ストライクウィッチーズ -Fly By The Rainbow-【七色の空へ】 作:それいゆ
海軍省の建物は、堂々としていた。
霞が関の一角、重厚な石造りの庁舎群の中でもひときわ威圧感のあるその建物は、
列柱が影を作り、玄関前には黒塗りの公用車が横付けされていた。
尚樹は視線を落とし、歩を進める。
霞が関から坂を上がり、桜田門の方向へと抜けると、街の喧騒が少し遠ざかった。
石垣と堀――その奥に、静かに佇む黒瓦の屋根。
皇居の外苑をなぞるように歩けば、通りにはまだ開けた芝と樹木の空間が残されている。
大手門を過ぎ、楠木正成像の前で立ち止まる。
像からは、勇猛さをひどく感じさせた。
その足で九段坂を登る。
遠くからでもわかる――巨大な鳥居と、その向こうに広がる参道から神社境内に入る。
この時代、まだその名に血の記憶はついていない。
けれど尚樹の胸には、違う世界での記憶がよみがえる。
整然と敷かれた玉砂利を踏みしめながら、彼は鳥居をくぐる。
風が吹き抜け、旗がはためいた。
拝殿の前で足を止め、手を合わせる。
形だけの祈りではない。
誰かに見せるでもない。
ただ、心のどこかにあるもの――
どこにもいない者たちに、静かに頭を下げた。
「…どうしてここに来たのだろうか」
何も答えは返ってこなかった。
ただ、鈴の音が風に揺れ、夏の兆しを告げる蝉の声が、遠くで鳴き始めていた。
社務所の裏手にある小さな木陰のベンチで、尚樹は腰を下ろした。
上着を脱ぎ、手にしていた水筒の水を一口啜る。
(この街も、やがて変わる)
発展途上の、無限の未来を夢想できた今。
――それが、いっそう痛ましく美しく映った。
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玉砂利の音が遠のく。
尚樹は鳥居を抜け、ゆるやかに下る九段坂を歩き出した。
午後の光はすでに傾きはじめ、街路樹の影が地面に長く伸びている。
人力車の車夫が客を乗せて走り去り、学帽の学生たちが笑いながら横を通り過ぎていく。
もう16時を回ろうとしていた。
尚樹は足の向くまま、日比谷を抜けて帝国ホテルへと戻ってきた。
ロビーには入らず、表のポーチにある長椅子の影に腰を下ろす。
待ち人がいるからだった。
ホテルの玄関前には、常に誰かが出入りしていた。
真新しい制帽に身を包んだ若い将校、反対に白髪混じりに軍服をきちんと着こなす年配の佐官。
付き人なのか、それとも"深い"関係なのか分からない若い娘を連れた政治家のような男。
光沢のあるスーツに絹のネクタイを締め、櫛で髪を丁寧に撫でつけた、いかにも東京の“ブルジョワ”といった紳士たち――
誰もが何かを背負い、そして何かを演じていた。
尚樹は人々を眺めながら、ただ静かに息を吐いた。
帝都という舞台に立つ人々は、皆どこか遠く、自分とは別の時間に生きているように見える。
「……章香さん、まだかな」
思わず口をついて出たその声は、どこか自分でも意外だった。
待ち焦がれる、という感情を――自分が抱いたことに。
自分は誰かを待つ側ではなく、常に置いていく側だったはずだ。
そう思いかけて、尚樹は苦笑する。
それでも。
この街の空気が、そうさせるのかもしれない。
何かを待ってもいい。そんな気分にさせてくれるだけの“余白”が、今の帝都には確かにあった。
背もたれに身を預け、風に揺れる街路樹の影をぼんやりと見つめる。
小さな葉の影が揺れるたび、心のどこかも少しだけ緩んでいくのが分かった。
喧騒の中に、見慣れた姿があった。
金のボタンが輝く純白の第二種軍装に身を包み、書類鞄を片手に携えた女性士官。
後ろに一本結んだ漆黒の髪を揺らしながら歩いてくるその背筋は、遠目でもすぐに分かった。
迷いのない足取り、そして軍人らしからぬ柔らかさを宿したその歩み。
尚樹の目が、自然と彼女を追っていた。
「……あ」
思わず、声が漏れる。
そして――
「章香さん!」
立ち上がると、無意識に手を振っていた。
喉の奥が少しだけ熱を帯びるような感覚。
心のどこかに張っていた薄い膜が、ふと音もなく弾ける。
章香が気づき、ほんの一瞬だけ目を見開く。
だが次の瞬間にはいつもの涼やかな表情を取り戻し、軽く手を上げて返した。
「待たせた?」
