白銀琥珀は職員室、星之宮知恵の席の前に立っていた。
1年生ながら既に良くも悪くも目立っている彼には、自然と周囲の視線が集まる。特に1年生を担当している教員たちの視線は露骨だ。
「夏休みのバカンス、欠席させてください」
会話が飛び交っていた職員室が、水を打ったように静まり返った。特に直接言葉を伝えられた担任の星之宮は目をパチクリとさせ、金魚のように口をパクパクと動かしている。
「......え?」
数秒のフリーズの後に星之宮の口から発せられたのは、素の疑問の声。
「バカンスは自分が行きたい時に行きますし、大人数で行動しても落ち着かないので」
「これは学校からのご褒美なんだから、よほどの理由がない限り1年生は全員参加なの!だから、不参加は認められないわ」
「そんなことはないんじゃないですか、星之宮先生。今までは『行きたくない』と意思表示をした生徒がいないだけで、本人に強い意志があるなら認めてあげるべきだと思いますよ」
2人の会話に横から口を挟んだのは、Cクラス担任の坂上だ。坂上の言う通り、過去に自分から行きたくないと発言した生徒はいなかった。
また、ご褒美と称してはいるが、夏休みに学校主導で行われるのは間違いなく特別試験である。Bクラスの大きな戦力を削っておきたい坂上が、白銀の不参加を喜んで後押しするのは極めて当然の行動だろう。
「はいはーい、これはBクラスの問題なんだから他クラスの担任は口を出さないでくださーい!」
対して星之宮は、なんとしてでも白銀を参加させたい。
当然だ。自分のクラスの主力級であり、ジョーカーでもある彼を参加させないメリットなどなく、デメリットしかないのだから。
「白銀くん、絶対に最高の思い出になるから参加しよう?ほら、目を閉じて思い浮かべてみて──豪華客船での優雅な生活、利用する施設はすべて無償。潮の香りがする海、女の子たちの可愛い水着。ドキドキワクワクの儚い恋!参加しなかったら何もないんだよ?だから、参加するよね?ね?」
星之宮の圧はすごい。白銀の肩をガシッと掴み、力強い目で白銀を見つめている。白銀は数秒無言を保ったが、すぐに軽く笑い前向きな言葉を返した。
「わかりました、星之宮先生がそこまで言うなら参加します。元々、ちょっとした冗談でしたし。僕が欠席すると言ったら、星之宮先生がどういう反応をするか見たくて」
嘘でもあり、本当でもある。白銀は見たかったのだ。星之宮の必死な反応を。そして、他クラスの担任たちの反応を。
「もー!可愛いこと言っちゃって!」
「半分は本気でしたけどね」
安心した星之宮は肩から手を離し、白銀の腕をポンポンと優しく叩いた。白銀は確認したいことは十分に確認できたので、そのまま職員室を後にした。
「──やっぱり、ただの『ご褒美』じゃないみたいだね」
廊下を歩きながら、白銀は口角を上げる。
坂上の打算的な反応、星之宮の異常なまでの必死な反応、興味なさげにしながらも聞き耳を立てていた真嶋と茶柱の僅かな反応。
そして、この学校の性質。それらを総合し、白銀は夏休みのバカンスの裏に何かが仕掛けられていることを確信した。
(豪華客船に島。どっちに何が仕掛けられてるんだろうか。面白くなりそうだね)
「琥珀くん」
白銀が自分の荷物を取りに教室に戻ると、そこには一之瀬帆波がいた。一之瀬は小走りでトコトコと白銀に近寄ってくる。
「あれ、帆波。なんで教室にいるの?期末試験を乗り越えた打ち上げに行ってるんじゃなかったのかな?」
今日は期末試験の最終日だった。赤点を出すような馬鹿はおらず、Bクラスは全員揃って無事に一学期を乗り越えることができた。一之瀬を中心にその打ち上げをしようと、クラス全体で盛り上がっていたのだ。ちなみに、白銀は迷わず欠席を選択した。
「うん。30分くらいは参加したよ」
「短っ。よく抜け出させてもらえたね」
「みんなからは『もう少し』って止められたんだけどね。琥珀くんが参加してくれないから、気になって見にきちゃった」
