【僕のヒーローアカデミア】志村転弧ヒーロールート トロフィー【IF..】獲得チャート   作:ぃぃぃぃん

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六話 裏

 

 

 夜の冷たい空気がマンションの壁を撫でる中、転弧は台所に立っていた。

冷蔵庫に残っていたうどんと、かまぼこ、天かすを取り出し、即席の夕食を作る。エリのために温かいものを食べさせたい一心で、火加減に気を配った。

 

 簡単に仕上げたうどんをお盆に乗せ、エリのいるリビングへ向かう。小さな毛布にくるまってソファに座っていたエリは、転弧が運んできた湯気立つ小さな丼を目にして、ぱっと顔を輝かせた。

 

「ほら、できたぞ。……熱いから、気をつけて食えよ」

 

 転弧がそっとテーブルに置くと、エリは緊張したような面持ちでフォークを手に取った。そして、慎重に口に運ぶ。

 

その瞬間——。

 

「…………!……こんなあったかいの、初めて食べた!!

 

 目を見開き、エリは頬を緩めた。うどんをすすりながら、ぽろりと涙を零す。転弧は慌てることなく、そっとエリの髪を撫でた。

 

「ゆっくり食えよ。まだ、いっぱいあるから。」

 

 エリはこくんと頷き、嬉しそうにまたうどんに口をつけた。静かに、けれど確かに、二人の間に小さな温もりが育っていった。

 

 

 

 それから二週間ほどが過ぎた。

 転弧はスピナーやトゥワイスとともにパトロールやヴィラン確保の任務をこなし、事務所に戻る日々を送っていた。

 

 ある日の夕方、ドアを開けると、中から小さな声が漏れてきた。耳を澄ますと、エリとトゥワイスが話しているらしい。

 

「えっとね、お外出たい、です……。」

 

「外かぁ!いいじゃねえか!絶対連れてってくれるって!」

 

 転弧が姿を見せると、エリはぱっと顔を上げ、そわそわとしながら言った。

 

「あの、てんこさん……お外、行ってみたい……。」

 

 その小さな勇気に、転弧は少しだけ驚いたあと、優しく頷いた。

 

「いいぞ。一緒に行こう。」

 

 エリは驚いたように目を見開き、数秒後、嬉しそうに微笑んだ。

 

 

 

 日差しの和らいだ夕暮れ時、転弧とエリは事務所近くの静かな道を散歩していた。

 

 外の世界に、エリは目を輝かせながらあちこちを見渡していた。道端に咲く花や、店先に並ぶパン、すれ違う犬の散歩。見るものすべてが新鮮で、エリは小さな声で、でも止まらない勢いで質問を投げかけてくる。

 

「てんこさん、あれなに? あのふわふわのなに?」

 

「パン屋だ。……甘いのも売ってる。」

 

 いちいち答える転弧の声も、どこか柔らかい。エリが振り返って、にこっと笑った。

 

「たのしい!」

 

 そんなエリを見ながら、転弧も自然と笑みを浮かべる。

 ——この笑顔を、どうか守り続けたい。転弧は改めて心に誓った。

 

 事務所への帰り道。

ふと、向かいの歩道から鋭い視線を感じた。目を向けると、火伊那が立ち尽くしていた。彼女はエリを見るなり、ぎょっとした顔をした。

 

「久し振りだなテンコ……!?……お、お前、誰との子どもだ!?

 

 大きな声に、エリはびくっと肩をすくめる。転弧は慌てて首を振った。

 

「違ぇよ。……まぁ、帰ったら話す。」

 

 手早く会話を切り上げて、エリの手を引き、火伊那を連れて足早に事務所へ戻った。

 

 

 

 事務所に帰り着くと、エリを安心させるためソファに座らせ、温かいお茶を淹れた。それから、火伊那を前に、事情を一から説明する。

 

「……拾ったんだ。ぼろぼろでさ。で、聞いてたら、なんか、実験に使われてたみたいで。」

 

 ナガンの眉がぴくりと動いた。

 

「……実験?」

 

「そう。スピナーもトゥワイスも全力で調べたけど、そいつの背後にいた『若』って奴の素性は、まったく分からねぇ。おそらくヤクザかなんかだとは思うんだが…。」

 

 その言葉に、ナガンの表情が一変した。鋭い眼光を転弧に向け、低く言い放つ。

 

「調べたいことがある。」

 

 それだけ言うと、身を翻して事務所を飛び出していった。

転弧はエリに目を向けた。心細そうに見上げるエリに、転弧は微笑みかける。

 

「大丈夫だ。ナガンさん、頼りになるからな。」

 

 エリはこくりと小さく頷き、転弧のそばにぴたりと寄り添った。

 

 

 

 三月の終わり頃だった。

パトロールから帰ってきた転弧は、妙に事務所がそわそわしているのに気づいた。スピナーとトゥワイス(サイドキック)が何やらコソコソと相談していて、エリもそれに混じっている。見慣れた風景ではあったが、今日はいつも以上に何かを隠しているようだった。

