VSミスターシービー&愉快なウマ娘たち   作:花壇の土

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VS 黒い刺客 3

 華織はいつもと同じく、用務室のデスクチェアに腰かけていた。

 

「あの……お兄、じゃなくて……えっと、美繰さん」

 

 傍にやってきたライスシャワーが、まるで初恋をした少女のようにはにかみ、後ろ手に持っていたモノを差し出した。

 

「調理実習でクッキーを焼いて……その……食べてもらえたら嬉しいなって……」

 

 クッキーが入った袋を、華織は素っ気なく受け取った。

 

「いただくよ。ありがと」

 

 そのまま華織はデスクの片隅にクッキーの入った袋を置こうとして――ライスからの期待と不安の入り混じった視線に気がついた。

 言葉にされなくても、なにを求められているのかはわかる。

 逡巡した末に、華織は無言で袋を開けてクッキーを1枚摘まむと、口の中へ放り込んだ。

 食感は軽く、ほどよい甘さとバターの香りがマッチしている。

 少し焼き過ぎているようだが、丁寧に作られたことがわかる味だ。

 

「おいしいよ」

 

 華織が素直に味を褒めると、ライスがパッと表情を明るくした。

 淡く控えめな、見ていて癒される笑顔だった。

 少しだけ視線を逸らした華織は、ライスに袋を手渡した。

 

「このままオヤツの時間にしよう。ゆっくり食べたいから、あっちのテーブルに置いておいてくれるか」

「は、はい!」

 

 ぱたぱたと尻尾を振りながら、ライスがテーブルへと向かって行った。

 愛くるしいその後ろ姿に、心の中の大事な柱がぐらぐらと揺れる心地がする。

 

 ミスターシービーの手前、あーだこーだと契約しない理屈を並べたが、ライスは非常に魅力的なウマ娘だ。

 ステイヤーとして一級品だし、走り方も好みで、育てたら絶対に面白い。

 それに、“ライスシャワー”に淀の坂を越えさせることが出来たのなら、それは運命を変えたという完璧な証明になる。

 成し遂げた暁には、きっと想像もつかないような快感を得られるだろう。

 

 だから、シービーの提案からは酷く甘い香りがした。都合よくキープしてもいい、なんて免罪符を渡されて、飛びつかないほうがどうかしている。

 人として大切な部分がどうかしている、という話は――まぁ、置いておいて。

 

 問題なのは、飛びついた後だった。

 小狡いことに、シービーは後出しでライスに付加価値をつけ始めた。

 

「えっと、お兄……美繰さん。お茶の準備、ライスがしてもいいですか?」

 

 おずおずとお伺いを立てるライスに、華織は「ああ」と頷いた。

 

「頼んだよ。棚にある茶葉、好きなヤツ選んでいいから」

 

 用務室に出入りするようになったライスは、率先して華織の仕事を手伝った。

 こうしてお茶くみをすることもあれば、トレーニング用具の手入れをしていることもある。

 ポイントが高いのが、行動に移す前にちゃんとお伺いを立てることだ。誰かさんのように無茶苦茶をやらないというだけで、穏やかな気持ちでいられる。

 

 しかし、その甲斐甲斐しく健気な行いが“演出”されたものである、ということは華織の目からすれば明らかだった。

 やること為すことのどれもこれもが、ライスにしては積極的過ぎるからだ。

 多少は親しくなったとはいえ、あくまでも他人のスペースである用務室(ここ)へ、あのライスが自分だけの意思で堂々と踏み入ってくるとは思えない。

 

 極めつけは、さっきのクッキーだ。

 いくら好意を持った相手だとしても、出会って間もない相手に手作りのクッキーを渡せるような性格だろうか。

 

 誰かが後ろからライスを操っている。

 そして、こういうグイグイと前に押すことしか考えていない、バカみたいな作戦を立てる連中を華織はよく知っていた。

 

 パーソナルスペースに居座って強引に既成事実を作ってしまうやり方は、ミスターシービー。

 ちょっとしたイベントで好感度を上げて外堀から埋めてしまうやり方は、マルゼンスキー。

 

 バレバレだ。影が全く隠せていない。

 むしろ見せつけて、ライスのバックには自分たちがついているぞ、とアピールしているフシすらある。

 

