【etc】 作:アンディライリーのうさぎ
影男は今、なぜか禪院家の屋敷にいた。真依や真希に連れられて訪れたわけではない。そもそもかつて
事の発端は禪院家の次期当主候補であり、京都校の教師を勤める禪院直哉だった。
伏黒甚爾を尊敬しているこの男は、甚爾と似ているらしい影男を目にかけている。──と、彼自身は思っている。
影男はそもそも、いかにも“陽キャ”な直哉を苦手としている。まくし立てるような関西弁口調も、その苦手意識に拍車をかけていた。
そんな彼の口車に乗せられる形で、影男は「男を磨く」ために出かけていたはずだった。真依に「かわいい」男ではなく、「カッコイイ」男と思われたい。その内心を直哉に利用された。
それから服屋やレストランに連れて行かれ、気づけば禪院家にいた。ナマケモノのように、ぬぼっとしていたのがいけなかったのかもしれない。空に浮かんでいた雲が、雄大な物語を紡いでいたせいでもある。
ともかく、家への招待に生返事で返した結果、禪院家に足を踏み入れることになった。一応、影男が禪院家に入るのは『縛り』の内容に抵触する行為ではない。
(帰りたいな…)
最後に訪れたのは約10年前。当時と比べ、全体のスケールが小さくなっている気がする。屋敷自体は大きいはずであるのに、不思議な感覚だった。
(そっか、僕が大きくなったのか…)
かつてこの場所で抱いた怒りや悲しみ、恐怖の感情が沸々と思い出される。しかしその感情に怯える必要はなかった。影男はこの屋敷から離れた後、さまざまな経験をした。そうして、まるで時が経ってからここに残してきた当時の自分の靴を見ると、とても小さかったような──。驚きとともに、そんな自分の成長を感慨深く感じた。
──と、ちょうどその時、襖が開いた。座った体勢で背筋をまっすぐに伸ばしている女性は、真依と真希の母親だった。そのことに気づいた影男は「あっ」と声を上げる。茶と茶菓子を差し出される中、彼は訥々と言葉を紡ぐ。影男の真下では茶が湯呑みに注がれ、白い蒸気を立てていた。
「あのっ、真依ちゃ……あっ、いや、真依さんとはいつも仲良くさせてもらってます」
「………」
「えっと……」
姉妹の母は無言だった。影男の話は聞いているようだが、向こうからの反応はない。
(……あ、さっきの言い方じゃ、まるで友だちみたいな言い方だったかな? それを不審に思ったのかも。真依ちゃんと僕は一応、こっ、恋人同士だから……)
影男は何を言えばよいのかわからず、テンパってしまった。その末に出た一声は、「真依ちゃんはかわいくて…」だった。しかしすぐに自分の失言に気づき、顔が真っ赤になる。何を自分は口走っているのか。そこで横から笑う声がし、この場に直哉がいたことを思い出した。穴があったら埋まりたいとは、まさにこの事だ。
「………」
真依の母親はチラリと直哉の顔色を窺う。
そして、相手の視線で自分の発言が“許可”されたことを確認してから、影男に深々と頭を下げた。彼女のぴっちりと整えられた前髪が畳につく。影男の表情が困惑に変わった。
「今後とも、我が愚女をよろしくお願いいたします」
「ぐ…じょ?」
「……真依を、よろしくお願いいたします」
そう言い終えると、彼女は直哉にも深々と頭を下げてから襖を閉じた。
グジョとは何なのか。それに、額が床につくほど頭を下げることへの違和感。
(………あぁ)
影男は改めて、ここが『禪院家』であることを思い出した。
禪院家に非ずんば、呪術師に非ず。呪術師に非ずんば、人に非ず。相伝どころか術式を持たぬ彼は最底辺の扱いだった。
似た立場に真依と真希もいた。女であることが、彼女たちの地位を下げていた。影男と出会う前の彼女たちは、二人ぼっちの戦争をしていたのだろうか? それとも──。
先ほど影男に向けた二人の姉妹の母親の顔が、妙に引っかかる。鉄面皮のその奥には、自分が知るべき何かが隠されている気がする。
「そんでなぁ……」
雑談に花を咲かせる直哉の声が右から左へすり抜けていく。影男は黒い枝を手に取った。つまようじにしては太く、かといってスプーンの形状でもない。その謎の枝に和菓子を突き刺し、口に運んだ。柔らかな甘さが舌を痺れさせる。
「ボクの話聞いとる、影男君?」
「えっ? あ、すみません…」
狐を想起させる釣り上がった目が、ふうん、とゆるやかに弧を描く。直哉のその目は、虫眼鏡越しに映っているかのようだ。ジッと、影男を見つめている。
「もしかして、気分を悪くさせてしもうたか?」
