無口に愛を紡ぐ教室へようこそ   作:Mr.♟️

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15話〜伊吹という女〜

 

無人島特別試験4日目。豪華客船の甲板中央部にあるプールエリアは、昼下がりの強烈な陽射しによって白く満たされていた。

 

無人島試験はまだ中盤戦。島に残った生徒たちは、疲労とストレスに耐えながら各々の役割をこなしている時間帯だ。

 

だからこそ、今ここにいるのは早々に試験をリタイアした敗者だけ。

 

並べられたデッキチェアの多くは空席。喧騒はなく、代わりに遠くで砕ける波の音が、心地よいBGMのように永遠と続いている。

 

白銀琥珀は、パラソルの影にある白いデッキチェアの1つに深く腰を下ろしていた。

 

テーブルの上に置かれた色鮮やかなスペシャルドリンクには、パインの小片とミントの葉が添えられている。氷がころんと転がるたび、鼓膜を撫でるような乾いた涼音が鳴る。

 

上から黒のラッシュガードを着込んだ水着姿の白銀だが、そもそも泳ぐつもりなど毛頭ない。

 

泳がないと決めてここに来たのだ。ただ純粋に、バカンスの雰囲気だけを味わいに来た。

 

静かに目を閉じる。頬を撫でる風の触り方が少し変わり、潮の匂いが濃くなる。心安らぐ波の音が耳に残る。

 

白銀がグラスをわずかに回し、氷の位置が移るとまた小さな音が鳴った。

 

何も考えない──目的のない、最高に贅沢な時間。

 

「──随分と暇そうね」

 

背後から落ちた声は軽く、そして少し皮肉げであった。

 

白銀は眉ひとつ動かさず、視線だけを上げる。

 

そこには、黒のスポーツビキニに白いビーチウェアをふわりと羽織った伊吹澪が、日差しの縁を切るように立っていた。

 

鍛え抜かれた無駄のないしなやかな肢体は、もし普通の海に行けば1日で100回はナンパされること間違いないだろう、特有の鋭い美しさを放っている。

 

「そうだね。暇を満喫してるよ」

 

「私もあんたのおかげで暇になったわ。いい落としもの、本当にあったから」

 

「それは良かった」

 

「他人事みたいに......で、ここで何してんの?」

 

「うん?今言ったばかりなんだけど。暇を満喫してる」

 

伊吹は、白銀のラッシュガードと髪をちらと観察する。どちらも完全に乾いている。そして彼女なりに少し考える。

 

(プールに来て一切泳がないってことは、泳げないの?)

 

「泳げるよ」

 

白銀は思考を読んだかのように即答したが、伊吹からすれば強がりにしか聞こえない。

 

泳げなくて体育のプールをサボっていたから、無人島試験の海にも適応できずリタイアし、今もパラソルの下で逃げるようにのんびりしているのだと、そう勝手に解釈した。

 

それと同時に、普段から人を小馬鹿にしたような余裕そうな表情しか浮かべない白銀を、完全に負かすことの出来る絶好の機会ではないかと考える。

 

「ねぇ、勝負しましょう。50メートル1本勝負で」

 

「嫌だけど。僕はのんびりしたいだけだからね。君と勝負する理由がない」

 

心底面倒くさそうに軽くため息をついて断る白銀。だが、伊吹はそれを認めずに食い下がった。

 

「ふーん。負けて惨めな姿を見せるのが怖いんだ」

 

ミエミエの安い挑発である。今度は深くため息をつきながら、白銀はゆっくりとデッキチェアから立ち上がった。

 

「勝負なんてしても、君にメリットないよね......まあいい。今回だけはその安い挑発に乗ってあげるよ」

 

「私が勝ったって事実と、あんたが負けたって現実が残る。普段偉そうなやつが負けて沈んでる姿を見れるのって、私にとっては充分すぎるメリットでしょ」

 

