ネームドから逃げたら三冠がいるなんて聞いてない 作:アウラセイヴァー
ラーメンなりワールドカップなりで熱い夏になりましたね。
ちなみに私の夢はグループステージで終わりました。嗚呼ウルグアイ……。
『並んだ並んだ追いついた! 逃げるラインクラフト、追うシーザリオ!』
白熱する淀の決戦の様が、背を向けている液晶からやかましく吐き出される。
いまはクラフトたちが出走する『秋華賞』を生中継しているところで、はじめこそ「見ておかなければならない」と思って電源を点けたのだが、発走が近づくにつれて目をそらしてしまうようになった。見るのが辛すぎたのだ。臆病風に吹かれて何もかもに背き続けている自分が、今さら何をあの舞台に見出せばいい──。そう今はベッドの上でブランケットにくるまりながら、アルバはただ時間が過ぎるのを待っていた。いっそ自分以外の誰かがモニターを落としてくれればと願ったが、その行動を期待できる同室は今いない。
『ラインクラフト、最後の力を振り絞るー!! どっちだ、勝つのはどっちだー!?』
レースを俯瞰で映す以上、中継映像からウマ娘たちの肉声はほぼ聞こえない。だが、同室同士で叫び覇を争うあのふたりの姿は簡単に想像することができた。
『秋の女王はラインクラフトー!! 変則三冠の夢、成されるー!!』
アルバが背を向けた液晶の向こうでは、夏に語っていたばかりの彼女の目標が叶う瞬間が訪れている。そのアナウンスの中で、
ぐっとブランケットを握り締めるその脳裏に、独りでに回想される悪夢のダービー。
「う、ううぅっ……」
まるで耐えられず縮こまる己の姿は、まるで虫ケラのようだった。
結局、運命の日は訪れてしまった。京都レース場──先週のティアラ最終決戦が記憶に新しいこの舞台に、アルバはやってきてしまったのだ。
「応援ありがとう! そしてありがとう!」
そうパドックに立つ2枠3番のウマ娘が観客へ叫ぶ声が聞こえる中、アルバはそのひとつ後のバ番のウマ娘と語らっていた。といってもほぼ一方的に話しかけられているだけなのだが。
「──にしても随分とひどい顔じゃない。ダービーのあなたとは大違い」
「……そうかもしれませんね」
相手にしているのはダービーや皐月賞のときにも走っていたウマ娘で、名をローズクロワといった。
「この距離がベストかはわからないけれど、こなしてみせる。何とかあの娘の次には……」
しばらく話すと、こちらに聞かせようとしているのか微妙な声量で呟いたのち、クロワはパドックに出た。
「あの娘の次……か」
ある意味では、自分はすでに達成できているのかと思いながらアルバは呟く。ダービーの結果が、という話ではなく──それが主因ではあるのだが──、前評判での人気順を思い起こしたためだ。どうやら自分はいま、このレースにおける2番人気に位置しているらしかった。尤も、それを背負ったところで、やりたいことは変わらない。
(第一、今さらそんなものをもらって何になる)
内心で吐き捨てながら、アルバはパドックに出たクロワへの歓声に耳を澄ませた。このうちの何人が、本気で彼女の勝利を信じているのだろう、と感じながら。
だが、自分のやりたいことのためには、そんな後ろ向きな感情を大衆に悟られてはならない。アルバはそう己を戒め、両の頬を張った。
『さあ続いては2番人気の登場! ダービー2着の3枠5番、デュアルバインダーの登場です!』
そう自らのお披露目をアナウンスする声を受け、アルバはカーテンに手をかけるのだった。
「ハァ……ハァ……」
喘鳴に等しい息遣いが、地下バ道に響き渡る。おそらくアルバ自身のものだった。
「……なぁ、アルバ。今ならまだ」
アルバの視界の外から、待ち構えていたらしいトレーナーの声が聞こえた。おそらく彼の目には、今の自分がレースに出るに値しない状態に見えているのだろうとアルバは思った。
「言ったでしょう。辞めるつもりはないと」
「……っ」
言った自分でも驚くほど力のない声で返事をするアルバに、トレーナーは呻き声を洩らすのみだった。
「何も心配はいりません。私のやりたい走りを、あのウマ娘に突きつけてくるだけです。そして……勝ってみせる」
