ラーメンが正邪を作るお話 作:最弱の鬼人正邪ファン
咳をしても一人
「おかあさま! お母様!!」
母の顔を見るのは、実に久しぶりなことだった。最後に見たのは……いつだったか。覚えていないが、とても昔のことである事はわかる。
気付けば私は母の体に飛び込んでいた。そしてその勢いのまま、母は体勢を崩して、私と共に床に倒れてしまう。
「う! いたた……」
「あ、ご、ごめんなさい、お母様……」
「いいのですよ。元気があってよろしい」
母は私に笑顔を見せてくれた。それが嬉しくて、あるいは懐かしくて、私も笑い返して、体を抱きしめた。
このままずっと母のぬくもりを感じていたかったが、やるべきことを思い出した。鬼の世界に行って、正邪に会いに行く。あれ、でも、私って鬼の世界に突入したんだよね?
なのにどうして、昔母と一緒に住んでいた場所にいるんだろう。
じゃあ、もしかして……
「……お母様って鬼の世界に隠れてたの?」
「え?」
「いや、だってここって鬼の世界でしょ?」
「針妙丸、ここは鬼の世界ではありませんよ。何か思い違いをしています」
「うーん……?」
「ほら、もう昼時ですから。母様と一緒にお昼ご飯をいただきましょう」
「え! 本当に? やったあ!」
「……針妙丸、敬語はどうしたの? そのような言葉遣いを教えた覚えはありませんよ」
忘れてた。そういえば私は母の前では敬語を使うよう言われていたっけ。
「えっと、申し訳ございません、お母様」
「いや、謝って欲しいのではなくてですね……」
「えーと、嬉しいです! お母様とご飯をいただけて?」
「……まあ、いいでしょう」
困ったような顔をしたけど、笑顔を浮かべていた。優しい笑顔だった。
そういえば、母は敬語とか、礼儀作法に厳しい人だったか。
結果的には、正邪とか色んな人と関わる上で、言葉遣いは悪くなっていったけど。
「今日は、蕎麦を作ります。すぐに、ゲホッ、作りますので待っていてくださいね」
母は咳をしながらそう言った。大丈夫なのだろうか。
いや、多分大丈夫だろう。
そう思った次の瞬間、景色が変化した。温かみのある家の中から、紅葉が漂う外の景色へと。
「……え?」
「どうかしましたか? 針妙丸」
「あれ、私の蕎麦は? ていうか、え? これは夢?」
「貴方が今見てるのは夢じゃありませんよ。どんぐり拾いをしたいと言ったのは、針妙丸でしょう?」
なんだろう、妙に既視感を感じる。だけど、私の記憶の中ではこんな場面を見た事はないはずだ。
「うう寒いですね……やっぱりもう少し着込んできた方が良かったかしら……ゲホッゲホッ!」
「お母様大丈夫?」
「ええ、大丈夫です」
ニコニコと笑顔を保っている。保っているが、本当に大丈夫なのだろうか、大丈夫だったのだろうか。……だった? 私は何を言っているんだ。
これは、この景色は今、初めて見たじゃないか。
だから、何も心配する事はないはずだ。大丈夫だって本人が言っている。……頭が痛い。
「さあ、どんぐりを拾いましょう。母様も手伝いますから」
「あ、わかりました。お母様」
とりあえず、難しい事は考えないようにして、私はどんぐりを拾うことにした。
両手一杯になるまで拾って、遂にはこれ以上持つことができないほど拾った。はずだった。
また景色が変化する。今度は赤かった世界が、白い、白銀の世界に変わる。寒気を感じる、冬の世界だった。手に持っていたどんぐりは消えていた。
「うわっ!? 寒っ!?」
当然だ。夏用の服を着ていたのだから。秋ならまだ耐えることが出来るかもしれないが、冬は無理だった。
そして今理解したが、時が飛び飛び、場所も飛び飛びになっている。これは、鬼の世界の性質なのだろうか。
「大丈夫ですか? 針妙丸。ほら、母さんの羽織りを着なさい」
「あ、ありがとう。お母様」
「冬は寒いですから、ゴホッケホッ」
「……ねえ、本当に大丈夫なの?」
「大丈夫です。心配しないで。きっと春には良くなります」
本当にそうなのだろうか。とにかく、母から着させられた羽織りはとても暖かかった。
「ほら、針妙丸は雪だるまを作るために外に出たんでしょう? 母様も手伝いますから。一緒に大きな雪だるまを作りましょう」
「あ、うん!」
そうだったそうだった。私は雪だるまを作るために外に出たんだった。
ちゃんと目的を果たさないと。