「たぶん、正反対の結果になるよ。早くやろうか。君に現実を教えてあげる」

 

伊吹は自信ありげに鼻で笑い、プールサイドへと歩いていく。

 

誰もいない広々としたプールの端。2人がスタート位置に立つ。

 

「合図は?」

 

伊吹が問う。言葉の代わりに、2人の視線が鋭く交差した。

 

目が合う。

 

伊吹の掛け声とともに、2人は同時にプールへと飛び込んだ。

 

静寂に包まれていた水面が、激しい飛沫とともに真っ二つに割れる。

 

初速は互角。

 

だが、25メートルを超えてから、2人の技術の差が明確に現れ始める。

 

伊吹は3掻きに一度の息継ぎ。対する白銀は4掻きに一度。

 

取り込む酸素の違いが体幹のロールと完璧に同期し、水との抵抗を極限まで減らすことで、推進力の差を産んでいく。

 

35メートル地点で白銀が少しずつ前に出始め、40メートルでその差は体一つ分ほどに開いた。

 

そして──壁に先に触れたのは、圧倒的な余裕を残した白銀だった。

 

「......っ!」

 

遅れて水面が割れ、伊吹が顔を上げる。大きく息を吐いて、顔に張り付いた髪を乱暴にかき上げた。

 

その瞳には、明確な悔しさが燃えている。

 

「もう1回!」

 

流れるような勢いで再戦を申し込む伊吹。それを白銀は呆れたように首を振って断る。

 

「嫌だよ」

 

「逃げるつもり!?」

 

「勝ち逃げならやぶさかじゃないね」

 

白銀はプールから上がり、ラッシュガードから滴る水を肩で払う。伊吹はプールの中から、じっと白銀の濡れた背中を睨みつけていた。

 

「3本勝負」

 

「やだよ」

 

諦めきれない伊吹が食い下がるが、白銀の返答は変わらない。彼は再びパラソルの影へと戻り、冷たいスペシャルドリンクのグラスを手に取った。

 

「──それなら、明日は別の勝負よ」

 

「戦う理由がないって言ってるのに?」

 

「私には関係ない」

 

伊吹はそれだけ言い捨ててプールから体を引き上げ、ビーチウェアを羽織りながら離れていく。

 

「負けず嫌いを負けさせると、こうなるから厄介なんだ」

 

白銀は一人呟き、グラスを傾けた。氷がまた、からんと涼しい音を立てる。

 

伊吹はタオルで髪を乱暴に拭きながら、背を向けて歩き出す。二歩、三歩と歩を進めても、決して振り返らない。

 

白銀はその後ろ姿を、ただ静かに見送った。

 

 


 

無人島試験5日目、白銀は船内探検を行っており、その道中でレストランの前を通り過ぎようとしていた。なんだかんだいっても、豪華客船を彼は満喫している

 

 

 

 

「――いた」

 

白銀の背後から靴音が早まる。呼び止める声は短く、迷いがない。白銀が振り向けば伊吹澪。ジャージの上着を脱いで、動きやすいTシャツに短パン姿だ

 

「勝負よ」

 

「勘弁してよ。無料で豪華客船で遊べるんだから、君も少しは楽しんだらどう?エステとかおすすめだよ」

 

「勝負内容は空手。二本先取、時間無制限でいい」

 

言い切ったあと、伊吹はわずかに強気な笑みを浮かべる。最も自信がある競技だからだ。白銀は少しの間考え、肩をほんの少しすくめた

 

「この船で空手をやらされるのは僕くらいだろうね。僕のサークルに入っててよかったね、君がモデル活動してなかったら、流石に二日連続は断ってたよ」

 

「場所は予約してるから、こっちに来なさい」

 

「予約って、約束してないのに...」

 

伊吹が先導する。白銀は半歩後ろを歩く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

和室エリアは、客室ブロックの最端にあった。部屋に入るとすぐ先に広がるのは畳の匂い。乾いた藺草の香りが空調の白い音と混ざり、海の気配をほどよく薄めている

 

