【etc】 作:アンディライリーのうさぎ
●衝動を得よ(中学時代)
五条悟が天才なら、夏油傑は秀才だった。それを積み重ねた結果が特級術師の地位である。
茂山影男を養い始めてからも彼の努力癖はなくならず、大学勉強だったり、栄養士の資格だったり、車の免許だったり、個人事務所を経営する上で必要なスキルだったり────はてにはお笑いの研究までしている。
一番最後については『祓ったれ本舗』をやる上で必要だと感じ行っている。年に一、二回のペースで彼は相棒とともに壇上に立っていた。
お笑い研究の一貫で行くのはライブハウスだ。まだ売れていない若手たちが小劇場でスポットライトに照らされ、時には数人しかいない客の前でネタを披露する。
舞台は弱肉強食だ。我こそは、と笑いを取らなければならない。これがテレビになれば、ベテランの強者たち相手に揉まれながら、その中で新参の若手は爪痕を残さなければならなくなる。この厳しい世界で生き残れる
だからこそ、若手の小舞台の裏では売れない者同士、アットホームな空気感もある。
「ここがライブスタジオか…」
そんな隠された舞台裏もあるスタジオに、影男ははじめて来ていた。夏油が行くというので、自分も気になり付いて来たのだ。
席は前列。子どもは影男だけだった。他はみな大人だ。このような場所に来るならその人はお笑い通か、もしくは今日出る芸人の親族や恋人かもしれない。
しばらく待ったのち、MCの進行で芸人たちがお笑いを披露していく。やや滑りや、ややウケ。客の反応はまちまちだ。
影男もネタを見ていたが、あまりピンと来なかった。途中で夏油の方を見たが、一切笑わず真剣に舞台を見ている。
最後に出たのは本来なら序盤に出るはずだった芸人で、コンビのはずが一人で出ていた。
「えー……その、相方が急きょ出られなくなりましてェー…」
芸人は申し訳なさそうに頭を下げ、代わりに一人でフリップ芸をした。客の反応は永久凍土かと見まごうばかりで、今日イチ滑っている。会場の空気に芸人の顔には、どんどん玉粒の汗が浮かんでは落ちていく。
「あっ………ありあとしゃっしたぁ!!!」
退場の音楽が鳴った直後、その芸人は蜘蛛の子を散らすように戻っていった。
この後は出た芸人たちで大喜利があった。
とがったネタをしていた者は頭の回転も早く、会場の笑いをかっさらう。今日は芸人たちの目の前に、いかにも純朴そうな少年と、その保護者と思しき笑顔の怖いお兄さんがいたせいか、俗な回答はなかった。
「見てみた感想はどうだい?」
「テレビで見るのとは違って、新鮮でした」
そうかい、と夏油が笑った直後、彼の仕事用の電話が鳴った。相手は高専からだった。チッ、と舌打ちが鳴る。
「ちょっと電話に出てくるよ」
「わかりました。もらったアンケートを書いて待ってます」
「すまないね。なるべくすぐに戻るから」
影男は通路にある長いすに座った。隣には自販機とゴミ箱がある。
項目は複数あり、どのようにしてこのライブを知ったか──なんて質問もある。
「今日一番面白かった芸人かぁ…」
影男の顎に押し当てられたボールペンのノックする部分がカチッと音を立てた。
彼的に一番面白かったのはフリップ芸の男だ。
「あれ、あの人の名前ってなんだっけ? うーん……」
名前が思い出せなかったため、影男は仕方なく、人物の特徴の後ろに『〜の人』と書いた。そして、用紙を最後まで埋め終わったちょうどその時。
「……!! ………」
通路の奥から言い争う声が聞こえた。
「どうしたんだろ…」
通路の一定の場所から先は関係者以外立ち入り禁止で、その文字が書かれた立て看板が置かれている。一瞬迷った影男は悪いとは思いつつ、奥へ入りちょうど階段と階段の少し開けたスペースで言い争う二人の男を見つけた。向こうにばれないよう、少しだけ頭をのぞかせる。片方は影男の笑いをかっさらった例の男だった。
「だから、遅刻したのは悪かったって言ってんだろ」
「謝って済む問題じゃねぇだろ! 先輩がお前を待つ俺のために、出順まで変えてくれったってのに…!!」
「だから……悪かったって」
「寝坊して遅刻したとか、やる気あんのかよ!!」
どうやら、今日の件で二人は揉めているようだ。襟首をつかんだ男に、寝坊した男が「ハァー…」と深いため息をつく。
「正直、お前って熱すぎるんだよ。こっちが白けるほどに」
「なっ……!」
ギリッと歯軋りの音がした。一色触発の空気だ。今にも片方が片方を殴ってしまいそうで、影男は止めに入ろうか悩んだ。
「俺は、お笑いに
しかし、握られたフリップ芸の男の拳が振るわれることはなかった。それに相方は背を向けて階段を降りていく。
(ま、まま、まずい!)