「そのやり方を、俺は訊きたいんだ……」
構わずに虚勢を張ってみれば、トレーナーは力のない声で呟く。
とうの昔から、打つ手などないことはわかっていた。
もう偽ることなどできそうもない、となんとなく直感したアルバは、最後とばかりにこう溢した。
「……自分は、クラフトたちと戦うのが嫌で、この道を選んだんです」
初めて口にする本心へ、トレーナーは驚いているようだったが、構わず続けた。
「まさかその道であんな化け物に出会うなんて思ってもみませんでしたが……今さらあの決断を翻すも不義、さりとて、この道から逃げるのも不義というもの。さりとて、このままでは三冠ウマ娘に敗れ去ったうちのひとりとして、私は記憶されることでしょう」
思えば遠くまで来てしまった。かの英雄に苦しみ続けたのは、初対戦の皐月賞から数えればほんの半年間程度のはずだが、とてもそうと思えないほど長く感じる。
「ですが、この名は軽し。臆病風に吹かれて歩んだ道であろうと、通さなければならない筋はあります」
そう。とうの昔に自分は、ここで栄光を求められる領域にいなかったのだ。それはきっと、あのウマ娘が存在しなかったのだとしても。
「たとえあのウマ娘に敵わずとも……私がこの淀で散ることで初めて、クラフトたちに背いた報いなのだと、自分自身に罰を与えることができる」
かの英雄に倒されることは、きっと逃げ出した己に課された罰なのだ。ならばせめて、潔く散ってやろう。しかし、やはりというべきなのだろう、トレーナーの表情に浮かぶのは「理解できない」といった感情だった。
「罰だなんて……レースは、そんなものを受けるためにあるものじゃないだろ!?」
「……やはり分かってはもらえませんか」
別に残念に思った訳ではない。自分が口にしているのはただの独りよがりに過ぎないからだ。彼が言ったのは、指導するウマ娘を勝たせなければならない職に就く者として当然の理論だった。
「私は……今さらすべてをごまかして、これからのこの世界を歩んでいこうとはゆめ思いません!」
どうせ自分はここで終わるのだ。ならばもう、言えるところまで言ってしまえばいい。
「たとえちっぽけで醜い意地だろうと……それに殉じるためならば、ただひとつの敗北を被ることなど、なんとも思いませんッッ!!」
「バカな……!」
あらん限りの思いを込めて言い切れば、トレーナーは絞り出すように、そう呟いた。それに反応するまでもなくアルバは、振り向きバ場へ向け歩いて行く。
「……今日は色々初めての条件なんだ、GIで長い距離を走るのがどういうものなのか感じてくるだけでいい」
「……はい」
「勝つ……勝つ……でも、きっとあいつは……!」
他の出走者やそのトレーナーたちの会話が、かすかに聞こえてくる。このうち、かのウマ娘に勝てると思っている者はどのくらい居るのだろう。
──いや。
そんなことを知ったところで、咎める資格もない、とアルバは思っていた。
彼女にとって今の望みは、ただ己の力のすべてを使い果たした上で散ることだった。後先を考えない大逃げであれば、それが叶うはずだと考えている。シンガリでの試合放棄は2番人気の名折れになるし、中団で争うなどいつになったら末脚を切る勇気を出せるかわからない。とにかく脚を使い切れる精神状態にあるうちにレースを終える必要がある。夏にスタートダッシュの強化を望んだのは、まさにそのためだった。
そんなことを考えてしばらく歩いていると、アルバは何者かに呼び止められる。
「……アルバさん」
聞き覚えのある声で愛称を呼ばれたので振り返ってみれば、そこには制服姿のメサイアがいた。
「ご無沙汰しています。夏合宿ぶりでしたか」
無難な返事をしてみると、メサイアは目を伏して黙り込んだ。何用なのか、と伺うか迷ったが、その前に彼女が口を開いてしまった。
「あなたは……このレースに、何を見ているのですか?」
アルバは口の中で「何を見ているのか」と言葉を転がした。難しいようで簡単なことだ、と吐き出すものを組み立てたのはそれからすぐのことだ。
「この道を選んだ私の行く末……それ以上でもそれ以下でもありません」
その返答に納得しているのかいないのか、メサイアは難しい表情を崩さない。
