まずいまずいまずい……視界がチカチカする、血が止まらない。
迫る爪を間一髪で躱すものの、反撃の攻撃は当然のように当たらない。
「あんまり抵抗しないでくれると、お姉さんの仕事としても嬉しいんだけど……どう?」
「それは出来ない相談……でしょッ!」
「ふふっ、でもね? 抵抗してくれるとお姉さん的には嬉しいのよ?」
重要な臓器は避けれた筈だが、腹部から血がドクドクと流れ出て止まらない。そして止血をするような余裕を、目の前の相手が与えてくれるはずもない。
『スキル:よみあげ』
『老ノマル』
『賢者アメティスタ』
『オシエル』
▶『グレイエル・スノウリリィ』
『シエナ・ティソーナ(異)』
『戻る』
【どうしたんだい、ノルく───】
敵に襲われてて、こっちまでお願いします……!
【───ッ! 今行くから、少しだけ耐えて!】
助かった、あの時よみあげに登録しておいて良かった……!
だがしかし彼女達がここに来るまで、僕一人で時間を稼がないといけない。強化されたらしい12魔将に、手負いの状態で。
───なんて、弱気になるなよノマル・フトゥー……!
傷のせいかナイーブな考えが浮かぶが、こんな所でくたばる程……簡単な戦場ばかりではなかったはずだ。
「バレるんじゃないかって、ドキドキしたわぁ……そのお陰で随分と良いチャンスを作れた訳だけどね?」
「はぁ、はっ……」
「放っておいても失血死しそうだけどぉ、ちゃーんとトドメは刺さないと安心できないものね?」
それにしても、探しても見つからない訳だ……初めから陣地の中に居るのだから。とは言え、こうして姿を見せている今が最大限のチャンスである事は間違いないはずだ。
幸い、助けを呼んだのはバレてはいない……そのはず。
「別に、魔王様の命令でやってるだけで……個人的には人間に恨みは無いんだけどぉ」
「聞いて……無いんだけど……」
「ふふっ、良い顔。お姉さんね、そういう剥き出しの表情が大好きなの♡」
幻影が溶けた後。目の前の魔族は異様に色気のある、悪魔の角と尻尾を持った女性形の魔族だった。彼女は何が面白いのか、こちらを見てニコニコと笑っている。どうせ『悪食』と似たタイプだ、話を聞くだけ無駄なのだろう。
「痛くて辛くて苦しい顔、何かを失って悲しい顔。全てを悟って諦めた顔……そういう時に、人って剥き出しの嘘偽りの無い……生の感情を見せてくれるじゃない?」
……やはり、聞くだけ無駄だった。
そうやってにこにこと笑いながらも、迫り来る長い爪を辛うじて避ける。傷のせいか動きが鈍くなっているのが分かる。酷く鋭く、硬質な爪だ。短剣と打ち合っても、傷1つついていないなんて。
「それが大好きで、仕方ないの♪ 仲間に切りかかられた彼の顔、とっても良かったわぁ。信じていた相手に裏切られた時の驚愕で見開かれた目、抜き取ってコレクションにしたいくらい好きなの♡残念ながら、貴方に止められちゃったけどね?」
彼女が腕を振りかぶった瞬間。彼女の長い爪先だけが、不可視になった。勇者や神槍のような早い訳じゃない、文字通り見えなくなって───慌てて首を曲げると、何も無い筈の耳元に風切り音が響く。
「あら? 初見で対応されるなんて、やっぱり直接戦闘は苦手ねぇ……」
「どの口で……言って……」
透明な幻影を、爪に貼り付けている……! 近接戦闘で、敵の獲物の間合いが分からないというのは想像以上に感覚を狂わされる。それが可能だと言うなら当然……
「消えた……ッ!」
全身を透明にしたりすることも、勿論可能だということだ。スキルや魔法を使いたいが、その暇がない。そちらに意識を向ければ、敵の攻撃への反応が疎かになる。
不気味な程に静かな空間で、透明な敵を相手取る。奴は音や見た目を操るが、それは完璧では無い。それにスキルを使えば相手への対処は出来るはずだ。そう思って、スキルを発動させようとして……気付く。
何時の間にか、足元に百足のような昆虫が登ってきているのに。
「なっ、こんな幻影……!」
これは奴の見せた幻想だ、そう思い込もうとしても皮膚を登る沢山の足が、音が。その触覚が、音が、見た目が。確かにそこに虫がいる事を主張している。