 

 転弧は首を傾げながらも、まあ悪さじゃなければいいか、とそのまま書類仕事に取り掛かった。

 

 二日後の夕方。

机に積み上げた書類をようやく片付け、伸びをしていた転弧の元に、エリがそっと歩み寄ってきた。小さな手で服の裾を引っ張られる。

 

「ん?」

 

 振り向くと、エリは真剣な表情をしていた。目がきらきらと輝きながらも、どこか緊張している。

 

「あ、あの……これ……読んでほしい……です!」

 

 差し出されたのは、一枚の手紙だった。

『てんこちんへ』と書かれた文字は、何度も書き直した跡があり、紙の端は少しよれている。隣で秀一と仁が、バレないようにこちらをちらちら見ていた。二人が協力していたのは明らかだった。

 

転弧は手紙を丁寧に受け取ると、ゆっくりと読み進めた。

 

 ──拾ってくれてありがとう。

 ──外に連れて行ってくれてうれしかった。

 ──これからも、いっしょにいたい。

 

 たどたどしいが、まっすぐな言葉だった。胸の奥がじんわりと温かくなる。

 読み終えて顔を上げると、エリが不安そうにこちらを見つめていた。

 

「ありがとうな、エリ。」

 

 転弧はしゃがんでエリをぎゅっと抱きしめた。小さな体がびくりと震え、それからふにゃっと力を抜く。

 

「好きなもん、何でも買ってやる。」

 

 そう告げると、エリはぱあっと顔を輝かせた。

 

「あ、ありがとう!てんこさん!!……うれしい!わ、私、リンゴたべたい……!……あと、あとね、お兄ちゃん……って呼んじゃだめ……?

 

 その言葉を聞いた瞬間、転弧は信じられないような顔をして固まった。

 

「ミ"ッ!!!!!!!!!!」

 

と奇声を上げて、床に倒れ込む。

 

「はぁ……」

 

 秀一が呆れた顔でため息をつき、仁はオーバーなリアクションでひっくり返った。

 

「転弧ぉ……倒れんじゃねーよ……。」

 

 秀一が転弧を軽く蹴っ飛ばしながらぼやくと、転弧は床にへばりついたまま、かすれた声で答えた。

 

「……か、かわいすぎる……!」

 

 エリはきょとんとした顔で、転弧を覗き込んでいた。

 

 


 

 四月になった。今日はコンプレスこと、迫圧紘が出所する日だった。

 

「そろそろ行くぞ、お前ら。」

 

 転弧が声をかけると、秀一と仁がガレージに向かっていく。

今日の足は、転弧の愛車──旧車のフィアット500だ。小さな車体に、三人乗るのもぎゅうぎゅうだった。

 

エンジンをかけようとしたとき、後ろから小さな声が聞こえた。

 

「ま、待って!」

 

 振り返ると、エリが焦ったように駆け寄ってきた。

大きな目でこちらを見上げて、一緒に行きたそうにしている。

 

「一緒に行くか?」

 

そう尋ねると、エリは顔をぱっと明るくした。

 

「ありがとう!お兄ちゃん!」

 

 心臓がばくんと跳ねた。

むず痒いような、でもどうしようもなくうれしい感覚に転弧は小さく咳払いする。

 

「……まあ、席狭いけど我慢しろよ。」

 

 サイドキック2名が、どこか温かい目でこちらを見ていた。

 

 

 

 フィアットの小さな車体に、大人三人と子ども一人。ぎゅうぎゅうになりながらも、車は刑務所へと走った。

春の空気はやわらかく、道端には桜がほころび始めている。

 

 刑務所の駐車場に着くと、くせ毛の男が出て来た。それを見つけた仁が手を振る。

 

「おーい!」

 

 男──迫圧紘は目を見開き、驚いた表情を浮かべた。

 

「まじで迎えに来てくれるなんてな……。おじさん、感激だ。よろしくな、志村!」

 

 力強く握手を求められ、転弧も思わず笑った。すると、迫がエリに気づく。

 

「……志村、お前……子どもいたのか!?」

 

「違うわ。」

 

 即答する転弧に、迫は「なんだよビビったぞ」と苦笑する。エリは少し恥ずかしそうに、転弧の後ろに隠れた。

 

 

 帰りの車内。自己紹介をしながら、和やかな雰囲気が流れていた。

 

「エリです。えっと……よろしくおねがいします。」

 

 小さな声で挨拶するエリに、迫は目を細める。

 

「かわいいなぁ。志村、いい子拾ったな!!」

 

「うるせぇ。」

 

 スピナーとトゥワイスが笑いを堪える。

そんな風に話しているうちに、すぐに事務所が見えてきた。

春の風が車の窓から吹き込み、エリの白い髪をふわりと揺らした。

 

 

夕方、事務所で書類仕事を片付けていると、急にスマホが震える。ディスプレイに「レディ・ナガン」――火伊那からの連絡だ。すぐにスマホを手に取って、画面をチェックする。

