<Side:グレイナイザー>
ゴール板を駆け抜けた一瞬の後、世界が色彩を取り戻し、遠のいていた歓声が戻ってきた。
足が震え、倒れこみそうになる体を必死に支える。
胸を張れ、顔を上げろ、自分自身に言い聞かせる。
体中があげる悲鳴から必死に耳をふさぎ、代わりに歓声と場内アナウンスに注意を向ける。
どちらもまさに絶叫。
『勝ったのは果たして、伏兵・グレイナイザーかそれとも皇帝・シンボリルドルフか。どうやら写真判定になった様子。』
歓声が急激に収まり、皆が皆、掲示板を注視しはじめる。
晩秋の風に心と体が冷えていく。
私には確信と予想が1つずつあった。
シンボリルドルフを見た。ほぼ初めて、真正面から。
彼女もまっすぐにこちらを見ていた。
堂々とした立ち姿だが、その口元に確かな苦渋がある。
それで、少なくとも確信を共有していることがわかった。
間違いない。私の方が速かった。
おそらく、ハナ差で2cmほど。
同時にもう1つの予想については、共有していないこともわかる。
シンボリルドルフの表情は与えられた時間の中で敗北を飲み込もうとする、誇り高い敗北者たろうとするものだったから。
互いに言葉をかけることはなく、どちらからともなく掲示板に向き直る。
私は心中で、世間知らずのはだかの王様に言葉をかける。
(シンボリルドルフ、ターフの上ですべてが決まるほど、世界は優しくないんだよ。)
5分以上の長い沈黙。
その間、私たち2人はそれぞれ結果を受け入れる準備を進めていく。
一向に表示されない順位に観客のざわめきが徐々に大きくなってきたころ。
思い出したように、掲示板が点灯した。
確認し、息をのむ一拍。
そして、今日一番の歓声。
『確定しました。1着シンボリルドルフ、2着グレイナイザー。無敗の3冠バが、今、誕生しました。』
予想も、間違っていなかった。
私は精いっぱいの強がりを込めて、笑顔を浮かべた。
無敗の3冠バとなった皇帝陛下に誰よりも早く拝謁する。
地鳴りのような音量の大歓声の中でも会話できる距離。私たちにしか聞こえない距離。
「無敗の3冠、おめでとうございます。」
皇帝陛下はその異名に似つかわしくない、迷子の子供のような顔をしていた。
私の差し出した右手にすらおびえるような。
それは、そういうものだと知っていた私と、知らなかった彼女の差だ。
「…、なぜ、君はなぜそんな顔ができるんだ。君も、そう感じていたんじゃないのか」
声がわずかに震えたが、すでに態度を立て直し始めているのはさすがの一言。
私は彼女を制止するように言葉をかぶせた。
「そう、だったかもしれない。でも、勝ったのは貴女。それだけが事実です。」
寒門以下の孤児のジャイアントキリングよりも、名門出身の無敗の三冠ウマ娘が見たいと考える人間が、どこか然るべきポジションにいただけだ。
そもそも、あと1歩前へ出ていれば、写真判定になどならなかったのだ。
敗因というのであれば、それが敗因だ。
「君は、納得できるのか」
血を吐くような響きが混じったが、私には少しも響かない。
響かない、ふりをする。
「最初から不利を承知で挑戦して、負けてから裁定に物言いをつける。それを世間では負け犬の遠吠えと言うんですよ。」
写真判定になった瞬間、私はこの結果を予想していた。
その通りになった今、私たちが何を言っても結果は覆ったりしない。
私は言うまでもなく、皇帝・シンボリルドルフでさえ、所詮は10代の小娘に過ぎないのだ。
「これが、こんなものが」
「これが、トゥインクルシリーズです。依然、変わりなく。」
そう告げ、ややなおざりな握手を交わして私は彼女から離れた。