 悪辣なのは、ライス本人はなにも知らない、ということだ。裏で糸を引かれているなんて、夢にも思っていないだろう。

 マルゼン辺りが「こうすれば華織ちゃんは喜ぶわよ」とアドバイスのフリをして唆したに違いない。ライスはマルゼンのことを慕っているようだし、全く疑わずに教えられたままを実行するハズだ。

 

 しかし、そうなると困ったことになった。

 華織はデスクに頬杖をついた。

 

 なにも知らない――つまり、ライスの感情は純粋なもので、打算なんて存在しない。

 そんなものを向けられ続けては、絆されないほうがおかしい

 

 本当に余計な付加価値がついてしまった。

 ただのウマ娘(ライスシャワー)のままなら簡単に捨てられても、可愛い妹分(ライスシャワー)になってしまえばもう捨てられない。

 

 こういうシチュエーションに自分が弱い、という自覚が華織にはある。

 シービーのときだってそうだ。

 データ上のターフの演出家(ミスターシービー)ならなんとも思わなかったのに、共に語らったかけがえのない相手(ミスターシービー)になった途端、冷静な判断ができなくなった。

 

 だから、ライスとの関係を断ち切るなら今しかない。これ以上は、肝心な時に決断できなくなる。

 いや、しかし、黒い刺客をみすみす逃すなんて――

 

「悩んでるね」

 

 気づけば真横にシービーの顔があった。

 ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている。

 

「アタシたちが入ってきたことに気づかないなんて、よっぽど真剣だったんだ」

 

 余計なマネしやがって、だとか、誰のせいだと思ってる、だとか、色々と言いたいことはあったが――ダメだ。なにを言っても、絆されていることを明かすだけにしかならない。

 内心まで全て見透かされたような気がして、華織は思わず反対側へ顔を背けた。

 しかし、そちらにはマルゼンが待ち構えていた。

 

「そろそろ素直になったほうがいいんじゃないかしら」

 

 マルゼンもシービーと同じく、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべている。

 どちらを向いても敵しかいない。

 顔を手で覆った華織の耳元で、マルゼンがこしょこしょと囁いた。

 

「ライスちゃんはきっと素敵なウマ娘になるわ。逃したら後悔するわよ」

 

 華織が無反応を貫くと、マルゼンが色のある声音で問いを投げかけた。

 

「ねぇ、想像してみてちょうだい。仮にライスちゃんが他のトレーナーのところへ行ったとして……あなたの心になんの未練も残らないって言える?」

 

 ぐっ、と華織は言葉に詰まった。

 すると、反対側からシービーが妖しく誘惑をかけた。

 

「キミの育てたライスが、淀の坂を越えて喝采を浴びる。そしたらきっと、最高の味がするよ」

 

 両サイドから攻められて追い詰められた華織は、二人を押しのけて立ち上がった。

 

「わ、私は責任なんて取りたくない!」

「まぁまぁ、そう言わずにさ」

「そうよ、もう少しお話しましょう」

 

 デスクの前から部屋の隅へ撤退した華織に、シービーとマルゼンがジリジリとにじり寄ってくる。

 絶体絶命のその時――「あ、あの」と消え入りそうな声がかかった。

 

「お茶、入りましたよ……?」

 

 三人の視線が、声の主であるライスへ一斉に集中した。

 勢いに驚いたらしく、ライスが「ひぅ」と身をすくませる。

 それで気が抜けたのか、シービーが小さく息を吐いた。

 

「ライスのお茶に免じて、今日はこれくらいにしてあげる」

「……ありがたいね」

 

 華織は胸を撫で下ろした。あのまま押されたら危なかったかもしれない。

 疲れを隠さないままテーブルへと向かい、パイプ椅子に腰かける。

 

 そこへ、お盆に急須を乗せたライスがやってきた。

 危なっかしい歩き方だった。視線が下がり過ぎていて、ちゃんと前が見えていない。今にもバランスを崩しそうだ。

 すると――案の定と言うべきか、ライスは足をもつれさせた。

 

「きゃっ」

 

 小さな悲鳴と共にライスが床へ向かって倒れていく。

 その拍子に、急須がお盆から跳ねて宙を舞った。

 

「おっと」

 

 反射的に飛び出した華織はライスを抱き寄せ、ついでに空中にあった急須の横手を掴み取った。

 シービーが「おー」と拍手した。

 

