ストライクウィッチーズ -Fly By The Rainbow-【七色の空へ】 作:それいゆ
1936年4月2日
4月、尚樹がやってきて1ヶ月がすぎる頃、道場の庭には薄紅の花がちらほらと咲き始めていた。朝の陽を受けて、まだ満開には遠いが春の訪れを確かに告げている。
「……咲いたな、桜」
朝稽古の前、尚樹は箒を片手に庭先に立ち、枝先に咲いた数輪の花を見上げていた。凛とした冷気の中に、ほんのりと甘い花の香りが混じる。
「今年も早いわね、例年より少しだけ」
隣に立った章香が、ぼそりと呟く。まだ少しぎこちない間柄ではあるが、こうして何気ない季節の話を交わすことに、互いにわずかな安堵を覚えていた。
「春は……やっぱり、こうでなくちゃ」
尚樹の言葉は、どこか懐かしむようでいて、同時に切なさも滲ませていた。彼の目に映る桜は、今この時代の風景でありながら、遥か遠い過去の記憶とも重なっていた。
道場の庭に咲く桜が五分咲きを迎えたある日、章香の提案で「花見兼ねた昼食会」が開かれることとなった。訓練の合間、手作りの弁当を広げ、皆で桜を眺めながら語らう時間だ。
「うん、綺麗」
「ほら醇子、あんまり走ると弁当ひっくり返すよ!」
笑い声が響く中、尚樹は皆と少し離れた場所で、木の根に座って空を見上げていた。千草が横に座って話しかける。
「……尚樹くんは、桜って、好き?」
「もちろん、散るところを見るのはすこし寂しいけど」
気恥ずかしそうに視線を逸らしながらも、尚樹の返答はどこか柔らかかった。
一方その様子を見ていた美緒は、唇を尖らせている。
「……千草ったら、また尚樹にくっついてる」
「別にいいじゃない…好奇心の塊なんだし、あんなのが来たらそりゃ気になるよ」
ボヤく美緒に突っ込む様に泉が話す。
「うぅ、あたしだって……いや、なんでもないっ!」
醇子が思わず漏れてしまった声に周りがニヤニヤしていた事に気づくと耳まで赤くなって視線を逸らすに、美緒がくすりと笑う。
【午後・軽い稽古と模擬試合】
昼食後の休憩を終えた生徒たちは、花見気分のままではあったが、章香の提案で「桜の下の稽古」が始まった。
「どうせなら、今日は普段と違う形式でやろう」
「え~? まさかトーナメント?」
「勝ったらご褒美があるならやる!」
「それ次第だよな!」
ざわつく声に、章香は小さく笑った。
「優勝者には……そうだ、先週もらってきたガリアの菓子があるからそれでいいかな?」
「「「「やるっ!!」」」」
生徒たちの目が一斉に輝いた。道場の外へ出られる機会がそう多くないだけに、これ以上ない動機づけだった。
数組に分かれての簡易な模擬試合が始まり、桜の花びらが舞う中、木剣がぶつかり合う音が響く。尚樹は、対戦者としてではなく審判補佐として動き、各試合の立ち合いに立つ役割を任されていた。
「……構えて、始め!」
風に揺れる桜の中で、少女たちが真剣な眼差しで打ち合う様子を見守る尚樹の眼差しには、どこか穏やかさが宿っていた。
時折ふと見上げた桜の枝。その一瞬の視線の先に、彼の胸の奥底に眠る「かつての春の記憶」が重なっていた――
決勝戦は、美緒と徹子の一戦となった。互いに譲らぬ気迫で打ち合い、周囲の門下生たちも固唾を呑んで見守る。
「勝負あり!」
最後は美緒が一本を決め、見事優勝を勝ち取った。
「やったー!」
「くそぉーーー!!!ここで負けんのかよーーー!」
「ふふん、頂いてくよ」
悔しさで転げ回ってる徹子以外は終始和やかな空気のまま模擬試合は終了した。
【午後・稽古後】
夕方、門下生たちはそれぞれの荷物を片付けて帰宅の支度を始めていた。
尚樹は一人、竹ぼうきを手に道場の床を黙々と磨いていた。
