そもそも、生まれ持った才能が、与えられてきた環境が違う。
私が必死に絞り出した全財産も、彼女たちにしてみたら取るに足らないお小遣いレベルでしかないのだろう。
あるウマ娘が生まれながらに手にしていたチケット。
私の場合は、それを手に入れるためだけにでも、自分の全てを売り払う必要があった。
それだけのこと。
今さら不満をこぼしたりはしない。
でも、私はきっとこの学園の誰よりも知っている。
自分が、何を対価に支払って、今、ここに立っているのかってことを。
………。
秋の京都競バ場でソウルネームを知ってから、私は軽い興奮状態で生活を送っていた。
以前にも増して感じられる生存への欲求、そして一向に衰えぬ怒り。
ウマソウルの衝動に突き動かされ、トレーニングと称したむやみやたらな走り込みを行う一方、調べ物にも精を出した。
小学校の先生や施設の職員に話を聞いたり、図書室で本を読んだり。
知りたかったのは、私を哀れんだウマ娘への復讐方法。
つまり、あの時彼女が語った夢、「G1ウマ娘になる」方法だった。
判明した方法は単純だった。
中央のトレセン学園に入学して、レースに勝ち続ければいい。
問題点も明白だった。
私にはお金がなかった。
私自身はもちろん、助けてくれる家族も親戚もなにもなかった。
改めて、哀れまれ、バカにされている気持ちになった。
それでも、何か方法はないかと調べものを続けたが、親も金もないウマ娘に方法はなかった。全くの望みなし。
諦めきれなかった。
なけなしの自尊心と、凶暴なウマソウルが体の内側から私を焼き焦がし続けていた。
精神がすさみ、私は怒りっぽくなった。
ただでさえ少なかった友人も話しかけてこなくなり、私自身がそれを気にもしなかった。
ジクジクと身を焦がすような怒りとともに、子供なりに考えたトレーニングを続けること数か月。
その男は現れた。
私が暮らしていた児童養護施設には時折、来客があった。
施設で暮らしている子供の親族だったり、あるいは里親候補、市役所の担当者、寄付をしているスポンサー等など。
鳴鐘権一郎は施設への有力な支援者の一人だった。
もっとも、施設の視察に来ていた鳴鐘を見た時点では、そんなことは知る由もなかった。
ただ見るからに上等な服を着て、クジラみたいな黒くて大きな車に乗っていたから、金持ちの支援者なのだろうと思っただけだった。
大柄でがっちりとした、白髪交じりの髪をした老人で、もう一人の痩せた男をお供に連れていた。
鳴鐘の希望なのか、施設の子供たちが勝手気ままに遊ぶ間を案内の職員とともに、彼はあちらこちらへと歩き回り、ときおり子供に向かって話しかけたりしていた。
「君は、何をしているんだね」
ジャンピングスクワットのような自己流のトレーニング(少なくとも当時の私はそのつもりだった。)をしていた私に、鳴鐘はそう声をかけてきた。
目線を合わせるようにしゃがんでいた。
その視線、口ぶりに、記憶の中からおぞましいモノが這い出てきそうに感じ、私はわずかに怯んだ。
ただ、トレーニングを中断させられたイラ立ちと、施設の職員から厳しくしつけられる「来客に失礼な態度をとってはいけない」というルールによって、表面上はただの不愛想な対応になった。
「トレーニング、です」
ニィ、と男は笑った。
「ほう、トレーニング。君は競技ウマ娘になりたいのかね」
今度こそ、その笑顔が私の記憶を呼び覚ました。
同じだった。
私を風呂場に連れ込んだ、母の恋人の男の笑顔と。
私を、そう言う風に見ている笑顔だ。
トレーニングの汗とは違う、冷たい汗が背中を伝うのを感じた。
足が震えそうになったが、弱みを見せてはいけないと、必死に堪えた。
