静かに、永く。
あの山の名を初めて見たのは、古い論文の脚注だった。
それは本論とは関係のない地質断層の傍注で、たった一度だけ、「アル=ネレ山」と記されていた。
アル=ネレ。
直訳は困難だが、語根や近縁語から推測するに、「祝火の山」、あるいは「聖なる火の山」といった意味に近い。
古い口承には、「神がその地に宿る」「神が火を授けた」といった表現が見られることからも、この訳語は妥当だろう。
初めはさして気に留めていなかった。
だが、後に古い地図を照合する過程で、現在の地質図と、百年前の測量図の間に奇妙な不一致があることに気づいた。
その論文で触れられていた地点は、現在の地図では「何もない」とされていたのだ。まるで、山ごと塗り潰されたかのように。
さらに調べを進めた結果、アル=ネレ山は、およそ百年前に大規模な地殻崩壊を起こした山塊であり、その一帯は当時、周辺住民数百名の失踪、原因不明の病の流行、そして奇妙な光や音の目撃例とともに、急速に記録から姿を消している。
現在、その名を知る者はほとんどいない。
地図からも抹消され、国家の地質調査記録にも補筆・訂正の跡があり、詳細な調査が行われた形跡はない。
それにもかかわらず、ほんの一時期、この山の周囲には鉱山開発の痕跡があり、珍しい鉱石や装飾品がごく限られた上流階級の間で流通していたという。
積み重なった違和と興味は、いつしか閾値を超えていた。
これ以上は、現地に向かわねば望むべくもないだろう。
以降この手記に、現地にて出会うものを記していくことにする。
なお、これは私的な手記であり、正式な記録ではないという一文をここに添えておく。
後年この手記を見る者は、その点に留意していただきたい。
記録者:ラセル・ドレム
※
【第一日】
午前、東の林道終点にて荷を下ろす。
この道はかつて鉱石の運搬路として整備されていたものだが、現在では荒れ果て、地形の隆起や倒木によって一部は獣道のようになっている。徒歩での通行は可能だが、天候次第では足止めを覚悟せねばならない。今後の行程には注意を要する。
林道終点からおよそ二百メートル進んだ地点で、旧坑道の入口と思しき地形の凹みを確認した。
崩落した石材が散乱し、かすかに人の手の痕跡が残る。坑道そのものは完全に埋没しており進入は不可能だが、岩肌の数カ所に通気孔のような小孔が見られた。内部に空洞が残っている可能性はある。
簡易な地温測定を行ったところ、坑道周辺では外気に対して約1.2度の上昇が見られた。顕著とは言いがたいが、地熱活動の痕跡として無視できるものではない。今後の比較対象として記録する。
午後、尾根を回って南西斜面に出る。
この一帯では植生の変化が明瞭で、特に斜面中腹に帯状の樹種の偏りが見られた。土壌の性質か、過去の伐採か、それとも別の要因かは現時点では判断できない。
中腹の平坦地に、風化した石積み構造を確認。明らかに人工の遺構であり、柱穴の痕跡などから見て、かつて仮設の観測所あるいは作業小屋が建っていた可能性が高い。
遺物は見当たらず、土砂と風化による流出が考えられる。現地にて簡易測量とスケッチを実施。
今夜はその遺構の北側、崖下にあたる窪地で野営を行う。
風除けとしては十分で、水は尾根筋の小さな湧水を濾過して使用中。味や濁りに問題はない。食料は予定どおり一日分を消費し、残りは八日分。今のところ、環境は安定している。
夜間、雲の切れ間から星が覗く。風は冷たく、虫の音も少ない。
不気味というほどではない。だが、静かだ──思いのほか。
明日は南西斜面をさらに上り、尾根を越えて西側斜面へ回り込む予定。
通気孔と植生帯の交差する地点を重点的に調査し、内部への進入可能性を探る。
※
【第二日】
朝方、崖下の窪地にて目を覚ます。夜間の冷え込みは想定内で、装備に問題なし。天候はおおむね晴れ。高所にわずかな雲が見えるが、午後にかけて崩れる兆候はない。