「はぁ、本気でやる気だね。手加減してよ、武道初心者なんだ」

 

白銀が靴を脱ぎながら、わざとらしく肩を落とす。素足で畳の弾力を確かめる仕草で初心者というのは無理があるだろう

 

「嘘つき。あんたの身体みたら、格闘技をやってることくらいわかる」

 

伊吹澪は既に正面の床の間側に立ち、ジャージの上着を畳んで端へ置いていた。Tシャツに短パン、膝の可動が妨げられない。軽くストレッチをして動きを確認している

 

「じゃ、ルール。二本先取。顔面は軽接触まで。投げと関節は崩しまで。反則なし、過度の接触は反則負け。文句ある?」

 

「ないよ。このよくわからない勝負を──早く終わらせよう」

 

互いに畳の中央に歩み、軽く礼をしてから少し離れる。白銀は肩の力を抜き、鎖骨のラインが水平に保たれる。両手は下げたまま、指先だけが微かに開いて空気の流れを掴む。足幅は肩幅より少し狭い。重心は土踏まずに落とし、左右差を消している

 

伊吹は伝統流派の基本に寄せた半身。前手はコンパクトに、後手は顎の外へ。前足の膝を遊ばせ、出入りのリズムを作る。畳の目に親指球が吸い付き、ほんのわずかに軋む音がした。彼女の目は白銀の胸郭と骨盤の境――中心線――に固定される

 

「はじめ」

 

伊吹がスタートの合図を口にした。伊吹は前足を一枚滑らせ、距離の端を踏む。中段突き――最短の直線。白銀は肩線をわずかに引いて、肘の面で外へ流す。畳の上で足がきしむ音はしない。触れるか触れないかのスレスレで、軌道は既に逸れている

 

続けざまの前蹴り。スナップの効いた足刀が白銀の腹の正面へ走る。白銀は膝頭をほんの数ミリ内へ入れ、脛で受けずに流す。伊吹の蹴り脚が戻る瞬間、白銀の掌が伊吹の軸足の踵へ指先一粒分だけ触れる。崩し――そういうには甘すぎる行動。向きだけを変えた

 

伊吹の腰が一拍だけ泳いだ。けれど彼女は空気を噛んで踏み直す

 

「手加減でもしてるわけ?」

 

「様子見」

 

「舐めてる?」

 

「君の戦い方を知らないからね。確実に勝つためだよ」

 

その回答を受け、前手のフェイントを二つ並べてから、上中の二段で射程を擦る。白銀は前手を軽く払って肩をずらし、二段目の中段に対しては腰で角度を殺す。反撃は行っていない

 

 

 

 

 

「一本、取りに行く」

 

伊吹はその言葉と同時に、間合いに空白を作った。何もしない一拍。その虚に白銀が足を出そうとする瞬間、伊吹の肘が内から外へ、短い弧で飛ぶ。白銀は半歩外に出て、二の腕を軽く押し上げた。前傾した伊吹の中心線に、指先が静かに触れる。みぞおち――心窩の浅いところへ

 

「.........一本」

 

コールは伊吹の口から出た。吐息は短く、目は逸らさない。その瞳はメラメラと燃え盛っている

 

 

 

 

 

 

「はじめ」

 

二本目。伊吹はスタイルを速さ重視へ切り替えた。前足の置き方が畳の目を無視し、重心移動の加速が一段深くなる。白銀の前足がわずかに反応を遅らせられる

 

その遅れを見て、伊吹が踏み込む――と見せて踏まない。部屋の空気が変わる。白銀は軸の角度を少しだけ傾け、左肩を前に出す

 

伊吹の前蹴りが白銀の腹部を目掛ける。それを白銀は膝で受け、同時に右足で畳を押し、身体を伊吹の肩線の外へ滑らせた。掌で伊吹の肘の内側に触れる。方向だけ与える。力は使わない。伊吹の拳が短く逸れ、追撃の蹴りは膝で止まる。その瞬間、白銀の前手の指先がふたたび心窩に触れた