少し照れながらも、一之瀬は嘘をつかずに真っ直ぐな目で本当の理由を話した。
「それで学校まで戻ってきたの?物好きだね」
「にゃははっ、神崎くんから『琥珀はまだ学校にいるはずだ』って聞いてたから。用事があるっていうのもたぶん嘘だろ、って神崎くんが言ってたよ」
珍しくクラスの催し物に参加していた神崎。一之瀬はそこから情報を得ていたようだ。白銀は軽くため息をつく。
「隆二は僕の保護者か何かかな」
「仲良しさんだよね。琥珀くんがクラスでの打ち上げが嫌なら、私と2人でならどうかな?2人だったらお店とか予約しなくても入れるし......もしどこも空いてなかったら、私の部屋でもいいよ」
一之瀬からすれば、今の状況は大チャンスなのだ。放課後の誰もいない教室。邪魔をする人間は誰もいない。
「うん、帆波となら打ち上げ自体はいいけど......残念ながら、今日は本当に用事があるんだ。適当なことを吹き込んだ隆二が悪いね」
予想外。神崎の情報を信じ切っていた一之瀬にとって、思いもよらぬ展開。他の断られ方であったなら、次の誘い文句を考えていた一之瀬だが、予期せぬ事実に対する回答は用意していなかった。
「ぇ、なら、別日とかはどうかな?琥珀くんに予定合わせるよ!」
「別日、ね。んー、どうだろうか」
別日であれば十中八九、セットで白波ちひろがついてくるだろう。その事が頭によぎった白銀は言葉を濁した。
一之瀬もそれを敏感に感じ取り、ここから逆転できる方法を必死に考える。
「もし、もし琥珀くんが嫌じゃなかったら、琥珀くんの用事について行ったらダメかな?ほら、もしかしたらお手伝いとか出来るかもしれないし。打ち上げはその後に少しでもいいから、ね?どうかな?」
上目遣いで懇願する一之瀬の発言に、白銀は少し考える素振りを見せた。
「僕の用事。......まあ、君ならいいか。嫌になったら、途中で帰っていいからね」
「こ、琥珀くん。琥珀くんが借りたシェアハウスって、ここで本当に合ってる?」
白銀と一之瀬は両手いっぱいに買い物袋を抱えていた。白銀は水やキャベツなどの比較的重たいもの、一之瀬はティッシュやトイレットペーパーなどかさばるが比較的軽いものを持っている。
「合ってるよ。細々とした荷解きが終わってないんだ。だから、住み始めるのは今日からだけどね」
白銀の用事というのは、引っ越し先で使用する日用品の購入だった。ベッドや冷蔵庫などの大型家具については引越し業者によって運び込まれているが、細々とした生活用品は含まれていない。
「すごいなぁ〜。もしかして、ここに神崎くんと一緒に住むの?」
一之瀬の目に映っているのは、和の心を感じる立派な一軒家だった。
「まさか。四六時中一緒にいたら胃に穴があくよ、隆二のね。中に入ろうか」
一之瀬にはそう答えたが、白銀は既に神崎にルームシェアを提案していた。が、『お前に24時間監視されるのは御免だ』と一も二もなく神崎に即答で断られている。
数日や数週間、1ヶ月程度であれば神崎も承諾しただろうが、卒業までの3年間となれば話は変わる。
「うん」
緊張が見られる面持ちで、一之瀬は白銀の後ろについて玄関を跨いだ。一之瀬にとって、これは実質お家デートである。
日用品を一緒に買っている時は口に出しこそしなかったが、完全に新婚夫婦の気分だった。
「終わったー!!」
「ありがとう。まさか、最後まで荷解きに付き合ってくれるなんてね」
「いやいや、私からお願いしたことだから!むしろ、最近琥珀くんと教室であんまり話せてないから、すごく楽しかったよ」
教室で話せない理由は言わずもがなである。
一之瀬が白銀に話しかけに行こうとすれば、親友の白波が必ず後ろをついてき、白銀の周囲にいる神崎や網倉たちから牽制されブロックされるからだ。
「そういってもらえたら助かるよ。さて、もう一度買い物に行こうか」