「はい、中央のトレセン学園に行きたい、です」
そう答えた瞬間、私の頭に1つのひらめきがあった。
天啓か、それとも悪魔のささやきか。
1つだけ確かなコト。
私には、自身の身体以外何もなく。
目の前の男は少なくとも、金を、それも大金を持っていた。
震えそうになる足を叱咤して、一歩前に出る。
他の人、特に近くにいる施設の職員に聞こえないように、男の顔に近づき、声を潜める。
「たすけてください。わたし、なんでもします」
私が言葉の意味を理解して使っていることは、鳴鐘にも伝わった。
事実、私は「なんでも」を知っていた。
何人目かの母の恋人が、面白がって私の前で母とやって見せたからだ。
鳴鐘の眼がわずかに見開かれ、私と同じように声が潜められる。
「君、女の子が冗談でもそんなことを言ってはいけないよ」
口では否定的なことを言いながら、その視線が改めて私の身体を上下に値踏みした。
「なんでもします。わたし、中央のトレセン学園に行きたいんです。」
私は、念を押すように繰り返した。
もう、足は震えていなかった。
ニイイ、と男の笑みが深くなった。
「なるほど、君は本気でトレセン学園を目指しているんだね。努力するのはいいことだ。私も出来るだけ応援するから、頑張るんだよ。」
立ち上がり、私の頭を撫でてから、鳴鐘たちは去って行き、その日はそれで終わりだった。
………。
鳴鐘権一郎はよく言えば、一代で財を成した立志伝中の人物、悪く言えば、成り上がりものの成金だった。
昼はその剛腕で事業を取り仕切り、夜は銀座などの高級店で豪遊する。
結婚はしていたが、妻とは広い屋敷の中で実質的に別居状態で、子供もなかった。
愛人の影もなかったから、一部では男色の噂もあったらしい。
実際には、いわゆる一般的に適齢期の女性は、鳴鐘にとっては高めにハズレていた。と、いうことだった。
それが、私の契約相手。
施設での短いやり取りから1か月。
いい加減、私が焦れに焦れた頃。施設を鳴鐘のお供をしていた痩せた男が訪れた。
伴野順次
鳴鐘の事業面ではなく、生活面を支える執事のような男だと、後から聞いた。
「初めまして、ではありませんね。あなたの父親になる伴野順次です。これからよろしくお願いします。」
にこりともせず、眼鏡の奥からまっすぐにこちらを見て、伴野はそう言った。
子供向けではない、まるで取引相手にするような口調。
ひょっとしたら子供の相手が不慣れで戸惑っていたのかもしれない。
「よろしく、お父さん」
誰かを父と呼んだのは初めてで、それが契約締結の最終確認になった。
そのまま伴野の運転で鳴鐘の所有する別宅に運ばれた。
ちょうど年度末にあわせて学校も転校になり、それまでの私を知る人は周囲から居なくなった。
そこで与えられた環境は、私にとって異世界だった。
良い食事、きれいな洋服、約束通りの指導付きのトレーニング、より鳴鐘好みになるための礼儀作法や教養の家庭教師までつけられた。
対価は、すぐには求められなかった。
山猿のような娘より、良家の子女が鳴鐘のストライクゾーンだったのかもしれないし、流石に肉付きが薄すぎたのかもしれない。
どっちでもいいし、いまさら興味はない。
私は与えられるモノを貪欲に吸収しながら、もっともっとと飢えと渇きを維持していた。
むしろ優れた環境とその効果を目の当たりにするたびに、焦燥にかられるようだった。
なぜなら、私にとっては異世界じみたこの環境も、京都競バ場で私を哀れんだ鹿毛のウマ娘に生まれた時から与えられていたものと比べれば貧弱なものだと分かっていたからだ。
相手はすでに何年分も先を行っている。
休んでいる暇も、満足する余裕も何もなかった。
「はじめてのおしごと」は小学4年生に進級して、しばらくした頃だった。