 

『今すぐ連絡しておく。』

 

その一言だけで、嫌な予感が胸を締めつける。彼女は、何かしらの動きがあった時、しばしばこういう短いメッセージを送ってくる。その後の詳細がわからないまま、電話をかける。

 

『私だ。』

 

火伊那の低い声が、あたかも冷徹な氷のように響く。

 

『転弧、少しだけ頭を冷やしておくべきかもしれない。お前が拾ったあの子供……エリちゃんだが、彼女がいた死穢八斎會という組織が、最近何か動き出したみたいだ。』

 

「死穢八斎會……あの指定ヴィラン団体か。」

 

 一瞬、言葉を詰まらせる。あの極道組織か。少しだけ耳にしたことがある。特に、若頭、治崎廻という男が関わっているという話を聞くと、ただ事ではない気がする。

 

『だろうな……あの組織、動きが早い。君が気にしなくてもいいことかもしれないけど、エリが関わっていたとなると、どうしても動きが気になるんだ。』

 

「俺も調べてみる。……でも、どう動くべきかは、わからねェ。」

 

『もしかすると、今後のために重要な情報が隠されているかもしれない。』

 

火伊那の冷徹な視線が画面越しに伝わる。彼は少し黙り込んでから、決断する。

 

「わかった。……それじゃ、ナイトアイ事務所に連絡する。あの子のこと、少なくとも知らせておくべきだ。たしか目ェつけてただろ。」

 

『しっかりとな、転弧。』

 

 通話を終えた後、転弧はすぐにスマホを握りしめ、ナイトアイ事務所へ電話をかける。ナイトアイと言えば、以前からその動向を気にかけていたが、ここでコンタクトを取るべきだと感じたからだ。

 

しばらくして、電話の向こうで活気のある女性の声が響いた。

 

『こちら、ナイトアイ事務所です!どうされました?』

 

「志村です。少し相談したくて。」

 

しばらくの間、慌ただしくしているのが感じられる。

 

『相談ですか?……内容は?』

 

「実は、子供を保護しているんですが、その子が関わっていた団体が死穢八斎會という極道組織と関係あるんじゃないかと考えつきまして。」

 

 その名前を口にした瞬間、電話先の相手が変わった。サー・ナイトアイだ。

 

『情報提供感謝する。……それは重大な情報だ。その子は貴方の事務所で保護されているんですね?』

 

「そうです、ナイトアイさん。我々はその団体に関する証拠が欲しい。貴方たちの事務所に伺い、話をしたいんです。」

 

ナイトアイはしばらく黙って考えてから、ゆっくりと言った。

 

『わかった。4月にはお越しいただけるように手配しておく。協力、感謝する。』

 

転弧はその言葉を聞いて、ホッと一息つくと同時に、事態が本格的に動き出したことを実感した。

 

「そん時、保護してる子どもも連れて行きます。その時にまた詳細を話しますので。」

 

『承知した。では。』

 

 電話を切った後、彼は少しだけため息をついた。やるべきことが増えるのは決して喜ばしいことではないが、ここで手をこまねいていても何も進展はない。

 

4月。まだ少し先だが、これからの展開に備えてしっかりと準備を整えておく必要がある。手を止めていたら、何も変わらない。

 

 


 

 

「うぉーっす!転弧ぉ!」

 

 サー・ナイトアイ事務所との顔合わせを兼ねた会議を終えた4月末、勢いよく開いた事務所のドアから、元気な声が響いた。

入ってきたのは、長い白髪をバッサリとかき上げた、ウサギの耳を持つプロヒーロー──ミルコだった。

2年ぶりに連絡を取り、やっと今日、彼女を事務所へ招待できたのだ。

 

「2年ぶりだなぁ!事務所建てたって聞いてよォ!」

 

 そう言いながら、ミルコは転弧にぐっと近づく。

……が、ふと彼の隣にいる少女に目を留め、ピタリと動きを止めた。

 

 白い髪に、赤い瞳。

明らかに転弧と似た外見の少女──エリを、交互に見比べる。

 

「……お前…!」

 

ミルコの眉がピクリと動いた。

 

「誰との子どもだ?」

 

 

 空気が、ピキリと凍る。

 

「遺伝子受け継ぎすぎだろ……いやいやいや、マジで。髪も目もそっくりじゃねえか!」

 

 口をぱくぱくさせながら、ミルコは何度もエリと転弧を見比べた。対する転弧は、はっとして心の中で叫んだ。

 

(──あ、やべ。エリのこと、伝えてねぇ!!)

 

 そう、2年ぶりの連絡で浮かれてすっかり忘れていた。

エリの存在を、ミルコに何一つ説明していなかったのだ。

 

ミルコは、ズイと顔を寄せ、不機嫌そうに目を細める。

 

「へ~~~~え、そうだったのかァ。

 2年間、子育てに追われてたから、私に一度も連絡よこさなかったのかァ。」

 

「いや、ちが──」

 

「いや、怒ってねぇし?別に?

