レノがフェリクスの護衛から解任された翌日…生徒会室には、明日の学祭に向けた最終調整の為に生徒会役員が集められていた。
結界魔術を込めた魔導具を無くしたモニカは、ひとまず目の前の生徒会の仕事に集中しようと気を取り直す。
(ぶ、ブローチは失くしちゃったけど…れ、レノさんが近くにいるなら大丈夫…だよね?)
結界魔導具のブローチは所詮保険でしかないし、レノが近くに控えていれば並大抵の不意打ちならば難なく対処出来ると信じている。
殿下の護衛には万全を尽くすべきなのだろうが…失くしてしまったものはしょうがないとモニカが意識を切り替えた所で、生徒会役員が集まったのを見たフェリクスが自信に溢れた声で号令を掛ける。
「よし、全員揃ったね。いよいよ学祭は明日だ。明日は万全の体制で挑み、皆が楽しめる素晴らしい一日になるよう、最善を尽くそう」
「万全の体制、ねぇ…」
フェリクスの号令に訝しげな声を上げたのはエリオットだ。そんな声を上げた彼を、シリルでさえも声を上げて避難しない。
「どうしたんだい、エリオット。何か懸念でも?」
「い〜や?別にお前の判断だろうし、好きにすればいいと思うぜ」
エリオットの返事を聞いた、モニカ以外の生徒会の面々がフェリクスの方を見る。
生徒会室が緊張感に包まれる中、こうなった事情を知らないモニカは周囲を見回して…一つの違和感に辿り着く。
つい先日、校内に不審者が侵入したと言うのに、生徒会室の周辺でレノを見なかったのだ。多少の警備員こそ見かけたが、先日の騒動の事を考えるとあまりにも心許ない警備でしかない。
「そ、そういえば…レノさん、は……」
「おや、モニカは知らなかったのかい?彼女には生徒として学祭を楽しんで貰う為に暇を出したよ」
フェリクスの言葉を聞いたモニカの顔がさぁっと青ざめる。フェリクスの為に用意していた結界魔導具を無くしたが、レノがすぐ側に控えていれば最悪の事態は免れるだろうと考えていたモニカにとって、その報告は死刑宣告にも似た物だった。
いくらモニカがレノの事を少しだけ苦手に思っていようと、レノの強さに関しては身に染みる程に知っているのだから、レノを護衛から外すなんて行動は欠片も想像していかったのだ。
「そ、それって…だ、だだ、大丈夫、なんですか…?」
「制度上は何の問題も無いよ。それにこの学園の警備も優秀だから万一も無いだろう」
「クビにされた魔剣姫が相当荒れてたってのは聞くけどな。全く、どうなってるんだか」
周囲の人間から情報を得るほど、モニカの顔色は悪くなっていく。エリオットの言葉を信じれば、レノもフェリクスの護衛から外れるのは不本意だった筈だ。
モニカはフェリクスの護衛の身だが、その任務はフェリクスにバレないように遂行されなければならない。協力者は多くないし、学園内でモニカが頼りに出来るのはイザベルとレノだけ。
学祭当日はモニカにも生徒会としての仕事があるので、フェリクスにつきっきりという訳には行かない。しかし学祭の間はレノがフェリクスの側で護衛に就くと考えて安心し切っていたのに…これは、かなり不味い状況だ。
(どっ、どどど、どうしよう…!?まままま、魔導具も無くしちゃったのにぃ…!)
