無口に愛を紡ぐ教室へようこそ   作:Mr.♟️

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16話〜権利購入〜

 

無人島生活4日目。他クラスの偵察に行ってきた軽井沢さんと綾小路くんが、予想外の報告をもたらした。

 

私たちDクラスでは、食事の際にグループ毎の進捗や、入手した情報を共有するようにしている。

 

「......え?白銀くん、リタイアしたの?」

 

クラスメイトの反応は様々だった。大部分は驚きと心配の表情を浮かべているけれど、一部の人間は『ざまぁみろ』とばかりに喜んでいる。

 

馬鹿なのかな?私たちDクラスの大半は、須藤くんの処罰の件で白銀くんに感謝している人間が多いのに。その張本人が、情けをかけてくれた恩人の不幸を喜ぶなんて。

 

自分でクラス内での肩身を狭くしていることに気がついていないのが、最高に救いようがない。

 

でも、そんなことよりもリタイア?なんで?

 

あいつがそう簡単にリタイアするはずがない。体調不良なんていう凡ミスを犯すような人間ではない。この不自然なリタイアにも、必ず何か裏の意味があるはず。

 

ふざけんな、私が何のためにこんなに頑張ったと思ってんだよ!

 

「ああ。詳しい理由は教えてもらえなかったが、Bクラスはかなり雰囲気が暗かった──いや、正確に伝えるなら、ひどくギスギスしていたな」

 

「そうそう!なんていうか、お通夜みたいな悲壮感が漂ってた感じ?」

 

「そ、そうなんだ。白銀くん、体調でも崩してたのかな......」

 

わざとらしく心配を口にしながら、私はさりげなく周囲を観察する。視線を向けるのは、軽井沢さん、松下さん、長谷部さんの3人。

 

偵察で先に情報を知っていた軽井沢さんは反応が薄いけど、松下さんと長谷部さんは違う。

 

もし白銀くんに何か作戦があるなら、裏で繋がっているこの2人には事前に伝えられているはずだ。

 

「──理由はよく分からないけど、私たちにとってはチャンスではあるね。Cクラスは全員リタイアしたし、Bクラスは何故かわからないけど空気が最悪みたいだし。今回の試験でポイントを大量に獲得して、クラス間の差を一気に縮める大チャンスだよ」

 

松下さんはいつもと変わらない。言葉からも焦りは全く感じない。それに対して長谷部さんは、表情から白銀くんを本気で心配していることが丸わかりだ。

 

となれば、松下さんには事前に情報がいっていて、長谷部さんや軽井沢さんには情報がいってない?

 

「うん、そうだね!他クラスの事ばかり気にしていても仕方ないから、私たちは私たちの試験を頑張ろう!」

 

笑顔でそう同調しつつ、思考を巡らせる。松下さんの態度を考えれば辻褄は合うけど、流石に短絡的すぎる考え方かな。

 

Bクラスで本当に取り返しのつかない問題が起きて、結果的に白銀くんがリタイアすることになった可能性もなくはない。

 

白銀くんをペットにするという予定は少し狂ったけど、ここで私たちDクラスが圧倒的にBクラスに勝てば、アイツの余裕ぶっこいた顔も歪むはず。

 

不良品の烙印を押されてきた底辺の私たちDクラスに負けるなんて、白銀くんの高すぎるプライドが許せるはずがない。

 

 

 

ああ、ダメだ。その屈辱に塗れた顔を想像しただけで、胸の奥に甘いざわめきが広がっていくのがわかる。

 


 

無人島生活4日目。私たちBクラスの空気は最悪だ。

 

神崎くんと柴田くんの言い争い、深刻な食糧不足、カードキー紛失事件でリーダーである白波さんに対する信頼がぐらつき、さらに『下着泥棒の冤罪騒動』で男女間の信頼までもが音を立てて崩れ去ってしまった。

 

「言いたいことがあるなら言えよ。そんな恨みがましい視線を向けてくるくらいならな」

 