 たださァ、2年ぶりに連絡きたと思ったら、私の知らねェとこで子供作ってたこと黙ってるとか、──薄情モンだなァ〜って思ってよォ。」

 

にっこりと笑みを浮かべるミルコ。

 

(絶対怒ってるだろ……!!)

 

転弧は心の中で頭を抱えた。ちら、と横目で事務所内を見回す。

 

──コンプレス、いない。トゥワイスもいない。

 

(逃げやがった……!!逃げるな卑怯者ォ!!)

 

と心の中で絶叫しながら、転弧は仕方なく自力で誤解を解くことにした。

 

「ミルコ、違う。違うんだ。」

 

慌てず、短く呼吸を整えると、真っ直ぐミルコを見た。

 

「この子、俺の子どもじゃない。ただ、保護しただけだ。治崎ってヤツから、救い出した。」

 

「……」

 

「それに……2年間、連絡できなかったのは、ただ…タイミングを逃してただけだ。俺が悪い。ごめん。」

 

 素直な謝罪に、ミルコは腕を組み、じぃっと転弧を睨みつけた。数秒の沈黙の後──

 

「……ふーん。ま、いいけど。」

 

ふっと息を抜き、耳をぴょこんと動かす。

 

「最初っから素直にそう言えっての。」

 

口調はぶっきらぼうだが、明らかに機嫌は直ったらしい。

エリにも、優しく片手をあげて挨拶した。

 

「エリ、だっけ?よろしくな!私、ミルコってんだ!!」

 

エリはびくっと体を震わせたが、転弧を見上げた後、控えめにぺこりと頭を下げた。

それを見て、ミルコは満足げにニヤリと笑った。

 

(……ったく、ひと騒動だったな………焦った〜!

 

胸を撫で下ろしながら、転弧は一人、空っぽになった会議室の隅をちらりと見やる。

 

 ──コンプレスとトゥワイス(アイツら)、絶対あとで文句言ってやる。

逃げた分、説教は覚悟しておけよと、内心で決意するのだった。

 

 

 

「なあ、せっかくだし、歓迎会でもやったらどうだ?」

 

 秀一が、ぽんっと手を叩きながら提案した。

 

「かんげーかい……?」

 

 エリが、小さく首をかしげる。転弧がエリの頭をわしゃっと撫でながら、説明を始めた。

 

「歓迎会ってのはな、新しく仲間になったやつを祝って、飯食ったり、遊んだりする集まりだ。」

 

「いいじゃねえか!よくねえよ!」

 

 賛成を叫ぶ仁だが、本人も楽しそうにしていて、すぐに満面の笑みになった。

 

「俺、ちょっと食材買ってくるわ。」

 

 秀一が立ち上がり、財布をポケットに突っ込んで玄関に向かう。

エリちゃんに「いい子で待ってろよ」と声をかけて、軽く手を振った。

 

「……気をつけてな。」

 

転弧がぽつりと背中に声をかけると、彼は親指を立てて応えた。

 

 

 

 それからしばらくして、ミルコは仕事があると言って帰っていった。

「ま、元気でやれよ!」と、最後まで乱暴だけど優しい言葉を残して。

 

 そして夜。事務所に戻ってきた秀一が、両手いっぱいに食材を抱えて帰ってきた。

テーブルには、簡単な料理やお菓子、ジュースが並び、エリの前には、手作りのちいさなケーキまで用意された。

 

「ほら、エリ。歓迎会、始めるぞ。」

 

 転弧が笑って言うと、エリちゃんの顔がパァっと明るくなった。

仁は皿を配りながら、

 

「一緒にこれから楽しくやろうな!」

 

と微笑んでいる。

 

「……ありがと……ございます。」

 

エリちゃんが、少し照れながらも嬉しそうに言った。

圧紘も「これでやっと、仲間入りだな」と素顔で微笑んだ。

 

 賑やかで、温かい夜。転弧は、エリちゃんが笑っているのを見ながら、

 

(これで、少しはマシな場所にしてやれたか。)

 

と、そっと胸の奥でつぶやいた。

 

──彼らにとっても、久しぶりに心から穏やかな時間だった。

 

 

 


 

 

 渡我被身子(トガヒミコ)は激怒した。

なぜなら、一目惚れした緑谷出久とは別のヒーロー事務所になってしまったからである。

 

 五月末、初夏の陽気に包まれるなか、雄英高校の生徒たちは職場体験として各々の希望した事務所に配属されていた。

ヒーロー科一年A組の彼女もその一人だった。

 

──だけど、願った配属先は叶わなかった。

 

 本当は緑谷出久のそばにいたかった。同じ空気を吸い、彼の動きを間近で見たかった。そんな小さな夢も、あっさり砕け散った。

彼は、直前で職場体験先の事務所を変更したのだ。

今は『グラントリノ』と呼ばれているヒーローの事務所へ向かっているのだろう。

 