学祭は明日だというのに、ここに来て大きすぎる問題に直面してしまった。ルイスやリンも協力してくれるが、それでもフェリクスの側に居るはずの人間がいないというのは、モニカにとってはかなりの一大事だ。
モニカがどうにかしてフェリクスにレノを護衛にしてもらう方法を考えている最中、シリルが躊躇うような表情を見せながらも口を開く。
「殿下。御身の安全を考えると、やはりレノ・グロスシュヴェルト嬢を護衛から外すのは…」
シリルの諫言に生徒会の面々が興味を示す。根っからの第一王子派であるシリルが、レノをフェリクスの側に置く事を勧めるのは意外だったからだ。
それはフェリクスも例外ではなかったようで、興味深そうにシリルの表情を伺う。
「ふむ…シリルがそう言うなんて、少し意外だね?」
「彼女は確かに第一王子派の筆頭ですが…任された仕事を疎かにする様な人間でない事は分かっていますので」
シリルの意見にフェリクスは小さくなるほど、と呟く。フェリクスが顎に手を当てて考え込む素振りを見せた瞬間、モニカはこの機を逃すまいと口を開いた。
「わわ、わた、わたしも、レノさんを護衛から外すのは、良くないかと…」
「まあ、あんな事件があった直後で魔剣姫を護衛から外すのは自殺志願者とすら思えるな?いくら犯人が捕まっているとは言え、その裏で手を引いてる奴の事も分かってないんだからな」
モニカの言葉にエリオットも続く。エリオットの言う通り、犯人は捕まってはいるが誰が仕向けてきた人間かも分かっていない上に、共犯者の有無も判明していない。そんな状況で自ら護衛の手を薄くするのは通常では考えられないだろう。
現にセレンディア学園の警備室でさえ、表面上は取り繕っているものの混乱状態にある。学祭という大事の前に、魔剣姫という『責任者』は、大小関わらず貴族を相手に警戒しなければならない学園警備員たちにとって、非常に動きやすくなる要因の一つだったからだ。
シリルに続き、モニカ、エリオットと諫言を続けた事によって、フェリクスも一度長考を挟む。
クロックフォード公爵のことも考えると、迂闊な動きは出来ない。しかし、生徒会役員の半数から諫言を受けた上で無視をすれば、小さくない軋轢が生まれる可能性もある。
十秒ほどの沈黙を挟み、フェリクスが答えを出す。
「わかったよ。またレノと相談しよう」
フェリクスの返答を聞いたモニカは、深く安堵の息を吐く。これでルイスにも最低限の護衛は付けられたと言えるだろう。
「よ、よかったぁ…」
「寛大なお心遣い、感謝申し上げます」
「まあ、期待はしない方が良いだろうけどな」
「はぇ?」
エリオットの零した言葉を聞いた瞬間、フェリクスの言葉に安堵し、気が抜けたモニカの口から間抜けな音が出る。
「どうせ魔剣姫を護衛や警備から外したのはクロックフォード公爵の意向だろ?そうなるとその席にもう一回座らせるってのはほぼ不可能だろうしな」
エリオットの話を聞いて行くにつれて、モニカの顔が再び青ざめて行く。今回のフェリクスの返答は、あくまでもスタートラインに立っただけの物だと理解したからだ。
しかし、モニカの立場ではこれ以上踏み込む事はできない。後は運否天賦に任せるしか無いのだ。
「とりあえず、レノと相談はするよ。結果に関しては確約できないけどね。さぁ、レノの件に関してはこれくらいにして、学祭に向けて最後の確認と行こうか」
フェリクスが話題を切り上げた以上、モニカがこの話を続ける事はできない。こうしてモニカは今日一日、生きた心地がしないままに生徒会業務を熟す事が定められたのだった。
突然だが、私はいま殿下の部屋に居る。殿下の前で、紅茶まで出される客人扱いだ。
こうなった経緯は…明日の学祭に向けてあらゆる手段を講じて対策を練ると決め、相応の準備をしている最中の事。フェリクス殿下の使いが「フェリクスの部屋に来てほしい」と訪ねて来た。
もちろん不平不満を漏らしたい気持ちはある。しかしどんな手を使ってでも殿下の護衛に注力すると決めた以上、殿下と対面する機会を逃す訳にはいかないのだ。
なので私は今、殿下をじっとりとした視線で見つめながら紅茶を啜っている。口には出さずとも、全身で不満を伝えているのだ。
「…今更何の用ですか?」
「実はね、今回私の護衛から君を外した事に対して、生徒会役員から不安の声が上がってきたんだ」
それは…当たり前だろう。私が殿下の護衛から外れるだけならまだしも、学園の警備全般に関われないようにすれば戦力的な不安が増すのは避けられない。
なんと言っても私は『最強』。象徴としてこれ以上に頼りになるのは七賢人くらいの物だろう。
それに今回の一件はクロックフォード公爵の指示によるもの。今更フェリクス殿下の一存で覆せるような物とは思えない。
「問題は、今回の決定を覆す気は私にも無いんだよね。そう何度もセレンディア学園の警備室責任者を替えるのは混乱しか生まないし…」
「クロックフォード公爵の命令もあるから、ですか」
私の言葉を聞いても殿下は笑顔を崩さない。この程度の嫌味くらいは予想して然るべきだし、動揺されてもそれはそれで困るが…それにしたって腹立たしいな。
「だから、今からする話は個人的な話になるんだけど…」
「はぁ…」
「レノ、私と一緒に学祭を回らないかい?」
……???