そこへ、静かな足音と共に章香が近づいてきた。
「お疲れさま、尚樹」
「……あ、少しでも綺麗にしておこうと思って」
そう言いながら手を止めずに床を磨く尚樹を見て、章香は小さく笑う。
「ねえ」
「はい?」
トン、と竹刀の柄が床に置かれる音がした。
「一本、打ち合ってみない?」
尚樹は顔を上げ、驚いたような目をした。
「え……俺と、ですか?」
「普段の練習を見てるあなた、うずうずしてるように見えたから。……気晴らし、ってことでどうかな」
章香は穏やかな笑みを浮かべたまま、しかしその瞳は真剣そのものだった。
尚樹は一瞬、戸惑った表情を見せたが、やがて静かに頷く。
「……分かりました。一本だけ、お願いします」
2人は静かに距離を取り、構えを取る。
夕陽が差し込む道場に影が静かに伸びる。
尚樹と章香、竹刀を構えて対峙したまま、数合の駆け引きを交わした。
まだ本格的な打ち込みはなく、互いの間合いと呼吸を見極めるような慎重な応酬が続く。
その空気の中、ふと。
章香の構えが、ほんのわずかに――緩んだ。
左足の角度、視線の誘導、竹刀の間合い。
すべてが“偶然の綻び”を装っているが、尚樹は即座にそれが意図的な誘いであることに気づいた。
(……やる)
わずかに口の端が動いた。
目を逸らせば追撃が来る。詰めれば応じられる。
尚樹は迷いなく踏み込んだ。
竹刀を軽く振り上げ、わざと重心を浅く乗せたその一歩。
章香が見せた“隙”に、まっすぐ飛び込む。
――カンッ!
打突を狙うにはやや不自然な角度で突き込んだ竹刀が、章香の刃に弾かれる。
形としては、完全な敗北。
流れるような受けと崩しで、章香の勝利は明白だった。
しかし――
章香の表情が、一瞬だけ固まる。
(……見えてた)
あの“隙”を、尚樹は最初から見抜いていた。
それでもなお、自分の誘いに乗った。
そして自ら打ち負けることで、“勝敗”以上の意味を込めた。
竹刀を下げる尚樹の表情は、ただ静かで澄んでいた。
「……一本、ありがとうございました」
そう言って深く頭を下げる。
章香は返礼の構えをしながら、目を細めてその姿を見つめる。
(試されたのは、私のほうだったのかもね)
勝ったはずの一合――しかしその意味を、深く理解したのは章香だった。
「こちらこそ。……とても、参考になったわ」
ふたりの影が夕陽に溶けて、ゆっくりと交差する。
剣を通して言葉以上のものが交わされたことを、互いがわかっていた。
畳の上に竹刀を置き、章香は黙って尚樹の姿を見つめていた。
【章香】
――私は本気で打った。それも、普段の生徒相手とは違う、彼女たちの成長を促すための“加減された本気”ではない。
ほんの数合。それだけだった。それでも分かった。
彼は、剣を知っている。
ただ流れるように技を受け流すだけではない。予め先の動きを知っていたかのように、無駄を削ぎ落とした受け。焦りも力みもない。だが、その中には確かに「熱」があった。
(……戦う者の熱。これまで何度も見てきた、あの熱)
それは、前線に立つ戦士が時折見せる、言葉では説明できない“気”に似ていた。敵を見て、仲間を見て、それでも柔と剛を併せて正しく使い分ける、特有の空気。
目の前の尚樹から、それが――ほんの僅かだが、確かに滲んでいた。
(君は、どこまで……?)
章香は目を伏せ、静かに一歩下がって礼を取った。
「今日はありがとう、尚樹。……また、やってくれる?」
「……はい。よければ、いつでも」
その素直な返事に、彼女は微笑みを返した。
だがその笑顔の奥で、彼女の心には小さな疑念と、同時に不思議な安堵感が入り混じっていた。
道場に吹き込む春の風が、ふたりの間に漂っていた緊張を優しくさらっていった。