「被害妄想に付き合ってやる趣味はない。ただ考えていただけだ。この朝食で、俺たちが初日に確保保管していた食料は完全に尽きた。今日からは、なけなしのポイントで食事を購入する必要がある、とな」

 

神崎くんの冷たい言葉は、残酷な事実だ。

 

私たちが海で獲ってくる魚介類には限りがあり、更には陸地での食材集めもDクラスとの競り合いに完敗してしまっている。

 

本来なら、いつもの協力し合えるBクラスであれば、Dクラスに食材集めで負けることなんて絶対にないと思う。でも、今は状況が違う。

 

クラス内での空気が悪すぎる。男女のみならず、男子の間の空気も決していいものではない。それが原因で役割決めやチーム編成で無駄に時間がかかる。

 

そうなると初動が遅れ、食材探しでは常に出遅れてしまい、他クラスへの偵察なんて行動を行う余裕が全く無い。

 

「2人とも落ち着いて。柴田くんは喧嘩腰だし、神崎くんも言い方を考えて。私たちが今やらないといけないことは、いがみ合うことじゃなくて、ここからどうやってポイントの消費を抑えるか考えること......だよね?」

 

私が必死に間に入り、2人は睨み合いを一旦はやめてくれた。

 

ケガをして包帯などの医薬品の購入で無駄なポイントを消費したこと、そして海での食料確保で結果を残せないことで、柴田くんはひどく焦っている。

 

対する神崎くんは、ユキちゃんと麻子ちゃん以外の女子とチームを組むことに消極的だ。

 

Dクラスとの食材集めの競り合いに負けてしまってはいるけれど、現時点で一番堅実に結果をだしているのは彼だ。その事実が、余計に柴田くんを精神的に焦らせているんだと思う。

 

「ポイントのボーダーラインを80......いや、60に抑えることを目標にして、食事を1日2食にすれば、最低限のポイントは獲得出来ると思うんだけど、みんなはどう思う?」

 

私の提案に対する、みんなの反応はよくない。それも痛いほどわかる。

 

私たちは初日から広くて最高の拠点を獲得し、食事も充実していた。サバイバルではあるけれど、どちらかといえば楽しいキャンプ気分になっていた人も多かったと思う。

 

初日と2日目の『天国』を経験してしまったからこそ、今のこの『地獄』の落差を受け入れにくいのだ。

 

重苦しい雰囲気が、完全に場を支配した。

 

そんな最悪の空気を切り裂くように、柴田くんが声を荒らげた。

 

「だったら俺が全部獲ってくる!今日の分くらい、俺ひとりでなんとかしてやるよ!」

 

彼の顔は焦りで酷く歪んでいた。ケガで包帯を巻いている腕も、痛みを無視するように荒々しく振り払って海へと向かっていく。

 

「待って、柴田くん!無理だよ、そんなの!」

 

思わず声を上げて止める。現実的じゃない。まだ琥珀くんから直接教わった私と麻子ちゃんの方が、柴田くんよりも素潜りの実力がある。けれど、彼は絶対に振り返らない。

 

「俺にだってできるんだ!白銀なんかに......負けるもんかよ!」

 

その悲痛な叫びに、少しだけ心臓が痛んだ。

 

琥珀くんが残した巨大な影は、こうして柴田くんを追い詰めている。勝ちたい、負けたくない。

 

その純粋な気持ちが空回りして、ただ徒労に消耗していくだけ。

 

このままだと、同じことの泥沼の繰り返しになる。

 

夕方。結局、柴田くんは小さな魚を2匹だけ獲って帰ってきた。片腕をさらに痛め、唇を血が出るほど噛みしめながら。私と麻子ちゃんが獲ってきた分を含めても、クラス全員の1食分にも満たない。

 

「......ごめん」

 

そう呟く声は小さくて、悔しさと情けなさが色濃く滲んでいた。だが、柴田くんのその自己犠牲の努力を讃える声は、クラスの誰からも上がらなかった。

 