つまり…護衛としてではなく、個人として殿下の側に居ろと?
「……あー、はい………正気ですか?」
「正気だし、本気だよ」
「護衛としてではなく、生徒として…ですよね。クロックフォード公爵はなんと?」
「公爵は学祭には来ないだろうから問題ないよ。そしてこれは、さっきも言った通り『個人的な誘い』だ」
狂った上で冗談であって欲しかった。
ともかく、うんとかすんとか返答しなければいけない……いや、ええ…?
「えぇ……それは…えぇ…」
「勿論断ってくれても構わない。重ねて言うが、これはあくまでも『個人的な誘い』だからね」
あまりにもあんまりな誘いに、なんと答えれば良いのかが全く浮かばない。しかし、誘われている以上「はい」とか「いいえ」とか答えなければ。
ええと、殿下が私を護衛から解任した件については広く知れ渡っていて、今回の殿下の提案は『個人的に学祭に同行して欲しい』という物だ。冷静に考えなくても、頭に蛆が湧いているとしか思えない提案だな。
「あの、殿下のその面の皮は我が国の城壁よりも厚いんですか?」
「君の気持ちも理解はできるよ。あんな突き放し方をした相手にこんな誘いをされても、良い気分にはなれないだろうね」
良かった。殿下も今回の提案の異常性については把握しているらしい。いや何も良くないが?
「私個人の感情としては君の事を非常に好ましく思っているんだ。国に忠義を尽くし、職務に従順なその姿勢は他の人間と比べても傑出した物だろう」
「はぁ…」
「今回は『
どうやら殿下は本気で私を同行させるつもりらしい。しかし、クロックフォード公爵の手前、正面切って堂々と私を侍らせるのは些か不味いんじゃないか?
それに何やら眼が本気だ。随分と情熱的な口説き文句を向けて来ているのは鈍感な私でも分かる。流石に恋愛的なそれではないだろうが…これも『個人的な誘い』と言う事か?
それにしたってなんで私にそんな拘るような物言いを…私が魔剣姫だからか?いや、もしかして、もしかすると…
「……殿下」
「なんだい?」
「以前から少し、疑問に思っていた事があるのです」
「言ってみてくれ」
「殿下…貴方は……」
流石にこの疑問を殿下に直接ぶつけるのは不敬に過ぎると考えていたが…こうなってしまったのなら聞くしかない。どこからどう見ても、今の場面は
「何と言うか、こう…
「待ってくれ。本当に待ってくれ」
私の質問を聞いた殿下は、目頭を押さえて小さく唸る。流石の殿下もこの質問は想定外だったらしい。
「えっと…それは、君自身の容姿を指して言っているのかい?」
「まあ、それもありますが…一番の理由は、ノートン先輩ですね」
私が殿下に対してこの疑惑を持つに至ったきっかけは、モニカが毒を盛られて倒れた時の事だったか。
あの時の殿下の怒りようといったら、相当モニカに執着してなければああはならないだろうと思える程の物だった。
「私は極端な例ですが、ノートン先輩もこう、はっきり言って貧相な体付きじゃないですか。そんな彼女を随分と可愛がっているので…」
「待ってくれ。それは誤解なんだ。確かに可愛がっているのは否定しないけど、少女偏愛が理由って訳じゃないんだ」
多少の事では動じない殿下も
「それについ今しがた私を口説いてきましたし…他の人間がこの場面を見たら、誰だってそう疑いますよ」
「それは…否定できないね」
自分で言うのも何だが…殿下のような青年が、背丈が138cm程の子供を先程の文句で口説いていたら誰だって衛兵を呼ぶだろう。私でも当事者でなかったら呼ぶし、場合によっては自分で鎮圧する。
「とにかく、少女偏愛って訳ではないよ。ノートン嬢の事を引き合いに出されたら言い訳しづらいけど、それでも違うんだ」
「そうですか。殿下の婚約者は未だに決まっていませんし、殿下が粉をかけている女性はノートン先輩以外に見受けられませんが…それでも、少女偏愛ではないのですね」
「う〜ん、信じられてないなぁ」
今現在、この国の次期国王候補の有力株であるライオネル第一王子とフェリクス第二王子には婚約者が居ない。なので王族の婚約相手に多大な関心が寄せられているのだが、そこで「フェリクス第二王子殿下は少女偏愛だ」なんて噂が流れたら…色々と面倒な事になる。
具体的に言えば
