BloodBorne Another story 〜闇を追い求めた者〜 作:カッサバ
鉄のハシゴは、想像以上に高かった。
手をかけ、一段ずつ登るたびに、
背中に貼りついた汗が冷えていく。
鉄の軋む音が耳に響き、
私の呼吸音がやけに大きく感じられる。
登るにつれ、風が強くなってきた。
血と薬草の匂いが遠ざかり、
代わりに、焦げた木材と古い石灰の臭いが鼻をついた。
ふと、視界の端に広がりが見えた。
私は身体を少し捻って、下を見た。
──そこには、旧市街の全貌があった。
煤けた街並み。
崩れた屋根、焼けた教会、瓦礫に埋もれた路地。
そのすべてが、まるで凍結した過去のように沈黙していた。
さっきまで歩いていた通り。
あのうずくまった獣のいた影も、
火を掲げた男の背中も、
全てが遠く、静かに横たわっていた。
そして、風の中に混じるのは……鐘の音だった。
どこか遠くで、かすかに揺れている。
幻聴か、記憶か、それすら分からない。
だがその音が、心の奥を揺らした。
──ここは忘れられた場所だ。
けれど、ここには確かに、人が生き、祈り、恐れていた時間があった。
私は再び、上を見上げる。
鉄の骨組みの向こうに、
古びた塔の縁が見えた。
その先にいる男──
古狩人デュラ。
彼が何を見てきたのか。
それを、私は確かめなければならない気がした。
一段、また一段。
そうしてたどり着いた先は、
塔の途中に設けられた、石造りの踊り場だった。
崩れかけた欄干、ひび割れた床。
ここが昔、誰かの見張り台だったのか、あるいはただの中継点だったのかは分からない。
風が通り抜ける。
乾いた冷気が、首元から背中に染み込んでいく。
私は、その場に立ち止まった。
──少しだけ、息を整えるつもりだった。
けれど、そこで私は、不意に気づく。
心が……妙に騒がしい。
今まで出会ってきたものが、頭の中で声にならずに蠢いていた。
怯える獣の姿。
襲いかかってきた命を、殺さずに放った男の背中。
そして、自分が“そうはできなかった”という、
どこかで感じている確かな劣等感。
私は、本当に“学徒”だったのか。
血に触れ、上位の理を知ろうとしたあの日々は、
果たして本当に存在していたのか。
……いや。
私が恐れているのは、記憶の曖昧さではない。
“知ろうとする”ことの先にあるものが、
あまりにおぞましくて、
それでも……引き返せない自分自身なのだ。
「私は……なぜ、ここにいる?」
思わず口から漏れた言葉は、
風に流されて消えた。
私は踊り場の縁に手をかけ、
遠くの街並みを見下ろした。
血に染まり、炎に包まれ、
静まり返った“終わった世界”。
それでも、まだ私はこの街を知ろうとしている。
この身を焼く覚悟もないくせに。
──それが、私だ。
深く息を吸い込んだ。
そしてもう一度、
鉄のハシゴに手をかける。
まだ先がある。
この先に、答えがあるとは限らない。
けれど、少なくとも私は──
何かを見届けなければならない。
足をかけた鉄が、また低く軋んだ。
風の音が変わった。
ハシゴを登りきると、開けた空の下、
重々しい銃座と、そこに寄り添う一人の男の姿があった。
──古狩人、デュラ。
彼は遠眼鏡を覗いていた。
獣の咆哮も届かぬ高さで、なお旧市街を睨み続けている。
その立ち姿はまるで石像のように静かで、しかしどこか生々しい気配を纏っていた。
やがて、こちらに気づく。
「……見慣れぬ面だな。貴公。上から来たのか」
その声音には、探るような穏やかさと、長い夜を越えてきた者の重みがあった。
私は小さく頷く。
胸の奥が少しだけきしむ。言葉が、うまく出てこない。
それでも、名だけは伝えた。
彼は少しだけ目を細め、遠眼鏡を下ろした。
「……学び舎の名を口にするとは、また懐かしい響きだ。
だが、ビルゲンワースの風はもうここには届かんよ」
語る口調は淡々としていたが、どこか懐旧の情がにじむ。
私は何か返そうとしたが、言葉を探すより先に彼が続けた。
「まあ、ここまで来たのだ。少しは話を聞いていこうか」
デュラは固定銃座の脇に腰を落とし、背中を預けた。
「獣を見て、どう思った?」
唐突だったが、問いは柔らかだった。
私は、ほんの短い間、黙った。
「……怯えていた。ある獣が。
