BloodBorne Another story 〜闇を追い求めた者〜 作:カッサバ
振り返らなかった。
悲鳴も、咆哮も、血の音も、私の背を押す風のように消えていった。
地下墓の扉を押し開けたとき、そこに広がっていたのは、
あの夜のヤーナムだった。
石畳の上に黒い影。
割れたランタン。
吹き込む冷気には、鉄と灰の匂いが混じっている。
リアムが小さく息を吐く。
「……また、ここかよ」
その声は安堵ではなかった。
ここは安全でも、希望でもない。
ただ、まだ死んでいないというだけ。
歩きながら、私はずっと考えていた。
あの地下墓の地獄。
流れる血と、叫ぶ者たち。
そして、誰一人助けられなかった自分。
──なぜ、私はここに出たのか。
リアムの足音が横で響いている。
彼はまだ何も言わなかった。
それが、かえって静寂を重くした。
私は空を見上げる。
ヤーナムの夜は、どこまでも黒く、どこまでも遠い。
まるで私を拒んでいるようだった。
思い出すのは、瓶詰めの薬品の匂いと、消毒された床の光。
清潔で、管理され、閉ざされていたあの空間。
──ヨセフカの診療所。
あの場所なら、まだ安全だった。
そこでは、血の匂いも、悲鳴もなかった。
そこでは私は、ただ学んで、記録し、考えていればよかった。
「……戻ろう」
思わず、口から漏れた。
リアムが振り返る。
「ん? 何を?」
「……ヨセフカの診療所へだ。あそこなら……少なくとも、もう少し落ち着いて考えられる」
リアムは怪訝な顔をしたが、やがてゆっくり頷いた。
「そりゃ……まあ、お前が決めたんなら、俺はついてく。
でもな、アラリック……」
彼は言葉を選びながら、視線を逸らした。
「戻ったところで、何が変わるってわけじゃねぇんだ。
……ここまで来ちまったんだぜ、俺たちは」
その言葉は、私の胸を締めつけた。
だが、私は振り返れなかった。
私は、今この瞬間だけでも、
かつての“学徒”としての自分を取り戻したかったのかもしれない。
──それが、偽りであったとしても。
橋を渡る風は、あの時よりも冷たかった。
瓦礫に散った血は乾き、石畳の隙間にこびりついて、腐臭のように鼻を刺す。
私は足を止め、暗がりに目を凝らす。
そこにいた。
以前、私たちを見送った大男たち――
だが、今や彼らの背は曲がり、全身は毛で覆われ、眼光は濁り、
手に持つ巨大なレンガには、すでに理性の名残すらなかった。
「……変わったな」
隣でリアムが呟いた。
彼の声も、かすかに震えている。
それでも私は、ほんの一歩だけ前へ出た。
──その瞬間。
「ギィ……ウゥゥ……ァアアアアア!!」
吼え声。
片方の獣が、私たちを“敵”と認識した。
「まずいッ!」
リアムが叫んだ直後、
獣の腕が唸りを上げて振り抜かれた。
手にしたレンガが、私の足元に叩きつけられる。
私はよろけた。
欄干。石。鉄。何か掴めるものを探して――だが、指先は空を掴んだ。
重力が、全てをさらっていく。
「アラリック!!」
リアムの叫びが、上から落ちてくるように聞こえた。
──落ちる。
耳が引き裂かれるほどの風が巻き上がる。
石の壁が左右に過ぎ去る。
私はただの肉の塊となって、黒い奈落に飲まれていく。
“死ぬ”という思考が、鈍く頭に浮かんだ。
だがり
「──がっ……!」
私の体は、途中の傾斜に叩きつけられた。
苔むした石。濡れた瓦礫。折れた鉄柵。
それらが幾度か私の身体を打ちつけながら、滑るように、私を減速させる。
最後に、粘つく泥と煤の混じった水たまりが、
私の体を受け止めた。
動けない。
だが、骨は折れていなかった。
痛む肩、まるで裂けているかのように痛む脇腹を押さえて私は立ち上がる。
何より、まだ私は“思考できている”。
私は、命を繋いだのだ。
ゆっくりと起き上がると、
空は遥か頭上にあった。
墓地の灯りも、仲間の声も届かない。
ただ、澱んだ闇と、古い焦げた木材の匂いだけが、私の周囲を満たしていた。
そして、腐食した鉄板の一部に刻まれていたのを見つけた。
──ここは旧市街だ。
私は、深く息を吐いた。
そこには既に獣しかいないという、焼き払われた街の名だった。
