ネームドから逃げたら三冠がいるなんて聞いてない 作:アウラセイヴァー
『1コーナー回ったところで先頭を切るのはユニバースカット、リードが2バ身。2番手に──』
矢継ぎ早に順位を報せるアナウンスが響き渡る中、ダービーの栄誉を争う旅路は続く。
スタンド最前列をキープしていたトレーナーと辛くも合流したチーム<アスケラ>の3人は、熱狂満ちる舞台の戦況を見守っていた。
「ペースは……ちょっと流れ気味、ってところかしら」
そう展開へ言及するのはキングだ。先行バに乏しいと目されながらも、先頭が1000mを通過するのにかけた時間はほぼ1分──正確にいえば59.9秒だ──。これは先週シーザリオが走った同条件のGI『オークス』よりおよそ3秒短いタイムだった。
「じゃあ、最後の見どころになるのは……」
「ああ、温存が利く後方の末脚勝負だ」
考え込む様子のクラフトへ応えるのはシーザリオだった。ハイペースとなれば、疲れやすい前目のウマ娘たちを差しにいくのは比較的容易い。
そういう意味では、後ろからの戦法に変えたアルバ、ならびにそのトレーナーの判断は的中していたといえる。
「でもでも、そうなったらいいって思ってるのは、アルバさんだけじゃないよね?」
「その通り。あの1番人気も、後方一気を至上命題とするウマ娘だ」
そうクラフトの問いかけに応えたのは、彼女のトレーナーだった。言及した最有力バを今一度見つめた彼は、険しい表情でこう続けた。
「いまは他のウマ娘がマークにつけているけど、最後の直線になればそうもいかなくなる」
GIのプレッシャーの中で、マークに意識を割きながらも全開のスパートを、というマルチタスクを果たすのは難しい。
それに、今はまだ内ラチスレスレで走らされている件のウマ娘だが、いざとなればバ群を割る気構えなのは周囲も承知だろう。だからといって止められないのが彼女の強みでもあった。
「少しでもスペースが空けば、上がり3ハロンで世代最速の末脚を叩きつけられて終わる……もし本気であのウマ娘を倒すつもりなら、皐月賞で倒さなければいけなかった」
続けてトレーナーは、どこか達観しているようにそう呟いた。
直線が短い中山で差し切られるなら、この府中の直線でも勝てないのは道理だろうと断じたのだ。
「……そんなにうまくいくのかな」
そう呟くのはクラフトだった。
「えっと。レースって、なにが起こるかわからないから面白いと思うんです。ただ速い遅いを決めるだけじゃなくて、その……夢とか意志とか希望とか、そういうのを背負ってる人たちが走るから、誰も思ってなかったみたいな奇跡が起きるっていう意味で」
トレーナーへ向けそう言い募ると、視線をターフへ戻したクラフトは、隊列の中腹あたりで争う知人を捉えこう続けた。
「それに……ハートさんから聞きました。アルバさんは、ただ強くなっただけじゃないんだって」
──包囲網は破綻の一途を辿っていた。
スタート直後からずっと並走している2番──3番のウマ娘は第2コーナーあたりでドリップの外へ壁になろうと下がっていた──のさらに内へ、ドリップが食い込もうとしていたのだ。
『──ブラーブクリエから2バ身離れてデュアルバインダー、その内に2番のニシヤマハテシナク。さあそしてここでドリップショックトが行っています!』
3番の追撃を振り切ろうとしているドリップは、2番・ハテシナクに並びかけようとすらしている。ハテシナクをより内にけしかけて活路を閉ざせれば楽なのだが、そうすれば進路妨害を取られかねない位置にいるのは向こうも承知だろう。だが放置していれば、ブラーブから離れた分のスペースを出口に外へ持ち出されてしまう。
ハテシナクの顔色を窺えば、スタート時と比べ覇気が衰えているように思えた。彼女のバテが来るのも時間の問題と考える必要がありそうだ。
ならば、とひとつ前を走るブラーブへ向けて位置を上げ、
(バ群へ突っ込む形になれば、コースの選り好みを強いられる。そうなれば自慢の末脚は死ぬしかない)
懸念があるとすれば、そこまでしてなお、人知を超えたバリキでバ群を割られる可能性を否定できないことだ。
