界の右側を猛スピードで流れていく。
初めこそ同格といえるスピードで駆け出したふたりだったが、次第に前へ出て行ったのは自分だった。
これは実力がどうというのではなく、単純にメサイアが終盤まで脚を残す作戦を志向している故の結果だ。
半ば逃げを打つ形になった自分だったが、こちらもメサイアと比べれば前目でこそあるものの、スパートを以てしての勝利を是とする身である。
故にこの勝負は、どれだけ自分の末脚を信じられるかで決まる、と考えていた。
揺さぶりをかけてやりたいところだが、出で立ちの通りな性質のメサイアに通じるとは思えなかった。
そう察せる程度には、彼女との付き合いとはそこそこに古く、深いものだったのだ。
出会いとしては、幼いときに経験した初めてのレースから間もない頃だ。
『ぶっちぎって頑張りましたデュアルバインダー! 一番でゴールです!』
それなりに才能があったのだろう、大勝といっていい差で終えたその帰りに、興味があるなら、と前置いた今世の母が、ある育成クラブへの入部を勧めてきたのだ。
彼女もかつては走りに明け暮れた身だったのか、上機嫌に過去を重ね語った母を前に考え込む素振りこそ見せたが、すぐさま了承していた。
はっきり言って、人間だった頃とは勝手が違う肉体で往く未来を想像しかねていたし、前世では親より先に逝く不孝を働いた負い目もあったからだ。
そうして入ったクラブにて、メサイアと出会うことになる。
偶然にも教員を同じとしていたことから、この関係は始まる。
方針もあって担当数が少なかったために関わることが多く、気づけばそこそこに深い関係となっていた。
聞けば教員の娘であったようで、彼女を敬愛しているらしいメサイアからは、口を開けばその話しか飛び出さなかった。さすがに本人がいる手前、同調していると懐かれてしまったというのが経緯だ。
そのうち親ぐるみの付き合いとなった彼女だったが、これが運命を左右する出会いになっていたとは、あのときの自分は知る由もなかったのだ。
気づけば視界のはるか左側を流れるラチの向こうへ、スタンドが見えた。
意識が現在に戻った途端、慣れて久しい異常が全身を襲う。肉体を前から締め付けるような、向かい風にも似た空気抵抗が。
後ろから受けるプレッシャーも大きくなる。コーナーを抜けていよいよ前に捉えたゴール地点へ向け、脚を進めていく。
「……ここっ!」
わずかに聞こえた声とともに、足音が迫力を増した。メサイアがスパートをかけに来たに違いなかった。
ならば、と続きたいところだが、位置取り上少なくとも相手以上に消耗している状況で同じだけの加速を行えば、ゴールの前に脚を使いきってしまうリスクがあった。
「──はあああっ!!」
結局、自分が脚を切り出したのはそこから数秒待ってからだった。既に視界の隅をうろつくメサイアを突き放さんと、トレーナーらの待つゴールへ向かう。
あとは簡単だ。ただ速さを競うだけのシンプルな戦いだった。
「──そこまで!」
自分たちがトレーナーらの前を横切ったのは、ほぼ同時だ。
緊張の世界から解放され、息を整えていたところで、先に口を開いたのはメサイアだった。
「……差し切れ、たのでしょうか」
額を拭いながら零していたメサイアだったが、終始前に出る展開で振り向く余裕もなかった自分には結果がいまいち分からなかった。
当たり障りなく謙遜してみようとしてやめ、メサイアのトレーナーの方を見やる。
苦笑気味に首元を掻いた彼は、こちらの勝ちだ、と言いたげに首を横に振っていた。
キリ、と唇を噛んだものの、同時に安堵したようなため息が零れた。
かつての選択を、この敗北を以て肯定されたような気がして。
「ペースに乱れがありませんでしたね、アルバさん。正直、結果を知るまで差し切れたイメージがありませんでした」
「……そうですか」
気を遣ってくれたのだろうか、こちらを讃えてくれるメサイアへ、苦笑を悟られぬように返す。
アルバ、というのは自身につけられたあだ名で、名の一部をとったものだ。
間もなくトレーナーが差し出してくれた飲料水を啜っていると、メサイアがどこか寂しげにこう呟く。
「……デビューすれば、しばらく私たちが共に競う機会はなくなるのですね」
その一言で、心臓が明確に脈打つ。自らが嘯いた醜い逃げの一手を思い起こされたからだ。
『自分は……クラシック三冠の方を目指すんです、なのでそちらには行けません』
脳裏によぎるのは、メサイア含む四人を前にのたまった言葉。
親しくなった手前、大いに本心を偽って放ったそれは、可能なら記憶から抹消してしまいたい台詞だ。
「またお相手願います。……別の道を立って往く友人として、応援しておりますので」
恭しく頭を下げるメサイアへ曖昧に頷くと、やがて背を向けた彼女の後ろ姿を見つめる。
「惜しかったな! でもやりたいことはきっちり出来てたと思う! これを突き詰めて──」
そう後ろから声をかけてきたのは自身のトレーナーだった。
後から次を見据えるような言葉も続いていた気がするが、それは耳に入っていない。
数十メートル先で談笑しているメサイアとの間には、決して越え得ない溝が横たわっている──。そんな気がしてならなかったからだ。
次はメイクデビューとか他三人とのやり取りとか。