結局、彼女は『テンコ』の事務所へと派遣されたのだった。

 

 気だるげな足取りで、彼女は目の前の建物──小さなビルの一室へと向かった。──プロヒーロー・テンコ。

聞いたことはある。若手の中でも特に急成長しているヒーローで、異様な存在感を放っているらしい。

ヒーローとしては異色。かつてヴィランだった経歴を持つ人間をヒーローにしているとか、噂が絶えない。

 

(どーでもいいのです……。出久くんに会えないのが心残りです。)

 

緑谷出久じゃないなら、誰でも同じ。

彼女は心の中でふて腐れながら、ビルの入り口を押し開けた。

 

 中は、思ったよりもずっとシンプルだった。

無機質な壁、木の机、簡素な椅子。

飾り気のない空間に、数人のヒーローが待っていた。

 

 

 

──そこにいたのは、四人。

 

 

 

 まず目に飛び込んできたのは、白い髪に赤い瞳を持つ男だった。

年齢は二十代くらい。

黒いスポーツウェアの半袖に、防刃仕様の施された生地。

下は黒いカーゴパンツに、赤いスニーカー。

手には黒い手袋をはめている。

 

その名は、崩壊ヒーロー・テンコ。

個性は『崩壊』──五指で触れたものをひび割れさせ、塵に変えるという、破壊的な力を持っている。

 

彼は無造作に手を出しており、目を細めながら彼女を見た。

 

「……お前が、今日から来る体験の奴か。」

 

低く、掠れた声だった。

どこか気怠そうだが、トガには妙に親近感が湧いた。

 

 

 

 その隣に立っていたのは、大柄な男だった。

白のタンクトップに青いカーゴパンツを履き、髪はバンダナでまとめてある。

腕にはしっかりとした筋肉がつき、体躯は異様にたくましい。

 

彼は、ヤモリヒーロー・スピナー。

個性は『ヤモリ』──ヤモリに由来するあらゆる特性を持ち、異形型特有の身体能力と強靭な力を誇る。

 

不愛想だが、どこか温かみのある空気をまとっていた。

 

 

 さらに、ひときわ異様な格好をした人物がいる。黒と白の全身ラバータイツ、顔全体を覆うマスク。全身タイツのような姿に思わず二度見する。

 

彼の名は、2倍ヒーロー・トゥワイス。

個性『2倍』により、計測した対象を複製できる。

 

陽気な調子で、トガに手を振った。

 

「職体の子だな!大歓迎だよ!って思ったら緊張してる?緊張してるな?わかるぜ!」

 

テンポの早い喋り方に、トガは一歩後ずさった。

 

 

そして最後、

一番異彩を放っていたのは、オレンジ色のワイシャツに黒のズボン、ベスト、リボンタイ。その上からトレンチコートを羽織り、白い仮面で素顔を隠している男だった。

 

 彼が、圧縮ヒーロー・Mr.コンプレス。

個性『圧縮』──触れた対象をビー玉サイズに圧縮し、質量も軽くしてしまう力を持つ。フランクな口調が特徴的だった。

 

 

 

──四人。

それぞれ一癖も二癖もありそうな面々。トガは一瞬たじろぎかけたが、すぐに笑みを浮かべる。

 

「渡我です!渡我被身子!個性はちうちうして相手に変身するのです!!」

 

 明るく笑う。こんな場所でも、彼女は変わらない。

テンコは、うっすらと口の端を上げた。

 

「……まあ、気楽にやれよ。うち、そうガチガチじゃないから。」

 

その言葉に、トガの頬が少し緩んだ。

 

(……案外、悪くないかもしれないのです。)

 

そんな時だった。

 

 

 

「──お兄ちゃん!」

 

バタバタと小さな足音が廊下を駆けてきた。

振り向くと、そこには小さな少女が立っていた。

 

 白い髪、赤い瞳。

テンコにどこか似た雰囲気を纏うその子は、小さな手で事務所のドアを押し開けると、ぱっとトガと目が合った。

 

少女はきょとんとし、すぐにぺこりと頭を下げた。

 

「はじめまして……エリ、です。」

 

小さな声。

けれどしっかりと、挨拶してきた。

 

 

 

──その姿に、トガは胸の奥がきゅっと鳴るのを感じた。

 

(か、かぁいいのです……!!)

