時間は朝の夜明け前、まだ普通の人々は寝静まるっている。
ハワイ経由のアメリカ空軍の大型輸送機。その格納庫は、金属の冷たさと無音の重圧に満ちていた。覚悟を決めている市隈 喜久がその内部へと足を踏み入れた瞬間、わずかな人の気配を感じて眉をひそめた。
薄明かりの蛍光灯が照らす先。無骨な壁際に、二つの人影が立っていた。決していてはいけない存在、織斑一夏。そして、篠ノ之箒。
喜久の足が止まる。瞬間、空気が凍った。
「――おい、てめぇら」
低く、押し殺した声だった。
それでも、その一言だけで格納庫全体に緊張が走る。 一夏が振り返り、気まずそうな笑みを浮かべた。
「よう。来たな、喜久」
「……何してんだ、お前ら」
箒は余りの気迫に身をよじらせてしまう。 その声音に殺気にも似た怒気が混じった。 喜久は二人に歩み寄る。床を踏みしめるたび、スチールの響きが静寂を切り裂く。怒り顔のまま、一夏の前で立ち止まる。
「ここは、俺が一人で来るべき場所だったはずだ。更識のクソが! あいつの差し金だろ。俺は、お前らを巻き込むつもりはなかった」
感情を抑えようとしても、声が自然と荒くなる。それは、怒りというよりも焦燥に近かった。一夏は両手を挙げるような仕草をしながら言った。
「……分かってる。でもな、心配だったんだ。お前一人で抱え込むなよ。こういう時こそ、仲間だろ」
「……」
喜久の表情が一瞬、無表情に凍る。そして次の瞬間、鋭く拳を振るった。
「ぐあっ……!? い、いきなり腹は……!」
ゴンッ、と鈍い音が一夏の腹部を打つ。
一夏が身を折り、膝をつく。その姿を冷たく見下ろしながら、喜久は低く呟いた。
「仲間? 黙ってついてきておいて、よくもそんなセリフが吐けたな。……お前は、俺がなにと向き合おうとしているのか、分かってない」
それは、ISという存在に蹂躙された過去。
喪ったもの。裏切られた記憶。――そして、未だ終わらぬ因縁。
一夏が反論しかけたその瞬間、箒が間に入るように進み出た。
「やめてくれ、喜久!」
凛とした声音だった。
まっすぐに喜久を見つめるその瞳に、迷いはなかった。
「確かに、これは喜久の“個人的な戦い”かもしれない。けれど、私たちは――喜久を仲間だと思っている。だから、一緒に来た。それだけなんだ」
喜久は箒を見返す。しばしの沈黙。
視線がぶつかり合い、格納庫内の空気がさらに張り詰めた。
「今ならまだ離陸前だ、二人揃ってゴーホームしろよ。それに篠ノ之、未だにお前の紅椿は暴走してんだってな?」
「それは、しかし私は――
「……綺麗ごと言ってんじゃねえよ。これは遊びじゃない。お前らが無事で済む保証なんて、どこにもない。暴走車の事故で済むかよ、ISだったら死亡確定なんだよ」
「覚悟はできてる。私にも引けない理由がある。喜久と決意と同じだけの、覚悟を持ってここに立っているんだ」
箒の声音には、まるで刃のような強さが宿っていた。
決して引かぬ意志。
それを喜久もまた、理解していた。大方、IS委員会から紅椿の凍結が決まったのだろう。
(当人も紅椿も守ってやる、代償は俺のお守ってか。ふざけやがって!)