「なにか買い忘れでもあった?んー、必要そうなのは揃ってたと思うんだけど?」
「あれ、君から打ち上げをしたいって──ああ、確かに。僕の家でやる必要は──」
「やろう!!」
白銀が話している途中に、食い気味で一之瀬は割って入った。ここまでのやり取りと疑似同棲気分ですっかり満たされていた一之瀬は、本来の目的である打ち上げのことをすっかり忘れていた。
「なら、手伝ってくれたお礼の意味も込めて僕がなにか作るよ。夜ご飯には少し早いけど、どうかな?」
「うん、それで!あ、でも、私も手伝うよ。私だけ何もせずに待ってるのは落ち着かないし」
「わかった、そうしよう。とりあえず、スーパーに行こうか」
白銀は頭の中で考えていた1人用の献立を何処かへ追いやり、2人で手頃に作れる料理を考える。
「なに作ろっか?」
一之瀬と白銀は今日2回目のスーパーに到着した。生鮮食品コーナーをうろうろと並んで歩きながら話し合う。
「家にホットプレートはあるから、餃子とかどうかな?皮は市販のものを買って、種だけ手作りにしたら丁度いい時間になると思うけど」
白銀が提案したのは餃子。そこそこの手間でお手軽に作れて、一緒に作業ができる料理。もし断られたら、次に提案する予定だったのは春巻きである。
「いいね!餃子作りなんて久しぶりかも!」
一之瀬は白銀の提案を嬉しそうに了承した。特段断る理由がないことと、実家でよく作っていたから上手く包む自信があり、彼にいいところを見せられるため都合がいいのだ。
「先に言っておくけど、不格好なのができても笑わないでね」
「琥珀くん、包む作業とか苦手なの?ふふ、うん、笑ったりしないよ!」
悪質な保険である。白銀は不格好な餃子を作るつもりなど毛頭ないし、そうなるとも思ってはいない。
万が一失敗した時のための完璧な保険だ。一之瀬は当然ながらそれを額面通り受け取った。
「餃子の材料だったら、長ネギに生姜、豚ひき肉に──調味料は揃ってたよね?」
「うん、それは寮で使ってたのを持ってきたから。とりあえず、必要な食材をカゴに入れようか」
白銀と一之瀬はニラやキャベツなど、どんどん食材を入れていく。
「あ、チーズ餃子とかどう?何個かあってもいいよね?」
「いいね。なら、あっさり系も作ろうか。大葉と鶏ひき肉のあっさり餃子なんてどうかな?帆波、大葉とか嫌いじゃない?」
「食べれるよ!鶏ひき肉の餃子、食べたことないなぁ。楽しみ!」
「少し多めに買っておこうか。余って困るような料理でもないし」
るんるんと足取りの軽い一之瀬と、それに少し遅れながらもカートを押してついていく白銀。傍から見れば完全に新婚さんである。
「餃子だけだと味気ないよね。ナムルと中華スープくらい作ろうかな」
「なら、卵とわかめと......なんのナムル作るの?」
「もやしとキクラゲでいいかな。簡単に作れるし」
「もやしはあっちにあったけど、キクラゲはどこにあったかな〜」
どこからどう見ても夫婦である。スーパーで品出し中のパートの店員は、2人を微笑ましく見ていた。
「琥珀くん、私も半分出すよ」
「余ったら僕が次の日に食べるから、僕が全額出すよ」
中学時代から日常的に料理をして手際のいい一之瀬、武道だけではなく料理も完璧にこなせる白銀。
手際のいい2人がテンポよく雑談をしながら料理を作れば、稀にこういった事態が起きる。
「にゃはは、少し作り過ぎちゃったね」
「みじん切りにしてる時から予想できたけど、予想以上だった。餡がだいぶ余ったね」
2人の眼の前にあるのは、綺麗に包まれた餃子が60個。それと、大量に余った餡。ノーマル餃子20個、チーズ入り餃子20個、鶏ひき肉餃子20個。
「まあ、余った餡は明日僕がオムレツにでも包むよ。食べようか」
白銀がホットプレートに油をひきながら、まるでルーティンのような滑らかな手付きで餃子を並べていく。
ジュウ、と熱せられた鉄の音が小さく弾け、餃子の底がキツネ色に焼き上がっていく。香ばしさとわずかなチーズの焦げる匂いが混ざり、部屋を包みこんだ。