少しだけ雪を取って、それを固めて、どんどん大きくしていって、まあまあな大きさになったら、雪を転がして、そうしたらどんどん地面の雪を巻き込んで大きくなっていく。
それを二回繰り返して、出来上がった大きな雪玉を重ねて、石を目と口の部分に嵌め込む。
「お母様! 見てください! こんなに大きな雪だるまを作りました!」
「ええ、本当に大きな雪だるまですね」
「私は、将来こんな大きな雪だるまよりも大きくなります!」
「ふふ、とても素敵な夢ですね……ゴホッゴホッ!」
母は、体調が悪かったんだっけ。覚えて……ない。
だけど、なんでか知らないけど、嫌な予感がした。
「お母様、大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。ゲホッゲホッ!」
「……もう今日は家に帰って休みましょう!」
たまらずそんな事を言った。お母様が目を丸くして、私を見ていた。そして、
「そう、ですね。今日はもう、うちで休む事にします」
微笑んで私にそう返した。私は母の手を取って私たちの家に帰る。
妖怪の山の麓にひっそりと建っている小人サイズの家だ。
幸い雪に埋もれる事はなかったが、それでも雪が積って入り口が塞がれている。
「ああ、雪かきをするのを忘れていました。ここは母様に任せて」
「邪魔な雪よ! 私達の前から消えますように!」
「……え?」
私は打ち出の小槌を振るって家の前の雪を消す。そして母の手を掴んで、家の中に入る。
「針妙丸、その小槌はどこで……?」
「忘れたの? お母様が……あれ、なんでだっけ? まあいいや。お母様は布団で横になってて」
寝室に母を連れて、布団を敷いて、母を寝かす。
「私は、夢か、まやかしでも見ているのかしら? 針妙丸が、お布団を用意してくれるなんて……」
「違うよ、これから見るんだよ! おやすみなさい、お母様」
「おやすみなさい、針妙丸」
どうか、母の容態が良くなりますように。気付けば小槌にそう願っていた。小槌は反応しなかった。私は自分の手がしっかりと小槌を握っているか確認した。そしたら、どうしてか知らないが、私の手は赤くなっていた。
瞬きをすると、赤色は消えて、暖かかった羽織りも消えて目の前には、苦しそうにしている母の姿が。
「お母様、大丈夫?」
「だい……」
そう言いかけたところで、言葉に表せないほど、激しい咳をした。そこには血も混ざっていて、口を押さえた母の手を赤くしていた。
だからか、だからさっき母の手を握った私の手も赤くなっていたのか。どうして私は気付かなかったんだ。こんなにも母の体調が悪くなっているなんて。
「お母様の、咳が治りますように」
小槌を振るった、何も反応しなかった。
「……針妙丸。私はその小槌について話すべきことがあります」
「……話すこと」
わからない。わからない。どうして小槌が作用しないのか。どうして話が噛み合わないのか。
なにか、何かとても大事な事を忘れている気がする。
「針妙丸、それを己の欲望のために使うのはやめなさい」
「……欲望?」
「ええ、ええ」
咳き込みながら、血を吐きながら母は言った。
「それを使いすぎて、小人族が鬼の世界へと閉じ込められたのは、なんども話したでしょう」
「うん」
「ならば、使うのはおやめなさい。貴方の身を滅ぼします」
「だけど、私のために使ってないよ。私は、お母様に楽になって欲しくて」
「……小槌を使っても、楽になれないほど、私はもう手遅れなのでしょう」
「そんな事ない! そんなことあるもんか! きっと魔力が足りないだけだから、きっと、今すぐにでも……」
「針妙丸」
弱々しく、私の手を握ってくる。
「小槌には、代償があるのです。万能の、神にも匹敵するその力には、代償が伴うのです。たとえそれが、他者のために使ったとしても」
「……知ってるよ。自分の身を持って味わったから」
「それは、どういう……」
聞かれる前に母は咳き込んで、そして力無く布団に横たわる。
「……針妙丸。どうか、どうか、欲深い小人にはならないで、他者を思いやるようになりなさい」
「……どうして、そんな事を急に」
言うの。そう言いたかったけど、それ以上は言えなかった。母が目の前で、瞼を閉じた。
それ以降、母は何も喋らなかった。窓の外には綺麗な桜が咲いていた。私の記憶の中では、母を看取るのは初めてのことであった。
どうして、どうして、どうして、なんで死んだ? 私何かしちゃった? これは現実? それとも夢? どうして既視感を感じるの?
