【完結】汚泥より這い出で、荒野を渡れ   作:不知東西屋

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第21話:菊花賞

<Side:グレイナイザー>

 

 誰よりも早く加速を開始した私に慌てたように、ゲートが開く。

 

 ターフに蹄鉄を刻み、同時に最大の切り札を解き放つ。

 

【領域:汚泥の中を這いずる獣】

 

 一瞬、展開しかけた領域が即座に掻き消える。

 

 そもそも条件を満たしていない上に、私も維持を放棄したから当然。

 出走者のほとんど全員が何も気づかない。

 

 ただ1人、シンボリルドルフを除いては。

 

 菊花賞に集った優駿の中で、なおも頭1つ抜けた皇帝だからこそ。

 鋭敏な五感が領域の予兆をつかまえ、さらには優れた身体能力ゆえにそれに反応出来てしまう。

 

 発生するのは100分の1秒のためらい。

 100分の1秒ブレーキがかかれば、再加速にはさらに数倍かかる。

 とはいえ、わずかなロスに過ぎない。

 

 しかし、ここは世代の優駿が集められたクラシック3冠最後の菊花賞。

 そして、その全員がシンボリルドルフ、お前を最大の脅威として警戒している。

 

『今、スタート!!きれいなスタートになった。飛び出したのは4番グレイナイザー、2番ロングハヤブサ。5番シンボリルドルフは珍しくやや後方に位置取り。』

『バ群の中央。他の娘たちに囲まれていますが、大丈夫でしょうか。』

『3番手以降は7番スズマッハ、18番サウンドパーソ、17番リキサンパワーと続く、、、』

 

 それぞれが自分の脚質、位置取り、周囲の状況を加味してシンボリルドルフに対して効果的な対応をとる。

 その結果が即席の包囲網。

 

 認めたくない不都合な真実。

 私は、皇帝に敵わない。

 

 だから、皇帝とは戦わない。

 主導権をとってコントロールできるとも思わない。

 代わりに、皇帝自身以外のあらゆるものを利用する。

 

 まずは最初の一歩、勝利に向けてにじり寄る。

 もっとも、気を抜く余裕はない。

 

 チーム戦ならまだしも、全員が勝利を目指す以上、どこかでシンボリルドルフの敗北ではなく、自身の勝利に向けて行動をシフトする必要がある。

 その段階で必ず瓦解する運命だし、何より、あの皇帝がいつまでも囚われの身に甘んじているはずがない。

 

『ロングハヤブサが第3コーナーに向けて、上り坂を行く。グレイナイザー、2番手に落ち着いたか。』

 

 先頭を行くロングハヤブサ、その背中に張り付く。

 正直、彼女が逃げを打つことは予想できていた。

 私以上に勝ち筋が限られているから。

 

 だからこそ、作戦に組み込んだのだ。

 

 ジュニア期にデビューから無傷の4連勝。

 距離適性が短距離、マイルであることを差し引いても、本来ならシンボリルドルフのライバルとなっていてもおかしくはなかった。

 

 彼女のクラシック期を狂わせたのはジュニア期の年末に発生した故障。

 それからほぼ1年の休養。

 

 レースに「たられば」は無い。

 それでも、万全にトレーニングを積んでの皐月賞2000mならシンボリルドルフにすら対抗できただろう。

 

 ただ、そうはならなかった。

 

 ほぼ1年ぶりの復帰戦・京都新聞杯では13着。

 判官びいきのファンは少なくないが、実際に菊花賞を獲れると考えるものは少ない。

 

 それでも彼女は勝負の場にあがった。

 クラシック3冠路線への未練か。それとも、別の何かか。

 

 スピードはある。しかし、スタミナの不安は明白だった。

 

 私にとって重要なのは、彼女が唯一の勝ち筋「先頭に立ち、レースの最初から最後までペースをコントロールしきる」ために、間違いなく逃げを打つこと。

 それを利用することだ。

 

『リキサンパワーが先行集団の中で順位を上げている。』

『集団の中でポジション争いが進んでいますね。レースはまだ序盤、ここで消耗するのは悪手ですよ。』

 

 ロングハヤブサは振り返らない。

 背後の状況を気配と歓声に打ち消されがちな実況から読み取ってはいるだろう。

 そのうえで、自分のすべきことに集中している。

 

 私はそんな彼女の背中に息を殺すようにしながら張り付く。

 スリップストリームを利用して、体力を温存しなければならない。だが、存在感を出してロングハヤブサに余計なプレッシャーを与えるつもりはない。

 

 菊花賞はスタート直後から上り坂、第3コーナーで下りに転じて第4コーナーへと向かう。

 いわゆる「淀の坂」はゆっくり上って、ゆっくり下る。それがセオリー。

 

 おそらく、ロングハヤブサは先頭を確保した後、そのセオリーにのっとる形でペースダウンし、そのままスローペースのレースに持ち込む作戦だろう。

 