「待ってください。そういえば有力な婚約者候補と噂されているエリアーヌ・ハイアット先輩も小柄な体付きでしたよね」
「レノ、もしかしてからかっているのかい?」
「ええ、半分くらいは」
「半分は本気なのか…」
正直に言うと、殿下がモニカに拘る理由の半分くらいは容姿なのではないかと勘繰っていたりする。
確かにモニカの計算能力はこの国でも随一の才だろうが、それだけであそこまでモニカに執着するのは動機としては些か弱い気がする。
そもそも生徒会の会計業務
つまり殿下はモニカの容姿からそれとなく興味を惹かれていて、モニカの才能云々は殿下がモニカを側に置くための『口実』に過ぎない…と言う事だ。我ながらトンチキな発想だが、殿下を揶揄う為の口実としては悪く無いと思っている。
「とにかく、私が少女偏愛だなんて噂を流そうなんて考えないでくれ。君が言いふらすと本当に冗談では済まなくなるからね?」
「しょうがないですね…殿下が本気で慌てる珍しい姿も見られましたから、これくらいで勘弁してあげましょう」
何はともあれ、本題に戻ろう。
今私は殿下に学祭の間の同行を頼まれている。色々と思う所があるものの、モニカの支援をするにはこれ以上なく良い立場だろうし、既に打てる手は打つと決めた以上この提案を突っぱねる選択肢はない。
「ともかく、殿下のお誘いには乗りましょう」
「受けてくれるのかい?」
「元より殿下の護衛に不安はありましたからね。今回の提案はまたとない機会ですから」
私が殿下の提案に乗ると言った途端、殿下は意外な返答を聞いたとばかりに目を丸くする。その気持ちも理解できなくは無い。
「君の荒れ様を聞いた時は反発されるかと思っていたんだけど…私が言うのもなんだけど、意外だね?」
「ええ、まあ…自覚はありますよ。最近のあまりにもあんまりな扱いに多少の癇癪は起こしましたが、それでもやるべき事はやらないといけませんからね」
イザベルと話した事で少しだけ落ち着けたというのもあるが…そもそもセレンディアにきた理由は、殿下とクロックフォードの企みについて調べる目的もあった。その事も考えると殿下が接触する人間を把握するのは私にとっても悪くはないと考えられる。
今回の殿下の提案は、私の心情を抜きにすれば非常に魅力的な物だ。
「では、学祭当日の予定について伺ってもよろしいですか?」
「私は主に来客の接待をするんだけど、君の事もその時々に紹介するつもりだよ」
殿下ほどの立場ともなれば、彼を目当てに学祭に来る客人も相当数いるだろう。その傍に私のような小娘が居たのなら紹介しなければいけないだろうし、私もそれで構わないのだが…今回に至っては立場的に面倒な事になりそうだ。
「……同行する意思を変えるつもりはありませんが、色々と勘繰られそうですね?」
「それは否定出来ないね。まあ、護衛ですって感じで横に居てくれたら問題はないと思うけど…」
今回の私は騎士としてではなく一学生として殿下の横に控える事になる。それも、殿下の要望でだ。どう見ても政治的な見方しかできないだろう。
もしも勘繰られるような事があれば、それをどうにかするのは殿下の仕事だ。私は別に困らない…訳でも無いな。変なやっかみが増えるのは嫌だな。
「変な形で外堀が埋まらなければ良いんですがね」
「そこはどうとでもなるだろう。そもそも君と私では立場があるしね」
「その立場こそが問題なのですが…」
派閥の違いがあろうと、一度『そういう目』で見られたら火消しは面倒くさいだろうし…私の立場であれば、第一王子派に良い印象を持たれない事は確実だ。
だが、そんな懸念も未来を見据えれば安いリスクだ。私と殿下が個人的な交流をしているという事実は、殿下の周囲にいる者に相応の圧を与えられるだろう。
「次期国王も今年中に決まるでしょうし…どんな形にせよ、私と殿下に個人的な繋がりがあるというのを周囲に知らしめるのは悪くないですからね」
「そうだね…私も、そう考えているよ」
クロックフォード公爵のことを考えると、殿下は私との繋がりを見せない方が良いように思えるが…何を企んでいるのやら。
「殿下の企みはともかく、クロックフォードではなく
「あはは、考えておくよ」
冗談でもそんな事を言うべきではないだろうに…これは、想像以上に私に信を置いてくれていると捉えても良いのだろうか?