自らの宮殿に漂う腐臭に今さら気づいた間抜けな皇帝陛下、どうか善き御治世を。
ターフの上を控室へと、歓声に、観客たちに背を向けて歩く。
一歩進むたび
シンボリルドルフの前で強がるための仮面がひび割れ、敗北の重さが急速にのしかかってきた。
無理を押した右脚が激しく痛む。
(まだ、もう少しだけ、せめて、みじめな素振りだけはさせないでくれ)
そう願う。
胸の奥で、灰色の四足獣が力なくいなないた。
(ちょっと、つかれちゃったな)
いつだって、熱く煮え滾っていた溶岩が、固く冷えていくのを感じる。
真っ暗の部屋で1人、涙も流さずおびえていた私がいた。
(ごめんね。負けちゃったよ)
おんぼろアパートの廊下をびしょ濡れの血まみれで彷徨う私がいた。
(そんな顔しないで。これでも、頑張ったんだ)
京都競バ場で屈辱に震えた私がいた。
(勝ちたかった。勝ちたかったよ)
鳴鐘の寝室で、吐き気をこらえて、歯を食いしばった私がいた。
(でも、負けた。)
人生を、誇りを、投げ打てるモノは全て投げ打って、ここまで来た。
泥をすすり、汚辱をいとわず、自身の限界すら超えて
それでも、負けた。
敗北
その二文字が重すぎて、疲れた体から力が抜けた。
倒れていこうとする私の身体。
棒っきれみたいなそれを、なにか温かいものが、ギュ、と支えた。
「ないざーちゃんッ」
「…、ソニドリ」
涙と鼻水でベショベショのアオイソニドリだった。
隣にはトレーナーも立っていた。
いつの間にか、控室の前まで戻ってきていたらしい。
「なんで、ソニドリが泣いてるの」
彼女の身体から子供みたいな温かいにおいがした。
「ッ、だって、私、感動して、でも、悔しくて!!もう、もう!!」
抱き合う形。
きっと、私の肩にソニドリの涙がポタポタと落ちているんだろう。
この娘が泣き虫なのは、泣かない私の代わりに泣いてくれているからかもな。
なんて、埒もないことが心に浮かぶ。
でも、悪い気分じゃない。
ソニドリに支えられている部分から、心が熱を取り戻していく気がした。
「泣かないで。私は大丈夫。知っているでしょう。私がこれくらいでへこたれないってことは」
カラ元気のはったりだった。
それでも、スカスカだった体にわずかに力が戻った気がした。
ソニドリの肩に手を置き、体を離す。自分で立てると見せるように。
ソニドリはごしごしと涙を拭いて、顔を上げた。
「知ってるよ。」
さらに口を開く。頑張って浮かべた笑みといっしょに
「ナイザーちゃんが強いこと。かっこいいこと、頑張ってきたこと、他にもたくさん知ってるよ。」
子供みたいに不器用な励ましの言葉。
けれどもそれが、今、私に必要な気力をくれる。
ソニドリのぬくもりと、右脚の痛みだけが私の意識をつなぎとめている気がした。
険しく、悲壮な顔の蜂谷トレーナーと目が合った。
聞かずとも、わかった。
彼女は気が付いている。
私の右脚の、間違いなく重篤な故障に。
そして、私が今から言いだすこともわかっている。
彼女は優しい人だから、私のお願いをきっと聞いてくれる。
そして、長い間その決断を後悔とともに引きずってしまうはず。
それでも、お願い。お願いします。
トレーナー、ウィニングライブには出させてください。
きっと、最後の舞台になるから
………。
2週間後。
ジャパンカップでシンボリルドルフは初めての敗北を喫した。
そのセンセーショナルな事件を伝える新聞の片隅に、グレイナイザーの競技引退を伝える記事が小さく掲載された。
ただこころもちはやすらかに、その血のついた大きなくちばしは、横にまがっては居ましたが、たしかに少しわらって居おりました。