それなのに……完全に“獣”の姿だった。
それでも……私は、人のように感じてしまった」
風がガトリングの銃身を鳴らす。
デュラは静かに、少しだけ笑った。
「……それでいい。
貴公がまだ“見えている”証だ。
皆、すぐに忘れてしまう。その血に触れればなおさらな」
彼の口調は変わらず丁寧で、どこか遠い。
「……昔はな。ここにも灯りがあったのだ。
薬屋の灯り、祈りの灯り、
そして……狩人の灯りも」
一瞬だけ風が強く吹いた。
「だが今は、残っているのはどれもこれも焼け落ちてしまったものばかりだ。」
私は小さく息を吐いた。
この男は、ただ追い返したいのではなかった。
ここで静かに、何かを“見届けている”。
その姿に、私はわずかに肩の力を抜いた。
「それにしても……あいつが、貴公をここまで通したとはな」
不意に、デュラがそう言った。
その声には、わずかに意外と戸惑いが混ざっていた。
「……彼が?」
「そうだ。私の古い相棒。あの無口な男だ」
彼はガトリングの脇で腕を組み、記憶をたどるように目を細めた。
「言葉より行動が早い奴でな。
……まともに口をきく相手など、私以外にはいなかったはずだ」
「……そうだったのか」
私は思わず呟いていた。
確かにあの道中、彼は多くを語らなかった。
それでも、私はなぜか“拒まれていない”と感じていた。
「案内したというなら、何か……見たのだろう。
貴公の中に、“まだ汚れていない何か”を」
そう言ったデュラの声には、どこか希望にも似た響きがあった。
それは意外だった。
彼はただの見張りではない。
“誰か”を待っているのかもしれない。
あるいは、“何か”が現れることを望んでいるのかもしれない。
「……あの男が連れてきたというなら、私も少し話をしよう。
……いや、久々に“聞く側”に回っても良いかもしれん」
デュラはそう言って、再び遠眼鏡を目に当てた。
「……さあ、続けてくれ。
ここで見たもの、聞いたもの、
貴公が思ったままを語ればよい。
それが、私の“灯し火”になるやもしれん」
風の中、銃座の金属が小さく鳴った。
その響きは、どこか遠い鐘の音のようだった。、
私は、しばらく沈黙していた。
風が吹いていた。
デュラは何も言わず、ただ遠眼鏡を覗き込んだまま、私の言葉を待っていた。
そして私は、語り出した。
「……下で見たんだ。一体の獣が、うずくまっていた」
自分の声が少しだけ掠れているのがわかった。
だが、それを整えようとは思わなかった。
「完全に変異していた。形も、声も、行動も、人間とはかけ離れていた。
けれど……怯えていた。震えていたんだ。
まるで、夜の中で母親を探す子どものように」
私は静かに目を伏せた。
あの背中が、いまだ脳裏に残っていた。
「それが“人間だったもの”に残る記憶なのか、
あるいは獣が本能的に恐れているだけなのか……私にはわからない。
だが、あのとき私は、見間違えてしまったんだ。
“ああ、あれは……まだ、人間かもしれない”と」
言葉を繋ぎながら、私は自分の思考が少しずつ形を取っていくのを感じていた。
「それは観察ではなかった。
──感情だった。
私は、それが恐ろしかった」
デュラは応えなかった。
それでも、その沈黙が拒絶でないことは分かった。
だから私は、さらに続けた。
「別の獣が、襲いかかってきた。
だが、あの男……彼は殺さなかった。
無力化して、火を見せて、それで……追い払った」
私は彼の盟友の姿を思い出す。
静かで、重く、そして──優しい。
「その時、私はようやく理解した。
“見る”ということは、“裁く”ことじゃない。
“記録する”ことでもない。
ただ……その存在と向き合うということだ」
私は目を上げた。
風の中、デュラはまだ遠眼鏡を構えていた。
だが、視線の隙間に、微かな表情の揺らぎがあった気がした。
「私は……学者だ。
獣の理を知りたいと思っていた。
だが本当は、“人間の理”の方がよほど難解なんじゃないかと……今は思う」
静寂が塔を包んだ。
しばらく、風の音だけが吹いていた。
遠眼鏡を構えたままの男が、ゆっくりとそれを下ろす。
「……貴公は、よく見ているな」
低く、静かに、そしてどこか遠い響きのある声だった。
「それは、悪いことではない。