「いえ、大丈夫です」
「ほうか」
「あの……さっきの「グジョ」って、どういう意味なんですか?」
「愚かな女と書いて、「愚女」や」
「………」
自分の娘を、「愚かな女」扱いするのか。姉妹は父親には「出来損ない」と言われ、母親には「愚女」と呼ばれる。そこに影男と夏油のような、家族の温もりを感じられない。
しかし、ならばやはり、先ほどの母親から感じたものは何だったのだろうか? 彼女と会話したことは、おそらく今回がはじめてであった。影男はもっと真依たちの母親と話してみたいと思った。そうすれば、その正体を確かめられるはずだと思った。
「せっかく着物を新調したんやし、着てみたらどうや?」
「えっ? ワァ……」
影男は直哉が呼んだ女中に阻まれ、奥へと連れて行かれた。「あの、ちょ──」という声は襖が閉まる音とともに遠ざかっていった。
◇◇◇
普段夏油の姿で見慣れている着物は、実際に自分が着てみると勝手が違う。いやそもそも、なぜ促されるままに着替えてしまっているのか。こういう時、いつもの影男だったら周囲の空気など読まず、「NO」と言っている。しかし、その「NO」を封じられてしまうと、たちまち立場が脆くなる。圧倒的に押し売りに立ち向かうパワーがない。
「あの……」
影男が話しかけても、女中たちは無言で帯締めを行っている。彼女ら伝いで、真依真希の母にコンタクトを取るのは難しそうだった。
ちなみに同じように無言の圧を受け、着ていた服を脱いで着物を羽織るところまでは自分で行った。さすがに脱ぐ時は女中に出て行ってもらっている。
(そもそも何で着物を買ったんだっけ……?)
カッコイイ男になるためには、着物が必須ということだろうか? 禪院先生の話を聞いていなかったツケが出ている。
おそらくは、今時珍しい格好で、真依をドキッとさせる……。いや、禪院家出身の真依は、着物など見慣れているはずだ。
(でも、僕はいつも学生服か洋服だし……一応、ギャップってやつになる……のか?)
考えているうちに着替えが済んだ。用意されていた全身鏡の前に立つと、カラスが一匹降り立ったように見える。帯以外は真っ黒な着物だ。この上に夏油の袈裟を身につければ、エセ僧侶が出来上がる。おまけに髪もいじられ、途端に居心地が悪くなった。散髪後のあの違和感と似ている。今まであったものが無くなり、首の後ろがソワソワとするあの感覚だ。実際にいじられたのは別の場所なのだが。
「あの…着替えました……」
影男が部屋に戻ると、直哉はなぜか一眼レフを片手にスタンバっていた。
(写真を撮って、真依ちゃんに送るのか…)
このまま帰って真依に見せればいい気もするが、影男は素直に撮影に応じた。直哉に促されるまま、外廊下に立つ。
「右手は脱いで帯に乗せる感じで……そう、その角度や!」
直哉の熱量が今日イチである。着物姿で現れた影男を見た彼の目は、童心の頃の輝きを取り戻していた。
「目は獰猛でありながら、空虚さを滲ませて」
「ドウモウでありながら、クウキョさを滲ませて…?」
「せやな…目の前に扇のオジさんでもいると思うて」
「扇? 扇………」
真依ちゃんたちの父親や、と直哉が言ったその時、外廊下に隣接した中庭から砂利を踏む音が聞こえた。ちょうど名前が出ていた件の人物が竹刀を片手に立っている。鍛錬の途中だったらしく、両肌脱ぎした肉体からは湯気が出ていた。汗がポタ、と砂利の上に落ちる。
「甚爾……?」
あからさまに禪院扇の眉間に皺が寄った。忌々しいものを見るかのような目で、影男を睨んでいる。そこには敵意と、一瞬瞳の中に揺らいだ畏怖のような感情があった。
「………」
思わず影男はそのぶつけられた害意に反応する。呪霊に相対した時のように、冷えた視線を送った。すると、ヒクリと扇の喉が動く。同時に、カメラを連写する音も聞こえた。
「……直哉、貴様はいったい何を…して、おるのだ…?」
「見たらわかるやろ」
直哉は困惑を隠せない扇など眼中にないようで、一切視線を寄越さない。そういう年長者を敬うことのできないところが、禪院家内部で直哉の株を下げているのだと自覚した方がいい。もちろん、他にもマイナスポイントはある。いちいち枚挙していたら暇がないくらいには。
「そもそも誰なんだ、この男は」
「誰って、アンタの将来の義理息子やで」
「ハ?」
「えっ?」
影男も思わず「こっちを向くな」と言われていた視線を直哉に向ける。彼の義父は夏油であり、このポニーテールのおじさんになる予定は絶対にない。だというのに、このティーチャーは何を言っているのか。
