【完結】汚泥より這い出で、荒野を渡れ   作:不知東西屋

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第19話:おまじない以下の気休め

<Side:グレイナイザー>

 

「あの女、気づかなかったわね。」

 児童相談所からの帰り道。走行中の車両の中。

 助手席から、ハンドルを握る伴野に声をかける。

 

 伴野は前方を注視したまま、それでも確信をもってうなずいた。

「そうですね。表情もよく見ていましたが、みじんも疑っている様子はありませんでした。」

 

「結局、何がしたかったのかしら。」

 思わず、呆れ交じりの声が出た。答えは分かっていたのだが。

 

 目深にかぶっていたキャスケットと一緒に黒髪のウィッグを雑にはぎとり、地毛をまとめていたネットも脱ぎ捨てる。

 挿していたピンが1、2本、座席の隙間に落ちたが拾う気にはならなかった。

 

「謝罪した、という事実が欲しかったのでしょう。自分が、気持ちよく次のステップに行くために」

 私の心情をおもんばかってだろう。

 伴野はあえて直接的な言葉で言った。

 

 今日、私は接見の場には行かなかった。

 

 実際に接見したのは、替え玉だ。

 子役を扱う芸能事務所から背格好の近い葦毛のウマ娘をブッキングし、メイクと少しの染髪で印象を私に近づけた。

 

 私はウィッグと帽子をかぶり、児童相談所のロビーの隅に腰かけて、あの女を観察した。

 それから別の部屋に移動して、音声と映像で接見の様子を確認していたのだった。

 

 あの女は、まったく気づかなかった。

 娘がほんの2mの距離のベンチに座っていることも。

 自分が謝罪している存在が、娘でも何でもない、単純なカバーストーリーを聞かされただけの赤の他人であることも。

 ちょっと踏み込んだ質問をすれば、すぐにボロが出ただろうに。

 

 私は目の前を通り過ぎるあの女を見送った。入ってくるときも、出ていくときも。

 

 到着し、白いセダンから不安げに下りてくる様子。

 帰るときの、一つ悩みが解決したかのような充足感と疲労感をないまぜにしたような表情。

 運転席に座る男にもたれかかるようにして、ハンカチで目元を押さえていた。

 

 相変わらず、男にすがりついて生きているその姿。

 

 私はあの女のソウルネームを知らない。知ろうとも思わない。

 

 あの女は私のソウルネームを知らない。知らせることもない。

 

 自身の核心が決して触れられない位置にあること。

 それは心休まる事実だった。

 

 ズシリと常にない重さを体に感じた。

「…、つかれた」

 

 考える前に口から出て、すこし驚いた。

 そして、口にしたことで、さらに体の重さが増したような気がした。

 

「トレセン学園まではまだかかります。少し眠っては?」

「そうね、そうさせてもらうわ」

 

 座席を倒し、目をつむる。

 

 疲れていて、頭も体も重いのに、あの女の顔がチラついて、結局眠りは訪れなかった。

 

………。

 

 トレセン学園に帰り着いたとき、すでに秋の日は暮れていた。

 門の前で伴野の車をおりて寮に向かう。

 

(手荷物をおいて、ご飯を食べて、お風呂入らないと…、)

 

 正直、すべて放り出して寝てしまいたい。

 しかし、それはできない。

 

 主に幼少期の栄養状態や生育環境が悪かったせいで、私の体は貧弱でデリケートだ。

 トレセン学園にはいつだって食欲旺盛で、栄養バランスをそれほど気にしなくとも、たくさん食べた分だけパワーに変わるタイプも多いが、私はそうじゃない。

 

 食に対する執着は強い方だと思うが、(ウマ娘基準で)食が太い方ではないし、些細な事でコンディションが崩れる。

 特に今はレース前の大事な時期。精神的な疲労を言い訳にせず、しっかりと食事をとり、入浴とストレッチでコンディションを整える必要があった。

 

 重い体を引きずるような気持ちで美浦寮の玄関をくぐると、できる限り普段通りの態度を心がけて自室にむかう。

 

 廊下の途中で、ちょうど食堂へ向かうところらしいシンボリルドルフとすれ違う。

 