わからない。
わからない。
わからない。
どうして、私は、何もわからない?
「針妙丸? どうしたの? どうして泣いているのですか?」
「え」
先程、眠りについたと思っていた母は、目の前に立っていた。
顔色も先程と比べればとても健康そうである。
「なんでもない……です。お母様」
「何か悩み事でもあるの? 母様になんでも相談してください」
「ううん、ただ……どうやったらもっと大きくなれるのかなーって」
「それは……ごめんなさい。母様にもわかりません」
何故か、鬼の世界に入って、母と出会う時がもう一度繰り返されている。
妙な既視感を感じていた。これが二度目だから、と言うわけではなく、その前からずっと、私はこの景色をどこかで見たような記憶がある。
私は、何か大切な事を忘れている。
「どうすればいいんだろう……」
その、大切な事は思い出していいのだろうか?
頭が、心が、思い出すなと私に訴えている。
「だけど、私は知りたい」
小槌を握り締める。
「私の……失われた記憶が戻りますように!」
小槌を振った。
私の目の前で、母が横たわっていた。幼い私にとって、それは衝撃的で、悲しい事であった。
「お母様。お母様? どうされたのですか」
訂正しよう。私は何も知らなかった。母は起き上がる事なく、ただただ、そこに横たわっていた。
何秒も、何分も、何時間も、私はそこから離れることができず。ずっと母の亡骸を抱きしめていた。
「……お腹が空きました」
空腹感が頭を支配するまで、私は母を抱きしめていた。
「ご飯の用意をしましょう」
誰も聞く人はいないけど、私はそう呟いた。
台所に移動して、立ち止まる。その時の私には、料理の知識はまるでなかったから。全ての家事を母に任せていたから。
「……お困りのようですね」
「……誰ですか?」
背後から声をかけられる。
白いワンピースを着た女性がいた。黒を基調として一部分に赤と白が混ざった髪型で、頭には角が生えている。つまり、妖怪だった。
後の私の友人である、正邪がそこにいた。
「私の名前は鬼人正邪。生まれもっての天邪鬼です。以後お見知りおきを」
「そうですか」
「……失礼かもしれませんが、貴方の名前を伺っても?」
「私の名前は、少名針妙丸です」
「……少名針妙丸様ですか。実に素晴らしいお名前だ」
大袈裟に反応しているが、私は正邪の事を怪しく思っていた。
「何故、私の家にいるのですか?」
「ああ、申し訳ありません。ここ数日何も食べていなくて……この家を見つけて、食料を分けてもらおうと思ったんですよ」
「そうなんですか、それは大変でしたね」
ああ、昔から正邪は他人の優しさにつけ込むのが好きだったのか。好きというより、得意か。
「それは、まあ大変でした。ところで、どうでしょう。私が何か作って差し上げましょうか?」
「いいのですか?」
「ええ、ええ、貴方は、小人族でしょう? 小人族と言えば、高貴なお方。一寸法師でも、鬼を退治した伝説が今も語り継がれるほどに!」
「なんですか、その『一寸法師』って」
そういえば、正邪に一寸法師について教えてもらったんだっけ。
「お話ししましょうか。料理を作っている間に」
正邪は私に一寸法師のお話を教えてくれた。一寸法師だけでなく、聞いた事になんでも答えてくれた。敬語は使わなくいいと言って、その時の私にとって、それはとっても新鮮な時間だった。
「はい、できましたよ。単純な味噌汁に魚の煮物ですが」
「ありがとうございます、正邪。そうだ、お母様にも食事を用意してもらってもいいですか?」
「ああ、母君がいらっしゃったのですね。ええ、構いませんよ。運びましょう」
台所から母親が寝ている寝室へ。
私は、母が寝ているものだと思っていた。この時は母が亡くなっているなど、知らなかった。
「お母様。正邪が食事を用意してくれましたよ」
「失礼します。私は……ああ」
部屋の中に入ると、苦しそうな顔で目を閉じて、横たわっている母がいる。
「正邪、そこに置いておいてください」
「はい。置いておきますね……?」
正邪は食事をの乗せたお盆を母の枕元に置いて、違和感に気付く。