だが、よく見える者ほど……深く、呑まれやすい。
それを忘れるな」
デュラは視線を旧市街に落とす。
あの焼け焦げた街並み、泣き声も届かぬ廃墟を眺めながら、言葉を紡いだ。
「かつて、私も同じように思ったことがある。
“あれはまだ人かもしれない”──
そしてそれは、真実だったよ。
だが、それが分かってしまった時こそが……最も辛い」
彼の声は変わらない。
けれど、そこにはわずかに滲む哀しみがあった。
「殺さずに済ませる術を、私はずいぶん後になって覚えた。
だがそれは……“殺すよりも痛む”ことだ。
そしてそれでも、私はあいつらを見捨てたくはなかった」
デュラは銃座にそっと手を置いた。
その金属は冷たく、静かに彼の誓いを受け止めていた。
「だからここにいる。
私は、ただ見張っているのではない。
見捨てないために、ここにいる」
そして彼は、アラリックを見た。
「貴公は……まだ迷っている。
だがそれでいい。
貴公の言葉は、確かに“人のもの”だった。
知のためではなく、心の揺れとして語った言葉は、獣には持てぬ」
風が止んだ。
「……もし貴公が、この道を進むならば。
その目を、曇らせぬことだ。
知ろうとするな、見るのだ。
すべてを、在るがままに」
デュラは目を伏せ、そしてまた銃座へと戻った。
「……それだけで、もう十分だよ。
私は、そう思うようになった」
その背中に、私は一言も返せなかった。
ただ風が、塔の上を静かに通り抜けていった。
デュラは遠くを見つめながら語り出す。
ー ー ー
あの夜のことを、私は忘れたことがない。
いや、忘れてはならないと思っている。
火の手が上がり、通りが獣の咆哮で満たされた旧市街。
私は、狩人としてそこにいた。
そして手にしていたのは──パイルバンカー。
火薬庫の異端者どもが組み上げた、ただ“貫く”ためだけに作られた武器だ。
獣の装甲のような皮膚も、骨も肉も、杭で穿つ。
容赦も、逡巡も、そこには不要だった。
一体、また一体。
獣どもを撃ち伏せながら、私はまるで撃ち出された銃弾のごとく通りを進んでいた。
──だが。
それは、焼け崩れた祈祷所の奥だった。
瓦礫の中、誰かが蹲っていた。
呼吸は荒く、背は膨らみ、腕の骨格は人のそれではなかった。
……だが、その背中には震えがあった。
「エドワード……もうすぐよ……」
声が、震えていた。
私は即座にパイルバンカーを構えた。
杭が軋み、火薬の予圧が脈打つ。
指に少しでも力を入れれば──それで終わりだった。
けれど私は、なぜか撃てなかった。
振り返ったその女の顔は、半ば獣と化していた。
牙がのぞき、瞳孔は裂けていた。
それでも、彼女は“母”だった。
血走った眼でこちらを見つめながら、
彼女は“息子”の名を繰り返していた。
「エドワード……もうすぐよ……薬が効けば……」
その声が、今でも耳の奥に残っている。
私は杭を構えた。
だが、女の口から紡がれた言葉に、手が止まった。
「……この子、灰血病で……震えてて……でもきっと治るの……きっと……」
灰血病。
血の色が変わり、肉が干からび、理性が濁りはじめるあの病。
それが、後に“獣の病”へと変じた──私はそう理解している。
あの女は、すでに手遅れだった。
声も、骨も、姿も、もう人ではなかった。
けれど、それでもなお、“母”だった。
杭を構えたまま、私はただ見ていた。
また別の時。
焼けた祈祷所の奥、斬り伏せられた女の体から、
ボロ布にくるまれた人形が転がり出る。
その小さな“腕”は、今でも脳裏から離れない。
血飛沫の中、斧を振るった仲間──
アドルフがこちらを振り返った。
「……何をしている、デュラ。反応が遅いぞ」
その顔には、何の迷いもなかった。
汗と血で濡れた額。
理想的な狩人の姿だ。
私は杭を下ろしたまま、黙っていた。
チャールズが近づいてくる。
「またか。最近のお前は変だ。
一体どうした、何を見ている?」
私は何も言わなかった。
ただ、彼の背後に立ち込める煙の向こうに、
まだ逃げ惑う町人たちの影が揺れているのが見えた。
「……獣どもだ。見逃すな。
子供だろうが老婆だろうが、姿を変えれば獣だ。
それを教えてくれたのは、お前自身だったろう?」
私はその言葉に、杭を強く握った。