──いや。
自分はそれを信じてしまっているのかもしれない。これほどまでに屈辱を味わわせたウマ娘が、この程度で封じられてくれるはずがないということを。自分は左後ろに見えている仏頂面を横目で睨む。
来るなら来い。その脚に、影のひとかけらも踏ませはしない。
徐々に近づくブラーブの背を前に、自分の双眸はただ下すべき宿敵を見つめていた。
最後の直線へ向かうコーナーの最中、東京レース場名物の大ケヤキを越えたバ群は大きな動きを見せていた。
『さあ依然として先頭変わりません、しかし後方までのバ群が一気に詰まってきた!』
まだハナを明け渡さないユニバースの後ろから、横に広がってきた後方勢が強襲せんとしていたのだ。
「アルバさんも来た!」
そう叫んだのはクラフトだった。内のドリップへの包囲も潮時と捉えたのか、脚を切り出して前の4、5人の外を回ると、直線に入って先頭との差を詰めにかかっていた。
「すごい、このまま──」
「まだだ!」
感嘆の声を漏らすクラフトに、シーザリオが被せる。アルバが手をかけようとしている先団のさらに向こうには、驚異的な粘りを見せる7番のウマ娘がいた。
『直線コースに向かってデュアルバインダー先団を飲み込めるか、内でハナに立つのはキマグレン!』
3番手の位置から先頭に取って代わるとそのまま差を引き離すそのウマ娘を、シーザリオは無視できなかった。単なる速さなどというものではなく、根源たる何か故に、というべきか。
しかし間もなく、彼女は──オーディエンス一同は、衝撃を目にすることになる。
「──自分に、このステージに上がる資格があるならっ!!」
ようやくツキが回ってきたな、と自分は片一方の口角をねじ上げた。
外目を回って踏み入る最終直線。上り坂を除けば脚のすべてを叩きつけるだけのシンプルなステージと化したそこは、まるで自らを主役として迎えてくれているのではないかと思えた。
(何度目かな、この景色──!)
確かな興奮を伴って瞳に映るのは、色彩の衰えたスローモーションの世界。理を越えることが許される空間だ。
装飾に過ぎないはずの機械然としたスカートがガチャガチャと展開しているようにすら感じられる中、自分はターフをあらん限りの勢いで蹴り込んだ。
──成った!!
まるで鎖から解き放たれたかのように、脚が、肉体が軽い。もはや能動的に動かずとも、慣性の力だけでゴールまで飛んでいけそうだった。
やがて時間感覚が通常に戻ると、レース場で出し得る音がすべて奏でられていた。響き渡るのは歓声、足音、咆哮──。そしてこちらを吹き飛ばさんとしているような空気抵抗に乗って、芝や汗だか何だかの匂いが流れ込み、鼻腔を刺激した。もし栄光というものに匂いがあるなら、いま感じているものがそうなのだと思えた。
このときの走りは、間違いなく過去最高だった。今までのどんな刻よりも、この瞬間の自分が勝っていた。まさに全身全霊をかけたラストスパート。ダービーウマ娘のハイライトとして切り取られても何ら不思議のないと自惚れられる程度には、己が肉体のすべてを引き出していた。
排出される薬莢よろしく蹴り上げられた芝が、高速回転する末脚の着地点から次々と放たれる。
内ラチいっぱいに走る7番は視界の左隅へわずかに映るのみだったが、それを横目で見なければならなくなるまでそうかからなさそうだった。
──やっと道を外れた言い訳ができそうだ。
自分は胸の中でメサイアたちに報告した。
だがそのとき、フッと明確に空気が変わるのが察せられた。そして間もなく、腹の底が凍結する。この体験は、先月のGIで味わったばかりだったからだ。バカな、と毒づく暇もなく内目を見やると、7番とすり替わったかのような形でドリップが現れていた。
くそ、と思わず溢した。少し前に懸念していたことが的中してしまったと思ったからだ。自分がスパートに集中して包囲を離れたあと、結局ドリップは内からバ群を割ることを選んだのだろう。それにあたっての障壁をすべて己が脚で解決することで先頭争いに食い込んできたのだ。
(想像を超えてくるタイプとは思っていた、けど実際にされるとは──!!)