「おい、こいつ息をしてないぞ!」
「え?」
「心臓も止まってる……」
「そうなんですね」
「そうなんですねって、お前……」
嫌悪感というか、恐怖を露わにした顔を浮かべて、私を見てくる。
まあ、これを思い出している私も似たような顔をしているだろうが。
「自分の母親が死んでるのに、何も思わないのか?」
「死んでるってなんですか?」
私の言葉に、正邪は驚いて、数秒頭を抱えた。そして、大声で笑い出した。顔はちっとも笑っていなかったが。
「ああ、ああ、あははは! あはははは! 哀れすぎる! 箱入り娘もここまでくれば可哀想だ!」
「どうしたんですか?」
「ああ、いえ。なんでもございません。なんでも。そうですね、死ぬというのは、いわば、永遠に眠りにつくという事ですよ」
「永遠に、ですか」
この時の私には、まだ死というものの実感が湧いていなかったのだと思う。
死んだと言われても、よくわからなかった。
「……とりあえず、あなたのお母様のご遺体を埋めましょうか」
「そんな! 埋めるなんて可哀想です!」
「じゃあ、焼きますか?」
「どうしてそんなに酷い事をするのですか!?」
「……亡くなった方は埋めるか焼くか……色々方法はありますが、とにかく別れを告げないといけないんです。魂と体の繋がりを断ち切る為に」
「そうなんですか?」
誰かを疑う事を知らなかったのは、不幸中の幸いだろうか。私は、この時初対面である正邪の事をあっさりと信じていた。
「埋めるとするなら、どこにしますか? それとも、焼きますか?」
「う、埋めるでお願いします。どこに埋めればいいんですか?」
「わかりました。そうですね、墓地とかに埋めるのが一般的ですが、そんなものここら辺にないですし、思い出の場所とかでいいんじゃないですか」
「じゃあ、家の下に埋めればいいんですか?」
「外に埋めましょう。家では、きっと解放されないでしょうから」
私達は、母の遺体を外に運んだ。といっても、正邪が軽々と持ち上げていたが。
意外なことに、丁寧に、慎重に扱っていた。
「あそこ、あそこの木の下に埋めてもらっていいですか?」
「ええ、いいですよ。そこにしましょうか」
桜の木の下。秋にも冬にも、春の日も、あまり遠くへはいけないので、そこで遊んで過ごした記憶がある。ただ、それだけだったが。
それでも、私にとっては思い出の場所である。
木の近くに体を持って行って、寝かせる。
「さあ、埋める為に地面を掘りましょう。何か土を掘る道具はありますか?」
そう言いながら、正邪は私を見つめてくる。
「……私も掘るんですか? 掘っていいんですか?」
「……当たり前だろ。家族なんだろ? やれよ。私も手伝うからさ」
都合がいいのか、悪いのか、家には植物を植える為に使う、小さなスコップがあった。
それでも私の体には大きなものだったし、母を埋めるための穴を掘るのには充分だった。
私と正邪は土を掘る。ただ、黙々と。
一時間もすれば、母の体が入るほどの穴ができた。
「……ここに、お母様を入れればいいんですか?」
「ええ、ゆっくりと優しく入れてあげてください」
「お母様は、土に埋められて、苦しまないんでしょうか」
「苦しみませんよ。少なくとも、この世では。苦しみから解放されるんですから」
母の体を持って、穴に入れる。
手から重みがなくなって、少しだけ、寂しさを感じた。
「埋めましょう」
「はい」
掘った分の土を被せていく。最初に体を埋めて、髪を埋めて、最後に、顔が残る。
「最後にお別れでも言ったらどうですか?」
「もう、会えないんですか?」
「……ええ、はい。会えないでしょうね」
「わかりました。ありがとうございます正邪。……さようなら。お母様」
土を顔に被せて、母の顔も体も、何もかも見えなくなった。盛り上がった土だけが残る。
「お腹が空きましたね。家に戻りましょうか」
「……待ってください。墓石を建てましょう」
「墓石、ですか」
正邪がどこからか岩を持ってきて、それを盛り上がった土の近くに置いた。