「包帯を変えるための救急セットで、またポイント消費?......ほんと、やってらんない」

 

周囲の冷たく責めるような視線が、柴田くんを容赦なく突き刺す。私は必死に庇おうとした。

 

「ち、違うよ!魚を2匹でも獲ってきてくれたんだから、それはすごいことで──」

 

けれど、私の必死の声はみんなの荒んだ心にはもう届かない。この場では柴田くんを直接責める声はなくなったけど、これもまた一時しのぎに過ぎない。

 

全員のフラストレーションが、限界を超えてどんどん溜まっていくことだけがハッキリとわかった。私たちは、琥珀くん抜きで今回の試験を乗り越えることができるのだろうか。

 


 

無人島試験7日目、ついに結果発表の日。

 

全クラスが、初日に降り立った砂浜へと再び集合している。

 

まだ正式な結果は告げられていない。けれど──各クラスの雰囲気と表情を見比べれば、もうすでに答えは出ているようなものだった。

 

堂々と胸を張り、揃った足取りで整然と並んでいるAクラス。

 

龍園くん以外、全員がリタイアした異常なCクラス。彼一人だけが腕を組み、何を考えているのか分からない不敵な顔をしている。

 

期待に満ちた表情で正面を向き、光を帯びたように明るい空気をまとっているDクラス。

 

そして──大半が下を俯き、お通夜のように沈みきってしまっている私たちBクラス。

 

結果なんて、見るまでもなかった。

 

『この一週間、我々教員はじっくりと君たちの特別試験への取り組みを見させてもらった。真正面から試験に挑んだ者。工夫し試験に挑んだ者。様々だったが、総じて素晴らしい試験結果だったと思っている。ご苦労だった』

 

拡声器を通した真嶋先生の事務的な声が、砂浜に広がったざわめきを押し沈める。耳に届く声ははっきりしているのに、胸の奥には全く届いてこない。私の心は既に、最悪な嫌な予感で満たされていたからだ。

 

『ではこれより、端的にではあるが特別試験の結果を発表したいと思う』

 

「おいおい、随分と暗い顔じゃねぇか。結果発表の前から敗北確定って面してやがるな」

 

「──そんなことないよ。私たちは、自分たちにできる最善をつくしたから」

 

隣に立つ龍園くんに、精一杯の強気な笑顔で返したつもりだった。けれど龍園くんは鼻で笑い、露骨に馬鹿にしたような視線を投げつけてくる。

 

「ハッ、バカみたいな痴話揉め事でクラスの最大戦力をリタイアさせたのに、最善を尽くしたァ?無人島生活で頭までイカれたのか?」

 

「っ、それは......」

 

言葉が出ない。彼がどこまで内情の情報を知っているのか分からない。でも──あの事件が、クラス内の醜い不和が、私たちの最大の敗因になったことは否定しようがなかった。

 

胸が強く締め付けられ、呼吸が浅くなる。返す言葉を探そうとするけれど、喉にひっかかって声にならない。

 

数秒の沈黙が、永遠にも思えた。

 

『ではこれより特別試験の順位を発表する。最下位は───Bクラスの0ポイント』

 

──なん、で?

確かにポイントはかなり消費した。ペナルティもあった。それでも、計算上は最低でも50ポイントは残っていたはず。ありえない、0ポイントだなんてそんなこと。

 

「嘘、だろ......?」

 

誰かの震える小さな呟きが、私の心の声と完全に重なった。周囲を見渡すと、クラスメイトたちは一斉に絶望して俯いている。

 

顔を上げている人間は神崎くんとユキちゃん、麻子ちゃんくらいだ。負けを覚悟していたとはいえ、これはあまりにも残酷すぎる現実だった。

 

『同率最下位──Cクラス』

 

『2位──Aクラスの100ポイント』

 

『1位──Dクラスの260ポイント』

 

『以上が、今回の無人島試験の結果だ』

 

実質、底辺だったはずのDクラスの独り勝ち。私たちだけじゃない。Dクラス以外の全てのクラスが、圧倒的な敗北の雰囲気に包まれている。

 