 

 

 

 

 

 

 

 

 「......っ」

 

呼吸が詰まる。伊吹は歯を食いしばり、白銀の手を払う。汗が首筋へ滑り、短パンの裾に点を作る

 

「──1本、よ」

 

「そうだね、勝ててよかったよ」

 

伊吹の心の中には、ここで引きたくないという気持ちが強くあった。だがそれ以上に──負けたという事実を受け入れる素直さを伊吹は持ち合わせている

 

 

 

 

「気が向いたら付き合ってあげるよ。君の心が折れてなければね」

 

白銀の傲慢とも優しさとも取れる発言を聞いた伊吹は眉をピクリと動かした。当然だ、彼女の心はこの程度では折れない。伊吹澪は強い女だ

 

「明日は何時から暇?」

 

「予定はないけど....いや、待った。やっぱり予定がある」

 

次に続くであろう言葉が思い浮かんだ白銀だが、それはあまりにも遅すぎた

 

「じゃあ朝から。30本先取で」

 

「嫌だよ。なんで、君とそんなに空手をしないとダメなのさ。明日はエステの予約を入れるから嫌だ」

 

そんな白銀の言葉を無視して、伊吹は和室から出ていった。部屋にはため息をつく白銀だけが残された

 

 

 

 

 

「──趣味の悪い冗談であることを願いたい」

 


 

無人島試験6日目

 

レストランがある階で降り、静まり返った広い廊下を歩く。ガラス越しに薄い青の海と、まだ角度の低い陽が見えた。白銀は足の速さを変えず、角を曲がる

 

 

 

その背中から、既視感のある足音が近づいている

 

「おはよう」

 

振り向かなくても、声だけで白銀には誰か分かった。というよりも、来ることを予測していた

 

「……おはよう」

 

白銀は声の主に顔を向ける。伊吹は白の薄手パーカーを羽織り、下はスポーツタンクトップを着用している

 

「約束通り、昨日の勝負の続き」

「してない」

 

「じゃあ、やるまで付きまとう」

 

「まあ、それは好きにしていいよ。今日は空手をするつもりはないけど」

 

 

短い応酬。白銀は歩みを止めず、伊吹は半歩の差で横に並ぶ。並び方が上手い。ぶつからない距離、話しかけられる距離。まあ、だからなんだという話ではある

 

朝のレストランの良席は、海をそのまま壁にしたような大窓が印象的だった。まだ空席が目立つ時間帯。食器の当たる乾いた音と、コーヒーの香り、温められたパンの甘い匂い

 

白銀はトーストと葉物のサラダ、スクランブルエッグを少量、それにブラックのコーヒーを選ぶ。伊吹は焼き魚、卵焼き、白米、味噌汁、小鉢、さらにオレンジを二切れ

 

 

伊吹は白米をひとかみで飲み込み、味噌汁で流す。白銀はコーヒーを一口含み、温度で舌の起床を遅らせる。窓の外では太陽の光が海面を移動し、船が首を振るたびに床の光も揺れた

 

「今日の予定はなに?」

 

「朝食、ジム、昼食、プール、エステ、夜ご飯」

 

「戦わないなら、最初から最後までついていく」

 

「好きにすれば。結果は変わらないだろうけどね」

 

「止めないの?」

 

「それで止まる人間なら、付きまとったりしないよ」

 

「正解。昨日の借りを返すまで続けるから」

 

「貸した覚えはない」

 

「あんた側の都合はしらない」

 

「そうなんだ。なら、君の脳内で解決してよ」

 

2人が食べ終わる頃、レストランには他の生徒たちも少しずつ増え始め、音域が明るくなる。白銀はフォークを静かに置き、紙ナプキンを畳む。伊吹は箸を器の右へ揃え、椅子から立ち上がった