やはり、フェリクス殿下の心の内が読めないな。特にクロックフォード公爵に対してどんな感情を抱いているのか…もしも本気で叛意を抱いているのであれば、私も手助けしてやりたい所だが…どこに耳があるか分からない以上、ここで聞いても無駄だろうな。
「とりあえず、学祭当日は殿下のお側に控えさせて頂きます…いえ、騎士としてではないので、これでは正確ではありませんかね?」
「そうだね…とりあえず、学園の先輩後輩として振る舞ってくれ。私たちの距離感はこの程度が丁度良いだろう?」
そういえば、この学園で一番関わりが深いとも言える殿下との関係性は護衛と護衛対象で、生徒として接した経験は少ないな…精々が校舎裏で焼肉パーティーをしていたあの時くらいだろう。
改めて先輩後輩として接してほしいと言われても…かなり困る。しかし本来はそれが正常な関係なのだから、なんとかして取り繕う努力はすべきだろう。
「ああ、そうだ。これは明日の学祭とは何も関係のない、個人的な質問なんだけど…」
私と殿下の関係性について改めて思い返していると、殿下が日常会話をするかのように手を打った。実際、殿下にとっては日常会話なのかもしれないが…私の立場だとどうしても警戒してしまう。
「ヴェネディクト・レインって医学者を知っているかい?」
警戒して損した。本当にただの世間話らしい…いや、それにしたって騎士ではなく医学者?
「…なんで医学者の話を私に振るんですか。知りませんよ」
「ほら、君の実家って医学会にかなりの額を出資しているだろう?その伝手で知ってたりしないかなって」
なるほど、確かに高名な医学者であれば多少の知識はある。だが私の記憶には無い名前だ。昔活躍した医学者か、新進気鋭の人物か…少なくとも軍事医療に携わる人間では無いと思う。
ヴェネディクト…パッと思いつかないが、聞いた事がある気がする。どこかで父が名前を溢していたのだろうか。
「実家に帰ったら父に聞いてみますが…期待はしないでくださいね」
「ああ、そこまでしなくても良いけど…いや、ありがとうレノ」
この手の話はお父様かお祖父様に聞くべきだろう。次期当主として勉強をしている弟でも知っているかもしれないな。
「それで、そのヴェネディクトって人は何を専門にしていたのですか?」
「遺伝子学だったはずだ。それと、魔力に関する研究もしていたらしい」
「ふむ…遺伝子学方面はあまり強くないんですが、医療魔術の基礎になる研究をしていたのならば、もしかすると名前くらいは知っているかもしれませんね」
我が家は医療魔術の推進派だ。今は基礎の基礎段階で躓いているので研究すら進んでいないが、そちらの方面に興味のある医学者であれば我が家にコンタクトを取って来ていても不思議では無いだろう。
「しかし…ヴェネディクト・レイン。知らないとは言いましたけど、どこか聞き覚えのある名前のような…」
うんうんと唸りながら、記憶の奥底を探ってみるが…駄目だ、思い出せない。私が聞いた事があるとなると、騎士団に関係していた人間だろうか?