昨日確認した南西斜面の通気孔のうち、最も大きな縦孔を再訪した。周囲の岩肌には、明確な加工痕──ある種の掘削道具によって穿たれたと見られる、交差する刃の痕跡が確認できた。風化の程度から見て、おそらく一世紀以上が経過している。
午前、簡易な下降装置を設置し、安全を確保した上で、孔の内部へ約五メートルほど降下。内部は狭く、体を横にしながらでなければ進めないが、最下部にわずかな空間が広がっていた。
そこには、自然洞とは思えぬ形状の通路があった。 断面は不自然なほど平滑で、両側にはかつて何らかの資材が埋め込まれていた痕跡が見える。表層の岩肌は熱変質を受けたように変色し、指先で触れるとわずかに温もりを感じる。 さらに進んだ先、半球状の広間のような空間に出た。
天井は崩落しているが、壁の一部は滑らかに成形されており、床面にも均された痕がある。中央付近には、倒壊した柱状の構造物──おそらく支柱か設備の残骸──が横たわっていた。 現時点で、装飾性や記号的な要素は見つかっていないが、空間の構成には明らかに意図がある。
足を踏み入れた際、靴底が微かに白い粉を巻き上げた。床面に薄く、乾いた粒子が堆積している。崩落物の素材に含まれていた石英や粘土質の成分か。長い時間をかけて沈降した末の静けさを思わせた。
熱源と思われる導管の残端は、崩落部近くの岩に食い込むようにして残っていた。 表面温度は周囲より約3度高く、金属片らしき成分も含まれていたため、岩石の分析用に小片を採取。 内部に、現在も熱を持続させている何らかの要因が存在していると見てよいだろう。
仮説は、徐々に輪郭を得つつある。 だが、なお確証には程遠く、また決定的な危険に遭遇したわけでもない。 今のところ、引き返そうと思えば、まだそれは可能だ。
今夜は、縦孔の上部付近にて野営する。 崖下よりも風が強く、火の扱いには注意が要る。水は昨日と同じ湧水を再利用。今のところ、体調に問題は見られない。
※
【第三日】
夜半、強風により二度ほど目を覚ました。断続的な突風が尾根を叩き、設営した防風幕が不規則に揺れたが、固定には問題なく、休息自体は十分に取れている。未明には風がやみ、空は澄んでいた。
午前、昨日の半球空間からさらに内部へ進行。崩落部の脇に続いていた傾斜通路を下降した。狭隘なうえ、足元の岩は脆く、慎重な移動を強いられる。四方に導管跡が張り巡らされており、一部には腐食した金属片や、接続部と思しき環状の構造も残っている。
導管の配置は雑然としておらず、むしろ一定の間隔と勾配が保たれていた。加えて、通路の一部には換気孔のような隙間や、用途の定かでない小規模な空間が隣接しており、全体としては明確な設計意図に基づく工学的施設の印象を受ける。
空気は乾燥しているが、薄く沈殿した粉塵が浮遊しやすく、わずかに喉を刺激する。主成分は不明だが、細かく砕けた鉱物片が堆積しているらしい。手拭いで口元を覆っているが、長時間の滞在には適さない環境である。
正午前、下層の横穴にて、小動物の骨を発見。完全に白化し、乾いている。捕食の痕跡や肉付きはなく、おそらく迷い込んだ末に死亡したものと思われるが、閉塞的な空間の中にぽつりと残された姿には、妙に神経を逆撫でするものがある。
その近くの壁面に、ごく浅い刻線が複数刻まれていた。記号とも、文字とも断定しがたい不規則な線だが、何らかの意図をもって引かれた形跡がある。自然の割れ目ではない。現時点では記録のみとし、損傷を避けて通過。
午後、導管の一部に、低レベルながら熱反応が残っていることを確認。岩肌に触れるとわずかに温もりがある。山の内部に何らかの熱源が残存している可能性を否定できない。
空間の狭さと粉塵による呼吸負荷、加えて地下に特有の閉塞感により、精神的な疲労を自覚する。ただし、錯乱や幻覚の兆候はなく、記録・観察の精度も保たれている。現時点では、撤退の判断には至らない。
──この構造の全貌を知るには、まだ足りない。