尚樹は首を振った。
そして、ほんの少しだけ、顔を明るくして言った。
「いいえ。……少し、ぼーっとしてただけです」
尚樹がそう答えると、章香は立ち止まり、彼を見上げた。
「……珍しいな。お前がぼんやりするなんて」
「帝都の魔力のせいですよ」
尚樹は目を細め、ホテルの軒先を見上げた。
赤煉瓦と白い漆喰が陽の傾きに照らされて、金と影の縁取りを描いていた。
「音も。人も…風の匂いも違って…少し、肩に力が入っちゃいました。」
「……ふふ、あたしも同じだ。将校連中ばっかで、気が滅入ったよ」
章香が微かに笑うと、尚樹もつられて口元を緩めた。
「部屋に戻って、少し休むといい。今日は夕方から招かれてる先もある」
「了解致しました、少佐殿」
尚樹がからかうように一歩前に出て、手でドアを押さえる。
章香は目を細め、少しだけ肩をすくめてから、そのままホテルの中へ入っていった。
その背中を追いながら、尚樹も足を踏み入れる。
外の光が閉ざされ、室内のシャンデリアの柔らかな灯りに包まれるその瞬間――
一つの世界の境界をまたいだような、不思議な感覚があった。
ホテルの扉が、静かに閉じた。
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「北郷様――ですね」
フロントに立つ壮年のホテルマンは、淡々としながらも柔らかい声音で応じた。
口調に無駄はなく、動作は洗練されている。
帝国ホテルの一角を担う者として、日々さまざまな客人を迎えてきた男だった。
軍人もいれば、財界の要人もいる。
最近は海外からの外交官の一団や、どこか芝居のような派手な装いの映画関係者も目立つ。
しかし――
目の前の二人は、どこか不思議な組み合わせだった。
若い女性将校。まだ二十を越えたばかりの年齢に見えるが、その態度は凛としていて揺るぎがない。
眼差しは澄んでおり、気品を感じさせる一方、内に鋼を宿している気配があった。
そしてその傍ら――
「……よろしくお願いします」
軽く頭を下げたのは、付き人らしい少年。
物腰は柔らかく、言葉遣いも整っている。
だが、どこか“抑えた”ような佇まい――それが目を引いた。
(ふむ……普通なら親族と見てもいいが、この場合は……)
ホテルマンは顔色一つ変えずに心中で観察を続ける。
この時代、若いウィッチが軍の任で上京することは珍しくない。
だが付き人として連れてくるのは、通常ならば女性の従者か、少佐ともなれば佐官付きの補佐官が妥当だ。
(あの少年……目の奥に、妙な“温度”がある。
軍人とも、使用人とも違う。だが彼女は、それを承知で連れている)
手早く手続きを終え、部屋番号が記された鍵を渡す。
「お部屋は4階、並びのお部屋をご用意しております。何かお困りの際はご連絡を」
「ありがとう。助かります」
章香が軽く礼を述べると、尚樹は一礼し、自然と章香の後に続いた。
ホテルマンは二人がエレベーターへ向かう背中を、ほんの数秒だけ見送った。
(今の時代、絵に描いたような主従関係なんてものは、案外どこにもないのかもしれん)
それが軍の任務であれ、私的な事情であれ。
人の関係は、いつだって名前よりも先に“空気”が教えてくれる――
そう思いながら、彼は次の客の応対に向き直った。
部屋は4階の南側。
重厚な絨毯が足音を吸う廊下を抜け、扉の奥に広がるのは格式ある洋間だった。
壁には控えめな装飾、窓際には濃い緑のカーテン、そして深い木製の机と安楽椅子が二脚。
帝都の街並みが、そこからぼんやりと見下ろせた。
「きれいなもんだな」
10分ほど小休憩がてら部屋を散策し、息を入れていた。
そうしているとノックの音が響く、
開くと章香がいた。
「尚樹、少し話をしたいんだが、いいか?」
「ええ、もちろん」
尚樹は、軽く頷いて一歩踏み出した。
尚樹に当てらてた部屋とまったく同じ間取りの章香の1室に入る。
普段なら気にも留めないはずだが、なぜかこのときだけはほんの少し敷居が高く感じられる。
「座ってていいよ。紅茶、飲む?」
「いただきます」
尚樹は言われた通り、窓際の肘掛け椅子に腰を下ろす。
ティーセットには既に湯気が立っていた。章香が湯を注ぎながら、ふと問いかける。
「今日は、どんなふうに歩いたの?」