ともかく、殿下も急いでいないようだしこの件は実家に帰ってからで良いだろう。
「ところで、なんでそんな医学者の事を?」
「とある場所で、その名を目にしてね…本腰を入れて調べる程ではないんだけど、聞いておくだけ聞いておこうと思ったんだ」
私にヴェネディクト何某の事を聞いた理由は、本当に気まぐれだったらしい。知っていたら良いな、程度だったのだろう。
識者の家系の養子であるシリル・アシュリーに聞いた方が確実だと思うが…生真面目な彼に聞いたら、とことんまで調べようとしそうだから駄目そうだ。少なくとも学祭が終わってから聞くべきか。
「さて、そろそろ良い時間だし、レノも明日に備えなければならないだろう?ここら辺で解散しようか」
「ええ、そうですね。では、また明日。失礼します」
私も一端の貴族淑女。明日は何かと用意も多いし、殿下の側に付くと言うのならば『相応』の仕込みもある。ここは素直に寮に戻らせてもらうとしよう。
そうして部屋に戻った私を待っていたのは、使用人たちの労いの言葉と…メイドの姿をしたルイスの契約精霊、リンだった。
「……はぁ」
「私の顔を見てため息とは、人間社会では相当の失礼に当たるのでは?」
殿下に続き、また面倒事の臭いに思いっきりため息を吐いてしまった。リンがこの姿でここに居るとなると、相当な緊急事態の可能性もある。
「あなたがここに居るという事は…何かしらトラブルが起きたのですか?」
「はい、ルイス殿からの伝達事項でございます。チェス大会の侵入者の件です」
これが犯人の雇い主が分かったみたいな話であれば良かったのだが…その程度であれば今ここでリンから報告を受ける必要も無い筈だ。
「実は、あの後拘置所に送られた例の下手人が服毒自殺したそうです」
「…はぁ。犯人の罪状や技能に対して、随分と杜撰な警備体制だったようですね?」
「ルイス殿も長々と愚痴を吐いてらっしゃいました」
それはそうだろう。殿下の命を狙う人物が居るとなった上で、情報の一つも抜き出せないまま死なれたとなれば、愚痴の一つや二つは零したくもなるだろうな。
「しかし、ルイス殿の見立てでは拘置所で発見された遺体は本物のユージン・ピットマンであり、真犯人の方は逃げたと考えているようです」
「ふむ…」
なるほどなるほど、容易に他人になりすませる技術を持った魔術師が、なんらかの手段を使って脱走したと…ふざけるなよ?
クソ、また悪態を吐きたくなったが、ぐっと飲み込もう。今回はルイスが悪い訳でもないし。
「確かに、確認しました。これ以上に警戒を厳にするのは不可能ですが…とりあえず、見慣れた顔だからといって気を抜かないようにはしておきます」
「お手数をお掛けします」
こうなると私が殿下の側に居られるようになったのも幸運だったな。モニカも付きっきりとは行かないだろうし、ルイスやリンに至っては出来るだけ存在も悟られたくはないだろう。
とりあえず、やれるだけの事と言えるほどやれる事も無いが、万事を尽くすしか無い。契約精霊であるリンがここに居るという事は、現在ルイスはこちらの状況を把握出来ては居ないだろうし、私の立場の違いは警備計画に大きく影響する。言伝を頼んでおこう。
「ああ、余裕があればルイスに伝言を。私、学生として殿下と共に学祭を回ることになりました」
「ええ、聞いておりました。明日ルイス殿の姿を確認次第伝えます」
しかし、こうして見るとやはり契約精霊は恐ろしく便利だな。使い魔と違って言葉を交わせるのは非常に大きい。
それに風の上位精霊ともなれば足としても使える。彼女の機動力は私でも追いつけない程度には機敏だし…やはり欲しいな。
「私も、契約精霊を作るべきでしょうか」
「…個人的には、難しいかと」
私の漏れ出たぼやきにリンが苦言を呈する。精霊自らこう言うとなると…何かしら私には自覚出来ていない欠点があるのかもしれない。
「なぜ、難しいと?」
「なんとなくレノ様からは、こう「嫌だなぁ…」となる雰囲気が漏れ出ているのです」
「ええ…?それじゃあ、今もそういうのを我慢して?」
「いえ、人付き合いとしてならば問題ないのですが、契約となると、こう」
「「嫌だなぁ…」ですか」
なんなんだそれは。精霊の感覚的な話となると「そんな物か」と受け止めざるを得ないのだろうが…それにしたって「嫌だなぁ…」はどう受け止めれば良いんだ。いわゆる『生理的に無理』って奴か?流石にへこむぞ?
「まあ、精霊の感覚も精霊それぞれなので…もしかしたら風の精霊と相性が悪いだけかもしれません。そう落ち込まないでください」
「契約するなら風の精霊が良いと考えていたんですけどね…参考程度に覚えておきます」
ルイスがリンの力を使って方々へ飛び回っているのを見ると、やはり風の上位精霊の力は魅力的に見える。もしも私が風の上位精霊と契約していたのならば、巡航魔術なんてトンチキな魔術を開発する必要もなかったのだから尚更だ。
「では、私はフェリクス殿下の側で警戒に当たるのでこの辺で」
「ええ、ご苦労様です」
リンと別れを告げ、私は明日の学祭に向けた準備を始める。正確に言えば、明日の準備をするのは使用人達だが。私がすべき事と言えば、使用人達に明日の予定を伝えて調整をしてもらうだけになる。
「明日の予定が大きく変わりました。準備は任せます」
「畏まりました」
風邪は引かない方が良いですよ。経験者からの忠告です。(インフル)