ここまでくれば認めざるを得ない。彼女は英雄視されるに相応しいウマ娘だ。だが、それでも勝利を明け渡してやる気にはなれなかった。もう何一つとして、奴にはくれてやらないと決めたのだ。
「あのときの私とは、もう違う!!」
そう吠えてカッと目を見開くと、二速、三速と脚のギアを切り替えた。もはや登っていることすらも忘れていた坂を過ぎ、文字通りフラットになった条件下で争おうとしたとき、自分はあることを学ぶことになる。
「──無明、よ」
英雄とは、想像を超えてくる程度で収まらない存在を指すことを。
大勢は決した。もはや揺らぐことはない。デュアルバインダーのトレーナーはそう直感した。
『内ラチいっぱいにキマグレン、大外でデュアルバインダー頑張っているが! ドリップショックト先頭か!』
最後の坂を越えて競り合わんとする教え子を突き放していくあの姿に、唖然呆然としているほかなかった。
やれることはすべてやってくれた。間違いなく、アルバのベストレースといえるだろう。ならば、彼女の落ち度はただひとつ。
かの衝撃と、同じ世代を走る不運を持っていたことだ。
『さあドリップドリップ! 上がってきているのはドリップショックト! デュアルバインダー2番手、大勢まったく変わらない!』
14万もの歓声がスタンドを揺らす。その中でトレーナーは、両目を見開き、震えていた。もはや痙攣に近い震えだった。
「ぁ……ッ、ぁあ……」
自分はいま、何を想うべきなのだ。どんな絶望を、心に渡せばよいのだ。ダービートレーナーの称号が掌からすり抜けていったことを嘆けばよいのか。それとも初めから勝ち目のない戦いに教え子を駆り立てていたことを悔やめばよいのか。
皐月賞でやったように叫べればいくらか楽だったのだろうが、身に堪えて離れない衝撃が言葉を言葉として吐き出させてくれない。
『このスピード、この強さァァァァ!!』
気づけばただひとりの愛バに、あまりに華麗で残酷な敗北が突きつけられようとしていた。
「もういい、やめてくれ……」
ここにきてようやく、うわ言のように呟いた。
もう戦う意味はない。こちらの敗北は決まったのだ。今すぐにでも決着をつけて楽にしてほしかった。自分の中の冷静な部分が「前年のレコードを超えるタイムだ」と咎めてくるが、この時間が今までよりコンマ数秒縮まり得た程度で何が変わるというのだろう。
『先頭ドリップショックト圧勝ゴールイン! なんとこのダービーで、後ろへ5バ身の差をつけ勝ちました!』
やがて衝撃の何もかもを目に焼き付けさせられたあと、その栄光を高らかに叫ぶアナウンスが響き渡った。
『無敗の二冠ウマ娘誕生ー! 久々の快挙です!! そして伝説は、秋の京都『菊花賞』へと引き継がれます!』
アナウンスはまだ続いていたが、まったく耳に入ってこなかった。思考を放棄しながらも、膝を屈する気力すらも残されていない四肢は虚しく肉体を直立させていた。
──これはこの場の誰の敗北でもなかった。世代そのものの敗北とすらいえたかもしれない。
今日、自分たちは……いや、あのウマ娘と戦う者は、誰であるかでの意味を失った。もう何人であるかでしか意味を持てなくなったのだ。
慰めにもならない幸いはといえば、その一点において教え子と通じ合えたことだろう。
主人公補正(勝てるとは言っていない)。
さて、22話にしてようやく1話ラストの回収となりました。あともう1話引っ張るか迷ったのですが、どうせ先に書いちゃったことなのでいっぺんに畳みました。
考証ミスがあったので、「激動クラフト競走録」に修正を加えています。