 

トガは無意識にしゃがみ込み、エリと同じ目線に合わせた。

 

「渡我被身子です!エリちゃん、1週間よろしくなのです!」

 

ニコニコと微笑むと、エリも小さく笑った。それを遠巻きに見ていたテンコは、ふっと顔を緩めた。

 

「エリはうちの事務所で、保護してるんだ。気にしないでいい。」

 

「ふーん、そうなんですねー!」

 

トガは素直に頷き、エリの小さな手をそっと握った。

 

(……この子、すっごく繊細そう。けど、ちゃんと笑えるんですね。)

 

 そんな風に思った。テンコは事務的に説明を進めた。

 

「うちでは、戦闘訓練と現場同行を基本にやる。……無理はさせねぇ。でも、ヒーローになるなら、覚悟はしてもらう。」

 

 トガは大きく頷いた。期待とは違ったけど――ここでも、ちゃんと何かを得られる気がした。

 

  それからの二日間、トガはテンコたちと基礎訓練をこなし、時々エリと話すようになった。

テンコたちはそれぞれ癖が強いが、不思議とバランスが取れているチームだった。

 

スピナーは武骨だが面倒見がよく、トゥワイスはやたらと陽気で空気を和ませ、コンプレスはいつも飄々と場を回していた。

テンコは気怠げだが、的確に指示を出す。

 

(ここでなら……ヒーローのことわかるかもしれません……。)

 

夕方、テンコはトガへ通達した。

 

「明日……死穢八斎會を強制捜査する。」

 

不意打ちのように告げられた言葉に、トガは目をぱちぱちと瞬かせた。

 

「へ? しえ、はっさいかい?」

 

テンコは頷いた。

赤いスニーカーのつま先で床を軽く蹴りながら、資料を取り出す。防刃スポーツウェアの黒い半袖に、黒い手袋が目立っていた。

 

「警察と合同だ。サー・ナイトアイ、リューキュウ、ファットガム、ロックロック……結構な数のプロヒーローも来る。俺たちの仕事は、あくまで支援。だけど……オーバーホールを確保できるチャンスだ。」

 

 トガは知らず、息を飲み込んだ。

そのオーバーホール――治崎廻という男。曰く死穢八斎會の頭目で、エリを酷い目に合わせた張本人。彼女には許せない存在だった。

 

「やります……!」

 

 トガはぎゅっと両拳を握った。

隣で、スピナーが肩をすくめて笑う。青のカーゴパンツに白のタンクトップ、髪をバンダナで上げたヤモリヒーローは、あくまで冷静だ。

 

「無理すんなよ。」

 

「……舐めたらヤバイからな。」

 

 トゥワイスが黒と白のラバータイツ姿で、小刻みに頷いた。

コンプレスはオレンジのワイシャツに黒のズボンとベストを着込み、トレンチコートを羽織り、仮面越しに声を発した。

 

「一度に仕留めるのは難しいかもしれねぇが、無理を通して道理を蹴っ飛ばすのがヒーローってもんよ。」

 

 トガは小さく笑った。

ここにいる皆となら、きっと、怖いものなんてない。

 

 

 

 

翌朝。

死穢八斎會の事務所前には、物々しい空気が流れていた。

 

 警察車両が道路を封鎖し、サー・ナイトアイを先頭に、リューキュウ、ファットガム、ロックロックらが並ぶ。

テンコたち四人も、その後ろに立っていた。

 

「これより、強制捜査に入る!」

 

 サー・ナイトアイが冷たい声で言い放つ。鋭い視線が、事務所の奥へと向けられる。

重たい扉がこじ開けられ、ヒーローたちがなだれ込む。

テンコは一瞬、トガを見た。

 

「くれぐれも……油断するなよ。」

 

「ハイ!」

 

 トガは短く答え、駆け出した。

廊下の中は異様に静かで、奥からかすかな気配がするだけだった。

リューキュウたちが先行し、捜査を進めていく。

 

そのときだった。

 

 ぐにゃり、と空間が歪んだ。

床が波打ち、壁がねじ曲がり、ヒーローたちは一瞬にして分断される。

トガも、テンコも、スピナーも、トゥワイスも、コンプレスも皆巻き込まれた。

 

「なっ、なんですかこれッ!?」

 

トガが声を上げたときには、すでに知らない廊下に放り出されていた。

見渡すと、テンコたち四人も、すぐ近くにいる。

しかし、ナイトアイたちの姿はない。

 

「そういう個性か……?」

 

 テンコが低く呟いたその時、廊下の奥から、足音が響いてきた。

 

「…………。」

 

 姿を現したのは、一人の男。

ペストマスクをつけ、白い手袋をはめ、緑色のジャンパーを羽織ったその男。治崎廻――オーバーホールだった。

 

 偶然か、運命か。

彼らは、宿敵と対峙することになった。

 

「――オーバーホールッ!」

 

テンコが叫び、駆け出した。残りの4人も続く。

 

一瞬の緊張。

空気が、張り詰める。

 

「ここで、終わりにする……!」

 

 

 テンコが真っ先に飛びかかる。

五指を広げ、手袋越しにオーバーホールを掴もうとする。

 

「……来るな。」

 

オーバーホールは冷たく言い放った。

次の瞬間、彼が地面に手をかざすと、廊下が爆発するように弾けた。

床が裂け、瓦礫が飛び散り、壁が作られる。

 

「くっ!」

 

 テンコは身を翻して回避。

スピナーが即座に続き、瓦礫を蹴飛ばして突っ込む。ヤモリのように壁を這いながら、鋭く切り込んだ。

 