息を整え、私は背を起こす。
まだ肺が焼けつくように痛み、全身の節々が軋んでいたが、意識ははっきりしていた。
血と泥にまみれた外套の裾を払いながら、私はあたりを見渡した。
街……だった。
いや、“かつて”そう呼ばれていた場所。
煉瓦造りの建物は半ば崩れ、
焼け焦げた木造の扉や、煤けた壁が通りを囲んでいた。
煙の臭いはすでに薄れ、代わりに鼻腔を満たすのは、
古びた血の、熟成されたような重い腐臭だった。
「……旧市街」
その名を呟いた瞬間、胸の奥に冷たい何かが走った。
ここは、文献でしか知らなかったはずの場所だ。
医療教会の“最初の試み”。
獣の病の広がりを止められなかった、血の医療の失敗の証。
地図にも記されず、出入りも禁じられ、
やがて炎で封印された、終わりの地。
──私は、ここに来てしまったのだ。
瓦礫の間から、何かの骨が覗いている。
人間のものではなさそうだった。けれど、かつては“誰か”だったに違いない。
足元には、焼け焦げた布切れと、溶けたような金属片。
獣のものか、狩人のものか、それすら判別できない。
どこかで、木材の軋む音がした。
私は、そっと息をひそめる。
闇は静かだが、死んではいなかった。
この街にはまだ“何か”が潜んでいる。
──あの墓とはまた違った、深く、得体の知れない“意志”が。
私は歩き出した。
瓦礫を踏む音が、遠い空に溶けていく。
忘れられた街の底で、私はまた、
“知ってはならなかったもの”へと近づいていく。
旧市街の石段を慎重に降りていくと、
遠くに灯る小さな明かりが見えた。
焚き火。
こんな場所に、まだ火を使う者がいる?
私は足音を殺しながら、崩れかけた柱の陰に身を潜める。
その先に――誰かがいた。
男だった。
焚き火の前に、まっすぐに座っていた。
焼け焦げた狩人の装束。
傍らに置かれた、錆びてしまったノコギリ槍。
腰には古びた短銃。
彼は、私に背を向けたまま、火を見つめていた。
「……誰だ」
その声は低く、掠れていたが、確かな威圧がこもっていた。
私は一歩、石を踏んだ。
その音で、彼の首が僅かに傾く。
「まだ……生きてる奴がいたのか。
それとも、“狩りに来た”ってわけか」
彼は、焚き火を見つめたまま言った。
顔は見えなかった。
だが、背中からは“ただならぬもの”が漂っていた。
敵意は……まだ確定していない。
けれど、手元の武器に伸びかけた指が、それを示している。
私は、何も言えなかった。
彼の装束、武器、佇まい。
どれもが、“ただの生存者”とは違っていた。
──この男は、狩人だ。
それも、私のような“半端者”ではない。
本物の、“死地を歩き続けた”者。
一瞬の沈黙が、焚き火の音だけを際立たせる。
「……狩人じゃないな」
焚き火越しに、彼の低い声が落ちた。
私はゆっくり手を掲げ、武器を持っていないことを示しながら答える。
「違う。私は……学者だ」
その言葉に、彼の目がわずかに鋭くなった。
ノコギリ槍に添えた手が、静かに柄を締め直す。
「学者、ねぇ。……ここに来た理由を、聞かせてくれ」
私は一瞬、言葉に詰まる。
だが、無理に取り繕う理由もなかった。
むしろ今の私は、どこにも“目的”など持てていなかった。
「……来たんじゃない。落ちたんだ。
大橋を通ろうとして、獣に襲われて……そのまま」
焚き火の炎が、かすかに跳ねた。
「……つまり、たまたまってわけか」
彼は静かに呟いた。
その声に、先ほどの棘のような鋭さは少しだけ薄れていた。
「この街に自分の意思で入る奴は、大抵、頭のどこかがおかしい。
あるいは……何かを“贖い”に来るか、だ」
彼は焚き火の灰を長い棒で掻き回しながら、ふとこちらに視線を向ける。
「逃げ道を探してるってわけか?」
私は頷いた。
「出られる道を探してる。それだけだ。
もう、これ以上……何も知りたくなかったら、そう言っていたかもしれない」
相棒は、わずかに口元を動かした。
それが笑みだったのか、溜息だったのかはわからない。
「……ふん、素直な奴だな」
彼はノコギリ槍を脇に置き、少しだけ姿勢を崩した。
焚き火の灰が静かに崩れ落ち、
その男はようやく立ち上がった。
「……ついてこい」