「お見事」

「そりゃどうも」

 

 軽く息をした華織は、腕の中のライスに視線を向けた。

 

「大丈夫か?」

「は、はい……大丈夫、です」

 

 ライスは華織の顔を惚けた様子で見上げていた。

 そして、数秒の間を空けてから、ハッと我に返って体を強張らせた。

 

「あ……えっ……ご、ごめんなさい!」

 

 途端に涙目になったライスを華織はゆっくりと立ち上がらせ、そのままテーブルの横に置かれているパイプ椅子に座らせた。

 

「気にしなくていいよ。怒ってない」

 

 そして、急須からティーカップへ紅茶を注ぎ、ライスの前に差し出した。

 

「ほら、お茶でも飲んで落ち着け」

 

 ライスはそれを手に取って、おずおずと口に運び、やがてほっと微かな息をついた。

 その様子を横目で確認した華織は、自分のティーカップにも紅茶を注いで口に運んだ。

 

「あっつ!」

 

 紅茶のあまりの熱さに慌ててティーカップを口から離した華織を、シービーがけらけらと笑った。

 

「猫舌なのに慌てて飲むからだよ」

 

 ムカついたが、おかげで辛気臭かった空気が切り替わり、和やかなオヤツの時間が始まった。

 釣られるようにライスの表情も少しずつ明るくなっていったが――僅かばかりの陰は残ったままだった。

 

 

 

 その翌日、事件が起きた。

 

「おい、ライスシャワー。ちょっとお使いしてきてくれないか」

 

 何の気なしに華織が頼み事をすると、ライスが「えっ」と驚いた声を上げた。

 

「……ライスなんかでいいの?」

 

 自分で自分を卑下する“ライスなんか”という言い様に、華織は僅かに眉をひそめた。

 

「お前だからいいんだよ。ちゃんと役に立ってくれてるだろ」

 

 ここのところの付き合いで、華織はライスのことを信用するようになっていた。

 たまにドジを踏むことはあるが、一つ一つの仕事は熱心で丁寧だ。安心して任せていられる。

 華織はデスクの引き出しから茶封筒を取り出し、それをライスに持たせた。

 

「校舎の屋上に続く階段の下あたりに、机がある。そこにクーラーボックスが置いてあって、中にいくつか袋が入ってるハズだから、私のイニシャルが書いてあるやつを探して、この封筒と交換してこい。似たようなコトしてるヤツが他にも居るかもしれないけど、なにも喋らなくていい。黙って、交換して、帰ってくる、それだけだ。あと……脆いモノだから傾けたりしないようにな」

 

 ほら行け、と華織が促すと、ライスは封筒を大切そうに両手で持って「はい!」と元気よく返事をした。

 

「行ってきます!」

 

 仕事を任されことが嬉しかったのか、ライスは弾むような足取りで用務室から出発していった。

 そして、廊下からかけ声が聞こえた。

 

「がんばるぞー、おー!」

 

 ライスの気合いは充分のようだ。べつに気負うようなコトでもないのだが――ないよりはマシか。

 見送りを終えた華織は、デスクに向き直るべくデスクチェアを回転させようとした。

 しかし、一部始終を観察していたマルゼンのジトっとした目と視線が合い、途中でその動きを止めた。

 

「ねぇ、華織ちゃん。一応聞いておくけど、ライスちゃんに悪い仕事の片棒を担がせようとしてるワケじゃないのよね?」

「人聞きの悪いコトを言うな。クリーンな仕事だよ」

 

 華織はため息をついた。どうやら妙な想像を膨らませているらしい。

 マルゼンは心配そうに眉を下げた。

 

「よくないモノを運ばせようとしてるみたいにしか聞こえなかったわよ。なにを取りに行かせたの?」

「ケーキ」

 

 端的に華織が答えると、マルゼンは不審なモノを見るように目を細めた。

 

「なにかの隠語?」

「そんなワケあるか。言葉通りの意味で、ただのケーキだ。知り合いがまとめ買いしてきたから、分けてもらうのさ」

 

 やましいことなどない、と華織は弁明した。

 すると、ソファにだらしなく寝そべっていたシービーが意外そうに言った。

 

