須藤の処罰確定から3日後、美学研究会には二つの影があった。部長の白銀琥珀と、1年Dクラス、軽井沢恵の姿だ。
「よく来てくれたね、軽井沢さん」
「何がよく来てくれたね、よ。私、あんたにポイント借りた覚えないんだけど」
入室早々に強気な態度をとる軽井沢。白銀は表情をまったく変えずに話す。
「どうやら、歓談を楽しむ心の余裕さえないみたいだ。いいよ、お望みなら本題に入ろう。僕は君がポイントを借りてるDクラスの女子たちから、君の債権をすべて買い取った。つまり、今の君は僕の債務者だ」
「ッ、だからなに。返せって言われても、そんなポイントないから」
「まさか、僕は鬼じゃないんだ。そんな酷いことはしないよ」
依然として強気の姿勢を崩さない軽井沢だが、白銀の言葉を聞いて内心では安堵していた。白銀の態度も柔らかく、軽井沢は普段通りの言動を行えていた──ここまでは。
「僕のサークルに入って、ランジェリーモデルをしてくれたら帳消しにしてあげる」
「は?そんなの──」
「静かに。僕がまだ話してる」
冷たく、一切の感情を排した強い口調で制され、軽井沢は思わず口をつぐむ。つい先程まで、柔らかく優しい声で話していたとは到底思えないほどの圧だった。
「......本当に黙るんだね。今のは怖くても、『うっさい』とか『だから?』『早くして』くらいは言い返さないと。高校デビューを隠し通したいなら、そのくらい頑張らないとね」
途端に軽井沢を襲う悪寒。荒くなる呼吸。軽井沢は、目の前にいる白銀が『自分のすべてを知っている』ようで、恐ろしくてたまらなかった。
(──いや、すごい。よくこんな脆い精神で、今まで隠し通せてたな)
実は、白銀は軽井沢の凄惨な過去など何も知らない。ただ、集めた情報から推察して少しカマをかけてみたに過ぎない。軽井沢は完全に勘違いをして自滅しかかっているようなので、白銀はそれを利用して話を続ける。
「軽井沢さん。考えてみなよ。君は僕に、いつから狙われてたと思う?」
「ねら、私、を?」
気がつかなかった。軽井沢は、全く気が付かなかった。当然だ。白銀が勝手に口八丁で誘導しているだけなのだから。それでも、軽井沢はパニックになりながら考える。自分はいつから狙われていたのかと。
「.........いつ、からなの」
考えたところで結論は出ない。最初の強気な態度は、もう見る影もない。軽井沢の弱々しい問いに、軽く微笑んで白銀は答える。
「須藤が赤点を回避したときからだよ」
本当ではないが、嘘でもない。その時から、堀北か軽井沢のメンタルを崩して手中におさめたいと白銀は考えていた。
「うそ、なんで、私を」
白銀の言葉に、軽井沢はすっかり説得力を感じてしまっていた。今までの白銀の底知れない実績と、今自身が置かれている状況。その全てが、白銀の言葉を肯定している。
「顔とスタイル。あとは、クラスでの立ち位置かな」
「あ、う......」
軽井沢の心を包み込む絶望。言葉にもならない声が発せられる。絶対に隠したかった過去さえ、白銀は完璧に把握している。軽井沢には、もうそうとしか思えなかった。
「色々と大変だったよ。松下の地位を固めるための実績作り。そして、君の内面の把握」
頭を垂れ、敗北感に打ちひしがれているように見える軽井沢の姿を見た白銀は、更なる追い討ちをかけるように、親切心からここまで何があったのかを解説する。
「まず、須藤の弁護の時、あの重い空気で何も喋らないのはまずいよ。気が強いギャル系女子を演じたいなら、馬鹿でもなんでも空気を読まずに強気にいかないと。あと、三人が頭を下げる時に迷ったのもよくなかった」
「謝るなら謝る。謝らないなら、迷う素振りをみせない。意思の弱さが垣間見えた。ああ、かなり前の話になるけど、君はポイントを借りる時にお願いしてたんだっけ?それもアウト」