「そこに、冠を掲げる貴方はいるのですか」
同じ表情のまま紡がれたその言葉に、アルバは内心で苦笑するほかなかった。しかしこの旧友には、せめて気丈な自分を演じなければならない。
「もちろんです」
「ならば、あの合宿の夜に仰ったことは何だったのですか?」
そう問い直すメサイアの言葉を受けて、アルバの脳裏によぎったのは、夏合宿の暮れに語らった記憶だった。やはりごまかすことなどできそうもないのか、とアルバはまたも苦笑した。
「私には、貴方がかのウマ娘を前に絶望しているように見える……それなのに、どうしてここに立っているのです……?」
「……信念のためにございます」
それは先ほどトレーナーに渡した答えとは別のものだ。
「負けたウマ娘たちは、無駄な努力をした、と思いますか?」
そう問いかけるアルバの脳裏にあるのは、夏合宿中に目の当たりにした、ドキュメンタリー番組の一幕。
「時代を築くのは、あなたや……ドリップのような主役です。ですが、その生き様を飾り、時を進めるのは……」
惜敗にすすり泣く液晶越しの名もなきウマ娘の姿が頭に投影される中、アルバはこう続けた。
「……私のような、凡百のウマ娘の涙です」
言い切って間もなく、メサイアの顔が驚愕に歪んだ気がした。
「もし今さら逃げ出せば、私はこの世代にそぐわぬ軟弱者として笑われることでしょう。ですが、せめて最後まで立ち向かい敗れられたのであれば、この淀になけなしの意地を通したのだと示せます。かの『英雄』が新たな時代を築くというなら。私の涙が時を押し進め、新たに挑む誰かの礎となるのでしょう……ええ。未来のために、私は走るのです」
言っていてなんと滑稽なことか、とアルバは内心で自嘲する。少し前に聞きかじった一節を盾に、逃げ出した自分をもっともらしく正当化しようというのだから。
「あとの気掛かりは散り様のみ……では、これにて」
そうして頭を下げ、メサイアに背を向けて歩きださんとしたそのとき、彼女がこちらの肩を掴んだ感触を覚えた。
「……散ることを望む者が、未来を語らないでください」
ほんのわずかに振り向くと、俯いた様子のメサイアが目に入る。
「未来は……勝利へ、自らの望む栄光へ足掻く者のため、存在するものです!」
な、とアルバは目を瞠る。彼女にしては珍しく激情的な声色で告げられたその言葉を受け、やがて自嘲するような笑みを漏らすと、アルバは誰にともなくこう溢した。
「そうか……なら、初めから挑む資格もなかったのか……」
「え……?」
──少し、胸のつかえが下りた気がした。そうしてアルバは今度こそ、本バ場入場へ向け歩き出した。今度は止められることはなかった。だが、片足を引きずるように出ていった自分の背中は、メサイアにはひどく頼りなく見えたことだろう。
「なんで、こんなことになったんだろうなぁ……」
旧友からそこそこに遠ざかったのち、アルバはそう溢した。何も今さら答えが出ていない訳ではない。単なる気休めの言葉だった。
「私はただ、楽にGIを勝ちたかっただけなのに……」
そう吐露すると、ずぶずぶとより深いところまで気分が沈んでいくような感覚がした。
絶望的な相手を前にしている今、アルバには分かったことがある。「気持ちだけでも負けるな」だの「最初から負けるつもりで戦う者が居るのか」だの、そんなことをのたまう人間がいるが、彼らは何もわかってはいない。……居るのだ。負けるとわかりきっていても戦わざるを得ない者は。だからあんな言葉を肯定することはできない。絶対的な強者と戦ったことのない幸せ者の戯れ言なのだ。
「つくづく私は度しがたいバカだな……。神聖なGIすら、ちっぽけなプライドのために使う」
そう呟いて自分は、光射す出口──本バ場へ足を踏み入れた。
この先の記憶は、もう何もない。
ただ黙々と3000mを無謀に走っただけだ。他にない、何も。
日本近代レースの結晶が示したのは、眩しく、呆気ない終わり。どんな思いで、それを眺めたか……今はもう思い返せない。
読了ありがとうございます。
今話投稿時点より、過去話含めアルバ視点時の地の文に改修を加えています。人称をいじって俯瞰的にしただけではあるのですが。