朝、伴野から今日が「その日」であることを告げられて、学校からは真っすぐに帰宅した。
いつもより念入りに身だしなみを整え、夕方に鳴鐘権一郎を玄関で出迎えた。
しっかりと顔をあわせるのは、この屋敷に引っ越して以来だった。
「お久しぶりです。おじさま。」
教えられたとおりの作法で頭をさげると、鳴鐘は相好を崩して、私の頭を撫でた。
「いやあ、これは見違えたな。すっかりとお嬢様らしくなったじゃないか。」
「おじさまのおかげです。」
言いながら、節くれだった手を握って食堂へと先導する。
文字通りのままごとじみたやりとりと給仕を行いながらの夕食。
浴室で私が鳴鐘の背中を流した後、鳴鐘は私の全身を洗いたがった。
覚悟はしていたが、それでも時折どうしようもなく強張る私の反応も楽しんでいる様だった。
そして、寝室。
10歳にもならない子供で、しかも初めてであることを考えれば、私は割と上手にできたのではないだろうか。
比較対象はないし、そもそも上手くできていたとして誇る気持ちはみじんもないが。
痛みはあったが、涙は流さなかった。
最中は必死で、強い疲労が生まれただけで、何の感慨もなかった。
ただ、事が終った後、唐突にかつての母親の姿がフラッシュバックして、強烈な吐き気に襲われた。
胃からせり上がってきた吐しゃ物が口いっぱいに広がるが、歯を食いしばり、必死にそれを飲み下す。
隣で眠る鳴鐘に気づかれて、機嫌を損ねるわけにはいかなかった。
母親の幻影になど負けたくなかった。
そして何より、食道を逆流しようとする米の1粒、水の1滴に至るまで、私が私自身を売り払った対価として得たモノだった。
絶対に無駄にするもんかと思った。
心の中、奥深く。
灰色の獣が汚泥をすすって、哭いていた。
………。
目が覚めた時、しばらく自分が目覚めていることに気が付かなかった。
夢の中から、そのまま不快感と吐き気が継続していたから。
自分が伴野の家ではなく、トレセン学園の美浦寮の自室にいることを思いだしたのは、吐き気が治まりはじめ、周りを見回す余裕ができてからだった。
口を漱ぎ、水を飲み、汗でべたつく体を拭いて、服を着替える。
ようやく人心地ついてベッドに戻ろうとしたとき、なぜかアオイソニドリに視線が引っ掛かった。
窓から差し込んだ月の淡い光に、青鹿毛が柔らかい光沢を放つ。
安らかな寝顔だった。
愛され、守られ、自分の平穏で健やかな生活が脅かされることがないと、経験的に確信している表情。
わたしとはちがう。
夢見が悪かったせいだ。
かつての私が、顔をのぞかせていた。
明るい家庭で、愛されて育って、人の悪意や嘲笑よりも、善意と微笑みの中で過ごして、屈辱や苦痛より、安心と楽しさを感じて生きてきたウマ娘。
どこかで、少しずつ、歯車が狂わなかった世界のわたし。
半ば無意識に、私はアオイソニドリのベッドの脇まで近づいて、月明かりのほのかに照らされる顔をまじまじと見ていた。
抱きしめたいような、絞め殺したいような、奇妙な板挟み。
私の気配を感じたのか、唐突にアオイソニドリが薄目を開けた。
どこか焦点の合わない、寝ぼけ眼。
むにゃむにゃと聞き取りづらい声。
「んぅ、ナイザァちゃん、、、どうしたの?」
不意を突かれて、何かを答えそうになったが、とっさに口をつぐむ。
一拍後に出てきたのは、毒にも薬にもならない一言だった。
「何でもないわ、おやすみなさい。」
アオイソニドリはなにやらムニャムニャと言っていたが、結局、再び深い眠りに落ちていった。
私も静かにベッドに戻り、毛布にくるまって固く目を閉じた。
私は私。
抱えた鬱屈も、悪夢も私だけのものだ。
他の誰にも分けてなどやる気はない。