「──この匂い、ヤバいね。空腹に効きすぎる」
帆波が思わずお腹を押さえ、にへらと笑う。つられて白銀も微かに笑った。
「食欲をそそるために作ってるからね。効果的でなによりだよ」
白銀はごま油の瓶を片付けつつ答える。
パチパチと音を立てて焼ける餃子に、水を注ぎ入れる。瞬間、蒸気が立ち込めて視界が真っ白になり、帆波が少しだけ身を引いた。
「びっくりした......!」
「油断してた?」
「うん。でも......この音、好き。気持ちいい音だよね」
そう言いながら、一之瀬はテーブルに取り皿と小鉢を手際よく並べる。あまりにも自然な手付きに、白銀は小さく感心したようにつぶやいた。
「慣れてるんだね、こういうの」
「うん。小さい頃からずっと、私がやらなきゃって感じだったから。でも、今はちょっと違うよ。義務感とかじゃなくて、私がしたいと思ってやってるから......って、大げさかな?」
笑いながら話す一之瀬。白銀は少しだけ考え、軽く笑いながら皮肉チックに返す。
「それは、餃子を作りすぎた理由にはならないけどね」
「にゃはは、それについては白銀くんも同罪だよ」
そんなことを話しているうちに、ジュワッ........と最後の水気が飛び、完璧な餃子の焼き目が顔を覗かせた。
「よし、いい焼き目。1回目はこれで完成だね」
「わあ、美味しそう!」
白銀が大皿に餃子を並べていく。三種、それぞれに違う形、違う包み方の餃子たち。
「実はね帆波、僕が包んだ餃子の中に1つだけ、嫌がらせかと思うくらいの辛子を入れてある」
「え、なんで!?」
にやりと笑う白銀に、最もな疑問を一之瀬はぶつけた。
「普通打ち上げって、何かしらの簡単なゲームがあるよね。2人でビンゴとかやっても楽しくないだろうから、それの代わりにロシアン餃子を仕組ませてもらった」
「琥珀くん、意外と遊び心あるよね。そういうところ、すごくいいと思う」
「ありがとう。辛子入りを当てたほうが、スーパーで買った少しお高めのデザートでどうかな」
「デザートがかかったなら、受けないとね!いざ、勝負!」
「君はイメージ通りノリが良いよね。そういうところ、いいと思うよ」
「褒められたら照れるよ......」
似たような言葉をそのまま返されただけなのに、一之瀬はガチ照れである。
2人して、箸を手に取った。一之瀬が選んだ餃子を口に運び、噛んだ瞬間にチーズがとろけて溢れ出す。
「っ......!あっつ!けど、おいしいっ!」
口元を押さえながら感嘆する帆波を見て、白銀は穏やかな気分になった。自身も適当に餃子を1つ口に運ぶ。
表面はカリッと、噛めば中から熱々の肉汁があふれる。舌にチーズのコクが絡んで広がる、一之瀬と同じチーズ餃子だ。
「うん、普通のやつだ」
そうつぶやきながら咀嚼する白銀の視線が、一之瀬に流れる。一之瀬はというと、すでに2個目の餃子に箸を伸ばしているところだった。
「そういえば、さっきのチーズのやつ、ちょっと大葉っぽい味もしてたかも。混ざってた?」
「チーズと大葉の組み合わせは悪くないと思ってね。アレンジしたやつかも」
「うーん、これは何味だろう......えいっ!」
少しだけ目をつむって餃子を頬張る一之瀬。が、その直後──
「..........ん、んんっ!? か、ら......っ!からぁっ!!」
頬を押さえ、目を丸くする一之瀬が、必死でお冷に手を伸ばす。一口飲んでも口の中の辛みは消えず、彼女は軽く首を振ってぶるぶると震えた。
「っ、こ、これは......!やられた......!」
「当てたね。おめでとう」
白銀は口元に薄い笑みを浮かべながら、淡々と拍手を送った。
「ほんっっっっっとに嫌がらせかと思うくらいの量だよ!!口の中が、戦場......!」
「君がにゃははって笑いながら餃子を並べてた時の隙を狙ったんだ。バレないようにね」