「『貸してくれない?』とか『少しだけダメかな?』じゃなくて、『貸してくれるよね?』『幾らくれる?』とかじゃないと」
(松下から聞いた詳細な情報と、生徒会室での話し合いの態度。さらにこの数日間、松下に軽井沢をチクチク攻撃させた時の怯えた反応......軽井沢は過去に、人間関係で深刻なトラブルを抱えていたことは容易に推測できる)
「まだききたい?」
「もう、いい。......分かったから」
『君を狙っていた』『顔とスタイル』『ランジェリーモデル』『知られている過去』『白銀のテリトリー』『誰もいない密室』
状況と発言のすべてから、軽井沢は悲壮な決意をした。
惨めでいじめられていたあの過去に戻らないために。白銀の要求を全て呑むことにしたのだ。
「そう、ならよかった。まあ、断られたら君の地位を更にたたき落とすだ──」
しゅるしゅると布が擦れる音が白銀の耳に届き、それと同時に、軽井沢が突然制服のブラウスのボタンを外し、脱ぎ始めた。
白銀、大混乱。
それもそのはずである。『ここで今すぐ脱げ』だなんて一言も言っていないし、軽井沢の過去も知らない。
目的も最初に『自社ブランドのランジェリーモデル』と伝えている。借金は帳消しとは伝えたが、借金分を差し引いた正規のモデル報酬を支払って、恩に着せようとさえ考えていたのだ。
「な、脱ぎ、なぜ、脱がないで」
この学校に入学してから、白銀はここまで取り乱したことはなかった。この学校に来てから初めて直面する、全く理解できない行動。
元カノである波瑠加を見つけた時でさえ、ここまで狼狽えることはなかったのに。
白銀の激しく取り乱している姿を見て冷静になった軽井沢。軽井沢が慌てて服を着直したことで、なんとか冷静になった白銀。
互いにクールダウンしたことで、今度は含みのない話し合いができた。過去がバレていると思い込んでいる軽井沢は、自暴自棄になってこの時に自ら凄惨ないじめの過去を話してしまった。
「ランジェリーモデルはやるから......私の過去のことだけは黙ってて。お願いします」
「いや、公表しよう。さっきの致命的なボロの出し方からして、君が今後も隠し通せるとは思えない。公表した方が君のためにもなる」
(美談のブランドストーリーにするには、もってこいの壮絶な内容だ)
「公表って、まさか、クラスに言いふら──」
「あまり僕を見くびらないでほしい。僕は、僕に従う人間に酷いことはしない。僕の意思に反していなければ、ね」
公表とは、公にすることだ。白銀は間違いなく今、広める旨の発言をしたのだ。
「誰に広めるつもりなの。お願い。お願いだから、言いふらすのだけはやめて」
懇願にも近く、白銀の腕にすがりついて頼み込む軽井沢。白銀は自身の腕を掴んでいる軽井沢の手を、優しく剥がした。
「──トラウマは商品になる。痛みを語れるモデルは、それだけで唯一無二だ」
「でも、みんなに知られたら私、私......過去を知られるのも、同情の目で見られるのも嫌!」
軽井沢の声は震えていた。軽井沢が恐れているのは、知られることそのものじゃない。『可哀想な子』として受け止められ、扱われることだ。その心理を、白銀は誰よりも理解していた。
「君が想像してるような、クラスに言いふらすとか小さな話じゃない。もっとスケールの大きい『演出』だよ。僕の頭の中には既に、君がトップに駆け上がる、君のためだけのシンデレラストーリーが出来上がっている」
軽井沢は言っていることが分からず、『でも』と声をあげようとする。それは白銀の指によって優しく制された。
白銀はそのまま、軽井沢の震える両手を優しく握りしめる。手を握りしめられていた軽井沢は最初こそ戸惑ったが、途中で冷静になり、ここまでの話を振り返り、白銀が害を加えようとしていないことを頭で理解した。
握られていた手を振り払うようなことはしなかった。いつぶりにか感じた人肌の温もりは、酷く心地よかった。