「そんな綺麗なものじゃないですがね。無いよりはマシだと思います。じゃあ、姫様」
「……何をすればいいんですか?」
「母君の名前を刻んでください。生きた証を残すのです」
言われて、刻んだ。そこら辺に落ちてた石で。
「他に何かやることはありますか?」
「いえ、もう無いと思います」
「わかりました。家に帰りましょう」
私達はお墓を後にして、家に戻った。
お墓を作る前に用意したご飯は、冷め切っていた。冷め切っていたが、不味くはなかった。
そこから、数日して、私はようやく母が亡くなることの辛さを実感した。
朝起きて、お母様に挨拶しにいっても、いるのは正邪だけ。お母様、と声をかけても、誰も返事はしない。お墓に行って、ようやく母にはもう会えない事を実感して。感情が少し激しくなる。
私はとても寂しさを感じていた。
春も終わりが近づいている頃だったか。私はお母様の部屋で、正邪に言われて遺品を整理していた。
棚を整理していると、衣服が多くあった。だけど、一つだけ、目を引くものがあった。何か、何かが入っている黒い箱だ。大きさは、私の両手よりも大きいくらいだ。不思議と重さは感じなかった。
「何か見つかりましたか?」
正邪が大量に本を抱えて聞いてきた。
「うん。何か、黒い箱があったよ」
「ほう、開けてみましょうか?」
箱を開けると、中には手紙と、小槌が入っていた。
「これって」
「ああ、そりゃそうか。そうだよなあ」
「え?」
「とりあえず、読んだらどうですか? 手紙を」
「わかった」
手紙を読んでみる。中身は、遺書であった。
針妙丸へ。これを読んでいるのならば、私は後悔を残してこの世を去ってしまったということでしょう。
もう少しお前の側にいたかった。しかし、それは叶わぬ夢となってしまった。
不甲斐ない母で申し訳ない。
文字は掠れていて、読みづらかった。
初めは、私への謝罪と、後悔から始まった。おそらく、これを書いているときに、母はすでに己の不調に気づいていたのだろう。
お前にこれを残す。小人族の秘宝の打ち出の小槌である。
願い事を叶えてくれる、秘宝だ。ただし、己の欲のために使ってはいけないよ。代償が伴ってしまうから。
続いて、打ち出の小槌と、その概要が簡単に書き記されていた。ちゃんと代償の事も記してあったのか。
最後に、本当にごめんなさい。針妙丸。お前が許してくれるかどうか、私にはわからないが。どうか、お前を残していった母を許しておくれ。さようなら。
母のお別れの言葉で最後が締められていた。私は、気づけば手紙を濡らしていた。
そしてただ一言、呟いていた。許さない。
「姫? 大丈夫ですか?」
「ええ、ええ、大丈夫です」
嘘だ、本当は自分の気持ちに整理をつけたかった。
そして、なんとかして、自分の内に潜む邪な思いを消したかった。
目の前にあるのは、なんでも願いを叶えてくれる。秘宝。私が考えていることは、もう一度母と出会うこと。
この秘宝で母を蘇らせてしまえば……
「姫。本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫です。大丈夫……」
それがどんなにいけないことなのか、私にはよくわかっていた。だけど、己の欲望を抑える方法を私は知らなかった。
小槌を手に取る。不思議と馴染んで、簡単に扱うことができる。
「それが、打ち出の小槌ですか! 伝説の秘宝である、なんでも願いを叶えると言われているあの!」
「はい」
「どうですか? 何か願いを叶えてみては?」
「そうですね、外へいきましょうか」
このとき、私が何を考えているのか、正邪には見当がつかなかったのだと思う。私だって、今なら全く考えられないことだ。
だけど、私はそのとき子供だった。今よりもずっとずっと小さい子供だ。
外にあるお墓の前に移動する。ここにきて、ようやく正邪は私が何て願おうとしているか、勘づいたようだ。
「……おい、まさかとは思いますが」
「お母様が、生き返りますように!」
土が盛り上がる。初めに手が出て、土を掻き分けるように手が動いて、初めに頭が出てくる。
髪の全体が見えて、最終的に体が出てくる。