「くぅぅ、でも、当てたから......デザートは私の勝ち、だよね!」
一之瀬は涙目で笑いながら、必死で冷茶をあおる。白銀は頷きながらも、少しだけ悪戯っぽい目をした。
「まあ、それはそれとして、もう1個くらい辛子入りが入ってるかもしれないけどね」
「え、うそ!?」
「当てた人が勝ちとは言ったけど、他にはないとは言ってない。サプライズってやつだよ」
「白銀くん、そういうとこ、まじで、本当にずるい......」
ぷくっと頬をふくらませた一之瀬の表情に、白銀は口にこそ出さなかったが素直に可愛いと思った。自然体で、無理をしないで楽しそうにしている一之瀬帆波は、とても眩しく映る。
「さて、追加の勝負。2回目で辛子を引いた方が、お高いアイスでどうかな。帆波が引けばお高めのデザートとアイス。その場合僕は安物のデザートにアイス」
「ハーゲンダッツは食べたいけど、2回目は絶対引きたくない〜!」
「じゃあ、僕が引こう。うん、安物でいいから辛子入りは引きたくないね。どれだけ入ってるか僕はわかってるから怖いよ。やっぱり、君から引いてくれる?」
「ひ、酷い〜!でも、2人でも楽しいね」
一之瀬は少しだけ照れながら、今度は慎重に餃子を選んだ。
一之瀬が口に入れるまでの、わずかな間の沈黙。そして──
「......ふふっ、セーフ!これはさっぱりした鶏のやつ!」
一之瀬は嬉しそうに笑って、勝ち誇るように白銀を見る。
「どう?次は琥珀くんの番だよ!」
「まあ、焼いてない餃子の方に辛子入りがあるかもしれないから、お互いに引かない可能性はあるよね」
白銀が静かに笑いながら、最後の餃子をひとつつまむ。焼いてない餃子の量を考え、白銀は自分が引くことはないと半ば確信している。
「僕もさっぱりした餃子がいいなぁ」
そう言いながら餃子をかじると、突如溢れる強烈な辛味。白銀の口の中を、一瞬で暴力的な辛味が支配した。
「.........」
無言でお冷を手に取る白銀。その姿を見て、一之瀬は吹き出す。
「ぷっ!あははっ、琥珀くん......!自滅だよ!」
「誰だ、こんなアホみたいな量の辛子を仕込んだ馬鹿は」
「琥珀くんだよ!」
楽しげな笑い声が、湯気と香ばしさの残る部屋に広がっていく。
「今度は打ち上げとかじゃなくて──また遊びに来てもいいかな?」
「君が単独で来てくれるなら歓迎するよ」
(まさか、引っ越して初めて招く客人が隆二以外になるなんてね)
(まだ、まだ私にもチャンスはあるよね?部活の子と付き合ったり──してないよね)
引っ越しをしてから時間が経過し、1学期の終業式当日の朝。白銀のシェアハウスの前には櫛田桔梗がいた。ジャージ姿で、両手に荷物を持っている。
「さ、今日もランニング頑張ろう!とりあえず、玄関に荷物置かせてくれないかな?」
「その手に持ってる荷物なに?水分だけじゃないよね?それと、なんでスクールバッグまで持ってきてるの?」
白銀は怪訝そうに顔をしかめた。ジャージの上に薄手のパーカー、手にはボトルと小さなバッグ。だが、その足元に置かれているのは、どう見ても通学用のスクールバッグだった。
櫛田は何でもない顔で、コテッと可愛らしく首を傾げて答える。
「ランニングが終わってから寮に戻ってシャワー浴びて、準備して登校するより、ここからそのまま登校した方が楽だから」
「なるほど。つまり君は、ランニングが終わるまで荷物を僕の家に置いて、終わった後はお風呂を借りて、寮に戻ることなく登校しようとしているわけだ。うん、ダメだからね」
あまりにも即断。間髪を容れずの冷酷な却下に、櫛田の眉がぴくりと動く。その瞬間、彼女の目元から表の笑みの成分がスッと引いた。
「──面倒なの。ここ、無駄に寮から離れてるし、そのくらいいいでしょ。シェアハウスなのに1人で暮らしてるんだから、誰にも迷惑かからないし」
「いや、無理だよ。怖いもん。シャワーを覗かれたって言われたら、冤罪でも男は負ける時代だよ。無理無理」