軽井沢が冷静になったのがわかったのか、白銀は顔を近づけ、軽井沢の耳元で甘く囁いた。
「安心して。僕が圧倒的な価値に変える。過去も、痛みも、君自身も──全部、ね」
「あうっ...........」
吊り橋効果が、どのような状況でも絶対的な効果があることが証明された瞬間だった。
「異論はないみたいだね。本当は使い潰すつもりだったけど、気が変わった。これから撮影して明日のWEB公開に間に合わせる。テキパキ動いてよ」
須藤の処罰が決まってから一週間。Dクラス女子の勢力図は大きく変わっていた。
女子の揉め事は対岸の火事とばかりに、無関心な男子が多くいたのが悪かったのか、数名は手痛い目に遭っている。
「山内くんに告白した覚えないんだけど。デマばらまくのやめてもらえるかな」
松下千秋。入学当初は目立たず、櫛田グループと軽井沢グループにどっちつかずの姿勢をとっていた彼女が、現在三つに分かれているDクラス女子グループのリーダー格の一人だ。
「ってか、前は佐倉に告白されたとか言ってたじゃん。嘘つきすぎじゃない?」
軽井沢恵。松下とは異なり、入学当初からクラスの中心人物である平田と恋人関係になり、男女問わず強い発言力を持っていた彼女が、今は松下グループのNo.2に収まっている。
「いや、別に、嘘とかじゃねーし。ただ、少しだけ勘違いしてたっつーか......ってか、別に責めることじゃねーだろ!」
これがまず、大きな変化の一つだ。今回の須藤の件が起きる前の女子グループの力関係は、軽井沢グループ>櫛田グループ>その他(松下など)だった。それがこの短い期間で、松下グループ≧櫛田グループに逆転している。
須藤の処遇を巡る話し合いで無力さを露呈した軽井沢グループは、そっくりそのまま台頭してきた松下グループに吸収される形となったのだ。
なお、軽井沢恵は現在、白銀が立ち上げた『美学研究会』サークルに所属している。
「責めるとかじゃなくて、イメージが下がるからやめてって言ってるの」
松下グループの特徴は、物怖じしない強気な態度と排他的な姿勢。迎合する者には優しく、関わってこない相手には無干渉で返す。一転、反発してくる者や山内のように害を為す者には徹底して冷たい。
「まあまあ、山内も悪気はなかったはずだし、今回は許してやってよ。な、頼むから」
「自意識過剰すぎんだろ。わざわざ聞き耳立てて、んな文句言いにくるとか」
「聞き耳たてなくても、声が大きいから勝手に聞こえてくるの。自分のイメージを損なう嘘を広められてるんだから、止めるのは普通の行動じゃないかな。これ以上イメージを下げようのない須藤くんには分からないだろうけど」
割と大人の対応を見せる池に対し、自身をこんな目に遭わせた白銀と親しい松下と、白銀のサークルに所属してすっかり懐いている軽井沢。須藤からすれば、どちらも気に入らない存在だ。
そんな人間に煽るようなことを言われれば、反射的に手が出る。それが男子であろうと女子であろうと。今までの須藤であれば、少なくとも胸ぐらくらいは掴んでいただろう。
「クソがッ!そんなんだから、過去にイジメられんじゃねーのか!軽井沢!」
須藤は暴力に訴えなかった。精神的に成長した、なんて素晴らしい話ではない。
部活の朝練と放課後の練習に参加できないペナルティを、経緯とともにバスケ部の顧問へ説明した結果、こってりと絞られたのだ。もし今後少しでも問題を起こせば土日祝の練習にも参加させないし、強制退部も考えると宣告されている。部活一筋の須藤には、これが効果てきめんだった。
とはいえ、気性の荒さが根本から治ったわけではないため、須藤は口で言い返さないと気がすまない。松下に反撃しても口喧嘩でやられるのが目に見えているため、WEB記事で壮絶ないじめの過去が公表されたばかりの軽井沢へとターゲットを変えたのだ。