「ああ、良かった! お母様が生き返った!」
「…………はあ、最高だな。良かったな」
私は母に駆け寄って、抱きつく。ああ、なんともまあ、酷い匂いがした。
だけど私は、それを気にしなかった。ただ、もう一度母に会えたことが嬉しかった。
……実際には、会えていなかったわけだが。
「お母様、もう一度会えて嬉しいです。お母様はどうですか? また会えて嬉しいですか?」
母は何も言わない。当然だ。そこには魂がなかった。
必死に声をかけるが、何も返ってこない。
「お母様、なにか言ってください。お母様……」
「……もういいだろ。お前がどんなに願ったってお前のお母さんは帰ってこない。お別れしたんだから」
「何を言ってるんですか、正邪。お母様は私の目の前にいるじゃないですか。寝てはいない、ちゃんと両足を地につけて立っているじゃないですか」
「……何も言わないお人形さんが生きてると思うのか? お前のお母さんの顔を見てみろ」
顔をみる。そこには苦痛の表情を浮かべる死体があった。
「お、お母様?」
「ずいぶん綺麗になったじゃないか。だけど、魂が無い。抜け殻だな」
「じゃあ、じゃあ、魂が戻りますように!」
だけど、今度は何も起こらなかった。
輪廻転生を済ませた魂をどうこうするなんて、無理だったんだよ。私。
「なんで、どうして何も起こらない!?」
「……私にもわかりません。魂は我々のような有象無象が触れていい領域ではありませんから」
一言も発さない肉体が、私を見下ろしていた。
「ああ……ああああああ! 私は! 私は何を!」
少しすれば、落ち着いて、自分の犯した罪に気付く。
こんなの、死者の尊厳を汚すのと同じじゃないか。墓を荒らして眠りを妨害したのと変わらないじゃないか。
「もう一度、眠らせてあげましょう」
「はい……」
打ち出の小槌で叶えた願いを掻き消して、私達はもう一度母を埋めた。今度は、お別れを言えなかった。
「……気持ちはわかります。心中お察ししますよ」
「……忘れてしまいたい」
「え?」
私は耐えきれなかった。自分の犯した罪に、愚かさに、そして悲しみに。
「嫌な事を全て忘れてしまいたい」
「そんなの、自然と忘れていきますよ。何でもかんでも鮮明に覚えてるやつなんていませんよ」
「そう、ですかね」
「……小槌で記憶を消すつもりだな? お言葉ですが、あまりいい考えだとは思えないな」
私は何をやっているんだろうか。
小槌をあれほど己の欲に使うなって言われてたのに。
手はしっかりと小槌を握りしめていた。
「辛い記憶含めて自分の存在だろ。記憶を消すなんて、自分を否定するのと変わらない」
「止めるんですか」
「まさか! 勝手にしろよ。ただ、あまりにも可哀想だから助言してやってるだけだ」
「ありがとうございます。だけど、私はもういいのです。辛い記憶を持ったまま生きるなんて嫌だ」
「……小人族って、本当に欲深いよな」
正邪に言われるなんてよっぽどだな。だけど私もそう思う。
小槌を高く掲げ、振りかぶる。
「私を苦しめる記憶がなくなりますように」
「うう、頭が痛い」
何日か分の記憶を思い出したわけだから、しかもかなり辛い内容だったので、私は気分が悪くなっていた。
そうか、私はこんなに大きな事を忘れていたのか。
「ああ、私は罪深い小人だな」
「何を言っているのですか? 針妙丸」
「あ……お母様」
お母様の顔を見た瞬間。私は恥知らずにも泣き出してしまっていた。
目の前のお母様はきっと本物ではないのだろう。だけど、それでも私には恋しく思える存在だった。
「お母様、ごめんなさい! ごめんなさい!!」
「ど、どうしたのですか? 針妙丸。おお、泣かないで。よしよし」
今はただ、母親に甘えていたかった。
数分してようやく落ち着いてから、私は、私のやるべき事と、やりたかった事を思い出した。
「お母様、私、お母様に恩返しをするよ」
「え? 恩返しってどういう……」
台所に行ってささっとお昼ご飯を作る。霊夢のもとで鍛えた家事力が光る。
「できたっ! 簡単なものだけど、お昼ご飯だよ」
「まあ、私は夢を見ているのでしょうか……?」