Cクラスは龍園くんだけだけど、何が起きたかわからないという顔をしている。Aクラスは、葛城くんにほとんどの生徒が鬼の形相で詰め寄っている。

 

Bクラスは──結果発表前と変わらない。大部分が絶望して下を俯いている。

 

負けることは、正直予想できてしまっていた。それでも、0ポイントという無慈悲な結果と、無意識に見下していたDクラスに負けたことが、みんなの心にダメージを与えている。

 

唯一Dクラス、彼らだけは抱き合い、笑い、涙まで浮かべながら勝利の喜びを分かち合っている。

 

 

 

 

 

私たちBクラスは、勝利どころか──勝負の土俵にすら立てていなかったのだ。

 


 

船に乗船してすぐの豪華なエントランスの廊下で、私たちBクラスは、涼しい顔でリタイアしていた白銀くんに出迎えられていた。

 

Dクラスは堀北さんが、Cクラスは大半の生徒が龍園くんを出迎え、唯一リタイア者のいないAクラスは出迎えはないものの、相変わらず葛城くんがクラスメイトに激しく詰められている。

 

「確かに、結果で僕を黙らせてくれとは言ったけど──まさか、こんな黙らせ方をしてくるなんてね」

 

無人島の地獄から帰ってきたばかりのBクラスを迎えたのは、白銀くんからの暖かい労いの言葉──なんて、優しいものでは決してなかった。

 

底辺のゴミを見るような、あるいは全く興味がない路傍の石にむけるような、極めて冷ややかな視線と言葉だった。

 

「っ、でも、俺たちは精一杯やったんだ!途中で逃げるようにリタイアしたお前には分からないだろ!」

 

一瞬言葉に詰まった柴田くんだったが、負けん気が発動したのか、強めに言葉を荒らげて返した。

 

それに対し、白銀くんは心底呆れたように軽くため息をついた。

 

「僕がリタイアしたくだらない理由を、もう忘れたのかな?......ねぇ、白波さん」

 

名指しで声をかけられた白波さんは、ビクッと激しく身体を震わせ、怯えるようにクラスメイトの後ろに隠れた。

 

でも、そんな彼女のことを庇って前に出る人間は、このクラスにはもう誰もいない。

 

「分からないだろって、分かるわけないよね。僕は口だけじゃなく、常に結果をだしてこのクラスに貢献していた。僕に反論したいなら──君は『結果』を出すべきだったよ、柴田くん」

 

この残酷な正論に、柴田くんは完全に黙らざるをえなかった。スポーツをしている柴田くんは、結果を出すことの絶対的な重要性を誰よりも理解している。

 

今はただ、やり場のない気持ちが先行してしまっているだけだ。

 

「まあ、リタイアしたお陰で堀北さんや伊吹と有意義な交流ができたし、僕にとっては悪い事ばかりではなかったよ」

 

「琥珀。そんなくだらない嫌味より、先に食事とシャワーを済ませたいんだが。お前は今まで快適だったろうが、俺たちはそうじゃないからな。お前の気に入った店に案内してくれ」

 

そんな最悪の空気の中、神崎くんが白銀くんにフラットに話しかける。この場の空気には全くそぐわない、気心の知れた仲の良い友人へ話すように。

 

網倉ちゃんとユキちゃんも、神崎くんのその言葉に無言で賛同の意を示す。

 

「ん?ああ、そうだね。じゃあ少しだけ待っててくれるかな。そもそも僕は、君たちBクラスの『出迎え』にきたわけじゃないから」

 

その言葉に、神崎くんたち3人はもちろん、Bクラスの生徒達全員がクエスチョンマークを頭の上に浮かべていた。

 

リタイア者の出迎え以外に、彼がこんな目立つ場所にいる理由が思いつかないからだ。

 

白銀くんはそのまま悠然と歩みを進め、青ざめた顔で立っている星之宮先生の前でピタリと立ち止まった。

 