「華織ってトレセン学園に知り合いいたの? ボッチかと思ってた」

「そこそこ話すヤツくらい、いるに決まってるだろ」

 

 華織が不機嫌に言い捨てると、シービーとマルゼンは信じられないとばかりに顔を見合わせた。

 本当に失礼なヤツらだ。人のことをなんだと思っているのだろうか。

 別に孤高を気取っているワケではない。ただ、周囲との関わりが薄いだけだ。

 仏頂面を作った華織へ、シービーが面白がるように質問した。

 

「知り合いって、どんな人なの?」

 

 少し悩んでから、華織は答えた。

 

「人見知りする犬みたいなヤツ」

 

 それで興味が湧いたのか、シービーが食いついた。

 

「その人もトレーナー?」

「そうだよ、私の同期。研修で同じチームに配属されて以来の付き合いでね」

 

 華織が説明を入れると、シービーは薄っすらと頬を吊り上げた。

 

「会ってみたいな、その人」

 

 ロクでもないことを考えていそうだ。会って華織の弱みでも聞き出そうとしているのかもしれない。

 だが、幸いなことに、その機会はしばらく訪れないだろう。

 

「会うのは難しいな。研修してたとこのサブトレーナーになったのはいいけど、だいぶ忙しいらしくてさ。私も近頃はあまり顔を合わせてないんだ。今日のケーキも結局、間接的に受け取る形になっちゃったし」

 

 残念だったね、という意を込めて華織は肩をすくめた。

 すると、シービーはつまらなさそうに足をプラプラとさせた。

 

「サブトレーナーって、そんなに忙しいの?」

 

 うーん、と華織は顎に手をやった。

 

「その辺りはチームによるけど……あそこは大所帯だから、単純に仕事の量が多い。私もオヤツの時間を作るのに苦労した」

 

 仕事に追われる日々が嫌になって、柄にもなく努力して研修を最速で終わらせた。

 いくらトレーナーとしての勉強になったとしても、あんな環境で働き続けるなんて華織のメンタルでは耐え切れない。

 過去の苦行をしみじみと思い返す華織へ、シービーが質問を投げかけた。

 

「そこ、なんて名前のチーム?」

 

 華織は短く答えた。

 

「リギル」

 

 あの東条ハナが率いる、実力主義の名門チームだ。

 学生時代の知り合いと東条が同時に存在しているせいで、ここがアプリ時空なのかアニメ時空なのか、さっぱり読めなくなってしまった――という話はさておき。

 リギルの名前が出たところで、マルゼンが「あっ」と声を上げた。

 

「あたし、そのチーム知ってる。ずっと前にスカウトされたことがあるわ」

「……だろうね」

 

 デスクチェアに深くもたれかかった華織は、ためらいながらマルゼンに問いかけた。

 

「なんで断ったんだ。あそこなら上手く走らせてくれただろ」

「とってもいいチームなのは伝わってきたけど、キュンとは来なかったの。あたしが(キー)を渡すのは、チョベリグな運命の人だけよ」

 

 ウインクをしたマルゼンから、熱い信頼が伝わってくる。

 心配しなくても、あなた以外には靡かない。瞳がそう語っていた。

 気恥ずかしくなった華織は、少しズレたことをそれらしく並べた。

 

「良くも悪くもシステマチックなチームだから、お前の目にはそう映るかもね。チーフトレーナーの東条さんはウマ娘思いの人ではあるけど、指導者として明確にラインを引くタイプだし」

 

 すると、シービーが喉の辺りに手をやった。

 

「アタシには合いそうにないな。息が詰まりそう」

 

 オフで気が緩んでいる東条ならともかく、仕事モードで気を引き締めている東条が相手だと、シービーでは3日どころか1日もつか怪しい。

 想像に難くない光景を思い浮かべていると、マルゼンがポンと胸の前で手を叩いた。

 

「もしかして……あのキャリアウーマンみたいなトレーナーさんと一緒にスカウトに来てた、金髪の女性トレーナーさんが華織ちゃんの同期の人?」

 

 華織が知っている限り、リギルに在籍しているトレーナーの中で金髪の女は一人しかいない。

 

「たぶんソイツだよ。妃紀(きさき)早貴(さき)っていうんだけどね」

「きさきさきさ……ごめんなさい、もう一回お願いできる?」

 