このままだと、影男は降りてきた男と鉢合わせすることになってしまう。悩んだ彼がとっさに取ったのは壁に張りつく方法。なるべく息を殺し、ぺったりと自分というものが元々壁だったのだと自己暗示する。
「ったく……」
幸いにも、スマホを操作する男にはバレなかった。ホッと安堵したところで体勢を戻そうとする。
「な、何やってるんだ? 君……」
フリップ芸の男は、目を白黒させながら忍者になりきれなかった少年を見ていた。
それから影男は注意を受けた後、立ち入り禁止の看板の前まで男と歩いた。
「気になったからって、勝手に入っちゃあならんぞ。そのためのルールだからな」
「すみませんでした…」
男は笑いながら影男の頭に手を置き、「今日前の客席にいたよな」と話す。
「実は今日、保護者とはじめて来たんです」
「そうか! ライブは面白かったか?」
「はい。また機会があったら来てみたいです」
「ちなみに………その、俺の芸……いや、何でもない」
ネタ見せの時は男の頭は真っ白で、客をいちいち見ている余裕はなかった。凍った空気感だけはひしひしと感じていたが。
子どもが来ているのに気づいたのは、少しだけ余裕の戻った大喜利の時だ。隣にいたクセの強い前髪のイケメンが保護者だったのだろう。
面白くなかったとわかっている上で評価を聞くのは辛いものがある。ゆえに、彼は口ごもった。
「おじさんが一番面白かったですよ」
「そうだよな……………エッ?」
きょとんとして、自分の顔を指さした男に影男は首を縦に振る。
そんな冗談はよしこさん、とペンギンでさえ凍え死ぬ返しにも笑ってくれる。
「またおじさんのネタ、観に来ますね」
影男はアンケート用紙を直接男に渡し、頭を下げてから駆け出した。遠くから夏油が手を上げて歩いてくるのが見える。
────遅くなってごめんね。
────いえ、大丈夫です。
そんなやり取りが遠ざかっていく中、立ち尽くしていた男はハッとし、アンケート用紙を見た。
『一番面白かった芸人』のところに、確かに彼と思しき名前が書かれている。
「『もみあげの変な人』って、あのガキ…」
普通に悪口じゃないだろうか? 少年にはしかも、一切の悪気がなさそうだった。
先ほどは怒りに震えていた男の拳はしかし、別の感情とともにアンケート用紙を握る。
押さえきれずに口元が綻ぶ。誰かに「面白い」と言ってもらえることが、彼にとって何よりの芸人としての喜びだ。
「俺の名前は、髙羽だっつーの……」
●ブザー(小学時代)
その日、普段は少年少女が歩く道でけたたましい音が鳴っていた。時刻は夕方である。
音の出所は少年のランドセルからだった。正確には、その横。尻尾を取られたブザーが騒いでいる。
「………」
影男はジリジリと後ろへ逃げた。相手の移動手段を考えれば、走ったところで勝ち目はない。
「あの……ちょっと、それを止めてくれると嬉しいんだが…」
「来ないでください!! おばさん!!!」
「おばっ……!!?」
彼は保護者の夏油から事前に教えられていた。もしかしたら影男にいつか白っぽい長髪の女性が訪ねてくるかもしれないと。そのタイミングは必ず、影男が一人のタイミングを狙って来るだろうとも。
その女性が美人だからといって、絶対に気を許してはいけないとも教えられていた。
「夏油さんから聞きました!! この世には少年を騙して誘拐するアブない呪術師がいるって!!!」
「私が接触しないよう彼がガードしているのは知っていたが……。語弊に満ちた情報を与えているあたり、悪意を感じるねぇ…」
変幻自在な呪力を持つ少年。そんな少年に関心を抱いたはいいが、彼女は夏油と彼に協力する五条の手回しのせいでこれまで近づくことすらできなかった。すっかり危険人物扱いである。
「ちょっといいですかね、そこのお姉さん」
チャリに跨る巡回中の警察官がイイ笑顔でやって来た。ブザーの音を聞いて通報した近隣住民の情報を聞きつけたことで、この警官は駆けつけた次第である。最近この街には同僚の警官が発見した例の男二人組のように、不審者が多い。
特級術師のお姉さんは軽やかな身のこなしでバイクに乗り、問答無用の速さで逃げていった。それにこれまた人間技を超えた立ち漕ぎで追う警官。今日も街は平和じゃなかった。
・おじさん
お笑い芸人。もみあげが変。彼が覚醒する日は来るのか。
・お姉さん
特級術師。ナイスバディ。おばさん発言に大ダメージ。