 

 

 

 

 

 

 

 

ジムは広く、空調は冷えすぎない範囲で効いていた。ランニングマシンのベルト音、バイクのローラーが回る音、ケーブルマシンのプーリーに乗る薄い金属音。匂いは新しいゴムと消毒液、汗の前段階――運動前の肌が持つわずかな熱の匂い

 

 

白銀は空いているバイクに跨がる。サドルの高さを一度だけ微調整し、ペダルに足を置いた。表示の数字にも一応目を通す。回転数は一定、膝の軌道がぶれない

 

伊吹はランニングマシンに乗り、最初から時速十に設定する。手すりに一度だけ触れ、すぐ離す

 

「無理しない方がいいんじゃない?」

 

「こんなの楽勝だから」

 

「楽勝なら無理した方がいいね」

 

白銀はからかうように口を開いた。2人が運動を始めてから二十分が過ぎ、伊吹の肩に汗が浮いて髪が湿る。更に速度を一段上げ、心拍をもうひとつ上へ引き上げる。走り終える頃には、タオルで額を押さえていた

 

「辛そうだね、もう限界?」

 

「は?....余裕だし」

 

白銀と同じく、スクワットラックの前に立った伊吹はバーを背に担ぎ、肩甲骨の上で位置を探る。一回目、下ろす途中で膝が内へ寄る。すぐに戻して立つ。二回目、今度は踵が浅く浮く

 

「──膝は外。踵は床。視線は鏡の自分の目。それだと、頑張っても効果が薄くなるよ」

 

「指図?」

 

「助言」

 

「同じこと」

 

「受け入れるかは君の自由。まあ、その調子だと何回戦っても僕に勝てないだろうけど」

 

「......受け取る」

 

伊吹は歯切れ悪く言い、三回目の動きで修正をかける。バーの軌道が安定し、立ち上がりの力がまっすぐになる。悔しさと納得の混じった息が喉に残る

 

重量を落とし、回数を重ね、ラックにバーを戻す。伊吹は肩を回し白銀のほうを見た。暖かい目で自身を眺めていた白銀と目が合う。白銀はその視線をすぐに逸らし、伊吹も同様の動きを見せた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2時間程経過した。2人は水を一口ずつ飲み、器具を拭いて元に戻す。白銀は汗の引き具合を首筋で確かめ、視線を窓に向けた。海は既に朝の色から昼の色へ移ろい始めている

 

「昼は懐石に行く」

 

「私も行く」

 

朝と似たようなやり取りが、朝よりも少し柔らかく響いた。柔らかさを生むのは汗と心拍と、少しだけ噛み合った呼吸のせいだろう。白銀はタオルを肩にかけ、シャワー室に向かった

 

 

2人はシャワーで軽く汗を流したあと、ジムの出口に歩みを向ける

 


 

白銀は昼食に選んだ懐石料理店へ向かって、ゆっくりと歩いていた。その後ろに、伊吹は当然のようにぴったりと張り付いている。

 

船内の和食エリアにある懐石料理店は、ここが海の上であることを忘れてしまうほど静かで、洗練された空間だった。

 

足裏に心地よい木目調の床、障子を模した上品な仕切り、柔らかく落とされた間接照明。入り口で和装のスタッフに丁寧な出迎えを受け、二人掛けの座卓へ案内される。

 

「この雰囲気が好きなんだ」

 

「......まあ、わからなくもないわ」

 

伊吹は少しだけ背筋を伸ばし、卓上の和紙の箸袋に指先をかけた。

 

先付けの胡麻豆腐が運ばれ、柔らかな香りが広がる。

 

白銀は箸で小さく切り取り、優雅に口に含む。舌に広がる濃厚な胡麻の風味と、極めて滑らかな舌触りが、ゆっくりと鼻腔に抜けていった。

 

「こういうの、普段から食べてるわけ?」

 

「出されたら食べる。自分から選ぶこともある」

 