炎の中から一本の松明を取り出し、それだけを言って、男は振り向きもせずに歩き出した。
ノコギリ槍を肩にかけ、足取りは重く、だが迷いはなかった。
私は数歩遅れて、その背中を追う。
彼の左手にあった松明からは、ただの炎ではない独特な煙が立ち上っていた。
焦げた薬草と強い油の混じった臭いが、通路の空気を押し返している。
私たちは旧市街の瓦礫の間を、静かに歩いていた。
足音一つが、どこまでも響きそうなほど静かだった。
「……あれを見ろ」
彼が松明の先で示したのは、壊れた街路灯の影。
そこに――いた。
毛むくじゃらで痩せ細った体、
包帯と破れた布切れを身にまとい、顔は狼のように長く、牙をむいていた。
それは、かつて“人”だったもの。
「……火があると寄ってこない」
私は囁くように言った。
「いや、“火が怖い”んだ」
彼が低く応じた。
「やつらの中には、まだ“何か”が残ってる。
完全に化けきってない。……だから、思い出すんだよ、焼かれた記憶をな」
その獣は、私たちを睨んでいた。
でも、松明の煙と光に鼻を鳴らすと、低く唸って後退し、闇に溶けていった。
また別の通りでも、一体の女のような体躯の獣がこちらを見ていた。
頭巾をかぶり、赤い目がぎらついている。
けれど、それでも火には近づこうとしなかった。
「撃たないのか?」私は思わず尋ねた。
彼は、ノコギリ槍を軽く揺らして言った。
「……殺さねぇよ。あれは“ただの病人”だ。
獣になってもな。俺たちは……そう見てる。
あんたには理解できないかもな、“学者”には」
私は口を閉ざした。
言い返せなかった。
あれだけ獰猛な姿でさえ、彼にはまだ“人間”に見えている。
その信念が、松明の揺れる火に浮かんでいた。
「それで、お前はどうだ?」
彼がぽつりと呟いた。
「……獣を見て、何を思う」
私は答えられなかった。
今の私には、ただ“怖い”という感情しか浮かばなかったのだから。
それでも私は、ほんの少しだけ彼に対して、
羨望に似た感情を抱いていた。
彼は、まだ“人を見ている”。
男の足取りは変わらず重く、しかし迷いはなかった。
道を知っているのだ。まるで、ここに住んでいる者のように。
いや、きっと実際に住んでいるのだろう。
「この道……通ってるのか、いつも?」
私が問いかけると、男は無言で頷いた。
それだけ。
それ以上の言葉はなかった。
だが、その歩幅はほんのわずかに緩まった。
まるで、私の歩調を気にしたかのように。
「……ここには、どれくらい?」
再び問いかけてみた。
しばらくの沈黙ののち、彼はぽつりとつぶやくように言った。
「もう、数えちゃいない。……意味が無いからな」
それっきり。
だが、何も言わないよりも、その一言が彼を近く感じさせた。
闇の中で獣が動いた気配がして、
彼は松明を掲げた。
その煙の匂いが風に乗り、どこかで唸り声が遠のく。
歩きながら、彼の背中を見ていた。
大きくはない。けれど、頼りになる、地に足のついた歩き方だった。
ときおり視線を感じた。
彼は時々、ちらりとこちらを見ていた。
だが、私と目が合うとすぐに逸らす。
何かを言いかけたような口元が、また閉じる。
──無口な男だ。
でもきっと、久しぶりなのだろう。
こうして誰かと、並んで歩くのは。
その沈黙に、私は言葉を挟まなかった。
焚き火も、獣の気配も、誰もいないこの街で、
ただ松明の火が、私たちを包んでいた。
それは、瓦礫の影――
通りの端、崩れた建物の裏にひっそりとうずくまっていた。
松明の火が届かない暗がり。
けれど、私は確かに“それ”の気配を感じた。
立ち止まった私の前で、彼──いや、“それ”は、
身を縮め、四肢を抱え込み、
まるで何かから“逃げるように”、背中を震わせていた。
顔は見えない。
だが、肩の形、背の丸まり方、地面に爪を押し当てる指先の力の込め方――
それはすでに、完全な“獣”だった。
毛皮は濃く、牙はむき出しで、
呻き声の代わりに、低い唸りが漏れていた。
「……」
私は言葉を失っていた。
それは、紛れもなく怪物だった。
何の疑いもない“変異の果て”。
けれど。
その姿には、どこか――妙な“静けさ”があった。