私の用意したお昼ご飯にお母様が手をつける、前に場面は切り替わって、周りが紅葉で染まる。
今度は、お母様は寒がっていたんだっけ。
「お母様、今すぐ枯れ木とか集めてきますね!」
「え? ええ。気をつけてくださいね」
落ち葉や枯れ木、よく燃えそうなものを持ってきて、それを束ねる。周りに燃え広がらないように、葉っぱをどかして、土が見えたらそこの上に束ねたものを置く。
そしてそこに、妖力を使用して火をつける。
よく燃えて、周りがあったかくなる。
「どうですか、お母様! あったかくなったでしょう!」
「あ、ありがとう。針妙丸」
感謝をもらって景色が変わる。今度は冬だ。一面白色の雪景色だ。
私は母の手を取って家に戻る。
「ちょ、ちょっと、針妙丸?」
「消えろ! 雪! 私の幻覚の雪!」
家の前に積もった雪を消して、家の中に入る。そうか、だんだんわかってきたぞ。
「お母様は寝ててください!」
「え、ええ?」
「暖かいお粥を用意しますので! 失礼します!」
そう言って台所へ、お粥を用意するために移動する。
お米をお湯につけて、待つ。私はその間に、母の元へ行く。
布団で横たわっている母の元へ。
もし、私が母の体調に気を使っていれば、あるいは、なんてたらればを考えたって無駄だ。
「針妙丸、今日は雪だるまを作るんじゃなかったのですか?」
「気が変わりました。お母様のためにお粥を作ります」
「……ありがとうございます。針妙丸」
「お母様、私は……その、あの」
何かを言おうとする前に家の中が暖かくなる。窓の外を見れば。桜が咲いていた。
わかってる、この世界は幻だ。
「……
魔力はあまり消費せず、願いを叶えることができた。当然だ。私以外になんの影響もないのだから。
顔色が良くなりながらも、驚いたお母様が私を見てくる。
「……針妙丸? それは……」
「お花見をしましょう。お母様」
母の手を取って、外へ出る。外には満開の桜が咲いていた。
「綺麗ですね、お母様」
「……針妙丸。さっきの小槌は……」
「……お母様が残してくださりました。お母様が病で亡くなったあと、棚の奥にあったのを見つけたのです」
「そう、なのですね。ごめんなさい。針妙丸。おそらく貴方に寂しい思いを」
言い終える前に私は抱きしめた。
「私は、お母様の事を許します。私はお母様の事を恨んでいません」
「針妙丸……」
「だから、私の事も許して欲しいです。己の欲のために小槌を使った私を……」
「私は……」
私の頭を優しく撫でてくれる。
「私は、お前の罪を許す権利を持っていない」
「……」
「だけど針妙丸、お前は賢い子だ。知恵に優れ、優しさに満ち溢れた我が娘よ。私はお前を責める気持ちも、咎める意思も持っていない。ただ健やかに生きて欲しい」
「……お母様」
「お前の正しいと思う事をしなさい。そうすれば、きっと許される」
「正しいと思う事……」
私が正しいと思える事か。
「いきなさい。針妙丸。こんなまやかしになど惑わされず、やるべき事をしなさい」
「ありがとう、お母様」
私は母の元から離れる。
母の足元には桜が散っていた。私の足元には、鬼の世界がある。打ち出の小槌を構えた。
「さようなら。お母様」
「さようなら。針妙丸」
打ち出の小槌をしっかりと握る。
これは私の欲ではない。私の罪滅ぼしのために、誰かのために、正義のために。
「私の目の前の夢が! 消えますように!」
叫んだ瞬間。何もなかったように私は、幻覚から解き放たれた。
色が反転した気持ちの悪い世界。これが鬼の世界か。
「終わったの……?」
背後から、具体的には右斜め後ろから声が聞こえた。
清蘭だった。
「うん、ようやく終わったよ。だけど、まだやることはあるよ」
「そう、だよねえ。はは、先が思いやられるなあ……」
かなり疲れているようだった。正直に言えば、私もとても疲れた。だけど、この世界でやるべき事を終わらせないといけない。
「行こう! 清蘭!」
「……了解!」
私は、私の思う正しい事をするために、前へ進む。
敬愛する母が咳をしていても、針妙丸は一人。