<Side:グレイナイザー>
6月のはじめ、私はチームルームの応接セットでビゼンニシキと向かい合っていた。
3月に約束した、彼女が皐月賞で得た情報を提供するという約束。
都合が合わず延び延びになっていたそれを、律儀に果たしに来てくれたのだ。
蜂谷トレーナーとソニドリも在室だ。
ただ、少し遠慮したのか、応接セットではなく書類仕事用のデスクの所で話を聞いている。
「と、まあ、こんなところかな。」
「ありがとうございます。皐月賞の話だけでなく、ダービーでの話まで聞かせてくださって」
私が深く頭を下げて礼を言うと、ビゼンニシキは気にすることはないと首を振った。
「遅くなった分の利子みたいなものさ。」
口調に一抹の寂しさのようなものが混じっていた。
その様子に、話をしていた最中にも感じていた疑念が確信に変わる。
「ビゼンニシキさんは、菊花賞を回避するんですね。」
「やはり、わかるかい?」
「ええ、いくら何でも情報をくれすぎです。自分が改めて菊花賞で再戦するのであれば、黙っていた方がよいこともあったでしょう。」
私の言葉に、ビゼンニシキは苦笑を浮かべた。
「理由は、なんだと思う?」
少し考え、返答する。
「一番は距離適性でしょうか。」
彼女のことも有力なライバルの1人として研究していたから、わかる。
ダービーの2,400mでも彼女には少し長い。最も力を発揮できるのは1,800~2,000mではないだろうか。
ビゼンニシキはうなずいた後、苦みの滲む声で言葉を足した。
「それに家の意向も少々。URAはマスコミやシンボリ家と連携して、夏からキャンペーンをうつ。新たなスターの誕生。無敗の三冠、偉大な皇帝シンボリルドルフ、というシナリオで」
「リスクを冒して、やっとの思いで勝っても、偉業を阻止したヒールになりかねないということですか。」
菊花賞3,000m。未知の長距離による故障やアクシデントのリスク。
それに加えてビゼンニシキの場合は距離適性の克服という課題もある。
皐月賞とダービーの敗戦で、シンボリルドルフと競っても分が悪いと一門の中で判断されたであろうことも想像できる。
クラシック3冠にこだわらないのであれば、ハイリスク、ローリターンな選択を避ける合理的な判断ともいえる。
「やはり君は賢いな。自分の言葉が十分以上に通じるというのは楽しいことだ。ともあれ、私のクラシック3冠はここで終わりだ。」
いっそ、サバサバとした調子でビゼンニシキはそう言った。
そして、この話は終わりだというかのように、私に問いを投げてくる。
「君はどうだ。賞金は足りそうかい?」
煽っているとか、挑発ではない、純粋な心配と疑問だろう。
だから、私も素直に応じる。
「おかげさまでシンボリルドルフさんがダービーで強い勝ち方をしましたからね。回避する娘が増えているみたいなので、おそらく大丈夫だと思います。」
現在、私の成績は2勝。
例年ならかなり怪しいが、今年の動向なら何とか菊花賞に滑り込めそうだった。
ビゼンニシキが苦笑しながら言う。
「回避か、私みたいに?」
言われて、私も自分の発言がいささか挑発的なことに気が付いて、苦笑する。
「みんな、不本意ではあるでしょうが。」
ビゼンニシキは気分を害してはいないよ、とばかりに肩をすくめた。
「君の方の準備は順調かい?学園と提携している合宿所には申し込んでいないようだけど。余計なお世話かもしれないが、なにかトラブルで手配できていないなら、うちのツテで口をきいてもいいよ。」
何と答えるべきか少し考えたが、相手は当初の約束である皐月賞に加えて、ダービーの対戦についても情報を提供してくれている。
性格的にもこちらの情報を触れ回ることはないだろう。
「……、オフレコでお願いしますよ。合宿は長野で組んでいます。」
それだけで察しただろう。私の、私たちの本気を。
ビゼンニシキは面白そうに笑みを浮かべた。
長野には国内では珍しい本格的な高地トレーニングの設備がある。
ウマ娘専用の施設というわけではないが、心肺機能に効率よく負荷をかけられるし、自然の勾配を活用したトレーニングも魅力的だった。
菊花賞に向けてのスタミナ向上に加え、トレセン学園やURAの息もかかっていないので情報戦面での防諜効果も期待できる。
「そうか、それでこそ私が見込んだウマ娘だ。だけど、グレイナイザー。言うまでもないことだが、あいつは強いぞ。その上、運もある。」
ビゼンニシキは一転、笑みを消して言う。
その口調には、まだ飲み込み切れない悔しさが宿っていた。
ダービーでは芝の状態が悪く、応急処置としてターフに砂が撒かれた。
それ自体は稀にあることだが、結果として、ビゼンニシキは砂に足を取られ、持ち味の軽やかなステップとスピードを失った。
シンボリルドルフへの追い風になったのは間違いない。
シンボリルドルフは完勝し、ビゼンニシキは14着に沈んだ。
思わず黙り込んでしまった私に、ビゼンニシキはとりなすように口を開いた。
「少し、しゃべりすぎてしまったな。そろそろお暇するとしよう。」
ソファを立ちあがり、蜂谷トレーナーとソニドリに挨拶すると出口へ足を向ける。
そのまま出ていくかと思われたが、ドアの前でもう一度こちらを振り返った。
「最後に一つ、とっておきだ。菊花賞にはロングハヤブサも出走するらしい。」
阪神ジュブナイルフィリーズ(阪神三歳ステークス)を制し、最優秀ジュニアにも選出されたのち、故障による長期療養に入っていた同期の名前。
「病み上がりで、長距離GⅠですか。ステップレースは京都新聞杯でしょうか。」
万全の状態とは言えないのではないか。加えて、レース勘の衰えに距離適性の問題もある。
彼女は本来マイラーのはずだった。
「そこまでは分からない。ただ、苦しい挑戦だとしても、彼女も勝算なく出走するウマ娘じゃない。記念出走でないことは保証できるよ。」
「ありがとうございます。なにかお返しできればいいんですが、」
私が恐縮していると、彼女は軽やかな笑みを浮かべた。
「いいや、気にしないで。菊花賞、応援してるよ。いいレースを見せてくれ」
そう言い残すと、鮮やかに、潔く、ビゼンニシキは去っていった。