「トガ、回り込め!」

 

スピナーの声に、トガが頷く。

彼女はすばやく右手にサポートアイテムの採血用ナイフを持ち替え、壁沿いに走る。

 

「これでも食らえーっ!」

 

 叫びながら飛び込んだトゥワイスが、複製した自分を左右に放り出す。

二体のトゥワイスが、オーバーホールを挟み撃ちにかかる。

 

しかし、オーバーホールは冷静だった。

 

「無駄だ。」

 

白い手袋が一閃。

複製されたトゥワイスたちが一瞬で崩壊して塵と化し、壁の一部となってしまう。

 

「なっ……!」

 

 トゥワイスが後ずさる。彼の個性が通じないと知っただけで、空気がさらに重たくなる。

 

「焦るな!」

 

コンプレスが叫んだ。トレンチコートを翻し、彼は素早く小さな球を地面に投げつける。

それは破裂し、煙幕となって廊下一帯を覆った。

 

「今だ!」

 

 テンコの声に、トガが動く。

ナイフを握り締め、目を細め、煙の中をすり抜ける。

気配を頼りに、オーバーホールに迫る。

 

「――いた。」

 

 刹那、トガは飛びかかる。

しかしオーバーホールはすでに警戒していた。

 

「邪魔だ。」

 

 片手で床を触ると、またもや爆発的に床が盛り上がり、トガははじき飛ばされた。ごろごろと転がり、壁に背中を打ち付ける。

 

「っつ……!」

 

「トガッ!」

 

 スピナーが駆け寄るが、すぐにオーバーホールが間に入った。

瞳が、ひどく冷たかった。

 

「まとめて、殺してやる。」

 

 オーバーホールが両手を地面に付ける。

廊下全体がさらにうねり、巨大な瓦礫の波となって押し寄せた。

 

「離れろ!!」

 

 テンコが叫び、スピナーとトガを抱きかかえるようにして飛び退く。

瓦礫がぶつかり、辺り一面、粉塵が舞った。

 

「……やっぱ、手強いな。」

 

テンコが低く呟き、手を何度も開閉する。

 

「だけど……こっちには、仲間がいる。」

 

 その言葉に、スピナーも、トゥワイスも、コンプレスも頷いた。トガは口元をぬぐい、笑った。

 

「やるぞ!!気合い入れろお前ら!」

 

再び、5人は戦列を組み直した。

 

 スピナーが先陣を切る。力を活かし、壁を蹴って高く跳躍した。

 

「おらァッ!」

 

 長い腕を振りかぶり、オーバーホールに向かって壁の破片を投げつける。

彼の異形の筋力は、ただの瓦礫を弾丸並みの速度に変えた。

 

 オーバーホールは顔をしかめ、身をかわす。

その隙をついて、トゥワイスの複製が左右から一気に迫った。

 

「俺が二人もいるんだ!怖いだろ!?怖くねぇよ!!」

 

 左右から飛びかかるトゥワイスに、オーバーホールは素早く床を砕き、トゥワイスたちを跳ね飛ばす。

だが、本命は別にいた。

 

「準備完了だ!!」

 

 コンプレスがそっと手を伸ばし、転がる瓦礫の一片に触れる。

ビー玉サイズに圧縮された瓦礫は、その質量すら消え、空中にふわりと浮かんだ。

 

「いくぞ、トガちゃん!」

 

「はいなのです!」

 

 コンプレスに応えたトガは笑い、手にしたナイフを構える。

圧縮された瓦礫を、まるで手裏剣のようにコンプレスが弾き飛ばす。

小さなビー玉がオーバーホールに向かって高速で飛んだ。

彼がそれに気づいた時には、すでに遅かった。

 

――パチン

 

圧縮解除。

 

 瞬間、巨大な瓦礫の塊が元のサイズに戻り、オーバーホールを直撃しようとした。

 

「っ……!」

 

 オーバーホールは即座に床を触り、自己防衛のための壁を作り出す。

だが、連携はまだ続いていた。

 

 壁を作ったオーバーホールの背後。

そこにテンコがいた。

 

「捕まえた。」

 

 テンコの手袋を外した掌が、オーバーホールの背中に触れた。

ゴリゴリ、と嫌な音がした。オーバーホールの着ているジャンパーが、じわじわとひび割れていく。

 

「……なっ!」

 

 焦ったオーバーホールは、肩をはじいてテンコを振り落とす。

しかし、ダメージは確実に与えていた。

 

オーバーホールの動きが鈍る。

 

「今だっ!」

 

スピナーが叫び、再び突撃する。

横からはトガが、ナイフを突き出して跳びかかった。

 

「もー、捕まって下さいよぉ!」

 

オーバーホールは苦しげに顔をしかめ、再び地面を砕いた。

だが、先ほどよりも勢いが弱い。

 

「追い詰めたぞ!」

 

トゥワイスが声を上げ、分身を次々と送り出す。

コンプレスが再び圧縮玉を放つ。

テンコが五指を広げ、今度こそ確実に捕らえようと詰め寄る。

 