 シンボリルドルフを後方に封じ込める形になったことで、他のウマ娘の意識もやや後ろがかりになっている。

 展開は間違いなくこちらに向いている。

 

 だが、圧迫感がある。背後で猛獣の檻が不吉にきしむ不穏な気配。

 

『レースは第3コーナーを過ぎて下り坂へ、先頭を行くロングハヤブサ、直後を追走グレイナイザー。リキサンパワーが並びかけていくぞ。スズマッハが4番手で追走。さらにサウンドパーソが上がって行く。』

『まだ1周目の下り坂。仕掛けどころには早いが大丈夫か。』

 

 シンボリルドルフだ。

 未だ本人は包囲網の中、中団以降の位置取り。

 

 にもかかわらず、プレッシャーをかけることでスズマッハたち第2集団を押し上げている。

 しかも、下り坂での加速でつきすぎた勢いのままにリキサンパワーとサウンドパーソが並びかけてこようとしている。

 

 ペースを上げて先頭を守るか、先頭を譲るのか。

 ロングハヤブサに突きつけられる不自由な2択。

 

 バ群に飲まれれば、その時点でロングハヤブサの勝利は消える。

 

 ゆえに加速する。

 ただし、必要最小限。上がってくる2人との間合いを測り、けん制し、自分のスタミナを計算しながら、わずかなリードを確保して第4コーナーを抜ける。

 

 勝利へとつながる細い糸にしがみつき続けている。

 

『レースは第4コーナー抜けて、ホームストレッチへ、先頭は依然としてロングハヤブサ。すさまじい歓声の中を行く。シンボリルドルフは中団のやや後ろ。先頭から12、3番手か』

 

 観客席からの歓声を受けつつホームストレッチを通過する。

 

『2番手にグレイナイザー、外からリキサンパワー。内にカルストンイーデン、スズマッハ。第1コーナーカーブを回る。シンボリルドルフは後方4番手。』

 

 第1、第2と連続するコーナーワークで全体のポジションが変動する。

 さらに、レースのおよそ半分を過ぎたことで、シンボリルドルフの包囲から自分の勝利へと意識が移り始めるタイミング。

 

 来るべきものが来た。

 

『シンボリルドルフ、中団まで順位を上げている。向こう正面に入り、2度目の坂越えに挑もうというところ。』

 

 まだバ群の中。しかし、先ほどまでの密集した包囲はもうなかった。

 出走者のそれぞれが自分の勝利のための挙動に移ったこと、そして、皇帝から与えられた圧力によって包囲網は破壊され、解き放たれた皇帝が進撃を開始する。

 

 むき出しになったプレッシャーが一歩ずつ接近してくる。

 

『シンボリルドルフ、中団から先行集団にとりつこうというところ。ジリジリと着実に位置を上げていく。』

 

 2度目の淀の坂。その途上。

 それは突如起こった。

 

『おっと、ここでロングハヤブサ減速。』

『スタミナ切れか。ここから粘れるか。』

 

 スタートから2,000m。

 ロングハヤブサの限界。

 

 自分の限界を感じたロングハヤブサが、初めてちらりと後方を気にした。

 そのタイミング、呼吸を読んで前に出る。

 

 反応はさせない、粘らせない。

 

 歯を食いしばった横顔。未だに勝機を模索しあがくロングハヤブサに、敬意を感じる。

 だが、勝つのは私だ。

 

『先頭がグレイナイザーに入れ替わった。ロングハヤブサ、粘れない。2番手にリキサンパワー、ニシノライデンと続く。』

 

 残り1,000m。

 ここからは私が先頭だ。

 

 スパートは一瞬、これ見よがしに鮮やかに抜き去った。

 これはパフォーマンス。

 シンボリルドルフではない、主に2番手集団に対しての。

 

 皇帝のプレッシャーにさらされての2,000m、大舞台故の緊張、さらに2度目の坂。

 

 皆、普段以上に消耗している。

 皆、自分の認識ほどにスピードは出ていない。

 だから、ロングハヤブサを鮮やかに抜いた私がハイスピードに感じられる。

 

 実際はすぐに速度を緩めて、平常の範囲の速度だ。

 

 願うしかない一瞬。

 ここで並びかけられれば、私は負ける。おそらく競りかけてきた相手も負けるだろうが。

 

 無理に先頭を獲りに来る者はいない。

 そうだろう、と思っていたが、実際の結果にやはり安堵する。

 ただし、息をつく暇はない。

 

 2番手集団が全体の蓋をする形になって。シンボリルドルフも近づいてはこれていない。

 ただ、それは彼女の足が消耗せずにためられているということだ。

 

 ここまでほぼ想定内。

 なのに、追い込まれているような焦燥感を感じざるを得ない。

 

 2番手のリキサンパワーとはおよそ1バ身。わずかな、でも、確実なリードが守れている。

 第3コーナー、上り坂が終わる。

 