そして、まるで明日の天気の話でもするように、平然と、そして残酷に告げる。

 

「星之宮先生───『クラス移動の権利』買います。売ってください」

 

その言葉に、Bクラスだけではなく、周囲にいた全クラスの生徒が雷に打たれたような衝撃を受け、同時に自分の耳を疑った。

 

クラス移動の権利の購入には、個人で『2000万プライベートポイント』という天文学的な数字が必要だ。

 

つまり、白銀くんは現時点でそのふざけたポイントを完全に所持していることになる。

 

「あ、あはは......何言ってるのかな。もー、白銀くんってば、冗談うまいんだからぁ」

 

星之宮先生は、ピクピクと引きつった笑顔を作る。額からは滝のような汗が滲み、視線は激しく泳いでいた。

 

白銀琥珀という絶対的なカードを手放せば、Bクラスの未来は完全に潰える。他クラスの敵に回れば、Aクラス昇格の夢は永遠に絶たれる。その恐怖が、大人としての理性を凌駕しようとしていた。

 

「まさか。大真面目に本気ですよ。この場でポイントをお支払いします」

 

白銀くんは涼しい顔のまま、逃げ道を塞ぐように畳みかける。数秒の沈黙が、星之宮先生には永遠に思えた。

 

そして──周囲の目がある以上、教師として渋々と首を縦に振るしかなかった。

 

「──わ、わかったわ。申請書類の準備が出来たら呼ぶわね。ポイントはその時に支払ってもらうから」

 

星之宮先生がこの公の場でできる最善の抵抗は、今すぐポイントを受け取らないことだった。

 

「えぇ、それで構いません。よろしくお願いします」

 

白銀くんはあっさりとその申し出を受け入れ、神崎くんたちに視線を向ける。

 

「僕の用事は終わったから、ご飯に行こうか。船内のオススメのお店に──」

 

「ふざけるなッ!!」

 

白銀くんの胸ぐらが、乱暴に掴み上げられる──鬼のような剣幕で激昂した神崎くんに。

 

「──そんな話、一切聞いてないぞ!お前がいれば、お前さえいれば、俺たちはどのクラスにも絶対に負けない!......そうだろ!?」

 

いつも冷静な神崎くんの怒声。ユキちゃんは引きつった表情を浮かべ、麻子ちゃんは不安な表情を浮かべながら、掴み合う2人のことを見つめている。

 

「痛いよ、隆二。......僕がなにか君を怒らせるようなことをしたかな?僕にはよくわからないんだけど」

 

分からないはずがない。白銀くんがこの場で、他クラスも含めた全員がみている場でわざわざこのド派手なアクションを起こしたのは、敢えて計算してやっているのだから。

 

そのあまりにも白々しい挑発めいた言葉に、神崎くんは眉間に深い皺を寄せる。

 

握りしめた拳が震え、時間が止まったように極限まで張り詰める。けど、事態を重く見た教師たちが慌ただしく間に入り、二人は無理やり引き剥がされた。

 

乱れた襟元を直しながら、白銀くんは最後まで微動だにせず、ただ冷たく言い放った。

 

「僕が、正当なルールに則ってクラス移動の権利を買っただけだ。これは、僕の自由だよ」

 


 

「星之宮先生───クラス移動の権利買います。売ってください」

 

琥珀くんのその言葉を耳にした瞬間、私の世界が一瞬で反転した気がした。心臓が凍りついたみたいに動かなくなって、頭の中は真っ白になった。

 

無人島試験での大敗という結果発表の衝撃も、名前呼びの禁止で受けた深い傷も、船に戻ってからずっと感じ続けていたクラスメイトの冷たい視線も──落ち込む暇すら、今の私には与えられなかった。

 

琥珀くんが......クラスを移動する?

 

同じクラスで、隣の席で、毎日が宝物みたいに過ぎていったあの時間が──突然、完全に奪われてしまう?