「みんな、揉め事はやめよう。せっかく同じクラスなんだから、仲良くしないと勿体ないよ、ね?」
櫛田桔梗。Dクラス女子グループのもう一人のリーダー格。なお、三つ目の勢力は堀北や長谷部のようにグループに属さない無所属の人間である。櫛田グループの特徴は、温和で平和的、人を選ばず誰にでも優しいこと。松下のグループとは完全に真逆のスタンスだ。
「それって、須藤の暴言と山内の虚言は放置しろってこと?そんなこと言うんだ、櫛田さん」
大きな変化の二つ目。今までには決して起きなかった、女子トップ同士の表立った対立。Dクラスの雰囲気がピリつくことが明らかに増えていた。
(白銀琥珀。須藤がクラスに貢献出来る可能性がある部分を完全に潰し、厄介なお荷物状態にした上でクラスに残した。それを、Dクラスの過半数に『救済してくれた』という好印象を与えつつ成し遂げた。並の人間にできることじゃない)
(最近のクラス、バチバチしてる)
食堂で注文したカレーを、話す相手もなく1人で黙々と口に運ぶ長谷部。考えるのは、最近のクラスの様子について
入学当初は一部を除いて全体的にまとまっていたクラスが、今では全体的なまとまりは薄くなり、グループごとに分かれている。それは悪いことではないが、グループ同士で仲良くできていないのは問題だと長谷部は考えている
(琥珀は何を考えているんだろう。松下さんは多分、琥珀の指示で動いてるはず)
美学研究会、つまり白銀と関わってから松下は変わった。それは白銀が何かしらの指示をしているからだと長谷部は考えている。半分あたりで半分外れである。白銀から多少の指示はあるが、やり方であったり何をするかまでは関与しておらず、松下に一任されている。なにより、変わったではなく松下が隠すのをやめ始めているの方が正しい
(私が考えても仕方ないことだけど、琥珀が関わってると気になる)
なにか面白い噂でもないかと思いながら、端末を操作する。確認するのは学校掲示板だ。白銀が動きを見せれば、良くも悪くも目立つ白銀は掲示板に書き込みされる
5分程度探したが、白銀に関する新しい情報が得られるような投稿は何もなかった。端末をポケットに入れ、冷めたカレーに視線を向ける。しかし、長谷部の視界に入ったのはカレーだけではなかった
いつの間にか目のイスに座って、優しく微笑みながら自分を見ていたのは
「相席、お願いしてもいいかな。もう座ってるけど」
「──う、ん」
──未練断ち切れぬ元カレだった
「まさかこの学校で会うことになるなんて、驚いたよ」
「うん」
平然と話す白銀。心を乱されている長谷部
「しかし、君がDクラスなんて。この学校の評価基準を疑うね。まあ、僕がBクラスに配属されてる時点で期待してないけど」
「変わってないね、その性格」
話したいと思ってはいた。だが、話しかけに行く度胸はなかった。そんな長谷部に訪れたチャンス。長谷部はバクバクと飛び跳ねている心臓を無視して、話を続けた
「君も変わってないね。須藤みたいな乱暴者に声を荒らげるなんて、相変わらず向こう見ずのバカだ」
「ちょっと、私は褒めてあげたんだけど?」
「そうは聞こえなかったけど」
何気ない会話をかわせば、脳裏をよぎる付き合っていた頃
「ブランドの調子いいんでしょ?新しくアパレルまで手を出してさ。軽井沢さんメインの雑誌見たよ」
須藤が軽井沢のイジメの過去を知っていたのは、雑誌を見たからだ。なぜ、須藤がその雑誌で書かれている軽井沢の過去を知っていたかは本人のみぞ知る
『──あの頃の私は、毎日が怖かった』
【着飾る理由を見つけた少女、軽井沢恵の現在地】
「高級ランジェリーブランドの新しい挑戦。辛い過去を持つ少女の挑戦。人々は美談を求め、僕はそれに応えてあげただけ」
「すごいね、琥珀は。いつもやりたいようにやって、挑戦して成功して」