「のぞっ、!──もし覗いたら警察に訴えるから」
「それが怖いって言ってるんだよ。君、自分が屋上で何をしたか忘れたの?話聞いてる?」
「聞いてない、知らない、私が絶対......そういえば白銀くんって、成績がいい子にご褒美をあげてるって聞いたけど?」
「ああ、成績があがったから何かくれって言われて、外食に連れてったことね。集りじゃなかったんだ」
白銀の脳裏にふと、松下や軽井沢、長谷部の顔が浮かんだ。
「私も、期末試験の成績上がったんだよ?」
「だろうね。朝に軽い有酸素運動を取り入れたことによって脳の前頭前野が活性化され、記憶の定着率が上がる。それに加えて、生活リズムの安定で学習効率も向上する。これは、君が毎朝サボらずにランニングに来て、泥臭く努力した成果だよ。おめでとう」
「聞いてたんじゃなくて、分析?」
「君は努力できる人間だ。成績が上がったことなんて、わざわざ聞くまでもない」
その淡々とした一言に、櫛田の目が見開かれる。
才能ではなく、陰で行っている『努力』そのものを肯定された。彼女の中で最も敏感に反応する場所──
『自分の本当の努力を見ていてほしい』という強烈な渇きに、白銀は意図せず、いとも容易く触れてみせた。
「っ、ふ、ふーん。じゃあ、シャワーは借りるね。もう、決定だから。さ、そろそろ走らないと。白銀くんに小言を言われる前にね」
「ちょっと待って。僕は承諾してないんだけど」
内心の動揺を隠すように、聞く耳を持たず軽やかに踵を返す櫛田。白銀は深くため息をつきつつ、軽くストレッチを始めた。そしてすぐに櫛田の後を追う。
2人は一定のペースで並走する。テンポは白銀に合わせてやや速めだが、櫛田は慣れた足取りでしっかりと着いてきている。最初の頃とは雲泥の差だ。
「さすがに、最初より全然楽になった」
「体は嘘をつかない。継続の成果だね」
(評価中毒は未だに改善されてないみたいだけど。そろそろ、精神的な自立の予兆があってもおかしくないのに)
「うん。ていうか、朝に誰かと走るって、こんなに気持ちいいんだね」
唐突な言葉に、白銀は横目で彼女を見る。
「意外と寂しがり?」
嫌味ではなく、白銀は素直な疑問としてそう思った。
「そういうのじゃないけど、なんだろ。誰かと無言で並んでるだけで、心が静かになるっていうか」
「ああ、そういうことね。普段は『表の顔』と『裏の顔』の使い分けで忙しいだろうから、何も演じなくていいこの時間が楽なんだと思うよ」
図星を突かれた櫛田は言葉は返さず、少しだけ口元を引き結んで静かに笑った。
普段なら、沈黙は恐怖だ。何かを話して、相手に好かれなければと焦る。だが、自分の最も醜い本性を知っているこの男の隣では、沈黙を無理に埋める必要がなかった。
その穏やかな表情のまま、また1歩ずつ地面を蹴って前に進んでいく。
走り終え、玄関に戻ってきた頃には、空は薄い橙色に染まりはじめていた。
「さて、汗が冷える前にシャワーで流さないと」
「だから、その前提で話進めないでくれるかな」
「だって、もし私が勝手にシャワー使っても、白銀くん本気では怒らないでしょ?」
「怒るよ」
「本気で?」
「──どうだろうね」
「じゃあ、事実上はオーケーってことで」
「それ、屁理屈の暴力だからね」
「ありがとう」
「何が?──待って、認める。認めてあげるから、その前に一筆書いて」
玄関先に突き出された手のひらを、櫛田はきょとんとした顔で見つめた。
「何を?」
「『この家でシャワーを借りるにあたって、万が一にも私が騒動を起こすことはありません』って誓約書。ちゃんと署名入りで」
「えぇぇ、どれだけ警戒されてるの、私?」
「100のうち99は警戒で、残りの1は希望的観測だよ。君みたいな爆弾を家に上げる以上、これは当然の自衛権の行使だから」
櫛田は呆れたように肩をすくめ、バッグから小さなノートとペンを取り出す。