彼は目を閉じ、深く息を吐く。そして、乱れた前髪を指先でかき上げた。
「……勝手にしろ。ただし――勝手に死ぬな。次、勝手な真似したら、腹じゃ済まさねえからな、一夏」
「ま、待て待て。顔面はやめよう? お笑い枠は別だぞ……!」
「それこそ笑わせんな。まず枠から出直せ」
わずかに空気が緩んだ。だが、それもほんの一瞬。
遠くで唸るエンジン音が、輸送機の出発を告げていた。喜久が皮肉に笑う。
「地獄行の片道切符だ、生きて帰れる保証はねぇ」
「お互い様なんだろ。大丈夫だ、俺と箒がついてる」
車輪が地面から離れていく。離陸、その先に待つのは、喜久の過去との決着。
そして、もう一度相まみえる銀の福音――忌まわしき存在。
市隈喜久の目が、決意の色を帯びて細められる。
すべてを終わらせるために。彼は、飛び立つ。
◇
離陸からおよそ二時間。空を滑るように進む輸送機内は静寂そのものだった。
貨物の隙間に設置された簡易ベンチに腰掛けた喜久は、窓のない金属の壁を無言で見つめていた。
一夏と箒は、向かいの壁際にいる。さっきまでの言い合いの余韻が、なおも空気の中に残っている。
喜久はゆっくりと目を閉じた。
思い浮かぶのは、幼い頃の光景。
笑っていた母の顔。ラボで人工の風に吹かれながら読んだ本の感触。……そして、あの時、すべてが瓦解した瞬間。
ふいに、箒の声が空気を割った。
「喜久。……話しておきたいことがある」
その声音は固く、しかし静かだった。
喜久は目を開け、無言で彼女に視線を向ける。
「紅椿、凍結処分が下された。正式には、私と共に引き渡し命令が出てる」
「……そうか」
その言葉に、特に驚きはなかった。むしろ、遅すぎたくらいだと思った。
「でも私は、それでも使う。もう暴走はしない。制御も、機体の改修も、全部終わらせてみせる」
箒の目が、真っ直ぐに喜久を射抜いていた。彼女のその視線に、かつての弱さはもうない。覚悟を決めた者の光が宿っている。
それを見て、喜久は思わず小さく笑った。
「……なら、俺も覚悟を決めなきゃな。お前が死なないために、俺はもっと冷酷にならなきゃいけない」
一夏が顔を上げる。
「お前、本当に変わったよな。前だったらそんなこと、絶対に言わなかった」
「それだけ、時間が過ぎたってことだ」
喜久の声には、ほんの少しだけ、寂しさが混じっていた。
その時、機内スピーカーが低く鳴った。
『十分後にハワイ洋上進入。敵性反応、探知圏内に入る可能性あり』
全員が顔を上げる。
緊張が、再び格納庫全体を包み込んだ。
◇
空はすでに明るみを帯びていた。洋上から見上げる空は、薄橙に染まり始めたばかりの朝焼け。
ハワイ沖にある米軍の補給拠点へ向け、輸送機は予定通りの航路を進み、洋上プラットフォームに着艦した。慣れた動きのクルーたちが、燃料と備品の補給作業を開始している。重機の作動音と英語の通信が飛び交う中、喜久たちは短い休息の時間を与えられていた。
広い格納庫の一角。静かな日陰に、喜久と一夏が並んで座っている。
一夏は両手を後ろにつき、空を見上げていた。
「……なあ、喜久」
「あ?」
「今回は、本当にお前を守りきるつもりで来た。何があっても、一緒にアメリカまで行く。絶対にだ」
その言葉には、ふざけた調子も、曖昧さもなかった。真っ直ぐな瞳が、喜久の横顔を捉える。しばらくの沈黙のあと、喜久はそっと目を閉じた。
「……俺な。今回のことが全部終わったら、行きたい場所がある」
「行きたい場所?」
「ああ。まだどこって決めたわけじゃない。でも、行って、確認したいことがある。それだけだ」
一夏はすぐには返事をしなかった。だが、その横顔には、何かを受け止めたような静かな決意が浮かんでいた。
「分かった。その時は、俺もついてくぞ」
「静かな場所だろうから、その時は騒ぐなよ……あとは勝手にしろ」
短いやりとりの中に、互いの信頼と覚悟が滲んでいた。
一方、その頃。
格納庫の反対側では、篠ノ之箒が自らの機体――紅椿のコンテナ前に立っていた。
コンテナの外装に置かれた工具を手に取り、彼女は静かに整備作業を行っている。正式な整備士の許可は得ていない。だが、それでも、やらなければならないと思っていた。
