無人島特別試験は三日目を迎えている。しかし、それはもう白銀琥珀には全く関係のない話だった。
昨日の朝、下着泥棒の冤罪騒動の末にリタイアを宣言し、早々に豪華客船へと戻っている。
生徒の大半が無人島でサバイバルを繰り広げているため、静まり返った船内には人の姿などほとんどなく、まるで時間ごと切り離された別世界にいるようだった。
白銀は用意された最高級のベッドの上に寝っ転がり、薄手のシーツの上から大きく背中を伸ばしていた。
天井の豪奢な装飾、部屋に流れる静かな空調の音、そして遠くかすかに響く穏やかな波の音。その全てが極めて快適で、泥臭い無人島とは比べ物にならない。
昨日までは炎天下の中、虫と湿気と喉の渇きに悩まされながら過ごしていたのにも関わらず、今は冷えたミネラルウォーターが常にあり、ベッドも枕も清潔で柔らかい。
「ああ、リタイアできて本当に良かったぁ」
誰に聞かせるでもない本音の独り言をこぼしながら、白銀は心地よく目を閉じた。
その数分後──部屋のドアが、トントンとリズムよくノックされた。
ルームサービスは注文したが、流石に届くのが早すぎる。こんな時間に訪ねてくるような友人に心当たりはない。
「はい、今開けます」
そう声を返して、ドアをゆっくりと開ける。現れたのは、全くの想定外の人物だった。
「──堀北さん?」
「入ってもいいかしら?」
きっちりと制服を着込んだ堀北鈴音が、手に小さなトレイを持って立っていた。トレイに乗っているのは、白湯の入ったカップと、温かいおかゆ。
この豪華な客室の雰囲気には、明らかにそぐわない地味なセットだった。
それを持ってきた堀北自身も、どこか所在なさげに視線をさまよわせている。白銀は黙って道を空け、堀北を部屋の中へと通した。
「おかゆ?」
白銀の頭に真っ先に浮かんだ疑問がこれである。
「昨日の夜、スタッフが言っていたわ。あなたが私の部屋に、おかゆとポカリを頼んでくれたって」
「ってことは、そのお返しって感じかな?別に気にしなくてよかったのに」
昨日、見るからに体調が悪そうな堀北を見かねた白銀は、船内にいるスタッフに『体調不良で戻ってきた生徒に、おかゆとポカリをもっていくよう』お願いしていた。匿名でお願いしたはずが、バッチリと堀北に伝わっている。
白銀のこの行為は、一切下心のない純粋な善意である。堀北がスタッフからしつこく聞き出さなければ、知ることはなかったであろう事実だ。
「あなたも体調不良でリタイアしたと聞いたから、昨日のお返しよ......お返しのはずだったのだけれど」
堀北は部屋にあるソファに座り、ジッと白銀の顔を観察している。顔色を確認したが、堀北から見て白銀に『病人としての雰囲気』が微塵もないのは明らかだった。
「気遣いはありがたくいただいておくよ。......そうだ、折角だから少し話していかない?お互い、時間は腐るほどあるだろうし」
前々から白銀は堀北と話してみたいと考えていたが、下手に接触して警戒されても面倒なため、積極的な行動を控えていた。
だが今の状況なら不自然でもなく、警戒されないだろうと判断したうえで誘った。
堀北も、白銀の本当のリタイア理由について探りたいという明確な気持ちがあったため、無言で承諾した。
「あなたは体調不良でリタイアしたはずよね?昨日も今も、体調が悪そうには全く見えないのだけれど。......何故リタイアしたのかしら」
ド直球である。真っ直ぐすぎる質問に、流石の白銀も不意をつかれてしまった。そんなに素直に質問されることを珍しく感じた白銀は、少しだけ笑った。
無論、堀北が腹の探り合いもなしにストレートに質問したのには理由がある。
万が一本当に体調が悪いのであれば、無駄な探り合いは相手に負担をかけてしまうからだ。堀北鈴音にとって、白銀琥珀はAクラスにあがるために越えるべき強大な相手ではあるが、現時点ではまだ本格的な敵ではない。
白銀がDクラスに直接的な被害を与えたことはなく、むしろ他のクラスのように蔑むことなく接している方だとすら堀北は思っている。
堀北にとって、白銀琥珀の立ち位置はひどく微妙なのである。今の時点では敵と言えば敵のような気もするし、違うと言われれば違う気もする。
堀北からすれば、白銀はは本当に分かりにくい、不気味な立ち位置にいる人間だった。