「そうだね。でも、それを言うなら君もすごいんじゃないかな。少なくとも、僕がこの道を選ぶきっかけを与えたのは君なんだから。新作、君の部屋に贈ってあげるから着なよ」
照れくさそうに白銀は笑っていた。長谷部が今までに見た事がない表情。自分を振った元カノに向けるような表情ではない──そんな表情を見せるから、勘違いするようなことを言うから──余計に諦められなくなる
「──ありがとう、琥珀。お礼に、私も協力してあげる」
「協力?君にサクラなんてできないだろうし、人脈もないし、影響力も」
「さっきからバカにしすぎ。モデルとして、どうかな、私はあなたのお眼鏡にかなう?」
感情に任せて告白なんてことはしない。一緒にいる時間を長く、接触する回数を多く。過去を割り切っている白銀琥珀を、自分に振り向かせるために
(あ、須藤が殴った時に怒ってくれてありがとうって言いそびれた。とりあえず、松下に波瑠加の面倒見るよう伝えとかないと)
放課後、昼休みの白銀との出来事を思い出して長谷部は気合いを入れ直していた
(琥珀は友人として接してくれてる。無視されてない。避けられてない。ここからもう一度、振り向かせてみせる)
ランニングでもして、自身の魅力を少しでもあげようと、早々に長谷部は教室を後にしていた。そんな長谷部に後ろから、声がかかる
「長谷部さん、少しいいかな。白銀くんの件で」
長谷部波瑠加の前に現れたのは、松下千秋だった
(今日は完全フリー。帆波の遊びの誘いにのってもよかったんだけど、セットで白波がついてくるからね。断らないと。さて、この暇という贅沢な時間。何をして過ごそうか)
「白銀く───あっ、わっとっとと」
「大丈夫?」
白銀がこれから何をするかワクワク考えていると、正面から自分の名前を呼びながら突撃してくる少女が近づいてきた。比喩ではなく、文字通り白銀に突っ込んでいる
「いてて、ごめんね。白銀くんの姿が見えたから、つい追いかけたら躓いちゃった」
知らない相手でもなかったため、白銀はかわさずに正面から突っ込んでくる少女、櫛田桔梗を受け止めた。当の受け止められた本人は自然な上目遣いで白銀にお礼を伝えている
「いや、ケガがなかったようで何よりだよ。それで、僕になにか用事でもあった?」
「うん。実は白銀くんに話したいことがあって、もう少し人のいない場所で聞いてほしいんだけど、ダメかな?」
「こは──白銀くんについての話って何?」
松下には、白銀から『長谷部の面倒をみること、クラスでよくしてあげること』が指示されている。松下にそれに逆らうつもりはない。
(食堂で見た、長谷部さんとやり取りしてる時の白銀くんの柔らかな表情。そして今の長谷部さんの無意識な言い直し。この学校に入学してから、二人に接点なんて一切なかったはずなのに)
松下は理屈ではなく、女の勘という本能で感じ取った。長谷部波瑠加は、白銀琥珀の『元恋人』であると。確証はなく、それを調べる術もない。だからこそ、それを確信に変えるために直接長谷部に接触したのだ。
「長谷部さんって、白銀くんと付き合ってたんだよね?どうして別れたの?」
遠回しな探りはいらない。もしこれが完全な勘違いなら、笑って軽く謝って終わらせればいい。だが、もし肯定するような返答が来た場合、松下の直感は正しいことになる。
松下からの予想もしていなかったストレートな質問に対して、長谷部は明らかに目を泳がせ、数秒沈黙した。
(琥珀が松下さんに話した?......伝えるのは別にいいけど、それならお昼の時に一言くらい言ってくれてもいいのに)
「松下さんに私と琥珀が別れた理由、関係ある?ないよね。話がそれだけなら、もう行っていい?」
白銀が話したのだと勘違いした長谷部は、あっさりと肯定してしまった。長谷部を捉えている松下の目つきが少しだけ鋭くなる。その明確な敵意に、長谷部も気がついた。
