<Side:グレイナイザー>
5月上旬の東京競バ場、私は地下バ道をターフに向けて歩いていた。
先月の皐月賞はシンボリルドルフが完勝。
彼女がゴール後に行った、頭上に指を掲げるパフォーマンスも評判を呼んだ。
レースの内容もあいまって、いまや「皇帝」とあだ名されて、もてはやされ始めている。
芝・2,000m。
晴れてはいるが、明け方まで降っていた雨のせいでバ場は稍重の発表。
皐月賞と同じ距離だが、舞台のスケールは段違い。何せこちらはオープン戦だ。
菊花賞までもう半年しかない。
まだ心もとない賞金を、夏の合宿までに1円でも積み上げたい。
いつも通りの負けられないレース。
あえて、いつもと違うところを挙げるとすれば、それは1つ。
これは初めて私が“挑まれた”レースだということ。
地下バ道の終わり。ターフを背に1人のウマ娘がこちらを向いて立っていた。
身に着けたゼッケンが彼女も出走者であることをはっきりと訴えかけてくる。
「ナイザーちゃん、待ってたよ。いいレースにしようね。」
この2年で聞きなれた声。その瞳はいつも通りまっすぐ私を見据えている。
いつだってまっすぐで、優しい光を宿したこの瞳が私は好きだ。
ただ、今日はそこに常にはなかった闘志が燃えている。
「ソニドリ。残念だけど、勝つのは私だよ。」
私も真っ向から視線を受け止める。
クラシック3冠どころか、重賞でもないオープン戦。
稍重の東京競バ場。芝の2,000m。
ここが私とアオイソニドリの勝負の場だ。
………。
いつからアオイソニドリがそれを考えていたのかはわからない。
ただ、私や蜂谷トレーナーの前ではっきりと口にしたのは、3月のある日。
私たちが夜の食堂でビゼンニシキと話をした日から2日後。
練習後のチームルームでのことだった。
「ナイザーちゃんと同じレースに出させてください。」
デスクで今日のトレーニング結果をまとめているトレーナーに対して、お願いがあると前置きしてから、アオイソニドリはそう切り出した。
少しだけ緊張している様子だったが、口調はしっかりしていた。
トレーナーは完全に意表を突かれた顔をしていたが、すぐに気を取り直して口を開いた。
「それは、公式のレースでグレイナイザーと競いたいという意味でいいんだな?」
慎重な尋ね方になったのも無理はない。
同一チームのウマ娘が同じレースに出るというのは、なかなかに面倒が多いのである。
対外的にチームメイト同士の八百長やいわゆるラビット行為を疑われないようにしなければならないし、チーム内でも、情報の取り扱いに気を遣う。
例えば、私の立てた作戦について、どこまでソニドリに伝えるか。
完全に黙秘してしまえば、ソニドリに対する指導の放棄だし、私の手の内をすべて潰すような作戦をソニドリに授けてしまえば、今度は私に対する背信行為になるだろう。
それゆえにトレーナーが慎重な態度になるのは、無理がないどころか当然というべきなのだ。
しかし、ソニドリは生真面目な表情でそれに応じた。
彼女もこのトレセン学園で勝ち負けを繰り返してきたウマ娘。自分の言葉の意味が分かっていないわけはなかった。
「はい、私はナイザーちゃんと本気の勝負がしたいです。」
単なる思い付きで言っているのでないことは、私にもトレーナーにも伝わった。
トレーナーは、受け止めるように小さくうなずいて、それから私の方に視線を向けてきた、
「ナイザーは聞いていたのか?」
首を横に振って答える。
「いいえ、初耳です。」
こちらを振り向いたソニドリと目が合った。
まんまるな瞳の中に闘志の炎が宿っていた。
なぜ、彼女が急にこんなことを言いだしたのかはわからないけれど、
「お前も、やる気満々というわけか」
トレーナーのため息交じりのセリフ。
それで私は自分の口角がニィと上がっていることに気が付かされた。
そうか、私は競ってみたいのか。アオイソニドリと、正式なレースの場で。
「トレーナーには大変な面倒をかけてしまいますが、なんとかお願いします。」
そう言って、頭を下げる。
横では、アオイソニドリも同じように頭を下げていた。
蜂谷トレーナーが今度は深々とため息をついた。
「わかった。私も腹をくくろう。ただし、間違っても八百長を疑われるような、みっともないレースはしないでくれよ。」
「「ありがとうございます」」
こうして、私たちの対戦は決定したのだった。
<Side:アオイソニドリ>
レースの前はいつも、色んな気持ちで胸がドキドキする。
楽しみでしょうがないっていうワクワク。力が出し切れるかなっているハラハラ。勝つのは私だっていう熱い気持ち、誰にも負けたくないっていう冷たい気持ち。
他にもたくさん。
全部が混ざり合って、今すぐに走り出したいっていうパワーがあふれてくる。
足が、体がウズウズする。
歩いていく先、地下バ道の終わりに、今から走るターフと雨上がりの空がみえる。
吹きこんでくる湿った風が芝の青いにおいを運んでくる。
飛び出して駆け回りたい気持ちを抑えて、足を止めて、振り返る。
もう少しでここに来るはずだ。
私が知るかぎり、誰よりも全力で、誰よりもかっこいい、私の
2年間と少し、ずっと一緒に過ごして、あの娘の強さは良く知ってる。
だからこそ、レースをしたいって思った。多分、これは
コツ、コツ、と蹄鉄の音を響かせて、灰色がかった葦毛のウマ娘がやってくる。
眼鏡の奥に隠された灼熱の瞳と視線がぶつかる。
自分の勝ちを信じているわけじゃない。勝てない可能性の方が圧倒的に高いことを十分に理解して、それでもあがき続ける覚悟がこもった、この瞳が私は好きだ。
「ナイザーちゃん、待ってたよ。いいレースにしようね。」
思った以上に、弾んだ声が出た。
「ソニドリ。残念だけど、勝つのは私だよ。」
ナイザーちゃんの顔に挑発的な笑顔が浮かんでいる。
きっと、私の顔も笑っているんだろう。
わたしたちのレースが始まる。