『さあ、レースは残り800m。下り坂に入った。外からはフォスターソロンも上がってきている。ニシノライデン、スズマッハもきている。シンボリルドルフはまだ中団か。』

 

 レースは残り800m。

 下り坂と第4コーナー。そして、400mの最終直線。

 

 私はためらうことなく、加速する。

 

『グレイナイザー、加速している。セオリー破りの下り坂でのスパートだ。』

 

 前傾姿勢、重力に背を押されるままに両脚を回転させる。

 後続も加速しているが、私ほどには思い切れない。

 自然、リードが開いていく。

 

 2バ身、3バ身、4バ身。

 

『グレイナイザー先頭のまま第4コーナーへ。2番手に内からスズマッハ、外からニシノライデン、ゴールドウェイも来ているぞ。』

 

 勢いそのまま、第4コーナーへ突入。

 ここで減速してしまえば、せっかくの加速の意味がない。

 体を右に傾斜させ、内ラチいっぱいのコーナーリング。

 

 この下り坂からのコーナリングに、私たちはひと夏を丸々突っ込んだんだ。

 

 ターフをとらえる右脚に鋭い痛みが走る。

「ッ!!」

 歯を食いしばり、それを無視する。

 

 幼少期の栄養状況の悪さに起因する私の肉体の脆弱さ。右足の残るわずかな歪み。

 そんなものに、負ける気はない。

 

 残りは直線、400m。

 

 そこで、後方から風が吹いた。

【領域:汝、皇帝の神威を見よ】

 

 見るまでもなく、背中から感じる暴力的な存在感。爆発する歓声。

 見なくともわかるシンボリルドルフの侵攻。

 

『来た、ここで来たぞ。シンボリルドルフ!!すでに5番手まで上がっている。』

 

 1歩ごとに差が詰められる。

 ゴールはまだ遥かかなた。

 

 最終直線。

 すでに小細工の余地はない、

 あるのは、自分の弱さと、相手の強さだけ。

 

 展開は予測通り、作戦もハマった。それなのに

 

『ニシノライデンとゴールドウェイを撫で切って、現在3番手、先頭まで3馬身。』

 

 敗北。

 その2文字が眼前にたたきつけられる。

 

『スズマッハもかわした。シンボリルドルフだ。先頭グレイナイザーに並びかけていく。無敗の3冠まであと200m!!』

 

 限界が迫り明滅する視界の中に、ふいに走馬灯のように過去の自分がフラッシュバックする。

 

 アパートの中でごみにうずもれて震えていた夜。

 

 空腹に耐えかねて生ごみすら漁った日々。

 

 シャワールームでの絶望とあの女への失望。

 

 屈辱に震えた秋の京都競バ場。

 

 必死に吐き気を飲み下した鳴鐘の寝室。

 

 あの女の幻影に苦しんだメイクデビュー。

 

 初めてのシンボリルドルフとの直接対決、そして敗北。

 

 どの私も、乾いた目をしていた。

 

 いつからだろう。

 泣いても誰も助けてくれないことを思い知って、私は泣けなくなった。

 

 あまたの闇夜を超えて、無数の絶望、屈辱、敗北を積みあげた。

 光なんて、ずっと見えなかった。

 

 それでも、あきらめたことは1度もない。

 蜂谷トレーナー、アオイソニドリ、積み上げ続けた努力。

 

 光は、いま、私の中に確かにある。

 

 後ろ、いや、すでにほぼ隣から、シンボリルドルフの足音が響く。

 胸の内でウマソウルが猛り狂う。全身に燃えるような熱が入り、頭の真ん中で激しく火花が舞った。

 

 お前は昨日まで勝ち続けてきた。

 明日からも勝ち続けるだろう。

 

 それでも、今日、今だけは!!

 

 受けてみろ。

 わたしの、とるに足らない小娘の15年を

 流すこともできなかった涙の重さを

 

【領域:汚泥より這い出で、荒野を渡れ】

 

 きしむ右脚から炎が吹きあがり全身を包む。

 痛みはない。

 そんなもの、感じている余裕はない。

 

『グレイナイザー、息を吹き返したかのように加速した!何が起こっているのか。勝負はまだ続いている。続いてしまっているぞ!!』

 

 隣にいるシンボリルドルフの驚愕が伝わってくる。

 今、一歩ごとに私の体を震わす衝動は、悲鳴か憤怒か絶望か。

 

 知ったことか。体中にみなぎる熱のまま、私は疾走する。

 

「おおおおおおぉおおおおぉおぉおおおおぉおおぉッ!!」

「あああああああぁああぁあああぁぁああああああッ!!」

 

 咆哮。

 観客席からなだれ落ちてくる絶叫。

 叫びだしている実況。

 

 私とシンボリルドルフは一塊になって駆け抜けた。

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