尚樹は、差し出されたカップを受け取りながら少しだけ言葉を選び、それから口を開いた。
「神社まで行きました。……霞が関を抜けて、皇居をぐるっと回って。人の多いところは少し苦手でしたけど、九段坂を登る頃には静かになっていて」
語るうち、尚樹の声にわずかに柔らかさが戻ってくる。
「神社の境内は……時間が止まっているような感覚でした。風が静かで、音が吸い込まれていくようで……知らないのに、懐かしい景色でした」
章香は静かに相槌を打ちながら聞いていた。
カップに口をつけ、何かを探るように――けれど決して詮索する調子ではなく。
「……何をしてたか心配していたわけじゃないんだ」
「ただ――知っておきたかったんだよ。どんなふうにこの街を見てるのか」
部屋の空気は、外の喧騒とは打って変わって穏やかだった。
紅茶の湯気が揺れ、時間がゆっくりと流れる。
尚樹は窓の向こうを眺め、そして言った。
「……綺麗でしたよ。帝都は」
やはり、外見とは相反する含んだ物言いをする。
その一言に、陰りはなかった。
章香は小さく微笑み、ゆっくりとカップを置いた。
「そうか。なら、それで充分だ」
章香はカップを静かに置き、椅子に背を預ける。
窓の外では、帝都の灯りがぽつぽつと瞬き始めていた。
「……少しだけ話しておいてもいいかな」
「構いません」
尚樹は姿勢を正し、視線を章香に向けた。
軽い話ではない――それはすでに察していた。
「今回呼ばれた理由は――“防衛大綱”の見直しに関する会議だよ。
……扶桑海と太平洋、全体の防衛線を見直す動きが始まってる」
尚樹の目がわずかに細くなる。
「今までの“沿岸防衛”や“艦隊決戦”を前提にした古い発想じゃ、本土や島嶼部への攻撃に対応しきれない。
だから――もっと機動的で、制空権を重視した新しい戦闘体系が必要になる」
「空母を中心とした艦載機運用を基軸とした機動打撃部隊、ですね」
「……あっ」
ほんのわずか、言葉を詰まらせる。
一瞬だけ視線が泳いだ。
今の言い回しは、まるで既にその全体像を知っているかのようだった。
だが、章香は尚樹の反応に過敏に反応することなく、静かに続きを促した。
「……そう思うか」
その声色には、責める色はなかった。
ただ確かめるような、あるいは、やはり――と納得するような、わずかな重みがあった。
「空母打撃群。リベリオンが先に動いているという情報もある。
扶桑としても、遅れは取れない――いや、そもそも“遅れてる”こと自体が、問題だ」
章香の口元に、かすかな皮肉めいた笑みが浮かぶ。
「特に太平洋における仮想敵でもありますし、そういう話は出ても当然ですね」
尚樹はそう言うと静かにカップを傾けた。
沈黙が、否定でも肯定でもない“了解”として部屋に残った。
尚樹が紅茶に口をつけたその横顔を、章香はふと見つめた。
(……お前は、やっぱり只者じゃない)
言葉にすれば陳腐になるが、胸の内に浮かんだのは、それだけだった。
剣の腕が確かだというのは既に見ていた。
だが、彼がさきほど何気なく口にしたあの一言。
それは今ようやく構想が軍の高官たちの机の上に乗り始めたばかりの言葉。
まるで慣れ親しんだもののように使うその様子は――
(……ただがむしゃらに戦ってただけじゃ、こうはならない)
彼は「見た」ことがある。
それも、おそらく自分たちがまだ“到達していない風景”を。
それが戦術であれ、戦略であれ、地図の線引きであれ。
それがどういう意味を持つのか。
彼だけが知っている情報はこの先、大小の違いはあれど多大な"波紋"足り得るだろうという予感は感じているが
章香はまだ、結論を出していなかった。
ただ確かなのは――この少年の存在が、やはり彼女の予測の外にあるということ。
少しして、尚樹が静かに言った。
「……明日も予定、詰まってますか?」
その問いに、章香はふと我に返り、苦笑を浮かべた。
「午前中は会議。午後は……少し歩けるかもね」
「じゃあ…お願いします」
その言葉には、飾り気のない素直さがあった。
章香は、ゆっくりと頷いた。
(……確かに戦士としての彼は既に完成しているのだろうが、人は一面だけで成り立たない。)
(この子を、見誤ってはいけない)
そう自分に言い聞かせながら、冷めかけた紅茶に再び口をつけた。