「そうだなぁ。ちょっとした内輪揉めがあってね。それに負けちゃったんだ」
白銀は自分が負けたなんて1ミリも思っていないが、リタイアしたことを強いて負けと捉えるなら、そういう見方もできるだろう。
もっとも、これは堀北の興味をひき付けるための意図的な言葉選びだ。現に、堀北はわずかに驚いた表情を浮かべている。
「......あなたが、負けたのね。それは一之瀬さんかしら?答えたくなければ答えなくてもいいけれど」
堀北にとって信じ難い話だった。白銀と深く交流があるわけではない。だが、それでも白銀の異常な噂は嫌でも耳に入ってくる。
『1年ながら歴代最高ポイントを稼いだ』『生徒会書記と親しい』『テストで全教科満点』『副会長とも関わりがある』『シェアハウスを現金購入』など。
その話の断片だけでも、その優秀さがわかる。実際に何個かは本当であることが確認できている。
堀北は白銀琥珀の能力を認めている。能力主義である堀北は、一之瀬のような全体をまとめる曖昧なカリスマ性よりも、白銀のように圧倒的な『個人の実力』で結果を示している事に魅力を感じてしまう。
だからこそ、そんな白銀がクラス内のくだらない内輪揉めに負けたというのは信じ難い。
「強いて言えば、Bクラスという集団の空気に、かな。......驚いたよ、まさか僕が2日目でリタイアするなんてね」
想像よりも計画が上手くいったことに対しての純粋な驚きは、確かに白銀にあった。そして、それ以外はすべて嘘だ。
リタイアしたのは自分の意志であり、敗者ではなくむしろ『盤面を支配した勝者』といっても過言ではない。
白銀がそう言った瞬間──タイミングを測ったかのように、部屋の外から軽くノック音が響いた。
「失礼します。ルームサービスをお持ちいたしました」
扉越しの落ち着いた声。白銀は一度ソファから立ち上がり、堀北に断りをいれてからドアを開けた。
そこには、ホテルスタッフの制服を着た男性が、白い布のかかったトレイを両手で丁寧に抱えて立っていた。堀北がくるよりも前に頼んでいた、本命のルームサービスだ。
「ありがとう。そこに置いてもらっていいかな」
部屋のローテーブルにトレイが置かれると、白銀はスタッフに軽く礼をしてドアを閉める。そのまま何事もなかったように、堀北の元へと歩み寄る。
「何か頼んでいたのかしら?」
「うん、ちょっとだけ豪華にね。リタイアした自分への慰めみたいなものかな」
トレイの布を外すと、中からはスモークサーモンのサンドウィッチ、色鮮やかなカットフルーツの盛り合わせ、濃厚なポタージュスープ、そしてハーブティーのセットが姿を現した。
彩りも良く、味にも期待が持てそうなルームサービス特有の豪華さだった。
「でも、せっかく堀北さんが来てくれたし、これは君に譲るよ」
「......どうしてかしら?」
堀北は露骨に怪訝な表情を浮かべる。
「僕は堀北さんがもってきてくれたおかゆがあるし、君もろくに食べてないんじゃない?体調が戻ったのはたぶん、今日起きてからだよね?」
堀北は一瞬だけ目を見開いた。
痛いところを突かれ侮辱されたような気もしたが、白銀がそれを茶化す様子もなく、むしろ気遣ってくれていることが分かり、言葉に詰まった。
「......そう。なら、ありがたくもらっておくわ」
「うん。堀北さんが持ってきてくれたおかゆと引き換えってことで、ね」
ソファを挟んだ向かいに座る白銀は、口にしたおかゆをゆっくりと飲み込むと、手元のスプーンをそっと皿に置いた。
堀北が勧められたルームサービスのサンドウィッチに恐る恐る手をつけ始めたのを見て、少しだけ目を細める。
(警戒心が高いようで、意外とガードが緩い。周囲から一線引いてるように見えて、一度内側に入れば取り込みやすい感じかな。こういう不器用な相手は、強硬手段よりも懐柔がいい。軽井沢や櫛田の時みたいな『恐怖による支配』はなしだね)
白銀は白湯をひと口飲み、カップをテーブルに置いて一息ついた。
「──リタイアした本当の理由、話すよ」
「いいのかしら?」
白銀は静かに頷き、話し始める。
「面倒なことに巻き込まれたんだ。誤解されて、クラスの一部に疑われて──結局、信じてもらえなかった」