 聞き取れなかったのか、それとも上手く頭の中で処理できなかったのか、マルゼンが聞き返した。

 早貴の名前を初めて聞いたときの“あるある”だ。

 苦笑した華織は、ゆっくりとしたテンポで言い直した。

 

「きさき、さき。本人いわく、初対面で上手く区切って名前を呼べると好感度が高くなるらしいから、練習しとくといい。まぁ、使う機会はないだろうけど」

 

 マルゼンは「きさき、さき」と何度か繰り返し、やがて納得のいく発音ができるようになったらしく、小さく頷いた。

 

「その妃紀さん、にこにこしてて明るい人だったわ。華織ちゃんもあれくらい愛想よくしてればいいのに」

「……あの人見知りが、にこにこしてて明るい?」

 

 それはおかしい。華織は訝しんだ。

 

「初対面の相手に愛想よくできるようなコミュニケーション能力なんて、あの女は持ってないよ。たぶんだけど……その時、一言も喋ってなかったんじゃないか?」

 

 そういえば、とマルゼンが思い返すように言った。

 

「たしかに黙ったままだったわね」

 

 やはりか。となると、余程の無理をしていたのだろう。

 連れ回された挙句に知らない相手と顔を突き合わせるなんて、そんなことがあのコミュ障に耐えられるワケがない。

 

「東条さんも酷なことするよ。人には向き不向きってモノが――」

 

 リギルという地獄に取り残されている早貴へ華織が憐れみを向けていた、その時だった。

 用務室の扉が力の無い音を立てて開かれた。

 反射的に振り向くと、扉の前に顔を涙でぐしゃぐしゃにしたライスが立っていた。

 

「おい、どうしたんだ」

 

 慌てて立ち上がった華織は、ライスに歩み寄った。

 すると、ライスは何度も言葉を途切れさせながら謝った。

 

「ごめんな、さい……ライス……ちゃんとお使いできなくて……」

 

 泣きじゃくるライスの腕の中には、酷くへこんでしまった紙袋があった。

 華織はそれを一瞥すると、跪いてライスの無事を確認した。

 

「ケガはしてないか?」

「……ライスはなんともなかったよ……でも、箱が……」

 

 ぐっと唇を噛んだライスが、抱えていた紙袋に視線を落とす。

 華織はその紙袋をライスの腕の中からそっと抜き取って、中を確認した。

 入っていた箱は、潰れてしまっていた。

 

「なにがあった?」

 

 一つ息をしてから華織が尋ねると、嗚咽交じりにライスは語った。

 

「廊下にあった段ボールに気づかなくって、足を引っかけて……転んじゃったの。ごめんなさい、やっぱりライス、ダメな子だ……」

「……そうか」

 

 なるべく優しくライスの頭を一撫でした華織は、テーブルの上に箱を置いてその中身を取り出した。

 出てきたのは、形の崩れたショートケーキだ。

 華織は箱の内側についていたクリームを指先ですくって、パクリと口に運んだ。

 

「大丈夫だ、味は変わらない。食べられなくなったワケじゃないんだから、そんなに泣くな」

 

 慰めたつもりだったが、ライスはさらに顔を俯かせた。

 かなりショックを受けているらしい。

 涙を落とすライスに、華織は小さくため息を零した。

 

「仕方ないヤツめ」

 

 特別サービスだ。

 ここは一計を案じてやろうじゃないか。

 

 

 

 数日後。

 華織は再び、ライスに茶封筒を差し出した。

 

「おい、ライスシャワー。もう一回お使いしてくれないか」

「……えっ?」

 

 ライスは目を見張り――泣きそうな顔をした。

 

「ごめんなさい。ライス、また失敗しちゃうから……」

 

 だからできません、と頭を下げたライスに、華織は強引に封筒を押し付けた。

 

「安心しろ。今日はちょっとした“魔法”の道具を持たせてやるから、大丈夫だ」

 

 デスクの引き出しを開けた華織は、そこから紐のついた小さな袋を取り出した。

 

「境界を跨ぐ前、角を曲がる前、立ち止まれ。そしたらしっかり前を向いて、そのままこれを顔に当てて深呼吸しろ」

 

 袋についている紐を、華織はライスの首にかけた。

 

「これで上手くいく。もう一回チャレンジしてこい」

 

