ストライクウィッチーズ -Fly By The Rainbow-【七色の空へ】 作:それいゆ
――2月某日 講道館内 奥の執務室――
静寂に包まれた講堂館の奥、すでに夕方になり、茜色の日が部屋に入り込む。
「……で、どうするつもりなの、彼の件」
低い声で問いかけたのは江藤敏子。
表情には、あの夜の軽妙さはもうない。
「上に報告する気はない。少なくとも、今は」
そう答える北郷章香の目は、静かに光をたたえていた。
「……貴女がそんなこと言うなんてね。正直、驚いてる」
敏子は、軍人として生きる章香が「報告をしない」と即答したことに本気で驚いていた。
「報告すれば、きっとあの子は“ただのサンプル”として扱われる」
「……異世界から来た少年、ね。あのまま参謀本部に伝えれて、信じられでもすれば研究部門にでも送られるか」
「否定できないでしょう?」
章香は少しだけ苛立ちを混ぜるように言った。
「私は、まだ彼を『危険』とは思えない。でも軍は、そんな“印象”で判断してくれる場所じゃない」
「……あの子がそこそこやばい存在だって分かってるわよね?」
「もちろん」
「じゃあ、どうするつもりなのよ」
章香は少しだけ目を伏せた。
そして、静かに言葉を紡ぐ。
「…預かるわ。あの子のこと」
敏子は目を見開いた。
「つまり――?」
「表向きは“記憶喪失の孤児”として保護しつつ、この道場で一定期間過ごしてもらう」
「道場に、あの子を?」
「そう。ここには私の信頼できる教え子たちしかいない。閉鎖的な軍の中よりはずっとマシよ」
敏子は椅子の背にもたれかかり、沈黙したまま天井を仰いだ。
「本気でやる気ね、アンタ」
「………戦場帰りの目だった。しかも、一度や二度の戦じゃない」
章香の声に感情が乗る。
軍人の勘ではなく、かつての誰かを背負ってしまった人間としての、実感がそこにはあった。
「……いいわ。私もその案に乗る」
敏子が折れた。
「助かる」
「ただし条件がある」
「…何?」
敏子は指を一本立てて言う。
「彼が“敵”でない保証は、誰にもできない。だから私は……“万が一の時”の対処を考えておく」
「……!」
章香が思わず表情を強張らせる。
「これは“警戒”じゃない。“覚悟”よ。アンタも、彼のために身を張る覚悟があるってことなんでしょう?」
「……あるわ。私の判断で彼を隠すのなら、責任は私が取る」
「なら、私も“保険”をかけさせてもらうだけ」
敏子は、それ以上多くは語らなかった。
でも、章香には十分だった。
2人は無言で茶を啜る。
静かな夜の中、空の彼方で一筋の星が流れていった。
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日も暮れ、街灯を頼りに歩く必要になった時間。
章香は尚樹を連れて外に出ていた。
「じゃあ、行こうか」
章香の穏やかな声に、尚樹は小さく頷いた。
彼の手にはまだ包帯が巻かれていたが、もう痛みは引いていた。
「はい……あの、どこへ?」
「私の家だよ」
「家……?」
「うん。ここにずっと置いておくわけにもいかないし、かと言って軍施設には入れられない。だから、私の私邸で面倒を見ようと思ってる」
尚樹は思わず目を見開いた。
“軍人の私邸”という響きは、どこか縁遠く聞こえる。
「そ、そんな…お邪魔じゃないですか?」
「気にしないで。もともと私ひとり暮らしだし、客用の部屋くらいはあるよ」
章香はそう言って、既に用意していた外套を尚樹の肩にかけた。
「……ありがとう、ございます」
「よし、それじゃあ行こうか。あまり長く道場にいると、生徒たちがまた変なことを考えかねないし」
章香は苦笑を浮かべた。
――徒歩5分、北郷章香 私邸
講道館からそう遠くない位置に建つ平屋の日本家屋。
庭付きで、軍人としての給金と身分に見合う程度の落ち着いた住まいだった。
玄関先に立つと、尚樹はしばらく佇んだ。
「どうしたの?」
「……落ち着いた場所ですね。静かで、どこか懐かしいような……」
「ふふ、変な感想だね。ほどほどに古い家だけど、庭も広めだし好きにしていいよ」
章香はそう言いながら、木戸を開けて中へ誘う。
「おじゃま、します……」
畳の匂い、風が揺らす障子の音、柱の軋み。
「とりあえず上がりなよ」
「はい」
靴を脱ぎ、廊下に出ると、章香が一室を開けた。
「ここが君の部屋。そんなに広くはないけど、机と布団、それから押し入れも使っていいからね」
尚樹は無言で頷き、中を一歩だけ踏み込む。
木製の机に、押し入れを開けると来客用なのか入れられていた布団。
窓の外には小さな庭が見える。
「……いいんですか?本当に、ここにいても」
章香はその背中に答える。
「君がここにいる理由は、私が決めた。君はしばらく、記憶を失った“中川尚樹”として、扶桑で生活してもらう」
「……はい」
「軍人としてじゃない、“普通の人”としてね」
章香はそこで微笑む。
「まあ、普通じゃないかもしれないけど」
「……それでも、嬉しいです」
尚樹は小さな声でそう答えた。
その背中が、少しだけ安心したように見えた。
「さ、着替えとか準備しようか。夕飯は手伝ってくれると嬉しいな」
「……頑張ります」
初めての「家の匂い」。
初めての「家庭の空気」。
この瞬間から、尚樹にとって扶桑皇国での日々が、ほんの少しずつ始まろうとしていた。