オーバーホールは必死に応戦した。

だが、五人の連携は完璧だった。

 

瓦礫の雨、分身の群れ、飛び交うナイフと圧縮玉。

そして、崩壊する床と壁。

 

どこを見ても逃げ道はない。

 

「観念しろ、オーバーホール!」

 

テンコが叫んだ。

スピナー、トガ、トゥワイス、コンプレスも一斉に詰め寄る。

 

もはや、オーバーホールに勝ち目はなかった。

 

 オーバーホールは、荒い呼吸を繰り返しながらもなお逃れようと足掻いた。

しかし、四方八方を囲まれ、動けるスペースは限られている。

 

「……くそッ!」

 

歯を食いしばり、最後の力を振り絞って床に手をつける。

――その瞬間、テンコが飛び込んだ。

 

「終わりだ!」

 

叫びとともに、五指を広げて飛びかかる。

オーバーホールはそれに気づくが、体がもう反応しない。

 

「触れたら崩れる……!」

 

ぎりぎりの距離で身を引こうとしたその時、

テンコの手がオーバーホールの右肩に触れた。

 

ピキッ

 

乾いた音とともに、オーバーホールの右腕がひび割れ、崩れ始める。

治崎廻の顔が苦痛に歪む。

 

「オーバーホールッ!」

 

スピナーたちも駆け寄り、トガが素早くを取り上げた。

トゥワイスの分身が背後を押さえ、コンプレスが手際よく手錠をかける。

 

崩壊はテンコが寸前で止めた。あくまで捕縛、殺さないために。

 

「……大人しくしろ。」

 

テンコは冷たく告げた。

 

崩れかけた右腕を抱えるオーバーホールは、もう抵抗しなかった。

 

「これにて、オーバーホール捕縛完了。」

 

 コンプレスが静かに宣言する。周囲は静寂に包まれていた。

さっきまでぐにゃぐにゃに歪んでいた廊下も、今はぐちゃぐちゃの瓦礫の山。

それでも、テンコたちの表情には安堵が浮かんでいた。

 

トガはにんまり笑った。

 

「やりましたね、テンコさん!」

 

「……ああ。」

 

 テンコも小さく笑った。その背後、スピナーがにやりと笑いながら肩を叩く。

 

「これで俺たちも、ちゃんとヒーローだな。」

 

「当然だ。正義の味方ってやつだ。」

 

トゥワイスもニコニコと複製たちとハイタッチしている。

 

「…ふぅー、…マジで焦った〜。」

 

コンプレスも仮面の奥で満足げに笑った。

 

こうして、テンコたちは一つの大きな勝利を手にした。死穢八斎會の壊滅は、もう目前だった。

 

――そして、

これが彼らが「ヒーロー」として世間に認められる、最初の一歩となるのだった。

 

 

 警察に治崎廻を引き渡した後、転弧たちは一台のワンボックスカーに乗り込み、事務所へと帰路についていた。

夕方の空は茜色に染まり、窓の外を流れる街並みは、どこかぼんやりとしていた。

 

運転席には転弧、助手席には秀一。

後部座席に仁と圧紘、そして渡我が並んで座っている。

 

車内に流れるラジオの音が小さく響く中、スピナーがぽつりと口を開いた。

 

「なあ、転弧。」

 

「……なんだ。」

 

ハンドルを握る転弧が、短く答える。

 

「オーバーホールの個性……お前のと、ちょっと似てるよな。」

 

 ふいに投げかけられた言葉に、車内の空気がわずかに張り詰めた。

渡我が興味深そうに運転席を見やる。仁も耳をそばだてているのが分かる。

 

彼は、静かに答えた。

 

「偶然だろ。」

 

それ以上でも、それ以下でもない。

短い、冷ややかな声だった。

 

秀一は肩をすくめる。

 

「別に深い意味はないんだけどな。ただ、五本指で触れるっていうとことか、ちょっと似てるなって。」

 

 転弧は答えなかった。代わりに、ハンドルを指で軽くなぞる。

 

「……オーバーホールとは違う。」

 

 ぼそりと、彼が付け加えた。

それは、誰に向けたというわけでもない、独り言のような響きだった。

 

渡我が口を挟んだ。

 

「そうです、テンコさんはテンコさんなのです!」

 

 無邪気な声が、微妙に張り詰めた空気を少しだけ和らげた。

トゥワイスも助手席から振り向き、にっこりと笑った。

 

「お前はお前だ、転弧!」

 

 圧紘もルームミラー越しにちらりとを見て、何も言わず、静かに視線を落とした。

転弧は外を見た。夕日が落ちて、夜の帳が降り始めている。

 

(俺は……俺だ。)

 

 心の中でだけ、もう一度繰り返した。

自分の個性が誰かと似ていようと、関係ない。

自分が何をするか、それだけが大事だった。

 

車は静かに、事務所へと向かって走り続けていた。

 

 

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