正確には『面倒なことを自ら誘発させた』の間違いである。だが、彼の言葉、その憂いを帯びた雰囲気が、如何にも真実であると堀北に錯覚させる。
女子テントで起きた『下着泥棒冤罪』について、白銀は事実を巧妙にブレンドしながら詳細に堀北に話した。話を聞く堀北の表情は徐々に険しいものへと変わり、最後には心底呆れたようにため息をついた。
「──それで、リタイアしたのね」
堀北の声は冷たくはなかった。ただ、驚きと、どこか納得のいかない感情が強く混じっていた。少しの怒り、あるいは苛立ちとでもいえよう。
実力のある人間が正当に評価されるべき、その考えをもっている堀北にとって、白銀がBクラスから受けた仕打ちは承服しかねるものだった。
白銀のために苛立っているわけではなく、自身の能力主義という考えを、Bクラスという集団に否定されたような気がしたからだ。
「足を引っ張ることにしか秀でていない無能は、どこのクラスにもいるわ。よく冤罪だってその場で証明できたわね」
「状況証拠だけなら真っ黒だったからね。危ないところだったよ」
「......呆れるしかないわね」
堀北はハーブティーを一口含み、眉間に軽く皺を寄せた。
「でも、それを論理的に覆したのでしょう?」
「うん。犯人を特定して自白まで引き出した。それで問題は解決した......ように見えたんだけどね」
白銀はわざとらしく天井を見上げ、自嘲するように苦笑する。
「信じるか信じないかっていうのは、結局感情の話なんだ。証拠や論理とは別の場所にある。何をやっても僕を信じたくない人間は信じないし、見たくない現実から目を逸らす人は見ない。集団の同調圧力には勝てなかったよ」
その発言から少しの間、部屋の中は重たい無音となる。次に口を開いたのは白銀だった。
「──ごめん、つまらない愚痴を話してしまったね。聞いてくれてありがとう、堀北さん」
「別に、私は何もしてないわ」
言葉通り、堀北は特段何もしていない。ただ聞いていただけだ。だが、白銀は軽く首を横に振った。
「話を聞いてくれたじゃないか。堀北さんは、僕の言葉にちゃんと耳を傾けてくれた。僕にとっては、それだけで充分だよ」
その言葉に、堀北の目がわずかに揺れる。一番大きな感情は、戸惑いだろうか。堀北の中で、いくつかの感情が一瞬のうちに浮かんでは消えた。
ここに神崎がいたなら、『詐欺師にでもなったらどうだ』と心底呆れ果てて言っていることだろう。
白銀が部屋のドアを開け、堀北は廊下に出る。別れ際、白銀は背中に向けて声をかけた。
「ねえ、堀北さん。今さらなんだけど──僕と、友達になってくれない?」
堀北は、一瞬固まったようにピタリと動きを止めた。
白銀は今回の会話で、彼女から悪感情を抱かれていないことを確信した。その上で、好印象をもたれるように話の内容も意図的に同情を引くよう誘導していた。
断られる可能性が極めて低い誘い。今後も引き続き、彼女と情報交換をするための正当な理由作り。
「......友達?」
「うん。いや、別に変な意味じゃなくてさ。クラス間の敵でも味方でもなく、ただの友達。損得も駆け引きも抜きで、気軽に話せる相手って案外いないからさ」
「いずれは敵になるわ。私たちがCクラスに昇格したあとは、あなたたちBクラスが最大の敵よ」
「うん、それならCクラスにあがるまでは、今日みたいにたまに話してもいいかな?」
白銀が堀北を求めているのは、彼女の不器用な性格に純粋な興味があるから、そしてそれに加えて美学研究会のモデルにスカウトしたいからだ。
「それは、そうかもしれないけれど......」
「まずは試してみない?お試し期間ってことでさ」
堀北は少しの間、真剣に黙って考える。その反応を見て、白銀は思ったよりも堅い堀北のガードに内心舌を巻いた。
なにか重い要求をしてるわけではなく、ただ友達になるだけである。ここまで深く悩まれるのは、白銀としても予想外だ。
「──断るわ。私に、友人は不要だもの」
堀北はそれだけ冷たく答えて、背を向けて廊下を歩いていく。白銀は、その後ろ姿を静かに行き止まるまで見送った。
「......なるほど。櫛田が死ぬほど嫌いなタイプなわけだ」
呑気にそんなことを呟いてから部屋に戻り、すっかり冷めたおかゆをゆっくりと食べ始める。