「ところでそろそろ……毒が回ってきた頃かしらね?」
イモムシが、ずりずりと足を這う感触が。地面から生えてくる蝿が、身体へと集い嫌悪感が胃酸を逆流させる。なぜ、いつ毒を……なんて、考えられるのはあのタイミングしかない。調子が悪かったのは、この毒のせいでもあったのだろう。
五感が狂い、惑わされる。気付けば立って居られずに、地に膝を着いていた。戦闘は最初の不意打ちで決まっていた、奴にとってはこの戦いは僕の顔を楽しむためのおまけでしか無かった。
「私を構成する全てが、幻想であり猛毒なの。時間稼ぎをしていたのは、お互い様って訳ね? それじゃあ……」
だが───そのお陰で間に合った。
「癒しをもたらすものよ。彼らの傷を治し、疲労を取り除きたまえ───!」
「あら? 随分と運が良いのね? それとも、時間をかけすぎちゃったのかしら」
身体を這いずっていた蟲たちは、少しずつ消えてなくなっていく。
気持ち悪かった、全身の感覚をグチャグチャにするような眩暈も消えていく。
安心感のある手が、倒れかけていた僕を確かに支えていた。
「大丈夫ですか!? しっかり、しっかりしてください……!」
「大丈夫、だけど。身体に力が入らないかも」
流石に血を失いすぎた、頭がくらくらする。
だが別に、僕がここからするべきなのは近接戦闘では無いだろう。
「ノル君はそこで援護だけお願い、前線は私と……」
「私が援護しよう。本当に無事でよかった、そこでゆっくり休んでいて」
奇襲さえ受けていなければ戦えたのに、自分が不甲斐なくて仕方ない。
だが僕には頼れるパーティメンバーが居るし、それに……
「流石に分が悪いわねぇ、申し訳ないけど……」
「───個は之より、聖別を開始する」
そこには、もう一人のS級冒険者が存在する。
奴をここで逃がす訳にはいかない、絶対にここで仕留めたい……
「───何人も、神の声から耳を背ける事は許されない」
「あらら。すこ~しだけ、遅かったわねぇ……」
辺りを覆う、真っ白な光の壁。
ここに神の代弁者による裁きは始まった、その言葉から背を向けて逃げ出す事は許されない。
「情報は集めてたけど、流石ねぇ。S級二人がかりなんて、嫌になっちゃう」
「お前だけは、絶対に許さないからッ!」
振るった爪は、シエナに阻まれ……その爪のうちの一本は切り落とされる事となる。
大きく姿勢を崩した彼女に、天の下す裁きが発動する。
「───聖別する。汝、不誠実であってはならない」
「ぐうっ……!」
血飛沫は舞わず、しかし確かに光の柱は奴へと突き刺さっている。
実際戦闘能力自体は、強化されたとはいえ他の12魔将よりも劣る程度のはずだ。
「───アイスランス!」
放たれた氷槍は当たりはしなかったものの、彼女は距離を取らざるを得ない。
少しずつ輪郭がぼけていき、やがて景色に紛れて見えなくなる。
奴自身に何かをしても、その上から透明な幻影をかぶせているのなら意味はない。それならば……
『特殊タグ:文字色→赤』
「ナイスノル君!」
「なんでっ……本当に厄介ッ!」
奴のその透明な幻影に、色を付ける。
透明じゃなくなってしまえば、その幻影に意味なんて無い!
「───聖別する。其は不浄の身体を持ってはならない」
「うぐっ! 乙女の柔肌に、惨い事するわね……!」
もう一本の真っ白な光の柱が、彼女へと突き刺さる。
避けられない、裁きが確実に彼女を蝕み続ける。
「それじゃあ、こういうのはどうかしら?」
意味は無いと判断して、透明なベールを解除した彼女。
その姿は苦痛に満ち溢れているが、それでも余裕を崩そうとはしない。
その姿が、歪み始め……そして、全く知らない姿の男性へと変わる。
唯一分かるのは、それが神父服を身にまとっていることくらいだ。
「どうして……」
「おやおや、やはり良い表情をしますね。流石は調べただけの、価値はあったという事です」
それは成人の男性の声で、ゆっくりと言の葉を紡ぐ。
それだけで、彼女の攻勢は一瞬途切れる事になる。
「愚問。お前は偽物で……」
「だから。また私を、殺すのですか? あの時のように」
「……違う、お前は、あの人じゃない」
悪辣な『幻想』の一手が今、打たれようとしていた。