 ライスは思い悩んだ様子でそわそわと視線をさ迷わせたが、それでも最後には小さく首を縦に振った。

 

「がんばり……ます」

「いい子だ」

 

 そう言いつつ、華織はライスの背中を軽く押した。

 

「じゃあ、頼んだよ」

「は、はい」

 

 ガチガチに緊張したライスは、ぎくしゃくとした動きで廊下へ出ようとして――華織は大きく声を上げた。

 

「そこの扉も境界だ! 立ち止まって深呼吸!」

「ひゃい!」

 

 尻尾と体を跳ねさせたライスは、慌ててピシッと前を向くと、袋を顔に当てて深呼吸をした。

 すると、ライスの肩から少しだけ力が抜けたのが傍目にもわかった。

 

「……すごく甘い香り」

 

 そのままぼうっと袋を見つめるライスを、華織は追い立てる。

 

「ほら、早く行け。オヤツの時間が遅くなるだろ」

「い、行ってきます!」

 

 ハッと我に返ったライスは、今度こそお使いに出発して行った。

 その姿と気配が完全に消えたあたりで、シービーがお菓子のしまってある棚を物色しながら華織に質問した。

 

「あれ、香り袋だよね。どんな魔法(イカサマ)を仕掛けたの?」

 

 デスクチェアへ腰かけた華織は、脚を組んで待ちの姿勢を作った。

 

「ライスシャワーは致命的に間が悪いうえに、ドジで、思考がネガティブだ。それはわかるな?」

「まぁ……ちょっと言い難いけど、そうだね」

 

 曖昧に肯定したシービーに向かって、華織は人差し指を立てた。

 

「だからその間を一拍ずらすために、学園内を進むうえで絶対に通らなきゃいけないドアや曲がり角の前で、一旦立ち止まらせることにした」

 

 次に、と二本目に中指を立てた。

 

「その状態で真っすぐ前を向かせる。視線を上げて、周囲の状況を観察できる状態にするんだ。自分の周りになにがあるのかキッチリ把握できてれば、ドジ踏んで箱に足を引っかけることも……たぶん無い」

 

 最後に、と三本目に薬指を立てた。

 

「オマケに、リラックスできる香りを袋につけておいた。立ち止まって間を変えて、視線を上げて周囲を観察して、気持ちを落ち着けて……ここまでやってどうにもならなかったら、私にはお手上げだ」

 

 華織が言い切ると、マルゼンが慈しむように表情を和らげた。

 

「ライスちゃんのこと、ちゃんと見てくれてるのね」

「……たまたまだよ」

 

 ふん、と鼻を鳴らした華織に、マルゼンは穏やかな眼差しを向けた。

 

「ねぇ、華織ちゃん。あたし、ライスちゃんとの契約については、もうなにも言わないわ」

 

 そこで、マルゼンはゆっくりと一呼吸し「だから」と続けた。

 

「これからは、あなたが思うままにライスちゃんと接してあげて。それがきっと一番素敵だから」

 

 マルゼンを直視できなくなった華織は、わずかに視線を逸らした。

 すると、マルゼンは上機嫌に「ふふっ」と笑った。

 

 据わりが悪くなった華織は逃げるようにミニキッチンへ向かい、お茶の準備を始めた。

 お湯を沸かし、食器を用意し――そうこうしているうちに、控えめな音を立てて用務室の扉が開いた。

 ついにライスが帰ってきた。イカサマが成功したのかどうか、結果発表だ。

 

「ただいま、“お兄さま”!」

 

 しっかりと前を向いたライスが、とてとてとやってきて、大事に抱えていた袋を華織へ差し出した。

 

「ぶつけちゃったり、傾けちゃったりはしなかったけど……どう、かな?」

 

 袋を受け取った華織は、その中を確認した。

 真っ白な箱が、ちゃんと無傷で収められている。

 

「……パッと見は大丈夫そうだな」

 

 華織は箱を慎重に取り出して、テーブルの上に置いた。

 そして、ゆっくりと開封すると――まるで宝石のようにデコレーションされたショートケーキたちが現れた。

 釘付けになって「わぁ」と声を漏らしたライスの頭を、華織は大げさに撫でまわした。

 

「よくやったな、ライスシャワー」

「えへへ……“お兄さま”のおかげだよ」

 

