書き残された世界たち   作:EC夕張

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 重き春。
 斑を焼き、封ず。


例4

 本章では、北域疫病流行以前と推定される時期に記された、地方風土病に関する断片的記録をいくつか挙げ、その形式と対応について簡略に整理する。

 

 当時の記録はその大半が間接的な伝承や碑文などによるものであり、詳細な医療行為や病理に関する言及は稀である。

 しかし一部には、観察記録とみなせる文書が残存しており、資料的価値が高いと考えられる。

 以下、四つの例を順に示す。

 

 

 

■ 例1:南方草原地帯 カナ村の祈祷記録

 

 年未詳。口伝によると、春の第七日以降に熱病が流行し、村では神祀の儀として「赤子を神の道へ還す」祭礼が行われた。

 以後、三年にわたって死者が出なかったという。

 病状の記述はないが、「皮膚に裂け目が現れ、炎のような声で喋る」という表現が複数の語りで共通しており、精神錯乱または高熱による譫妄と推定される。

 

 

■ 例2:西谷 ノル村の石盤碑

 

 西谷の断崖付近で出土した石盤に、以下の刻文が確認されている。

「水を汲むな、血の月より七日。死は獣より来たる」

 村の井戸に何らかの汚染が発生し、発症源となった可能性があるが、碑文以外の記録は存在しない。

 

 

■ 例3:東辺境 セヴ村の暦断簡

 

 貝殻の裏に刻まれた文字列より、「斑の病が来る年は、星が欠ける」「焚き火の上を跳べば無事」などの文言が読み取れる。

 祭礼的な通過儀礼による予防観念が存在していたと推定される。

 時代は不詳だが、火に関する行動を通じて衣類等を焼却する意味が含まれていた可能性もある。

 

 

■ 例4:北方山地 ロール村の記録文書

 

 この事例については、当時の村に居住していたとみられる人物による手記が現存しており、他例と異なり比較的詳細な記述が確認されている。

 原文は断章のかたちで複数枚に分かれて伝わっているが、筆致と記述内容の連続性から、同一人物による短期的な連続記録と考えられる。

 以下に翻刻文を全文掲載する。

 

 

            *

 

 

──第1日

 

 風が止んだ。

 春に入って以降、山からの流れ風が村を抜けずにいる。祭の煙が一日中、川べりにとどまっていた。これを見て悪い年だという者もいるが、根拠はない。ただ、例年より湿り気が強く、焚き火もよく燻る。

 

 祭は十日後の予定だが、ことしは準備の進みが遅い。畑が軟らかく、道具も土に沈む。村の者たちも、どこか落ち着きがないように思える。何かが起こると皆が感じている。だが、何が起こるのかは、誰も知らぬ。

 

 私も気づいてはいる。

 この風、この湿り、この朝焼けの色。祖母が言っていたことを思い出す――「焼き封じの年は、春が重い」と。

 だが祖母はもうおらず、その封じがどのようなものであったか、今となっては詳しく語る者もない。

 

 私は記しておくことにした。

 理由はうまく言えぬ。ただ、この空気に、どこか覚えがある。

 子どもの頃に見た、あの春と、少し似ている気がするのだ。

 

 明日も、少し書くことにする。

 念のために。

 

 

            *

 

 

──第2日

 

 西屋のナヤの娘が寝込んでいるという。

 朝の焚き火を見に出たところ、ナヤの祖母に呼び止められた。娘が熱を出したのだと。夜には言葉もおぼつかなくなり、今朝もまだ目を開けぬままで、息も浅いという。

 

 風邪だろう、と祖母は言った。いや、そう言いたげだった。

 けれど、どこか怯えた目をしていた。口ぶりでは軽く見せようとしていたが、様子はそうではなかった。家の中に火香を焚いていたのも、気休めにしては多すぎる。

 

 ナヤの娘は今年で十になる。子らの中でもよく走る方で、祭の練習で先頭を務めていたと聞く。

 昨日まで元気にしていたはずの娘が、急に声も出なくなった。父親は、祭の煙を吸いすぎたのだ、などと言っていたが、私にはそうは思えなかった。

 

 

【症状記録】

 熱は高く、皮膚に湿り。

 呼吸は浅く、一定。

 頭痛を訴えたが、目を開けても焦点が合っておらず、反応が鈍い。

 咳は出ていない。腹は動いており、吐き気も見られない。

 意識はかすんでおり、声は出せないまま。

 

 解熱のための薬草を煎じて渡した。

 火香が足りぬと見て、手持ちの香も置いてきた。

 二日ほどは、他者との接触を控えさせるようにと伝えたが、守られるかどうかはわからない。

 

 

 娘を寝かせたあと、祖母は火香の煙を見つめていた。

 