「関係ない、か。関係あるよ」
長谷部が『何故』と問いかける前に、松下は言葉を続けた。
「──私、白銀くんのことが好きだから」
ドクンと飛び跳ねたのは松下の心臓だろうか、それとも長谷部の心臓だろうか。重苦しい静寂が場を支配する。
再び口を開いたのは松下だ。
「言いたくないなら、振った理由は言わなくてもいいよ。ただ、長谷部さんの口から『白銀くんと付き合うことは二度とない』って聞けたら、私も安心できるんだよね。......ないよね?だって、長谷部さんから振ってるんだから」
松下の表情は笑顔だが、言葉には確かな威圧感があった。もし、長谷部が今日白銀と話していなければ、うじうじと罪悪感だけを感じている状況だったなら、松下の圧に押されて従属していただろう。
だが、今の長谷部は白銀と話し、再び隣に立つという覚悟を決め終わっている。笑っている松下を鋭く睨みつけ、はっきりと冷たい言葉を返す。
「松下さんが琥珀と付き合う未来はないんじゃないかな──琥珀の好みじゃなさそうだし」
松下の身体──特に胸元へ視線を流しながら、長谷部は言い切った。
平和な学校の廊下で、二人の周囲だけ雷が落ちたような空気が流れている。遠目から二人を見た生徒が、関わり合いを避けて別ルートを選ぶ程度には、バチバチと火花が散っているのがわかる。
「一回自分から捨てた人間に、都合よくチャンスが巡ってくるほど現実は甘くないよ」
「少なくとも私は、琥珀と関わる機会を手に入れた。それって、チャンスをこの手に掴んだってことだと思うけど」
長谷部はそれ以上語ることはなく、松下に背を向けて歩き出した。
「牽制したかったんだけど、藪をつついて蛇を出しちゃったなぁ......」
長谷部波瑠加がいなくなった廊下で、松下千秋は一人そう呟いた。
放課後。白銀は櫛田と二人で学校の屋上に来ていた。
「この時間の屋上には誰も来ない。それで、人に聞かれたくない話って何かな?」
櫛田は少し言いにくそうに口を開いた。
「『美学研究会』の入部、どうして断られたのか気になって。どうしても理由を教えてほしいの」
(松下と軽井沢がよくて、私がダメだなんて見る目がない。確かに松下は最近可愛くなってきてるけど、入部前は私の方が可愛かった。軽井沢と私を比べても、容姿で私が劣っているとは思えない)
美学研究会に入るパターンは二つある。一つ目は白銀から直接スカウトされること。松下と軽井沢がこれに当たる。二つ目は顧問の星之宮に入部希望を伝え、美学研究会副部長の神崎隆二と面接すること。櫛田は後者で落とされた。
「櫛田さんが入部希望を?星之宮先生からも、隆二からも報告を受けてないけど。君を落とすなんて、見る目がないね」
白銀は首を傾げ、初耳ですと言わんばかりの反応を見せた。嘘である。神崎から報告を受けており、その上で落とすように指示したのは白銀自身だ。だが、そんな裏事情を知る由もない櫛田は、白銀の反応を素直に受け取った。
「白銀くんが全部決めてるんじゃないの?」
「決めてないよ。基本的に隆二に任せてるから。僕がそこまで担当すると、休む暇がないからね」
これもまた嘘である。神崎が面接をしているが、その面接内容を聞いて最終判断を下しているのはすべて白銀だ。
「それなら、白銀くん的にはどうなのかな?私は部員に相応しくない?」
今の話を素直に受け止めたら、そうなる。落としたのは神崎で、白銀自身は櫛田の入部に肯定的だと。櫛田がその糸口を逃すはずもなく、白銀に問いかける。
(もしこれで回答を濁すなら、神崎に責任を押し付けてて、実際には白銀が私のことを落としてることになる。白銀の言動は信じすぎないほうがいい。須藤をあそこまで精神的に追いやってるのは、こいつなんだから)
「もちろん、大歓迎だよ」
櫛田の警戒がバカらしくなるくらい、白銀の回答は櫛田に都合のいいものだった。