 

高校での再会は偶然なんかじゃない、運命だと信じてた。それなのに、彼は別のクラスに行ってしまう。私の手の届かない、遠い場所へ。

 

どうして。どうしてなの。

 

私があの冤罪事件の時に、はっきりと彼の味方になれなかったから?クラスの調和を優先してしまったから?

 

それとも──単純に、私のことを嫌いになったから?

 

胸の奥で何かがぐちゃぐちゃにかき乱されていく。

 

嫌だ。嫌だ。嫌だ。絶対に行かないでほしい。私はまだ、彼と一緒にいたい。琥珀くんがいない学校生活なんて、絶対に無理。

 

だって私は──彼のことが、どうしようもないくらい好きなんだから。

 

喉の奥から熱いものがこみ上げてくる。どうして、こんな一番大事なときに私は何も言えないんだろう。

 

止めないと。止められるかどうかじゃない。絶対に止めるんだ。どんな手を使ってでも。

 

お願いだから行かないで。私の隣から、消えないで。みんなの前で泣きすがって、地ベタに這いつくばって縋り付いてでも止めないと。

 

すぐ手を伸ばせば届く距離に彼がいるのに、何もせずに見送るなんて絶対に嫌だ。諦められない。絶対に諦めたくない。

 

なんでもする。私のもっているものなら、なんでも差し出す。今度こそ、琥珀くんを一番にするから。私にとって大切なのは、クラスの和でも周囲の目でもない。琥珀くんただ1人なの。

 

だからお願い。ここにいて。私の近くに。私が隣にいることを、どうか許して。

 

頭が酸欠みたいに痛い。思考は真っ白なのに、視界だけがだんだんと真っ黒に染まっていく。

 

足元がふらついたと思った瞬間──私はそのまま、深い意識の底へと手放されていた。

 


 

(うっわ、性格わっる)

 

白銀のあの一言を聞いて、私が最初に思ったのはこれだった。

 

だってそうでしょ?大敗して気落ちしているクラスメイトにかける言葉が、労いでも慰めでもなく、冷たい正論の突き放し。

 

そのうえで畳みかけるように『クラス移動の権利購入』なんて特大の爆弾を落とす。

 

絶望の二重攻撃。いや、三重かな。

 

『リタイア』→『冷たい言葉』→『クラス移動の権利購入』なんて、クラスメイトをここまで徹底的に追い詰めるのは、普通の人間のやることじゃない。

 

これは明らかに、Bクラスへの精神的な攻撃だ。自分がクラス移動するついでに、不要になった元のクラスに完全にトドメを刺そうとしてる。そういうふうにしか見えない。

 

──うっわぁ。本当に性格悪すぎ。でも、嫌いじゃない。

 

表では点数稼ぎをして、裏では腹の中で笑ってるような人間より、よっぽど好感を持てる。偽善ぶらないし、綺麗事でごまかさない。

 

性格は最悪でも、やってることは極めてわかりやすい。私みたいに裏の顔をまったく見せない人間より、むしろ信用できるくらいだ。

 

まあ、私の裏の顔を知っちゃってるから、いずれは社会的に抹殺して退学させるつもりだけど。そこは譲れない。それとこれとは別の話。

 

クラス移動するとして、どこに行くのかな。

 

Dクラスはありえないでしょ。論外すぎる。じゃあ、もしAクラスやCクラスに行ったら?

 

うーん......どこに移動しようが、私にとっては大差ないかも。

 

だって、どうせ朝のランニングには毎日付き合わされるし。結局は退学でもしない限り、白銀琥珀という存在がこの学校にいる限り、私の生活リズムは変わらない。

 

クラスが変わっても、彼が私の前から完全に消えるわけじゃない。

 

だから正直、どうでもいい。私にとってはあんまり関係ない話だし。

 

まあ、でも──クラス移動なんて大騒ぎを起こして、他クラスをかき回して、その中心で涼しい顔をしてる白銀を見るのも、それはそれで楽しそうかも。

 

最後は私が地獄に叩き落として退学させてやるけど。

 