だが……答えなかった。
チャールズは、私を一瞥して言った。
「……中途半端な情は、いずれ命取りになる。
──それを忘れるな」
その言葉は、まるで剣のように突き刺さった。
だが、私にはもう、その灯火が
──人を照らしているようには思えなかった。
私は再び瓦礫の向こうを見た。
焼けた路地、倒れた扉、泣き声。
そこにいたのは、ただ“獣”ではなかった。
ただ苦しんで、助けを求めている……人だった。
そして私は、杭を降ろした。
彼は去っていった。
彼の背には、医療教会の紋章が揺れていた。
それは忠誠の証──そして、私が失ったもの。
その夜から、私は仲間たちと話をしなくなった。
いや、話せなくなったのかもしれない。
“狩る”ことが正義である世界で、
"狩らない"という選択をした者に、もう言葉は届かない。
それが、あの夜の──
私の“堕ち方”だった。
ー ー ー
……私は、何も言えなかった。
ただ、彼の語った言葉のひとつひとつが、
焼けるように心に残っていた。
塔の上に吹きつける風の音が、しばらくの間ふたりの沈黙を包む。
デュラは、ガトリング銃に寄りかかるようにして、
視線を落としていた。
ほんの一瞬、息を整えるように目を閉じ──
そして、ぽつりと呟いた。
「……こんなに話すつもりじゃなかったんだがな」
その声は、いつものように低く落ち着いていたが、
わずかに揺れていた。
「……いや、案外、誰かに……
聞いてほしかったのかもしれん狩人ではない。貴公にな。」
それはまるで、自分に言い聞かせるような声音だった。
私はただ、頷いた。
言葉は見つからなかった。
けれど、胸の奥で確かに思ったのだ。
──この男は、“見て”きたのだ、と。
誰よりも、目を逸らさずに。
「貴公は、妙な学者だな。
血にも、先入観にも溺れていない。
それでも、迷わずにここまで来た」
私は、戸惑いながら小さく笑った。
「……迷ってばかりだよ。
でも、知りたいんだ。
この街で何があったのか。
人がどうして、あんな風に……変わってしまったのか。」
デュラはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「……そうか。ならば、少し見ていけ。
そうしていつか、貴公が見ることをやめそうになったとき……
思い出せばいい。今夜のことを。
私が語ったのは、貴公だけだ」
彼の背は、風に揺れる外套と共に、静かに揺れていた。
私は目を閉じ、呼吸を整えた。
まだ夜は始まったばかりだ。
だが今、ほんの一瞬、灯りのようなものが、胸の中にともっていた。
「だが……貴公は、ここにいるべきではない」
風が一段と強くなった瞬間、デュラがふと呟いた。
私は顔を上げた。
彼は遠眼鏡を下ろし、私を見ていた。
「見る者は必要だ。だが、見ることに飲まれる必要はない。
……お前が今ここで学ぶことは、もう済んだ」
「……それは、あんたの判断か?」
皮肉じゃない。
ただ、確かめたかった。
「いや、あの男の判断だよ」
私は振り返った。
あの無口な男が、陰から静かに現れた。
いつの間にそこにいたのか、気配すらなかった。
「……彼が案内する道がある。
旧市街の奥から抜ける、かつての古い巡礼路だ。
今は封じられているが、彼は知っているそこから聖堂街に抜けられるだろう。」
「……あんたは?」
「私はここを離れん。
ここで見届ける。それが私の役目だ」
彼の言葉に、反論はなかった。
ただ、そういう男なのだと分かった。
そして、私はうなずいた。
「……分かった。案内してもらおう」
無口な男はわずかに目を細めた。
それが同意なのか、面倒くささなのかは、わからない。
デュラは最後にこう言った。
「忘れるな。
お前は、見るために来た。
……だが戻ったなら、語ることも必要になる。
それを忘れた者たちが、ヤーナムをこうしたのだからな」
私は背を向け、梯子を下り始めた。
塔の上の風が、背中に当たった。
それは少しだけ、あの男の言葉のようだった。
彼が動いた。
無言のまま、塔の縁を離れ、足音すら立てずにハシゴを降りていく。
私はそれに続いた。
塔の風の音が遠ざかる。
下りながら、ふと振り返ると──
デュラは遠眼鏡をもう一度構えていた。