「僕の父親は夏油さんですよ」
「僕…? 夏油……?」
「真依ちゃんと結婚したら、義理の父になるやろ」
「………………まさか、貴様ッッ──」
「僕が真依ちゃんと結婚!!!??」
答えにたどり着いた扇の怒声は、それ以上の驚愕に目を見開く影男の声にかき消された。四方を囲うような中庭の造りは、彼らの声を反響させる。
「なぜ貴様が禪院家の敷居を跨いでいるのだ!!!」
「俺……ボクの正式な客やで」
「何だと!?」
「け、結婚……??」
騒ぎを聞きつけ、次第に人が集まってきた。叔父と甥の喧嘩かと思う者がいる一方で、甚爾を知る者は黒い着物を着た男を目の当たりにし、亡霊だと声を荒げる。影男が禪院家で暴れた当時、その面影が甚爾と酷似していると気づいた者もいた。しかしその少年の成長した姿が今目の前にいる男だとは、さすがに外見を見ただけでは気づけなかった。何せ着ている着物も甚爾が身につけていたものとそっくりなのだ。
「オイ…何の騒ぎだ」
結果として、当主が駆けつける事態にまでいたった。
やらかした犯人が
だが、直毘人の思惑どおり、憧憬を拗らせている息子が変わってきているのもまた事実である。
ただし、その方向性は無いものねだりをするような────やはり、どこか精神的な幼さが見え隠れしている。
さながらそれは、五条にとっての夏油のような。または甚爾にとっての、ある一人の女のような。
「っま、悪い方にはいかねぇだろ」
直毘人はポツリと、そう呟いた。
◇◇◇
禪院家から今回の騒動を聞かされた真依は、急いで実家に向かい影男を回収した。着物を着て、おまけに前髪まであげていた彼氏がカッコ良すぎ────ではない。その感情は一旦置いておく。
「禪院家に行く」という行為にもっと危機感を持つべきだと、母親のように叱った。
「小学生だって、赤の他人にはついて行かないわよ…!!」
「でも、禪院先生は一応京都校の教師だし、知らない人では……」
「ものはたとえよ!! もっと考えて行動してって言ってるの……!!! 本当にッ…、影男くんが本家にいるって知った時は驚いたんだから……!!」
何なら真希も東京からすっ飛んできそうな勢いだった。真依のSNSには、姉から直哉を意味する「
「そもそも『縛り』の内容があるんだから、僕に害は起きないよ。こっちが手を出さない限りは」
「害がある・ないの話じゃないの! もぉぉ……!!!」
「ねぇ、真依ちゃん」
「何よぉ!!」
「真依ちゃんや真希ちゃんは、母親のことをどう思ってる?」
「………どうして、今それを聞くの? 直哉さんから何か言われたの?」
「禪院先生は関係ないよ。ただ……今まで聞いたことがなかったから」
真依は瞳を伏せ、それから顔を上げる。激情に染まったときに赤くなる瞳は、今は凪いだ夜の海の様相をしている。その瞳は優しく、真依や真希のことを抱きとめてくれた。そして、その海が地球ではなく、不安定な場所に置かれた水晶の中にあると知っている。だからこそ。
「あの人は、
母のような鉄面皮を真依も身につけて、そう言いきった。
「どこまでも禪院家の女なのよ。私や、真希と違って」
「そう…なの?」
「私たちと一緒に来ることもできたのに、あの人は来なかったの。それがすべてよ、影男くん」
「そ、っか……。ごめん、こんな話をさせて」
「いいのよ。まったく………影男くんは、優しいんだから」
真依は影男を抱きしめた。影男もまた、真依の母親から感じたものは気のせいだったのだと流して、彼女を抱きしめ返す。慌ててきたせいか、真依は少し汗の匂いがした。
「あの、あとね、真依ちゃん」
「なぁに?」
「その…………もしだよ? 僕たちがこのままお付き合いを続けたら、いつか……け、結婚するのかな?」
「……………………え?」
真依は思考が停止した。
そしてキャパオーバーとなり、その場で倒れた。
「まっ………真依ちゃん!!?」
もし影男が♀の設定だったら、「影女」って書いて「エメ」ちゃんになりそう。漢字に対して、読み方が今風や。拗らせた直哉の被害に遭ってほしいなぁ…。だいぶ可哀想。ただ、直哉をわからせてく方向にもなりそう……。
闇落ちルートも書いてみたい。本当に、影男も夏油も全員救われない展開になりそうだけど。この鬱でしか吸えない空気はきっとある。でも書く気力がねぇんだ。だって、ハピエンにならない。どうあがいても。