「それなら、私も──」
「──なんて、言うと思った?」
『入部させてくれないかな?』と櫛田が最後まで話す前に、白銀は冷たく言葉を遮った。無表情のまま、白銀は言葉を続ける。
「中学時代にあんなことをしておいて、僕が設立したサークルに入れると思ってるの?サークルクラッシャーは困るんだよね」
白銀の言葉を否定しようと、櫛田は慌てて口を開く。
「なんのこ──」
「誤魔化さなくていいよ。全部知ってるから」
白銀はそれをピシャリと遮った。嘘しかついていない白銀。全部なんて知るはずがない。『夢衣ランジェリー』が事前に調査した際、過去に櫛田がSNSで致命的なヤラカシをして学級崩壊の原因を作った可能性があることだけだ。全部はおろか、それ以上の詳細さえ知らない。
だが、今の櫛田にそれを見破れというのは無理な話だ。感情を大きく揺さぶられ、過去のすべてを完璧に見透かされていると錯覚させられているのだから。
白銀はわかりやすく動揺した櫛田を観察し、半信半疑であった情報が正しいものであったと認識を改めた。その上で、彼女をどうするかである。
(SNSでやらかすバカはいらないけど、それを差し引いても櫛田を逃すのは勿体ない。アパレル業界に手を広げた以上、容姿の整っているモデルは多ければ多いほどいい。過去を反省しているのなら、一度くらいチャンスを与えるのも悪くない。この件を必死に隠したがっているみたいだし、御するのもそう難しくはなさそう。今の反応から、メンタルがあまり強くないこともわかったしね)
顔を伏せ、ピクリとも動かない櫛田を見て、白銀はチャンスを与えようと判断を下した。櫛田に手を差し伸べ、『でも、人は一度くらい変わるチャンスがあってもいい。歓迎するよ、櫛田桔梗』なんて耳当たりのいい甘い言葉を投げかけようと考えた。
思いついた言葉を口に出す前に、櫛田に手を捕まれ──直後、白銀の手に伝わってきたのは『柔らかな感触』だった。
「これは、どういった意図かな」
白銀の手の平は、櫛田の胸に押し当てられていた。他ならぬ、櫛田自身の手によって。
「これで、あんたの指紋がべったりついた。もし私のこと言いふらしたら──レイプされそうになったって警察に訴えるから」
普段の可愛らしい顔は完全に潜め、白銀にかつて綾小路にも使った『脅し』を櫛田は実行した。だが、櫛田が見た白銀は、笑っていた。この異常な状況に全く合わない、愉しそうな笑顔を浮かべていたのだ。
「なるほど。色仕掛けされることは多々あったけど、こうも正面から冤罪をふっかけられるのは初めてだ。過去のことを反省して俯いてるのかと思いきや、僕の手を取る機会を見計らっていたなんてね」
「余裕そうにしたって無駄だから。これで白銀くんの人生、私次第だよ」
後半はいつもの可愛らしい櫛田の声で作って見せる。
「まず、松下をこれ以上出しゃばらせないで。それで、堀北と松下、軽井沢を退学にさせる手伝いを──」
「なるほど。自分より目立つ、もしくは優れた同性を排除したいと」
「上がいなくなれば、自動的に君が一番だ」
ポイントをよこせ、とかではなく『優れたクラスメイトを排除しようとする』要求から、白銀は櫛田の異常な『承認欲求』を正確に見抜いた。白銀の冷ややかな反応は、櫛田が予想していたものとかけ離れていた。
「だから何。白銀くんはもう、私の言う事を聞くしか──」
「面白い。その間違った努力、無駄な労力──なにより、僕にそんな三流の脅しが効くと思っている浅はかな考えが」
櫛田が自分の胸に押し付けている手を自ら動かし、白銀は自身の意思で櫛田の胸を揉んだ。
「ひゃっ」
櫛田は可愛らしい声をあげて驚き、自ら白銀の手を胸から離した。
「うん。これで間違いなく僕の指紋はついたよ、よかったね」
「あんた、自分がなにを──」