無人島で苦労し、そしてこれから地獄を見るであろうBクラスのクラスメイト達の事を思い出すことも、思いやることもなく。
「カードキー無くすなんてありえないでしょ!!あんたのミスの尻拭いするために、私たちがポイント節約してるわけじゃないんだけど!」
今までの鬱憤を晴らすかのように、激しい口調でリーダーの白波を責め立てる姫野。神崎はそれを冷静に静止する。
「やめとけ、姫野。これ以上プレッシャーをかけるな......だが、同じことを繰り返されたら敵わないのも事実だ。今後のカードキーの管理は、白波以外が行うべきだ。スポット占有の時だけ、彼女に渡す方式にした方がいい」
言外に『お前はリーダーとして戦力外だ』と宣告している神崎。その冷徹な判断に、柴田が感情的に噛み付く。
「っ、お前ら、そんなに責めることないだろ!俺たちは同じクラスの仲間だ、チームだろ!誰かのミスはお互いにリカバリーすればいい!そうだろ!?」
言っている理想は間違っていないが、状況が悪すぎる。それに対して、神崎も容赦なく言葉を返す。
「責めてるわけじゃない。管理ができない人間に任せるリスクを回避するため、別の人間が管理をする。柴田、これはお前が言う『支え合い』にはならないのか?」
柴田がぐっと言葉に詰まった隙に、姫野がさらに口撃を再開する。
「ってか、あんたがそんな偉そうなこと言えるわけ?『白銀の倍以上、魚を獲って持って帰ってくる!』なんて大見得切ってたのに、結果は半分以下じゃん」
その痛い事実を突かれ、柴田は完全に黙り込んでしまった。
「そ、そうかもしれないけど、柴田くんも頑張ってるよ。未経験なのに、魚を突けたんだから......」
そんな柴田を必死にフォローする一之瀬。その言葉に嬉しくも情けない、複雑な感情に陥る柴田と、そんな一之瀬にも容赦なく噛み付く姫野。
「それで、ろくに休憩もとらないでケガしたんでしょ。本来不要だったはずの救急セットを追加購入して、無駄なポイント使ってるじゃん」
「不測のケガは仕方ないが、網倉と一之瀬が休憩を呼びかけても、お前はそれを無視して潜り続けたんだろ?お前が言うところの『チーム』であり、『仲間』の言葉を無視した結果がそれだ。そもそも『ミスは互いにリカバリーすればいい』っていうのは、リカバリーする側が言う言葉であって、ミスをした側が言う言葉じゃない」
「お、お前だって、他のクラスに食料の果物持ってかれてるじゃねぇかよ!人の事いえねぇだろ!」
「それは認める。同時に食料を見つけて、結果的にDクラスの方が素早く行動した。その結果、確かに俺たちは限られた分しか確保できなかったが──少なくとも、全体の1食分になる量は確保した。マイナスは出していない」
(──どうしよう、流れが決定的に良くない。あの事件のせいで、ただでさえクラスがギスギスしていたのに、そこにリーダーである白波さんのミス。琥珀くんに対抗しようとした柴田くんの焦り故の暴走。他クラスの動きの良さ。全部が、今の私たちに裏目に出てる......!)
白銀琥珀という精神的な支柱を失ったBクラスは、一之瀬の必死の取り繕いも虚しく、確実に内側から崩壊を始めていた。
「マジで櫛田ちゃん神ってる!」
「いや、まじでぱないって!Bクラスとかち合った時、櫛田ちゃんが食料を確保する動きが超速くてさ!もーーーっ最高っ!」
「本当に桔梗ちゃんすごいよ!こんなに沢山持って帰ってくるなんて!」
「うん、全体の2食分にはなりそうかな」
(──堀北さんだけ排除しておけば私が中心になれると思ってたけど、櫛田さんが想定外に働いてる......!)
松下が内心で舌打ちをする中、櫛田は満面の笑みでクラスメイトの称賛を浴びていた。
「みんなが頑張って協力してくれたからだよ!」
(クラスでの私の地位もこれで問題ない。しかも、白銀のいるBクラスの連中よりも多くの野菜を持って帰ってこれた。これでアイツも悔しがってるよね?)
「ふん、リタイアしたいなら勝手にしろ。お前はそれだけの働きはした」
(落ちていたBクラスのリーダーカードを、伊吹が回収した。Bクラスのリーダーはどんな間抜けだ。わざと落とした罠の可能性を疑いたくなるレベルの失態だ)
龍園は伊吹から差し出されたカードを弄びながら、獲物を狙う蛇のように口角を歪め、不敵に笑った。