「はいはい、書きますよっと。『私は本日、白銀琥珀邸において、シャワーの使用を許可されました。万が一にもトラブルを捏造して彼に迷惑をかけるようなことは決していたしません。問題が起きた際の全責任は私にあります』......で、どう?」
「署名と日付も」
「細かいなあ」
櫛田が渋々書き終えたそれを、白銀は受け取り、その内容を一読してから、玄関のシューズラック横にある引き出しに仕舞い込んだ。
「大切に保管しとくよ」
「むしろ忘れててよ。誓約書なんて書かされたの、人生初かも」
そう言って笑った櫛田の表情は、どこかやわらかく、けれど微妙に引きつった複雑なものだった。
シャワーを借りると強引に宣言したのは、確かに彼女の方だ。けれど、ここまで本気でリスクとして対処されると嫌な気持ちが出てくる。
屋上で冤罪で脅そうとした最悪の過去がある以上、警戒されて当然なのだが、ほんの少しだけ距離が縮まったと錯覚していた自分を嘲笑いたくなった。
戸惑いに似た苛立ちを飲み込んで、彼女は『じゃ、行ってきまーす』とだけ残し、バスタオルを肩にして浴室へと向かった。
リビングに1人残された白銀は、時計を見てからキッチンへと向かった。冷蔵庫を開け、残っていた卵とほうれん草、それに昨晩炊いて余った白米を見て、朝食のメニューを決める。
「なんで僕が、僕を陥れようとした奴の分まで作らないといけないんだろうか」
文句を呟きながらも、その手際はまるで熟練の料理人のようだった。出汁をとって、味噌汁を仕込む。卵焼きを巻き、胡麻和えを作り、おにぎりを手早く握る。
やがて、浴室から控えめなドライヤーの音が聞こえてきて、さらに10分後、櫛田がリビングに現れた。
制服姿。前髪はふわりと乾かされ、火照った頬にはほんのりと赤みが差している。清潔で、どこか柔らかい石鹸の香りを纏っていた。外見は誰もが振り返る完璧な美少女である。
「え、もしかして朝ご飯?私の分まで?」
「自分の分しか作らないほど、僕の性格は悪くない」
「白銀くんって、人の心あったんだ」
「頭から熱い味噌汁を被りたいのかな?」
2人はテーブルを挟んで向かい合って座る。小さなおにぎり、ほうれん草のおひたし、卵焼き、お味噌汁。質素だが、出汁の香りがふわりと漂う、丁寧で温かい朝食だった。
「いただきます」
「どうぞ」
櫛田がひと口、おにぎりを頬張る。ほどける米の甘さ、大葉の香り、ツナの旨味。それらが静かに舌の上で溶けていく。
「......美味しい。これ、ほんとに白銀くんが?」
「君の想像の中の僕は、自炊もできないダラシない人間なのかな?」
「違うよ、違う。ほんとに、なんか......すごくいいなって思っただけ」
その声には、一切の演技が含まれていない、純粋な本音が混じっていた。
誓約書まで書かせるほど自分を警戒し、支配している男。けれど、その男が作った朝食はひどく温かく、身体の隅々にまで沁み渡るような味がした。
常に他人の評価を気にし、他者を蹴落とすことばかり考えてきた彼女にとって、この温かい食卓は、まるで毒のように甘く、恐ろしいほどに居心地が良かった。
誰かと一緒に、並んで朝食をとること。櫛田はそれがこんなにも穏やかで、安心する時間だとは知らなかった。
櫛田は、箸を動かす合間にふと、口を開いた。
「ねえ、白銀くん。今度、また朝ごはん......作ってもらうのって、アリ?」
その一言には、答え以上に、櫛田自身でもよく分からない感情が混ざっていた。甘え、期待、そして、これ以上踏み込んではいけないという微かな恐怖。
けれど白銀は、それにすぐには答えず、静かに味噌汁をすすった。肯定も否定もしないその沈黙が、なぜか櫛田には心地よかった。
答えは急がなくていい。朝陽が差し込むテーブルの上で、2人はしばらくの間、ただ静かに箸を動かしていた。
「夏休み中もランニング続けるよね?今と同じ5時からでいいかな?」
「そうだね。バカンス中は無理だろうけど」
「──白銀くんが、わからない」