──あ、でも、さっき堀北と関わったとか言ってたよね。やっぱり、今すぐ地獄に叩き落としたい。

 


 

 

──チャンス。

 

そう思った瞬間、胸の奥で硬く絡まっていた糸がほどけるような感覚がした。私の中の何かが、音もなく弾けた気がする。

 

白銀くんが『クラス移動の権利を買う』と言ったとき、周囲はざわめきに包まれていた。驚愕、動揺、焦り、そして恐怖。

 

でも、私は違った。私の心に広がったのは、そう──期待、希望。ぞくぞくするような高揚感。

 

Bクラスから彼がいなくなる。Bクラスにとっては致命的な絶望かもしれない。でも、私にとっては最高の好機でしかない。

 

なぜなら、彼の居場所が変わるから。居場所が変わるということは、新しい環境で新しい関係を築く余地が生まれるということ。

 

現時点で、白銀くんが底辺のDクラスに来る可能性は高くない。わかっている。私自身、それは冷静に理解している。

 

でも──ゼロじゃない。

 

ほんの僅かでも、数%でも可能性があるなら、その確率を少しでも上げればいい。白銀くんに『Dクラスを選びたい』と思わせればいい。

 

Dクラスの大半は白銀くんに好意的だ。須藤の件で感謝している人も多いし、何より彼の圧倒的な存在感は、みんなの心に強く刻まれている。

 

普通に考えれば、拒否感を持つ者より歓迎する者の方が多いはず。

 

でも、障害はある。それが──あの三馬鹿。

 

あの気色悪いトリオがいる限り、白銀くんがDクラスを快適だと思えるはずがない。彼は無駄なストレスを嫌う。

 

くだらない口論や無意味な反発に巻き込まれることを心底面倒くさがる。

 

だから、それを無くす必要がある。そうならないように環境を整える必要がある。そのために、まずは三馬鹿をどうにかしないといけない。

 

退学に追い込む?それとも弱みを握って一生黙らせる?

 

方法はいくつもある。手段を選ばなければ、私なら必ず解決できる。

 

この機会を逃す理由はない。私が白銀くんに、今よりもっと近づけるかもしれない最大のチャンスなのだから。

 

誰よりも強く、冷たく、カリスマ性があり、そして時々見せる人間味に、私は既に心を完全に奪われている。彼と同じ教室で授業を受けたい。隣の席に座りたい。名前を呼ばれたい。頼られたい。

 

白銀くんがDクラスに来る──この可能性を、私は絶対にゼロにしない。ゼロにさせない。私が、確率を上げてみせる。

 

彼が私の隣に座る未来。彼と同じ時間を共有できる未来。その未来のために頑張る。

 

 

 

 

 

 

 

──んっ、考えるだけで胸の奥に甘い痺れが広がる。

 

白銀くんはきっと気づいていない。

 

私がどれだけ彼を熱っぽく見つめているか。

 

私がどれほど彼に深く執着しているか。

 

でもいい。今はまだ知らなくていい。その方が仕掛けやすいから。

 

いつか彼が気づく時に、その瞬間に『自分のそばに松下千秋がいることが当たり前になっている』──そういう状況を、私は必ず作り上げる。

 

もしかしたら、同じクラスになれるかも。Dクラスに来てくれるかも。

 

その考えが頭に浮かんだ瞬間、心臓が大きく跳ね上がるのが自分でもわかった。胸の奥がじんわり熱くなる。自分でも呆れるくらい、過剰に期待してしまっている。

 

現実的に考えれば、Dクラスに来る可能性は低い。白銀くんは頭が良くて、先を読むのが異常に得意だ。彼がDクラスをどう見ているのか、私には正直分からない。

 

それでも──

 

考えれば考えるほど、答えは遠くなっていく気がする。現時点でただひとつ言える確実なことは、彼がクラス移動を宣言した瞬間、私の世界が大きく揺らいだということ。

 

どうしようもないくらい期待してしまっているということ。もし、もし本当に同じクラスになれたなら。

 

私は変われる。白銀くんの隣に並べる自分になれる気がする。彼が支配する空気に怯えるんじゃなく、その一部になりたい。

 

みんなから怖がられてもいい、嫌われてもいい。彼の隣に立てるなら、それでいい。今の安全な立場もいらない。

 

Dクラスに来てもらうために私にできることって、なんだろう。三馬鹿を排除する?クラスの空気を徹底的に整える?