すべては、もう一度この手で操縦桿を握るために。そして、彼の横に立つために。
格納庫の照明が、紅椿の機体に沿って陰影を落とす。通常の赤と黒の艶やかな装甲から変色した、自身の鏡映しのようなどす黒い色合い。その表面を静かに撫でるように、箒は目を細めた。
「……今度は、必ず制御してみせる」
その呟きは、誰に向けたものでもなかった。けれど、その言葉に込められた意志は、確かにそこにあった。そのとき、格納庫の天井から吊るされたスピーカーが低く唸った。
『補給完了。各機、乗員搭乗準備に入れ。再離陸まで、あと十五分』
場内に緊張が走る。整備員たちが作業を畳み、次々と退去していく。空気が、戦闘前の静けさに変わった。箒は工具をしまい、紅椿の装甲をアクセサリーの待機状態に戻して腕にはめなおす。
その手のひらには、汗がにじんでいた。そして、ゆっくりと振り返る。そこには、すでに立ち上がっていた喜久と一夏がいた。
三人の視線が交錯する。
「出番だな」
一夏が苦笑混じりに言った。
「準備はできてる」
箒の声は、短く、それでいて確かな意志に満ちていた。喜久は無言のまま、二人を見つめる。 その瞳には、怒りも憎しみもない。あるのは、ただまっすぐな覚悟だけだった。
「――悪いけどな、ここまで来たら付き合ってもらうぞ。引き返せねぇ、この先は戦場だ」
そして三人は、無言で輸送機のもとへと歩き出した。 輸送機の格納扉が、ゆっくりと開かれていく。 そこには、これから始まる戦いの空が広がっていた。
すべての始まりは、もう目前に迫っていた。
◇
西海岸上空に差し掛かったその時だった。
輸送機のオペレータールームから緊急警告が走る。
『敵性ISユニット、レーダー補足。識別コード……“銀の福音”。現在、こちらの進行方向にて迎撃態勢に移行中』
喜久の眉がピクリと動いた。嫌な予感が確信に変わる。
「……やっぱり、来やがったか」
操縦席近くのモニターに、銀白の機影が映し出される。その機体の意匠は、間違えようもなかった。あれは――シルバリオ・ゴスペル。
「一夏、篠ノ之、すぐに展開に入れ!」
「わかった!」
「承知した!」
三人は機体へと駆ける。空気が一瞬で戦場のそれに切り替わった。
コンテナから順次展開されるIS。
白式。紅椿。そして、喜久のブラックペタル。
格納扉が開き、強風が吹き抜ける。
一夏が先に飛び出し、続いて箒が滑空。喜久は最後に、静かに一歩を踏み出すと、重力を切り裂くように機体を走らせた。
そして、その瞬間。
シルバリオ・ゴスペルがオープンチャンネルを開いてきた。
『――久しぶりだな、サーフォ。まさかお前が敵とは、世の中は本当に皮肉なものだ』
聞き覚えのある女の声。その抑揚、言い回し、何よりも、感情を排したような滑らかな発音。喜久は小さく息を吐いた。
「タニア、か……」
『サーフォ、一度だけチャンスをやる。くれぐれも回答は間違えるな。各ISは待機姿勢を取り、空中停滞後に速やかに投降しろ』
「……悪い、タニア。投降はなしだ、もうとっくに覚悟は決まってんだよ」
一夏と箒が喜久を見る。オープンチャンネルからは1つのため息が聞こえた。タニアは冷めた口調で死刑宣告を述べた。
『残念だ、お前とは戦いたくなかった。銀の福音は敵機の領空侵犯に基づき、これを排除する』
喜久は空中で姿勢を保ったまま、二人に向かって言い放つ。
「――一夏、篠ノ之。逃げろ。俺が全力で時間を稼ぐ」
「はあ⁉ 何言ってんだ!」
「三人でかかっても倒せないって言ってんだよ。目の前で道を塞いでいる人間は、かつての俺の教官だ」
驚愕が、箒の瞳に浮かんだ。
「まさか……その人は……」
喜久は口調を変えず、淡々と続ける。
「タニア・サスアザ。第二回モントグロッソIS杯優勝者。元アメリカ国家代表。字名は“ソグン”。……篠ノ之と同じSクラスだ。それも、ただのSじゃねぇ。織斑先生と同格のSだ」
一夏が息を呑む。箒は拳を握りしめ、歯を食いしばった。
「……そんな相手が、なぜ敵に」
「知るかよ。俺が知りたいくらいだ」
その時、銀の福音が一気に距離を詰めてくる。重力場を歪ませ、超音速の斬撃が空気を裂く。
「構えろ! 来るぞ!」
西海岸上空で、最初の衝突が始まった。