何も言わなかったが、
きっとあれが、彼なりの見送りだった。
旧市街の石畳は崩れかけ、焼けた木の香りがまだ残っている。
いくつもの死骸を踏まずに歩くのは難しい。
彼は一言も話さなかったが、迷わず進んだ。
まるで、この街が染みついているかのように。
やがて彼は、ある路地の隅にある鉄柵の前で立ち止まった。
扉は蔦に覆われ、封印されたように錆びついていた。
だが彼は、どこからか鍵を取り出し、開ける。
「……こんな場所があったのか」
そう呟くと、彼はちらりとだけ振り返った。
何も言わなかったが、それが彼なりの「ついてこい」だった。
扉の奥には、ゆるやかな石階段が下っていた。
暗く、冷たい。
まるで墓地にでも続いているような、そんな道だった。
私たちは、その巡礼路を進み始めた。
足音が吸い込まれるような、沈黙の道。
左右には壊れた礼拝像が並び、
壁には、誰かが残した古い祈祷文が、煤でかすれていた。
──“我らに血を。されど心は獣にあらず”
獣にあらず。
そんな言葉が、ここに刻まれていることが、皮肉だった。
道はまだ続いている。
けれどその先に、ほんの微かな風の流れを感じる。
石造りの通路を歩きながら、私はぽつりと呟いた。
「……やっぱり、怖いな。
こんなとこ、明るいうちでも通りたくない」
前を行く彼は振り返らなかった。
ただ、手にした松明が少しだけ高く掲げられる。
「じゃあ戻るか?」
「それは……違う。
怖いけど……知りたい。
何が起きたのか、どうしてこうなったのか……
見ないと、わからないからな。」
しばらく沈黙が続いた。
松明の火が、壁に刻まれた祈祷文を照らして揺らす。
その下を通り過ぎながら、彼がぽつりと漏らした。
「……怖くないやつの方がおかしい」
私は少し笑った。
「お前でも、そう思うのか」
「臆病なのは、悪くない。
逃げずに歩いてる時点で、及第点だ。」
それは不器用な言葉だったけど、
なぜか少しだけ、背中が軽くなった気がした。
私はうなずきながら、また一歩前に出た。
どれくらい歩いたのか、もうわからない。
石造りの通路は徐々に幅を狭め、天井も低くなっていく。
かつての祈祷文も、血や煤に焼かれて、ほとんど読めなくなっていた。
そして、突然。
前方の空間が、ぴたりと終わっていた。
「……行き止まり?」
苛立ちではなく、失望に近い言葉が口から漏れた。
私は一歩進み、煤けた石壁に手をついた。
そこに何かが隠れていそうな気配──そんな直感だけがあった。
そのとき、彼が一歩前に出た。
松明を壁にかざしながら、
石の継ぎ目を何度か確かめるように触れていた。
「……ここだ」
彼は低く言い、手袋の指で石の一角を押し込んだ。
小さな音とともに、壁の奥から金属の歯車が軋むような音が響く。
ゆっくりと、煤と埃にまみれた石壁が動いた。
空気が流れた。
古い、血と香油が染み込んだような空気。
その先は、細くうねるような通路に続いていた。
どこかで聞いたような鐘の音が、かすかに響いてくる。
石段を登りきった先、最後の扉は鉄でできていた。
重く錆びていたが、彼は躊躇なくそれを開ける。
扉の向こうから、風が流れ込んできた。
そこには、墓標がいくつも並ぶ斜面が広がっていた。
傾いた石の列、ねじれた鉄柵、そして遠くにそびえる教会の尖塔──
ここは、聖堂街の広場だった。
……帰ってきた、という感覚はなかった。
むしろ、地獄の底から、別の地獄に這い上がったような気分だった。
「……あんたは?」
私が振り返ると、彼はまだ扉の前に立っていた。
答えの代わりに、彼はゆっくりと松明を上げ、
私に背を向けた。
「……デュラが待ってる」
それだけ言って、彼は石段を降りていく。
もう一度旧市街へ戻るのだ。
「……また、いつか会えるか?」
問いかける声が闇に吸い込まれていく。
彼は振り返らなかった。
だが、その背中がほんの少しだけ──
迷いを振り払うように揺れたような気がした。
私はしばらく、その扉の前で立ち尽くしていた。
かすかな呻き声と、鉄を引きずる音が聞こえる。
……ああ、そうだ。
ここはまだ夜の中だ。
松明も、武器もない。
ただ、私には歩くしかなかった。
目を逸らさずに。
忘れずに。
──旧市街で出会った、獣よりも静かな男のことを。