本日の野営は、下層から戻った広間近くの平坦地を使用。壁の残存部に背を預け、周囲に目印を設けた。風は届かず、粉塵がやや舞いやすい。火は極力小さく保ち、換気に留意する。
水は、岩の継ぎ目から滴っていた湧水を利用。湧出量は少ないが、飲用には足りる。味や匂いに変化なし。体調に目立った異常はない。
※
【第四日】
夜間、咳が出たが、一過性のものと判断。粉塵の影響だろう。広間の空気は静かで、幕の揺れや物音もなかった。休息は確保されている。
午前、前日確認した導管の根元付近から続く通路を進行。崩落を避けてわずかに湾曲しながら下っており、踏み跡のような痕跡はない。人工的な構造が徐々に姿を変え、素掘りに近い断面となる箇所も現れる。だが、それでも方向性や傾斜には一貫性があり、無計画な掘削ではないことが窺える。
正午前、通路の終端にて、人為的に塞がれた構造に遭遇。岩を積み上げて通路を閉じ、すき間には細かい砂利と粘土質の素材が詰め込まれていた。乾燥し、崩れかけているが、かつてはある程度の密閉性を意図していたものと思われる。
少し離れた場所で休息を取り、思案。通路は狭く、封鎖も完全ではない。いま引き返して装備を整えることもできるが、その間にこの場所そのものが崩れてしまうかもしれない。劣化は進行しており、時間を置いた後に再訪できる保証はない。
午後、封鎖部の一角を、最小限に崩して開口部を作る。崩落を防ぐため、上部には手をつけていない。体を横にしてようやく通れるほどの隙間から内部を覗いた。
そこには、なお続く通路があった。傾斜は穏やかで、両側に導管跡が残る。壁面の一部には赤黒く変色した鉱物が露出しており、微かに熱を持っているようにも感じられた。
──短時間の調査ならば、崩落の危険は低いと判断。危険を感じた場合は即座に撤退する方針で、さらに先へ進む。
今夜も、広間にて野営。水源と構造の安定性を考えれば、現時点では最適と考える。粉塵の量がわずかに増した気がする。手拭いを二重にし、火は使わず、加熱を要さない保存食で済ませた。
体調に大きな変化はない。ただし、神経の過敏を自覚している。観察の正確さが保たれているか、今後も継続的に確認する必要がある。
※
【第五日】
明け方より作業を開始。昨日の開口部をさらに拡張し、通行可能な幅を確保。崩落を避けるため、下方と側面のみを掘削。結果、わずかに掘り進めるだけで通路内への進入が可能となった。
午前、通路へ進入。通路の幅と状態を考慮し、背負い袋の一部は開口部付近に残して進行する。内部は幅およそ一間。天井は低く、歩行には屈身を要する。導管跡は引き続き両側に見られ、表面の腐食が進んでいるものの、配列自体には乱れがない。床面は乾燥しており、粉塵の堆積がやや厚い。
二十数歩ほど進んだ地点で、背後に鈍い崩落音。慌てて戻ったが、封鎖部を含む通路後方が大きく崩れていた。上方からの落石が通路を埋め、開口部も巻き込まれている。素手では掘削困難。通路は実質的に閉ざされた。
その場で一度休止し、被害を確認。背負い袋のうち一つが落石の直撃を受けており、水袋と食料の一部が損傷。残存物資は実質的に二日分。水は現地調達が前提となるが、以後の探索範囲によっては確保が難しい。
この時点で、選択肢が消えたことを理解する。
一度戻る、という判断はもはや不可能である。進む以外に道はない。
午後、崩落箇所の記録を残し、先へ進行。通路は緩やかに下りながら、断続的に分岐や広がりを見せ始めている。導管の太さが不均一になり、一部は破断して内部が露出している。鋳造物ではなく、何らかの加工鉱石に近い印象を受ける。
温度は昨日より高く、肌に触れる空気がじっとりとしている。湿度が上がっている可能性もある。通気孔は見当たらない。
今夜の野営は、やや広がった空間の隅を使用。外部との遮断を受けているため、火は使用せず、保存食と濾過した水を用いる。安全確保のため、就寝中も定期的に目覚ましを鳴らす。
体調に顕著な異常はない。ただし、緊張が意識の奥底に定着し始めているのを感じる。記録の継続と、自身の変化の観察を怠らないこと。