「君の考えが甘い点を三つ教えてあげる。一つ目、警察が君の被害届を素直に受理すると考えていること。二つ目、それが僕に対しての致命的な脅しになっていると思っていること。三つ目、自分がノーダメージで済むと思っていること」
「まず、僕は親に頼ってでも、君が被害届を出せないように工作する。仮に被害届を出されて敗訴したとしても保護観察処分の可能性が高いし、性犯罪者のレッテルを貼られても、僕はゼロからやり直せるだけの能力をもっている。まあ、ランジェリーブランドの会長職は辞任するだろうけどね。また、有罪判決が出された時点で僕は当然控訴する。有罪が出た時点で覆る可能性は低いけど、絶対に控訴する。そうなれば、今回の件は目撃者がいるわけでもカメラがあるわけでもなく互いの主張が真っ向から異なるから、複雑化する泥沼の裁判になる。長ければ五年くらいは争うことになる。......君はそれだけの期間、人生を賭けて僕と争う覚悟があるの?万が一君が負けたら悲惨だよ?虚偽告訴罪で懲役と高額な賠償金。名誉毀損で僕も訴え返すから、それの賠償金も追加だ」
「そもそも、社会的地位からどっちの証言が警察に信用されるか。君の勝算は薄いんじゃないかな」
「こっちには証拠が──」
「『レイプされそうになりました』と『無理やり胸を触らせられ、脅迫されました』で真っ向から対立するから泥沼になるんだよ?君が僕の手に触れた事実を否定してない以上、その『証拠』にそこまでの価値はない」
「でも、さっきのはそっちから私の胸を揉んだ!これって、冤罪じゃないよね」
「それを証明する証拠は?君が僕と争うことを望んでいるなら、僕から学校に訴えようか?『冤罪をかけられて、クラスメイトを退学させるよう要求されました』ってね。そしたら、君の学校での地位は──」
「やめて!!」
「私が、悪かったから」
完全に白旗をあげたのは櫛田だった。白銀は今度は櫛田の顔をしっかりと確認する。
「......心が折れた顔をしてない。どうせまた裏でやり返そうって考えてるよね?」
「そんなこと──」
「あるよ。君が今回の行動に至った理由、全部説明してもらおうか。嘘をついてもいいけど、それが僕に通用すると思わないでね。あまり舐めた真似をされると、僕も優しくできない」
「なるほど。つまり君はあれだね。『評価中毒者』だ。それにしても、ここまで僕に知られて心が完全に折れてないなんてすごい。神崎でもここまで追い詰められたら、完全に反抗心をなくしてるよ」
「やだなぁ、反抗しようなんて考えてないよ。信じて、白銀くん」
「僕にその三流の演技はいらない。本性を知ってからだと、滑稽に見える。僕は優しいから、君の入部を認めるし、今日知ったことも言いふらしたりしない」
櫛田は、白銀の自分に対して都合のいい言葉を疑う。
「僕は嫌いじゃないよ。他人を蹴落としてでも一位になろうという気概に、屈することのないメンタル。まあ、周囲からの評価を気にし過ぎてるのと、圧倒的に自己研鑽が足りてないけどね」
「うっさい」
口ではそう言いながらも、櫛田は口元が微かに笑っている白銀に不思議な安心感を感じていた。それでも、隙を見つけたらこいつも退学にさせてやろうというドス黒い意思は変わらないが。
(本当にもったいない。圧倒的な自己研鑽と、自身に対しての揺るがない自信。この二つがあれば、櫛田桔梗は化ける。もう少しメンタルが弱ければ『使えない手駒』として放置してもいいんだけど、もしかすると僕よりも強靭なメンタルをしている櫛田を野放しにはできない。何もしなくても、僕に対する悪感情が膨れていきそうだし。......いっそのこと)
「うん、そうしよう。櫛田、君は明日から毎日5時起きね。この僕が、毎朝君の自己研鑽に付き合ってあげるよ」
「はぁ?」
いきなり意味のわからないことを言い出した白銀に櫛田は怪訝な表情を向けるが、最大の弱みを握られた彼女は逆らえず、毎朝5時起きの日々が確定した。