恐れていた。
何かに怯えていた。
その怯え方が……奇妙に、
“人間のもの”に見えた。
記憶を失った子供のように、
悪夢にうなされる者のように、
“何も分からず、ただ恐怖の中にうずくまる”
──そう見えたのだ。
私はすぐにその考えを打ち消した。
違う、これはもう人間ではない。
間違いなく、変異しきった存在。
慈悲をかけるべき対象ではないはずだ。
けれど心の奥の、どうしようもなく理屈を超えた場所で、
私は理解してしまっていた。
“完全な獣になっていても、
人間のように見えてしまう瞬間がある”。
それが、どれだけ恐ろしいことか。
──私自身も、そうなりかねないのだから。
「……行こう」
私はそう言い、男の背に追いついた。
獣は振り向かなかった。
ただ、震えながら、瓦礫の影へとゆっくりと沈んでいった。
あの姿は、焼き付いて離れなかった。
うずくまる獣。
それが見せた、恐怖。
人ではないものが“人のように怯える”という現象。
それは、私の心の奥底で、何かを揺さぶった。
そして、今度は──
別の姿が、突如として現れた。
「ッ!」
鈍く濡れた音とともに、瓦礫の影から何かが飛び出してきた。
長い腕、伸びきった爪、
瞳の奥には、獣の本能だけが宿っていた。
「来るぞ」
彼が呟くよりも先に、私は反射的に身を引いた。
獣は咆哮を上げ、こちらへ飛びかかってくる。
けれど。
「ッは!」
松明を一閃、
彼は左手で火を振るい、獣の鼻先を焼いた。
怯みもせず突進する獣。
それを迎えるように、
彼のノコギリ槍が横薙ぎに動いた。
──だが、刃は向けられていない。
刃の腹で脚を狙い、体勢を崩す一撃。
すかさず肩口に槍の柄を打ち込んで、転がす。
獣は呻き、地面に倒れた。
「……グアアァ……」
もがきながらも、立ち上がれない。
肩の関節が外れ、爪も折れている。
けれど、命は奪われていなかった。
彼はただ一歩近づき、
倒れたそれに火を掲げて見せた。
獣はその光を見た瞬間、
怯えたように身を縮めた。
唸ることもなく、
しばらくののち、四足で這うようにして瓦礫の奥へと逃げていった。
一撃も与えずに追い返すことは、彼にも難しいことだった。
だが彼は、それを“狩り”とは呼ばなかった。
「……“殺す”ことは簡単だ。
“殺さずに済ませる”のが、本当に難しい」
彼は松明を静かに下ろし、淡々と呟いた。
私は何も言えなかった。
ただ、その後ろ姿に、
かつて私の知らなかった“狩人の在り方”を見た気がした。
私は、それを忘れないだろう。
あの獣が怯えて消えた背中も、
いま放免された“獣の命”も――
すべてが、この血の街の中で、
確かに“人間”だったものの残滓だった。
火の匂いは薄れ、空気が冷たくなった。
目の前に、古びた鉄のハシゴがそびえていた。
煤けた鉄骨は風雨に晒され、あちこちが錆びている。
だが、それでもしっかりと立っていた。
彼が足を止めた。
「……ここまでだ」
私はその言葉に、ふと呼吸を止める。
いつの間にか、彼と歩く足音に慣れてしまっていた。
「この上に、あいつがいる。話せるなら、話してみろ。
……だが、無闇に獣の話を持ち出すな。気に入られない」
私は頷いた。
火に怯える獣、怯えたまま襲ってきた獣、
そして殺されなかった命。
それらすべてが、この“ハシゴの先”に続いている気がした。
「……ありがとう」
その言葉に、彼は何も返さなかった。
ただ少しだけ、目を細めた気がした。
そして、背を向けると、再び瓦礫の間へと消えていった。
私は手を伸ばし、鉄のハシゴに触れた。
ひんやりとした感触が、指先から心臓へと染み込んでくる。
上から、かすかに金属音がした。
銃器の調整音だろうか。
それは、まるで私の到着を待っていたかのように、淡々と響いた。
私はゆっくりと、一段ずつ登り始めた。
この上には、
きっと、私の知らない“狩人”がいる。
そして、彼もまた──
“かつて人だったもの”いや。人そのものを、見つめ続けてきた男だ。
明日で連休が終わってしまうので投稿ペース落ちるかもですがスキマ時間見つけては投稿していきます!!
なんかヤーナム観光みたいになってますね笑