 そのとき小さくつぶやいた祖母の言葉が、妙に頭に残ったため、記す。

 

「……こういう春が、あったような気がするねえ」

 

 

            *

 

 

──第3日

 

 昼すぎ、西屋から人が走ってきた。

 ナヤの娘に斑が出たのだという。胸元に赤く、粒のようなものが浮かんでいる。腕にも、うっすらと同じものが出始めた。

 熱は引かず、昨夜よりも朦朧としているらしい。今朝になって少し声を出したそうだが、何を言っているのかは聞き取れなかったとのこと。

 

 

【症状記録】

 胸元・腕に斑状の発疹。やや隆起。触れると熱を持つ。

 声はかすれているが、発声はある。意味の通る言葉にはなっていない。

 熱は継続、発汗なし。呼吸は浅く早い。

 腹の動きに変化なし。目の動きは鈍いが、反応はある。

 

 解熱のための薬草は、前回よりも強めの配合に変えた。

 発疹が熱を帯びていたため、清拭と、冷水で湿らせた布をあてるよう勧めた。

 口を開けられるようなら、水分だけは絶やさぬようにと伝えた。

 声が出始めたのは回復の兆しかもしれないが、うわごとのようでもあり、判断は保留する。

 

 

 ナヤの祖母は、何も言わなかった。

 火香の煙はそのままで、昨日と同じように強く香っていた。

 西屋の人々は家からあまり出てこなくなった。何かを隠しているというより、ただ近づきたくないのだろう。理由はない。だが、誰もがそう思っている。

 

 私もまた、はっきりとした判断ができずにいる。

 ただ――こういう年が、かつてあったような気がする。

 詳しくは思い出せない。

 

 祖母が火の前で何かをしていた記憶。

 私の腕に薄く残る痕は、そのときのものだったと思う。

 

 

            *

 

 

──第4日

 

 発症者がもう一人出た。

 北の畑に住むヨマの家の息子。十二。昨日までは変わらずに畑に出ていたという。今朝になって熱を出し、昼には同じような斑が胸と首に現れた。

 西屋の者と直接の接触はないとされている。だが、祭の準備に顔を出していたとの話もある。

 

 

【症状記録】

 高熱、発疹の分布は胸・首・左肩にかけて。触れて熱あり。

 発汗なし。目に光を嫌う様子あり。頭痛を訴える。

 発声あり、意味の通る応答はあるが、反応やや遅い。

 下痢なし、咳も見られず。

 声がかすれ始めているとのこと。

 

 処置は、ナヤの娘と同様のものを施した。

 今のところ、それ以上にできることは無い。

 

 

 症状そのものはナヤの娘と近い。進行も早い。

 ただ、こちらは声も出ており、意識もややはっきりしている。

 病そのものよりも、村の空気が変わってきていることの方が、私には重く感じられる。

 

 西屋では食器を川に流したという話がある。

 ヨマの家では、隣人が口をきかなくなった。

 「重い春だ」と誰かが言ったとき、数人が振り向いた。

 昔もこうだったのだろうか。私は、その年のことを知らない。

 

 私は祖母の棚を探した。火香をしまっていた場所の奥に、布で包まれた何かがあった。

 炭のような色の灰と、干からびた薬草の破片。薄い皮か布の切れ端。どれも古く、何に使われていたのかはわからない。

 ただ、手順があったのだという気配だけが残っていた。

 

 焼き封じ。それがそう呼ばれていたことは覚えている。

 祖母は腕に小さな焼き痕をつけていた。それを受けた者は、病にかからなかったと語っていた。

 だが、なぜそれで防げたのかは、祖母も知らぬようだった。

 

 かつて学んだ知識でさえも、それに応えることはない。

 

 

            *

 

 

──第5日

 

 西屋の娘は、目を開けないまま三日が過ぎたという。

 声もなく、食もとらず、火香の中に横たわっているだけだと聞く。

 斑は顔にまで広がり、熱も下がらぬまま。

 家の者は、静かにその傍にいるだけで、医者を呼ぶでも、祈祷を頼むでもない。

 ──もう手の届かぬところにあるものとして、扱われているように思える。

 

 そして今朝、新たに二人の発症者が確認された。

 東の大工の子と、祭具を保管していた屋敷の女中。

 いずれも、昨日までは村を歩いていた者たちだ。

 

【症状記録】

 大工の子:発熱、胸と首に発疹。まだ小さいが、隆起し始めている。

 目に光を嫌うそぶりあり。声はかすれ気味。

 食欲なし。反応はやや鈍いが、会話は可能。咳・嘔吐なし。

 