「意外と健康志向?」

 

「どうだろうか」

 

伊吹は胡麻豆腐をパクリと一口で食べ、美味いと小さく頷いた。

 

次に煮物。海老と季節野菜の炊き合わせ。上品な香りが立ち上り、白銀はその香りを鼻先で静かに受け止める。

 

「悪くない」

 

「感想が淡白」

 

「僕なりの最大限の褒め言葉だ」

 

短い感想に、伊吹は少し呆れたように肩をすくめて煮物を口に運ぶ。

 

刺身、焼き物、揚げ物と進むにつれて、二人の会話は短いものの、不思議と途切れることはなかった。

 

伊吹は、執着しているプール勝負や空手の話題をわざわざ出さない。今は目の前の極上の食事に集中しているらしい。白銀も、あえてその話題に水を向けることはしなかった。

 

食後の水菓子として、よく冷やしたメロンが運ばれる。透明な涼しげな器の上で果肉が光り、フォークで切るとたっぷりの果汁が滴った。

 

「......悪くない」

 

「食レポ風にやってみて」

 

「君が先に見本を見せてくれるなら、検討するよ」

 

白銀は薄く笑ってそう言い、湯呑の茶を口に運んで昼食を終えた。

 

「午後はプールに行く」

 

「私も行く」

 

「あ、うん。空手勝負は本当にしないからね」

 

甲板中央部のプールエリアは、昼下がりの強烈な陽射しで水面が白くきらめいていた。

 

午前中よりも人は多く、デッキチェアには水着姿の生徒達が横になり、笑い声や水音が絶えない。

 

白銀もラッシュガードを着た水着姿で現れ、パラソルの下のデッキチェアに深く腰を下ろした。テーブルには冷えたトロピカルドリンクが置いてある。

 

伊吹はスポーツタイプのビキニに白いビーチパーカーを羽織り、タオルを肩にかけてやってきた。まだ濡れていない髪が、強い陽の光を反射している。

 

「入らないの?」

 

「今日は泳ぐつもりはないからね」

 

「昨日も全く同じこと言ってたけど」

 

「昨日は君のせいで、結果的に泳がされた」

 

「どうせ、今日もそうなるわよ」

 

「ならないよ」

 

白銀は淡々と返し、ストローでドリンクを口に運んだ。伊吹は鼻で笑い、パーカーを脱いでプールサイドへ向かって歩いて行く。

 

しばらくして伊吹が水から上がり、濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら戻ってきた。健康的な肌に残る水滴が、陽の光を反射してきらきらと光っている。

 

「ほら、あんたも入れば?」

 

「見ているだけで涼しいから充分だ」

 

「つまんない」

 

「それは知らないね」

 

白銀は背もたれに身を預け、目を細めた。

 

伊吹は隣のデッキチェアに座り、濡れた足を組む。その足先から滴る水滴が足元のタイルに落ち、小さな水たまりを作った。

 

伊吹はしばらく黙ってプールで騒ぐ生徒たちを眺め、再び振り返った。

 

「午後はどれくらいここにいるつもり?」

 

「一時間くらいかな」

 

風が少し強まり、パラソルが揺れた。その影が二人の足元を交互に覆い、また離れる。

 

言葉は少ないが、2人の間に流れる空気は決して重くない。

 

 


 

夕方の船内は、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。

 

そんな中、私は前を歩く白銀の背中を無言で追っていた。目的地はエステサロン。この豪華客船の中でも特に人気の場所だ。

 

もちろん、私が施術を受けるわけじゃない。リベンジマッチを受けるまで付きまとうと決めた以上、今日は何があっても最後まで白銀についていく。

 

ただの意地だ。まあ、施術中は待合室かどこかで適当に待つつもりだけど。

 

エステサロンの入口をくぐった瞬間、空気が一変した。

 