 もちろん、珍しいことじゃない。

 美浦寮の寮生は多く、敷地も応分に広い。それでも同じところで暮らしていれば、それなりに顔を見ることはある。

 

「おや、お帰りグレイナイザー。外出かい。」

 当然、言葉を交わすこともある。

 クラスメイトだし、1度はレースで競ったこともあるのだから。

 

「ええ、少し所用がありましたので。」

 私は普段通りにできているだろうか。

 

 一言だけのやり取りをしてすれ違う。

 そのわずかな時間でも私の目は怪物、いや皇帝を観察する。

 トレセン学園入学から、今日まで。すでに半ば反射的な行動になっていた。

 

 皐月賞と東京優駿を制し、夏を超え、前走のGⅢ・セントライト記念では堂々のレコード勝ち。

 誰もが無敗の3冠を半ば以上に確信し、期待する。

 

 強く、美しい私の敵。

 

 全身にみなぎる、自負が、力が、自信が、誇りが、しなやかな貫禄となって意図せぬままに周囲をシンボリルドルフの空間(ホーム)へと塗り替えていく気がする。

 

 勝つ。そう決めてここまで来た。

 だが、

 だが、勝てるのか。

 

 私が、

 ゴミ以下の女から生まれて、ゴミの中で育ち、はらわたの中まで泥にまみれた痩せウマ。

 貧弱で、小枝のように細く、右脚にはわずかながら歪曲もある。

 

 皇帝の蹄に枯れ木のように踏みつぶされる自分が思い浮かぶ。

 右脚が震えそうになって、とっさに太ももに手を触れた。

 

 気のせいだと、自分に言い聞かせる。

 レースが近づいて、柄にもなくナイーブになってしまっているんだ、と。

 

 自室にたどり着き、ドアを開けると、アオイソニドリがベッドでくつろいでいるところだった。

 

「ただいま」

「お帰り、ナイザーちゃん。」

 

「晩ごはんはもう食べた?」

「ううん、ナイザーちゃんと一緒に食べようと思って」

 

 外出着から着替えながら尋ねると、そんな答えが返ってきた。

 1人になりたい気持ちもあるが、それでもやるべきことを一緒にやってくれるのはありがたくもある。

 

「…、今日はすごく疲れているから、あまり話もしたくない。それでも良ければ」

「うん、わかった。静かにしておくね。」

 こういうところが、彼女の得難い美点だと思う。

「ありがとう」

 

 お礼を言うと、ニッコリとソニドリが微笑んだ。

 明るく、曇りのない笑顔。

 私とも、あの女とも違うゆがみのない感情がこもっている。

 

「ねえ、ちょっとお願いがあるん、だけど」

 気が付いたら、口からそんな言葉がこぼれていた。

 

 ソニドリは驚いたように目を見開いたが、それも一瞬。

 次の瞬間、彼女はベッドから立ち上がると、体の前で両の手を握って力を込めた。

「何でも言ってよ。ナイザーちゃん。私にできることなら、なんだってするよ。」

 

 そう言われて、口を開きかけて、ためらって。

 それでも、結局言葉は転がり出てきてしまった。

 

「わ、私は勝てるって、言ってくれないか」

 口にして、後悔した。

 こんなもの、おまじない以下の気休めでしかない。

 

 やっぱりいい、と取り消す前に、私の体は暖かいものに包まれていた。

 一呼吸遅れて、アオイソニドリに抱きしめられていることに気が付く。

 

「勝てる。ナイザーちゃんは勝てるよ。」

 冷えて強張っていた体にソニドリの体温がしみ込んでくる。

 

 アッと思った時には、弱った気持ちがあふれだしていた。

「勝てるかな。アイツは、強いよ。ひょっとしたら、史上最強かもしれないくらい。」

 

「勝てる。絶対に勝てるよ。」

 ソニドリは、何も根拠を口にしなかった。

 それでも、その言葉にはぶれない力があって、彼女がそれを心から信じていることが伝わってきた。

 

 私のために信じてくれていることが伝わってきた。

 

 私は何度も尋ね、ソニドリはそのたびに勝てると断言した。

 言葉を交わすたび、私たちの胸の内でウマソウルが共鳴しているような気がした。




さあ、菊花賞です。
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