 女中:高熱。背中と肩にかゆみを訴え、見ると発疹が出ていた。

 声あり。意識は明瞭。歩行に支障はないが、倦怠感が強いとのこと。

 咳は見られない。腹の異常なし。

 

 症状はすべて、ナヤの娘と似通っている。

 ただ、進行にはやや差がある。誰がどこで何に触れたのか、もう誰にもわからない。

 

 村の中で「斑の熱」という言葉を聞いた。

 それを口にしたのが誰かはわからないが、確かに、そう言っていた。

 あの年のことを知る者たちが、少しずつ口を開き始めている。

 そして、痕のある者と、ない者のあいだで、言葉にされぬ距離が生まれつつある。

 

 私は昨日見つけた灰と草を持ち出し、火を起こした。

 薬草を焼いて灰と混ぜ、粘りを出すため少量の水で練り、布に取る。

 試しに、自らの腕の切り傷に塗ってみた。かつて祖母は、それを子どもの腕に押し当て、火箸で封じたという。

 痕は残る。けれど、それが何を意味するのかは、いまだ明らかではない。

 

 焼き封じを受けた者は、病にかからなかった。

 そう語る年寄りがいた。

 ただの焼き印ではなく、何かを塗ってから焼いていたという話も聞く。

 

 昔耳にした話がある。

 山の毒草に少しずつ慣れると、毒に強くなるのだと。

 獣もまた、そうして毒を知り、毒に耐えるのだという。

 

 今日診た子の発疹に、わずかに膿が見えた。

 あれと似たようなものを、祖母は混ぜ物の中に入れていたのかもしれない。

 もし、それが病を「少しだけ」移すものだとすれば……。

 

 あの痕には、何か意味があったのではないか。

 私はそう考え始めている。

 

 

            *

 

 

──第6日

 

 焼き封じを望む者が現れた。

 最初は、西屋の若い女だった。

 娘が倒れた家の親戚にあたるという。

 痕のある者が病にかからないと聞き、ならば自分もと頼んできた。

 

 私は迷った。

 何を用い、どう焼くか、その順序を決めきれずにいた。

 だが、手順を迷いながら試すには、時が遅すぎた。

 いま受けに来る者は、本気で信じている。

 私はそれを、断ることができなかった。

 

 薬草を焼いて灰を作り、水で練り、膿を少しだけ混ぜた。

 切った腕にすりこみ、布で押さえ、火箸で封じた。

 焼くのは一瞬でよいと、祖母は言っていた。

 どうしてかは、今もわからない。

 けれど、その痕があった者だけが、無事だったと聞いている。

 

 数は多くはない。

 村の者のほとんどは、恐れて遠巻きに見ているだけだった。

 けれど、次の日には二人、またその次には四人が来た。

 誰かが言った。「焼いてもらった者は、病にかかっていない」と。

 

【観察記録】

 焼き封じを施した七人、いずれも五日を経て無症状。

 痕は浅く、痛みは当初のみ。発熱も見られず。

 接触のあった者の中には発症者も出ているが、焼き封じの有無で分かれているように見える。

 

 判断は早すぎるかもしれない。

 だが、もし──と思わずにはいられない。

 

 西屋の娘は、まだ目を開けていない。

 しかし、昨日から少しずつ水を飲むようになったと聞いた。

 そのことが、私を少しだけ動かしたのかもしれない。

 

 

            *

 

 

 焼き封じを受けた者の中から、いまだ病にかかった者はいない。

 この数日のうちに、新たな発症者はひとり。

 だが、その者は痕を持っていなかった。

 

 村の空気は、すこし変わりはじめている。

 火香の焚かれた家が減り、外に出てくる者が増えた。

 焼き封じを頼む声は、いまも一日ひとりふたりと続いている。

 

 西屋の娘は、今日になって目を開けた。

 言葉は出ず、視線もまだかすんでいるようだったが、

 水を飲み、母親の顔を見て笑ったという。

 

【観察記録】

 焼き封じ施行後七日以内に発症した例はなし。

 接触者のうち、未処置の者にのみ発症を確認。

 症例数は少なく、確証には至らぬが、関連があるとは考えられる。

 

 祖母がやっていたことの、意味のすべてはわからない。

 だが、それでも残しておくべきだと思う。

 この手記が、また似たような年が来たとき、ひとつの思い出し方となるのなら、それでよい。

 

 

            *

 

 

 この文書の価値は、当時の民間伝承と病理的観察の接点を示すものとして興味深い。

 記録者が行った処置の有効性については、因果関係の特定が困難である。

 なお、ロール村におけるこの年以降の同様の流行は、記録上確認されていない。

 




 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 ところでこれは全く関係のない話なんですけど、
 人類初のワクチンは、確実なもので10世紀から、一説では紀元前からあるらしいですね。
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