 

ああ、ダメだ。自覚はしてた。もちろん、自覚はしてた。でも、ここまでだとは思わなかった。自分でも笑えちゃうくらい重症だ。

 

私は彼に恋をしている。

 

守られたいからでも、利用できるからでもない。ただ、本能で惹かれてしまった。

 

 

お願い、琥珀くん。どうか、Dクラスに来て。

 

多くは望まない。それだけでいい。ただ隣にいさせてくれるだけでいい。

 

私の人生は、あなただけで完成するから。

 


 

──勝った。

 

胸の奥で、確かな感覚が弾けた。まるで長く閉ざされていた扉が、音を立てて開かれるように。

 

『星之宮先生──クラス移動の権利買います。売ってください』

 

彼の口から放たれた言葉は、衝撃というよりも私に確信を与えてくれた。

 

彼がクラスを離れるというなら、移動先の選択肢はそう多くない。いや、一択に等しい。

 

Dクラスはまとまりに欠ける。櫛田だの松下だの、女子同士が裏でギスギスと牽制し合うだけの不安定な集団。

 

Cクラスは龍園の独裁。あの粗暴な支配体制に、彼が自ら希望して身を置くなんて愚行を犯すはずがない。

 

残されたのは──私たちAクラス。この特別試験後からは坂柳が完全に統べることになる、唯一比較的安定したクラス。

 

彼が選ぶのは、必然的にここしかない。

 

やっと、手が届く。

 

胸が高鳴る。冷たい表情の下に隠された彼の深い瞳。あの日、私の心を撃ち抜いた声。忘れられるはずのない光景。

 

あれから私は、一度たりとも忘れたことはなかった。赤く染まる夕焼けの下、コンビニで起きたあの出来事を。私の万引きを止めた、彼の姿を。

 

『自分を粗末に扱うのがバカだって言ったんだよ』

 

そう言い放った彼の横顔が、今も脳裏に焼き付いて離れない。

 

それなのに、彼は私のことを全く憶えていなかった。

 

悔しい。忘れられていたことが、胸の奥をひどくざらつかせる。

 

けれど、その悔しさすらもうすぐ甘美なものに変わる。

 

だって、これから同じ教室で過ごせるのだから。毎日同じ空間で、少しずつ思い出させてやればいい。

 

坂柳に話を通してあげないとね。

 

頭の中で計算を巡らせる。彼がこのクラスにスムーズに馴染めるように、裏で話を通しておこう。

 

坂柳に本当の価値を伝えれば、すぐに重用されるはずだ。坂柳も興味を示していたし。

 

ああ、勝利の確信に、心が熱くなる。

 

 

勝った──これは運命でしかない。

 

 

彼が選ぶならAクラスしかない。つまり、それは私と同じ場所を選ぶということ。

 

──思い出させてやる。

 

──これから何度だって、私の存在をあなたの脳に刻みつけてやる。

 

授業中に何気なく視線を交わす。休み時間に何気なく声をかける。些細な会話の一つ一つを積み重ねて、心に染み込ませていく。

 

やがて彼が気づいたときには、もう私のことで頭がいっぱいになるように。

 

私は彼に怒っていた。でもそれは、憶えていなかったことへの理不尽な怒りでしかない。

 

でも、今は違う。心の大半を占めているのは──彼と同じ教室にいられるかもしれないという、甘美な期待だ。胸の奥が甘く痺れる。

 

──これからは、四六時中同じ空間で過ごせる。

 

私はその未来を全く疑わない。勝利の余韻を胸に、自然とこぼれる笑みを抑えることができなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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