──今や、これは「探索」ではなく、「到達」への行程となった。
※
【第六日】
夜間、断続的に覚醒。目覚ましの音が耳の奥に残響し、実際に鳴ったのか曖昧になることが数度あった。浅い眠り。夢を見た気がするが、内容は思い出せない。
午前、進行を再開。通路の変化が顕著。導管の数が増え、壁面を這うように枝分かれしながら広がっている。管の一部は赤黒く変色し、接合部に焦げ跡のような痕跡。通路自体も徐々に拡幅しており、断面が円筒状に近づく。
鼓動のような微細な震動を、足裏を通じて感じる場面が数度あった。規則的な脈動にも思えるが、確認する手段はない。誤認の可能性は排除できない。地殻の活動とも異質。音もまた増してきており、金属を擦るような低い響きが背後から、あるいは前方から交互に届く。音源は特定できない。
午後、やや開けた空間に到達。天井が高く、導管は壁面から天井へと連続している。
岩肌の一部が、ごくかすかに発光しているように見えた。鉱物に含まれる成分によるものか、それとも手元の灯りの反射か。周囲の空間もわずかに赤みを帯びているように感じられるが、はっきりとした光源は見当たらない。屈折か、あるいは岩の表面で複雑に反射しているのかもしれない。確かなことは言えない。
空間中央には、床面に沿って広がる刻線群。かつて見たものよりも明瞭で、曲線的かつ反復的な模様。意味は読み取れないが、配置には明らかな秩序がある。
──これは、何かの「中心」か、あるいは「縁」かもしれない。
視界の端で、何かが動いたように感じた。影か、あるいは光の反射か。振り返るが、そこには何もない。視界が揺らぎ、足元が不安定に感じる。
水の残量は乏しい。加えて、呼吸が浅くなっている感覚がある。酸素濃度の変化だろうか。それとも緊張のためか。
今夜はこの空間の端、岩棚の陰で野営を行う。火は使えない。灯りも最小限とし、記録だけを残す。
空間に満ちる静けさが、こちらの動きを「待っている」ような錯覚を与える。
音も気配もなく、それでいて空間そのものに何かの意志が染み込んでいるように感じる。
荒唐無稽だと笑い飛ばせるだけの余裕は、すでにない。
記録の正確さに、わずかな乱れを感じる。明日以降、記録そのものの意味が保てるかどうかも不明。
※
【第七日】
──記録は断続的。思考がまとまらない。言葉が滑る。
目覚めたのか、目覚めきれなかったのかも曖昧だ。喉が焼けつくように渇いており、手の震えが止まらない。皮膚がひりつく。熱のせいか、それとも空気に何か混じっているのか。
体を引きずり、空間のさらに奥へ進んだ。壁面の導管は途切れ、代わって黒く煤けた岩肌が続く。粉塵が舞っている。視界が滲み、何度も足をとられた。どれほど進んだか、距離感が曖昧になる。
──そして、見えた。
闇の中に、青。
はじめは幻覚だと思った。意識が朦朧としていたし、これまでも光の反射や錯覚には幾度も惑わされてきた。
だが、あれは──。
この地下にあるはずのない、月光のような、しかし月のものではない青い光。
水蒸気のゆらめきの中、ほのかに輝き、水滴をすり抜けるたび、その青は一層鮮やかさを増す。
湿った岩面がそれを映しているのか。あるいは、光そのものがあそこに「在る」のか。
……まさか、本当に神がいるとでもいうのか?
笑う力はもう残っていない。だが、あれを前にして否定する言葉も浮かばない。
全身に重みがのしかかっている。皮膚の下が焼けるようだ。吐き気。内臓が裏返るような感覚。目の奥が痛み、視界の端に白い閃光がちらつく。
それでも、見たいと思っている。
あの光の正体を。この山の「意志」を。
記録は、ここまで。もう、書けない。
……闇の奥。……微かな青。
──祝火が──揺れ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
ところでこれは全く関係のない話なんですけど、
アフリカに天然の原子炉があるらしいですね。