ふわっと甘いアロマの香りが鼻をくすぐり、低めの照明が視界全体を柔らかく包み込む。耳に届くのは、ゆったりとしたヒーリングBGM。

 

白銀が受付で名前を告げると、女性スタッフが微笑みながら言った。

 

「白銀様。本日はお一人でのご予約ですが、お取りしているお部屋は『二名様』でも同時施術が可能です。もしよろしければ、お連れ様も......」

 

スタッフのその問いかけに、私は間髪入れずに声を上げた。

 

「じゃあ、私も」

 

白銀が呆れたようにちらっと私を見たけど、明確に断る気配はない。こんな高級エステに興味がなかったといえば嘘になる。自分で予約する度胸がなかったから、これはラッキーだ。

 

「まあ、別にいいよ」

 

案内された個室は、壁際の木目と間接照明が極上の落ち着いた雰囲気を作っていた。

 

二つの施術ベッドが並び、その間には薄いレースのカーテンが引かれているだけ。完全に空間を仕切るには薄すぎて、隣の呼吸やわずかな衣擦れの音すら簡単に伝わってしまう距離感だ。

 

「......近くない?」

 

私が思ったことを、白銀がそのまま口に出す。こういう方式だったんだ。なんかこう、しっかりした壁のある半個室みたいに別れていると勝手に思っていた。

 

「別にいいんでしょ?」

 

私の言葉に、白銀は小声で否定していたが、無視しておいた。

 

スタッフの指示で専用のウェアに着替え、タオルを肩に掛けてベッドにうつ伏せになる。

 

最初は背中にじんわりとした温もりが広がり、それからすぐ、オイルの甘い香りがふわっと漂ってきた。

 

肩に触れたスタッフの指先は思ったより柔らかく、それでいて的確で確かな圧を持っている。押されるたびに、格闘技で筋肉の奥深くに溜まっていた重たい緊張が、嘘みたいにほぐれていく。

 

ああ......想像以上に気持ちいい。無人島でのストレスと疲労が、全部溶けて流れていくみたいだ。

 

首筋から肩甲骨へ、オイルを含んだ温かい手がゆっくりと滑っていく。押されるたびに心地よい温かさが広がり、背中全体が完全に緩んでいく。深く息を吐くと、自然と目が閉じそうになる。

 

「......寝そう」

 

「寝ればいい」

 

カーテンの向こうから聞こえる声が低く、少し笑っているように聞こえる。くそ、こっちは必死で意識を保ってるのに。

 

腰から太腿へと手が移り、ツボを正確に押された瞬間、反射的に小さく息が漏れた。

 

「んっ....」

 

「──変な声出た」

 

「気遣いとして言っておくよ。何も聞こえてないからね」

 

「忘れろ」

 

顔がカッと熱くなる。姿は見えてないのに、なんでこんなに意識するんだろう。こんな変な空気になったのは、全部しろがねが悪い

 

極上の施術は背中に戻り、最後に肩を軽く叩かれて終了を告げられた。

 

体を起こすと、自分の頬が熱を帯びているのがハッキリと分かる。髪も少し乱れて、目元の力が完全に抜けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「......すごい力抜けた」

 

「だろうね。隣から、かなりリラックスしてる声が聞こえてたよ」

 

シャツの袖を直すあいつの横で、私はタオルで顔の火照りを押さえた。不意に肩が軽く触れたけど、あいつは避けない。私も避けなかった。触れた部分が、変に温かく感じる。

 

部屋を出ると、廊下の向こうの大きな窓に、鮮やかな夕焼けが広がっていた。

 

外では穏やかな波が船腹を優しく撫でている。立ち止まってその景色を二人で並んで眺めていると、隣から声が聞こえた。

 

「──綺麗だ」

 

そう呟く白銀の夕日に照らされた横顔は──不覚にも、見惚れるほど美しかった。

 

半ば嫌がらせのように、意地になって付きまとって始めた今日一日。

 

私にとっては──ほんの少しだけ、特別な一日になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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