 照れくさそうに頬を染めたライスは、尊敬の色のこもった眼差しで華織を見上げた。

 

「“お兄さま”の言った通りにしたらね、悪いことがなにも起こらなかったの!」

 

 そこでライスは「あっ」気がついた様子で、首にかけてあった香り袋に手を伸ばした。

 

「これ、お返ししなきゃ」

 

 香り袋を首から外そうとするライスを華織は制した。

 

「それはそのまま持ってろ。もともとお前のために作ったんだ」

「……いいの?」

 

 おそるおそる上目遣いで伺いを立てるライスに、華織は「ああ」と答えた。

 すると、まるで宝物に触れるように、ライスは香り袋を両手で包み込んだ。

 

「ありがとう、“お兄さま”! ライス、大切にするね!」

 

 その素直な喜びように、華織は気まずさを感じた。

 

「……消耗品なんだから雑に使っていいよ。壊れたり失くしたりしたら、また新しいのやるから」

 

 大切にされるほど手の込んだモノではない。

 百均で買ってきた袋に、家に転がっていたアロマオイルを仕込んだだけだ。作ろうと思えばいくらでも作れる。

 

 とはいえ、知らないままでいてくれたほうが都合がいいのは確かだ。

 今回の件でわかったが、少しの工夫と気の持ちようでライスの運はマシになる。

 魔法の道具を持っていると錯覚してくれれば、プラシーボ効果でネガティブ思考も多少はマシになるのではないだろうか。

 

 言わぬが花ともいうし、ここは黙っておいたほうがよさそうだ。

 華織はそれ以上なにも言わず、ポーカーフェイスを保った。

 すると、ライスは熱っぽい視線を華織へ向けて、夢見心地に呟いた。

 

「やっぱり“お兄さま”は凄いなぁ……」

 

 水を差すのはどうかと思ってなに言わなかったが、そろそろツッコミを入れたほうがよさそうだ。

 眉をひそめた華織は、ライスの耳を無造作に根本から撫で上げるように摘まんだ。

 

「さっきから、なんで“お兄さま”なんだ。いつの間にか喋り方も砕けてるしさ」

「ひゃあっ!」

 

 ライスが可愛らしい鳴き声を上げたのが面白くて、そのまま弄ぶことにした。

 なでで、こすって、くすぐって、まげて、ひっぱって。

 あうあう、とライスが言語を失ったあたりで、華織はそっと耳から指を離した。

 

「好きに呼んでもいいけど、せめて“お姉さま”にしろ。これでも私はレディだからね」

 

 今までも何度か呼び間違えそうになっていたし、ここらで言い聞かせておかないと、“お兄さま”で定着してしまいそうだ。

 華織が提示した妥協案に、最初はきょとんとしていたライスだったが、しばらくして言葉の意味への理解が及び始めたのか、みるみるうちに喜びを露わにした。

 そして、祈るように胸の前できゅっと手を握り、期待に声を震わせながら華織を呼んだ。

 

「え、えっと……お姉さま?」

「ああ、それなら許してやるよ」

 

 ぶっきらぼうに華織が返事をすると、ライスは瞳を輝かせた。

 色々と思う所はあるが――まぁいい。今はなにも言わないでおこう。

 

「それじゃ、お茶の時間にしようか」

 

 華織はライスの手を掴んで、“イカサマ”でぐるりと反対側を向かせると、テーブルの前のパイプ椅子に座らせた。

 そして、ケーキの入っている箱をライスの前に手繰り寄せた。

 

「どれがいい? 最初に好きなの選んでいいよ」

「……ライスが最初でいいの?」

 

 遠慮するライスの肩に、華織は手を置いた。

 

「これは頑張った“ライス”へのご褒美だ。遠慮するな」

 

 すると、ライスの表情にじわじわと美しい色が広がっていく。

 それはやがて眩い光に変わり、瞬く間に陰を消し去った。

 

「ありがとう、お姉さま!」

 

 可憐な花(ライスシャワー)が咲き誇る。

 認めたくはないが――華織はそれに幸せを感じてしまった。

 

「……我ながらチョロいな」

 

 その日、ライスと一緒に食べたケーキは、とても“甘い味”がした。




次回あたりから、ぼちぼちレース関係の話を進めます。

誤字報告、とても助かっています。
ありがとうございます。
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